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初恋
作:Ray


その頃、私は大学在学中に知り合った7歳年上の夫と、卒業と同時に結婚して6年が経っていた。
もともと愛だ恋だといったものにあまり関心がなく、流されるままに男を知り、経験を重ねていた私は結婚に対しても全く執着がなかった。
夫のことは愛していないわけではないのだろうが、愛というよりは情に近い。
一緒にいることを苦痛に思ったことはない。一緒にいれない時を寂しいと思ったこともない。
夫との暮らしは本当に穏やかで、幸せというのはこういうものなのだと思っていた。
私は子供を産まずに、仕事をさせてもらっていた。毎日はそれなりに充実していて、特別不満もない。

そんな生活がこれから先ずっと続くものだと思っていた。
彼と出会うまでは…。彼の名は涼。未だに苗字は知らない。
私と涼が初めて出会ったのは、六本木の静かなバーだ。私は東京出張が多く、いつも接待終わりに1人でそのバーで飲んでいた。
その夜も例外ではなく、一日の終わりをその店で過ごそうとしていた。
店へ入ってすぐ、1人の若い男性の姿が目に止まった。カウンターで1人、ロックグラスを見つめていた。
「いらっしゃい。沙綾さんいつものでいい?」カウンターとテーブルが2つあるだけの小さなお店。私にとっては、第2の家と言ってもいい位落ち着ける場所だ。
常連客が多いこのバーで、初めて見るその男性の姿に、私はいつものグラスを口へ運びながらも、つい目を奪われてしまっていた。
声を掛けて来たのは彼からだった。
「俺ってやっぱダメっすかねぇ。」
「えっ!?」
「もう、わかんないや。」
「どうしたの?愚痴なら聞くよ。」
アルコールのせいもあるが、それよりも彼のあまりに弱々しい声に放っておけなくなった。
「好きになれなくて… いい子だなぁとは思うし、この子と一緒いたら楽しいだろうなぁとも思うんですけどね… 何ですかね…。」
「彼女は?」
「今別れてきた。」
「なるほどね。
じゃあさ、彼女は欲しいの?」
「わかんない。」
「気が乗らないなら、彼女なんていなくたっていいんじゃない?
そのうち、一緒にいたいって心から思える人に必ず出会えるよ。」
「うん…そうだね。
俺、涼。お姉さん名前は?」
「沙綾。君…じゃない、涼くんよりずっと年上だと思うけどね」
涼は8つも年下の21歳。
これまで年上としか付き合ったことがない私は、年下のそれも8つも年下の男の子に興味津々だった。
また涼も同じで、付き合ったことのない8つも年上の女に興味津々だった。
私たちは1時間ほどをバーで過ごし、共に店を出た。
「沙綾さん、もう少し付き合ってもらえませんか?」
「どこに行きたいの?」
「沙綾さんをもっと知れるところ。」
「奇遇ね。私も涼くんの事もっと知りたいな。
部屋…来る?」
そのまま、涼と2人私が宿泊するホテルへと向かった。
ホテルの部屋へ入り、途中コンビニで買ったドリンクを飲みながら私たちはさっきまでよりもずっと緊張した表情でお互いを見つめていた。
「沙綾さん、俺たちまた会える?」私はまだ夫がいる事を伝えていなかった。伝えるべきかどうか悩んでいたのだ。
「私は答えられない」
「なんで?」
「……私、結婚してるの。夫がいる。涼くんにまた会う資格はないよ。」
涼のあまりにまっすぐな瞳に、正直に話してしまった。
「でも、指輪外してくれたよね?俺が声掛けた時… 勘違いじゃないよね?」
そう、私はバーで涼を初めて見た時から、すでに心を奪われていた。その涼に声を掛けられ、とっさに左手の薬指から指輪を外していたのだ。
「そっか、気付いてたんだ。ごめん…。」
「沙綾さんの迷惑にならないなら、沙綾さんのそばにいさせてほしい。」
「涼くんはまだ若いんだし、私じゃなくても… もっといい人がすぐ見つかるよ。私とはもう会わない方がいい。」
本当は、自分が怖かっただけ。若い涼くんにハマってしまいそうな自分が怖かった。
「沙綾さんが言ったんだよ。一緒にいたいって心から思える人に出会えるって。俺は沙綾さんがいいんだ。」
涼にとっては若げの至りで済むかもしれないが、私はそうはいかない。
けれど、今までに抱いたことのない感情を涼に抱きつつあることに気付いていた私は、この感情の赴くままに身を委ねたいという思いもあった。
「絶対沙綾さんの家庭を壊したりしないよ。沙綾さんにとっての俺は2番目でも3番目でもいい。だからそばにいさせてほしい。」
涼の健気な姿が愛しい。
「涼くん、私はあなたと同じ… 人を本気で好きになったことがないから、このままあなたといたらきっとあなたを苦しめて、傷付けてしまう。
それでもいい?そばにいてくれる?」
私たちはそのまま唇を重ねた。
運命なんて信じてはいないが、これが運命なら信じたいと思った。
そして2年が過ぎた今も、涼との関係は続いている。
私たちが会えるのは、私が出張で東京へ行く時だけだが、その会えない時間が私たちの遅過ぎる初恋を演出していた。
私の中で涼の存在が大きくなればなるほど、私は夫と涼への罪悪感に押し潰されそうになっていた。


