ささやかな奇跡
1.うてな
その屋敷は、人も獣も近づかぬ、峻険な山の頂きに建っていた。
屋敷の前には庭があり、庭の真ん中に池があり、一抱えほどもある大きな蓮の花々が、純白の花弁を広げていた。
ゆらゆらと揺れる花の一つには狩衣姿の童子が座っている。
長い睫ごしに半目を開き、じっと物思いにふける表情は、あどけない外見を裏切って、静かな苦悩をたたえていた。
童子の名を慈尊という。
幼く見えても子供ではなく、重い役目とともにこの世に使わされてから、千年の年月が流れていた。
(終末の日、全ての人を救うべし)
眉根を深く寄せ、慈尊は水面を睨みつけた。
なすべきことはわかっているが、それをなすすべがわからない。
答えを見出すため、人界から隔絶されたこの場所で、慈尊はただ一人の弟子である高耶とともに、修行の日々を送っているのだが、修行の成果はまるで見えない。
「そろそろ戻ってくる頃だ」
いやみなほど整った弟子の顔が、ふと脳裏に浮かんだ。
すると、まるでその時を待っていたかのように、若い男の声がどこか控えめに師の名を呼んだ。
ねぎらいの言葉をかけてやろうと振り返った慈尊の目に、妙なものが飛び込んできた。
「それは何だ」
「赤子でございます」
「…………」
そんなことは見ればわかる。
大切そうに抱えた「それ」を差し出され、慈尊は困惑を隠せない。
長い時をともに過ごしてきたが、こんなことは初めてだった。
「今すぐもとの場所に戻して来い」
「そんなことをすれば、死んでしまいます」
慈尊をひたと見据えたまま、弟子はかたくなに動かない。
「人界では皇族、公家、武士が入り乱れての合戦が続き、さらには天災が相次いで、餓死者の死体があちこちに転がっているありさまです。この赤子は母親と思われる若い女の死体の傍らで、弱々しい泣き声をあげておりました」
乳飲み子を拾って育てる余裕のある者など、どこにもいないのだと諭されて、慈尊はむっつりと黙り込んだ。
泣いている赤子なら、いや、赤子に限らず、救いを求めて泣いている人間なら、この世に五万といるではないか。
全ての人を救う立場にある者が、ただ一つの命に執着するのは間違っている。
よくよく見れば、痩せて貧相な赤子だった。
弱々しい泣き声をあげていたというが、今は泣くことすらできずにぐったりしている。
高耶に拾われていなければ、今頃は路上で骸をさらしているか、野犬の餌にでもなっているに違いない。
(これでは、とても育つまい)
慈尊はそう結論付け、結論付けた途端に興味をなくし、弟子と赤子をその場に残し、屋敷の奥へと姿を消した。
そんなことがあって以降、高耶が赤子の話をしたことはない。
(やっぱり死んでしまったのだ)
慈尊は思ったが、口にすることはしなかった。
山にこもりきりの師匠に代わり、高耶はしばしば人界に出かけては、世情や人心を探ってくる。
角髪を結った幼い童子にしか見えない慈尊と違い、高耶は若く、美しく、おまけに恐ろしく器用で、その気になれば、商人にも、貴族にも、武士にもなりすますことができる上、集めてきた情報はいつも正確で、信頼に足るものだった。
「念仏を唱えるだけで良いということで、誰も彼もが南無阿弥陀仏を唱えております」
庭を見下ろす縁側で、高耶の話を聞きながら、慈尊は重いため息をついた。
このごろ都では、法然という修行僧の教えが、急速に広まっているというのだが、念仏一つ唱えるだけで人は救われるものなのか。
だとしたら、人を救うすべを延々と捜し求めている自分は、とんでもない愚か者だ。
「お前もそう思うだろう?」
苦し紛れに自嘲して問えば、高耶は即座に否定した。
「救われているのではなく、救いがないからこそ、念仏にすがっているのです」
知ったような口ぶりだ。
そう思った時、意地悪な質問が口をついて出た。
「ところで、お前が拾ってきた赤子はどうなった?」
「覚えていてくださったのですか」
高耶は身を乗り出した。
慈尊の言葉に嬉しそうに破顔した男は、拾ってきた「わが子」について、いつになく熱心に語り始めた。
予想していたのとは、全く別の反応だった。
高耶に子は育てられない。
赤子はとっくに死んでしまったと思っていたのだが、事実はその逆だったのだ。
2.薄紅花