私たちは初めて出会ったあのバーを、いつも待ち合わせ場所にしていた。
「ゴメン。だいぶ待たせちゃったね。」「もう慣れた。でも俺と会う前に酔っ払いになってるのはヤダ。」
「ゴメンゴメン。でもまだまだ全然飲めるよ。涼がつぶれるまでくらいは付き合える。」
「俺だって酔った沙綾さんの介抱したりとかしたいんだけど。」
「それは残念。涼の介抱なら何度もしてるんだけどなぁ。」
「俺カッコわりぃ。」
そんななんでもないやり取りも、全てが私の宝物だ。
私の前で何度も酔いつぶれた涼の無防備な寝顔を思い出していた。「涼はそのままでいいんだよ。そのままがいい。」
涼はこの2年でずっと大人になった。きっともう私がいなくても、素敵な恋愛が出来るだろう。
「俺には沙綾さんだけだよ。ずっと沙綾さんだけのものだよ。」
涼は私の心が読めるくらい、大人になってしまった。
「ゴメン… 私は涼に何もしてあげられない。」
「それはもう言わない約束でしょ?」
私に夫と別れるという選択はない。夫は私を心から愛し、私に穏やかで温かい生活をくれた。そんな夫には何の罪もなく、裏切ることは出来ない。
「沙綾さん、そろそろ出ようか。」
涼は酔うまで飲むこともなく、私の手を引いて店を出た。
涼のマンションへ向かうタクシーの中、私たちはひとことも言葉を交わせなかった。


部屋に入ると涼が口を開いた。
「俺が今まで沙綾さんに旦那さんと別れてくれって言ったことある?もっと一緒にいたいとか俺だけのものになってとか、言ったことある?」
今までに見たことのない涼の表情と強い言葉に、私は何も答えられなかった。
「俺はただ、沙綾さんが好きなだけなんだ。」
「私も涼が好き。だけど私は涼を幸せにしてあげられない。涼は私といても幸せにはなれないの。それならこれ以上一緒にはいない方がいいよ。今ならまだ間に合うから。」
私は初めから、今日で最後にしようと思っていた。涼と別れるという決断は、今の私にとって1番辛い事だが、それでもこれが涼にしてあげられる唯一のこと。
「沙綾さんは何も分かってない。俺は何も言われなくても沙綾さんの考えてることがわかるよ。でも、沙綾さんは俺のこと何も分かってない。」
いつもの明るくて優しくて笑顔が可愛い涼ではない。
「涼は感情に流されてるだけだよ。必ず後悔する日が来る。」
私が突き放さなければ、本当に離れられなくなる。

「俺はこんなに沙綾さんを愛せたことを誇りに思うことはあっても、後悔することはない。」

しばらくの沈黙が続いた。

「涼、終わりにしよう…。」
私のその言葉を聞いて、涼の顔から血の気が引いていくのがわかった。恨まれても仕方がない。そんなの一瞬で終わる。必ず、別れて良かったと思う日が来る。
「うん… でも俺、沙綾さんのこと、ずっと好きだから。」
涼が見せてくれる精一杯の笑顔が切ない。
「じゃあね… 私、涼に会えて本当に良かった。本当に幸せだったよ。」
私は溢れる涙を必死に堪え、笑顔に応えた。