薄紅の衣を着た幼子はふくふくとしていて、記憶の中の貧相な赤子とは、全く別の生き物に見えた。
「蓮と申します。時の経つのは早いもので、もう二つになりました」
どこか誇らしげな弟子の声を聞きながら、慈尊は幼子を流し見た。
長いまつげの下の黒目勝ちの瞳が、興味深そうに慈尊の顔を見つめている。
肩のあたりで切りそろえた髪には、衣と同じ布でこさえた薄紅の花を飾っていた。
「蓮、おいで」
名に違わぬ愛らしい幼子は、高耶が手を差し伸べると、一点の迷いもなくその腕の中に飛び込んでいく。
高耶の腕の中でにこにこと無防備に微笑む様は、この世のありとあらゆる幸せを、わが身一心に集めているようで、あらためて慈尊を驚かせた。
「お前に赤子が育てられるとは思わなかった。一体、どういうからくりだ?」
あからさまな質問に、弟子は肩をすくめてみせた。
高耶は都のあちこちに仮の住まいを持っている。
そのうちの一つに蓮を住まわせていることは確かだが、多くを語ろうとはしなかった。
その日を境に、高耶は時折、蓮を山に連れて来るようになった。
幼子はすぐに慈尊に懐き、庭で拾ったきれいな小石を拾っては、嬉しそうに見せにくる。
池には蓮がたくさん咲いていて、幼子の目をひきつける。
花のひとつをたぐりよせようと、蓮が池のほとりにしゃがみこみ手を伸ばしていると、高耶があわててとめに来る。
蓮の花に座り込み、瞑想にふけっている慈尊のまねをしようとして、池に落ちた時は大変だった。
これでは修行にならない。
それに、幼子に向ける、弟子の甘ったるい顔はどうだろう。
言いたいことは山ほどあったが、慈尊は目をつぶることにした。
時を止めた二人の目の前で、幼子はどんどん成長していく。
散りゆく桜の花びらに手をのばしたり、高耶の後をちょこまかとついて歩いたりしていたのが、あっという間に慈尊の背を追い抜いて、気がつけば、すっかり娘らしくなっていた。
二十歳前半にしか見えない高耶と、十五になったばかりの蓮が、寄り添い庭を歩く様は絵のように美しい。
我知らず見とれていた慈尊は、複雑な思いで目を逸らした。
「早く嫁にやることだ」
それは慈尊なりの思いやりだった。
「蓮はどんどん大人になる。もう一緒にはいられまい」
高耶は目を伏せたが、やがて静かにうなずいた。
「はい」という言葉は震えていたが、慈尊は気付かぬふりをした。
3.観月
高耶は都の内外に複数の住まいを持っている。
それぞれの住まいには、下女や下男、時には妻や恋人がいることもある。
四、五年もすると高耶はそれらを一斉に引き払い、また別の生活を築いていく。
馴染んだ人々との別れは寂しいが、老いとは無縁な人間が、人界に身を置くすべは他にない。だが、蓮のことだけは、どうしても割り切ることができなかった。
「高耶さま」
書き物をしていた手を止めて、高耶はゆっくりと振り返る。
どんなに年月が過ぎても、その端麗な面差しは、いささかも変わることがない。
「月が出てまいりました」
はずんだ声を出す少女に、せかされながら縁側に出ると、秋草の茂る小さな庭のはるか上、暗い雲の切れ間から、丸い月が顔を覗かせていた。
用意されたささやかな酒肴。
流れ出す琴の音。
下女も下男もそれぞれの家に戻り、都外れの小さな屋敷には、少女と自分の二人しかいない。
(月を愛でながら耳を傾ければ、練習の成果は十分に出ているが)
琴に向かう必死の横顔をそっと見て、高耶は唇をほころばせた。
育て親の青年と違い、どこか不器用な少女は、何をするにも一生懸命で、それがまた、微笑ましくもあるのだった。
人間とは本当に不思議なものだ。
地獄絵図の中から拾い上げた小さな赤子が、これほど美しい少女に成長するものなのか。
こんなことになるとは思いもよらなかったから、いつか来る別れのことなど気にもせず、心のおもむくままにいとおしんでしまった。
「いかがでしたか?」
曲が終わり、高耶は現実に引き戻された。
頬を紅潮させた美少女が、期待に満ちた眼差しを向けてくる。
「見事なものだ。聴き手が私だけというのも惜しい気がするね。貴族が集まる都の宴で弾いてみるというのはどうだろう? そうすれば、お前にふさわしい若者が、見初めてくれるかも知れない」
蓮は困惑した面持ちで、ゆらゆらと瞳を揺らし始めた。