2年ぶりに泊まるこのホテルは、涼と出会うまでいつも利用していたホテルだ。
今夜は眠れそうにないな…
2度と声にすることが出来ない心の叫びと共に涼との2年間を思い返していた。
もう触れることも、名前を呼ぶこともない… 私が愛した男、涼が私の心からいなくなる日は来るのだろうか。
「涼… 涼… 涼… 愛してる…」

夫の元へ戻り、これまでと変わらない生活が始まった。
涼はきっと連絡をくれる… そんな期待をしてしまう私は本当に愚かだ。
2週間が過ぎても1ヵ月が過ぎても涼からの連絡はない。
出張で東京へ行っても、涼の姿を見つけることは出来ない。
もう2度と会えないのかもしれない… 
涼に出会うまでは、夫を愛そうと思っていた。涼に出会ってからは、夫の愛に応えたいと思っていた。けれど涼を失った今、夫の愛を受け入れられずにいる。
涼は、別れてもなお私の中に存在し続けている。
涼の中に私はもういないだろう。
涼に私が必要だったのではなく、私に涼が必要だったのだ。
涼と出会ったことや涼に別れを告げたことに後悔しているのも、私。
涼との出会いがなければ、愛するということを知らぬまま、ただ夫に守られ愛され、それが幸せだと思い生きて行けた。涼に出会い、人を愛する喜びと真の幸せを知ってしまった私は、愛せない夫からの優しさが辛すぎた。
そして愛されていないと分かっていながらも私を選び、大切にしてくれている夫の痛みに初めて気付いたのだ。


1年半後…
私に引き抜きの話があった。業界では有名な東京を拠点としているデザイナーが私をパートナーとして指名してきたのだ。
この1年半、気を紛らわせようと必死に仕事をしていた。元々好きな仕事だっただけに、実力が認められたことが素直に嬉しかった。
そして、東京で暮らしていれば涼に再会出来るかもしれないという思いも少なからずあった。
しかし、いつ戻るかわからない。戻らないかもしれない。夫は何と言うだろう。
「沙綾の好きなようにするといい。」
夫はそれだけだった。
それから2週間、悩みに悩んで結局東京へ行くことにした。
これから先、夫と一生を共する自信がなくなっていた私には、1人になってもしっかり歩いて行ける術が必要だった。
「一緒に行ってあげれなくてごめんね。1人で大変だと思うけど、体に気をつけて頑張って。」
私は夫から離婚を突き付けられると思っていた。いや、望んでいたのかもしれない。
何度も私から切り出そうと思ったが、夫を悲しませたくないという建て前と自分を守りたいという本音から、どうしても言い出せずにいた。

4ヵ月後、私の東京での暮らしが始まった。仕事はこれまでよりもずっとやり甲斐があり、充実している。24時間のうちのほとんどを仕事に費やしていた。
上京して初めて定時で仕事を終えれた日の夜、涼と別れてから初めてあのバーへ行ってみようと思えた。あのバーへ行くことが出来た時は、涼を思い出に出来た時だと思っていた私は、いつもより少しだけ胸を張って歩けた。
「お疲れ〜。」
あの頃と何も変わらない店内の雰囲気にホッとしながらカウンターに座った。
「沙綾さん久し振りですね。」
「私、今こっちに住んでるの。やっと仕事も落ち着いてきたから、これからはちょくちょくお邪魔するね!」
この場所は本当に安らげる… また以前の私に戻れるような気がした。
「そう言えば、涼さんも全然来てないなぁ。お元気ですか?」
「あ、私たち別れたの。そっかぁ、涼も来てないんだね。」
涼に会いたい気持ちがないと言ったら嘘になる。けれど、このまま会わなければ忘れられる様な気がした。

バーで2時間ほど過ごし、店を出ようとした時ちょうどドアが開いた。
もう2度と会えない、会わない方がいい、そう思っていた涼が目の前に現れた。
私も涼もあまりに突然過ぎる再会に、呼吸も忘れるほどだった。
私はそのまま無言で立ち去ろうとした。目を合わせたのはほんの一瞬、立ち止まっていたのはおそらく2秒ほどだったと思うが、これ以上同じ空間にいることが怖かった。
「元気そうで良かった。」
私の後ろ姿にどんな思いでその言葉を掛けてくれたのだろうと考えると、振り返ってしまいそうになったが私はそのまま店を出た。