そんな様子を冷静に観察している自分は、今、「男」の顔をしているに違いない。
「いやです」という拒絶の言葉に、高耶は、内心、胸を撫で下ろした。
だが、欲しい答えを得ることができたにも関わらず、それだけで満足できないのはなぜなのか。
「どうして」
「蓮は、高耶さま以外の殿方は嫌いです」
重ねて、「どうして」と言いかけて、高耶は言葉を飲み込んだ。
潤んだ瞳を向けられて、高耶は強いて笑顔をつくった。
いつまでも、こんなことを続けていて、良いはずはない。
こんなことが、許されるはずはない。
「蓮はまだ子供だね」
軽い調子で告げると、蓮の表情が悲しげに曇った。
それでも手を差し伸べると、ためらうことなく身を寄せてくる。
思いのままに、抱きしめることはもうできない。
ほのかに花の香りがする、愛しい少女の身体にまわした腕に、力をこめることができぬまま、高耶は無言で月を仰いだ。
4.雪花
「弟子になりたい!?」
思わず聞き返すと、三つ指をついた少女は、真剣な面持ちでうなずいた。
「はっ、はは……」
笑い飛ばそうとしたが、うまく笑えない。
愚かなことだとは思ったが、少女の気持ちは痛いほどよくわかる。
「高耶が年をとらないのは、私の弟子だからではないのだ」
差し出されたお茶を受け取りながら、慈尊は苦虫をかみつぶしたような顔で、ぼそぼそと呟いた。
どうしてと問われれば、わからないと答える他はない。
「高耶は捨て子だ。貴族の屋敷の前に置き去りにされていたということだ」
屋敷の前に佇んでいた子供は、今の慈尊と同じように、髪をみずらに結い、純白の狩衣を着ていたという。
子供は記憶をなくしていて、自分のことを何一つ語ることができなかった。
跡継ぎのない貴族の夫婦は、記憶をなくした美しい子供を、神がつかわしたものだと喜んで、わが子として育てることにした。
しばらくは何事もなく月日が流れたが、どうしたことか、青年期を境に高耶は年をとらなくなった。
いや、年はとっているのだろうが、容貌が少しも変わらないのだ。
その後、起こったことを、高耶は決して口にしようとしない。
「私が知っているのは、死に場所を求めて入り込んだ山が、たまたま私の修行場だったということだけだ」
行き場がないというから弟子にした。
人を救うすべを求めることで、高耶自身も救われるのではないかと思ったりもした。
ただ、それだけのことなのだ。
「お前が六十、七十になっても、高耶はきっと今のままだ。そんな男のそばにいて、幸せでいられるはずがない。蓮、お前は人界で生きるのだ。高耶もそれを望んでいる」
「私は……」
そう言ったきり、蓮は言葉を失った。
多分に幼さの残るふっくらした頬を静かに流れ落ちる涙の軌跡を追いながら、慈尊は言葉を探したが、適当な言葉が浮かぶはずもない。
不肖の弟子が戻ってきたら、文句の一つも言ってやらねば、おさまらない。
だが、実際に弟子の顔を見たら、多分、何も言えないのだろう。
蓮の池を見つめる蓮の背中が震えている。
肩に散りかかる山桜の花びらが、雪のように見えた。
5.願い
少しでも戦果の届かぬ場所に、少しでも政争に巻き込まれぬ家にと、調べられる限りのことを調べ上げ、最終的に高耶がこれはと見込んだ相手は、遠国で商いを営む裕福な商家の跡取り息子だった。
「物見遊山に行かないか」という、高耶の見え透いた嘘に騙されたふりをして、蓮は笑顔でうなずいた。
二人別々の輿にのり、高耶は蓮に気取られないように途中で引き返し、その足で慈尊の屋敷に姿を現した。
一部始終を語る高耶の口調は淡々としていたが、変化は翌日からあらわれた。
仮の住まいを全て引き払った高耶は、山の上の屋敷から動かない。
これといって用事のない時は、縁側にぼんやりと腰掛けて、いつまでも花を眺めている。
哀れに思わぬでもないが、どうしてやることもできなかった。
神とは名ばかりの修行中の身、おまけに童子姿の慈尊には、たいした奇跡は起こせない。
できることと言えば、庭の花を咲かせ続けることぐらいだった。
「都の様子を見て来てくれぬか」
少しは気晴らしなるかと思い、無理やり屋敷から追い出したまでは良かったが、その直後から妙な胸騒ぎがし始めた。
じっとしていられなくなり、慈尊は屋敷を飛び出した。
人界との間を隔てる雲を払いのけ、まっすぐ都に向かうつもりだったが、山の中腹まで来た所で、金縛りにあったように動けなくなった。
むせるような血の匂い。
男たちの骸は全部で八つ。
そしてその中央には、全身に返り血を浴びた高耶が、虚ろな表情で立っていた。
「慈尊様」
慈尊の姿を認めると、高耶はくずれるように跪いた。
その腕の中では、蓮が白い顎をのけぞらせ、凍りついたように硬く目を閉じている。
乱れた髪が、ゆらゆらとゆらめくその先の地面にも、点々と血だまりができていた。
「蓮を救ってやって下さい!」
差し出された亡骸を凝視したまま、慈尊は無意識に後ずさった。
「い、今の私に、人を救う力など……」
「そんなはずはありません、あなた様は救世の神だ。全ての人を救う神が、たった一人を救えぬはずは……」
「無理だと言ったら、無理なのだ!」
慈尊の悲鳴にも似た叫びに呼応して、風が激しく咆哮し、少女の髪を巻き上げた。
だが、ただ、それだけのことだった。
長い時を生きてきたが、これほどの苦痛を味わったのは初めてだった。
打ちのめされたように肩を震わせる高耶を見て、慈尊は唇をかみ締めた。
蓮は高耶のもとに戻ろうとしたのだ。
京の屋敷はもぬけのからだから、山の修行場を目指す他はない。
けれども山の上にはたどりつけず、ぐるぐると山中をさまよっているうちに、賊に出くわしてしまった。
今、慈尊が立っているのは、崖の突端だ。
崖の先には奈落のような谷が、ぽっかりと口を開けている。
なぐさみものにするもつりで、男たちは蓮を崖に追い詰めた。
逃げられないと思った蓮は、崖から飛び降りたに違いない。
亡骸が、そっと地面に横たえられた。
愛しげに、白い頬をはさむ手が震えている。
血の気を失った唇に、青年の唇が重なった。
青年が再び顔をあげた時、少女の頬は濡れていた。
泣いているのは青年の方なのに、慈尊の目には、少女が泣いているようにしか、見えなかった。
「私が間違っていたのです。蓮のことが大切で、あまりに愛しくて、蓮の言葉に耳を貸すことをしなかった。本当は、何があっても、手放すべきではなかった。一緒にいることが、ただ一つの願いだったのに……」
続く言葉を飲み込んで、高耶は足元に転がっていた血塗れの刀を握り込んだ。
「私は殺生を犯しました。この場で破門して下さい。蓮が救われないのなら、救いを求める意味もない」
「高耶、やめろ!」
刀がきらりと一閃し、慈尊は声の限りに絶叫した。
無駄だとわかっていても、叫ばずにはいられなかった。
無力だ。
あまりに無力だ。
血しぶきをあげて崩れ行く弟子の身体を、支えてやることすら自分にはできない。
極限まで見開かれた慈尊の瞳から、はらはらと涙が零れ落ちた。
その涙に誘われるように、白い花びらがゆっくりと空から舞い降りて、二人の亡骸の上に、ひとひら、ひとひら、降り積もる。
それがまた悲しくて、慈尊はいつまでも泣き続けた。
6.奇跡
夕刻に都を出発した武士たちは、夜明け時になって、ようやくその場所にたどりついた。
追って来た賊の数は八人。
転がっている死体も全部で八つ。
(だが、おかしくはないか?)
武士たちが首を傾げたのも無理はない。
どれも一刀のもとに切り伏せられていて、互いに殺し合いをしたようには見えなかった。
「おい、あれは何だ!?」
周囲を窺っていた一番年長の男が、白い塊を指差した。
「花びらだ、蓮の花びらじゃないか!?」
「こんなにたくさん、なぜ、何のために?」
疑問を発する者はいても、疑問に答えられる者は誰一人いなかった。
代わりに強い風が吹き、花びらが一斉に舞い上がった。
花びらに守られていたのは、美しい少年と少女だった。
一糸まとわぬ姿で寄り添い、生まれて間もない嬰児のように、安らかな寝息をたてている。
奇跡を起こした神は、すでにその場所にいなかった。
自分が奇跡を起こしたことさえ知らぬまま、もと来た道を泣きながら戻っていった。
山には今日も霞がかかっていて、その山頂はおぼろげにしか見えない。
救世の神が修行を終えて皆の前に現れるのは、はるかな先のことである。
<了>
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