まだ家には帰りたくない。私は何も考えず、ただ夜の街を1人歩いていた。
どのくらい歩いただろう。気付くとまたバーの前へ戻っていた。すると、涼と思い出がフラッシュバックされ、私はその場へしゃがみ込んでしまった。
涼… 私まだあなたを愛してる… 
「お姉さん、そんなとこにしゃがんでちゃダメじゃん。」
顔を上げると涼がいた。
そう、私は涼を求めて歩いていたのだ。
涙が込み上げて来た。
「ちょっと歩かない?」
そう言われ、私たちは2年振りに並んで歩いた。
「沙綾さん、今日も出張?」
「私、今こっちに住んでるの。仕事でね。この年で初めての1人暮らし。涼は?」
私の声は少し震えていた。
「俺も頑張ってるよ。沙綾さんにしょうもない男と付き合ってたって言われない様にね。」
涼はまたこの2年で大人になった。

私たちはたまたま通り掛かったカフェに入り、空白の2年を埋めるかの様に夢中で話をした。
「ねぇ涼、また会ってくれる?」
「 … 」
「涼?」
「ゴメン… 沙綾さんとはもう会えない。俺結婚するんだ。」
目の前が真っ暗になった。それでもいい… としがみつきたかったが、前を向く涼の邪魔はしたくなかった。
「愛する人が出来たのね。良かった。幸せになってね。」
「ありがとう。」
私の初恋は本当に終わったのだと確信した。私だけが立ち止まっていた。私だけが求め続けていた。私だけが…
「沙綾さん、そろそろ帰ろうか。」
私たちはカフェを出て、別々の道を歩き出そうとしていた。
「じゃあね。」
「うん。またさっきみたいに偶然会うことがあったら、シカトしないでよ。」
「そうだね。そうする。」
「じゃ。」
涼は歩き出した。いつの間にか涼の背中はたくましくなっていた。出会った頃はまだ頼りなくて、甘えん坊で、それが今ではこんなに大きく見える。こんなに遠くに見える。
「涼っっっ!!」
私は走り出していた。
「そばにいさせて。お願い。私、あなたのことをもっと見ていたいの。私、あなたのことが、涼のことが… 」
「もう遅いよ。」
咳を切った様に思いをぶつける私を、涼はその一言で遮った。
「愛してる… 」
涼はもう振り返らないと分かっていながらも、私は最後の力を振り絞って、1番伝えたかった言葉を口にした。
その瞬間、何かに包まれるのを感じた。
涼だ。涼が私を抱きしめていた。
「なんで?なんで今さらそんなことを言うんだ。俺はこの2年必死で沙綾さんへの思いを断ち切ろうとしてきたんだ。なのにどうして今さら…」
涼に強く抱きしめられた私は、涙を抑えることが出来なかった。もう叶わない思いかもしれない。戻ることは出来ないのかもしれない。それでも、最後に涼が抱きしめてくれたことが嬉しくて、これから1人で生きて行けると思った。
「俺も、俺も今でも沙綾さんを愛してる。」
「えっ… 」
「沙綾さん、もう1度始めよう。俺、あの頃よりは少しは大人になったよ。沙綾さんを守れるよ。」
「だって、結婚するって…」
「嘘に決まってるじゃん。怖かったんだ。また、沙綾さんに拒絶されるのが…。
俺が沙綾さん以外の人を愛せるわけない。」
「涼… 待って。私、今度はちゃんと向き合いたい。夫と別れる。だから、それまで待っててほしい。」
「沙綾さん…」
「涼がいなくても生きては行ける。だけど、もう涼と離れたくない。」
「沙綾さん、ごめんね。カッコ悪くても、俺がしがみついてれば、沙綾さんに寂しい思いさせることなかったのに。」


私は夫に離婚を申し出た。夫は驚いてはいなかった。
「沙綾の気持ちは分かったよ。でも、離婚はしない。」

休みの度に何度も何度も夫のところへ行き、話をしたが夫が頷くことはなかった。
2ヵ月後、私は離婚届だけを置き、荷物を全てまとめ家を出た。


「涼、ごめんね。やっぱり離婚はしないって…」
「仕方ないよ。沙綾さんを手放したくない気持ちは、俺が1番分かるから。それに、俺は沙綾さんの気持ちが俺にあるっていう事実だけで十分。」
「涼、これから家に来ない?」
私は再会後初めて涼を部屋へ呼んだ。

「へぇ〜、さすがプロだね。オシャレな部屋。」
「お茶入れるね。」
「ニャ〜」
「うわっ!沙綾さん猫飼ってたの?」
「涼と別れてからね。守るものが欲しかったの。
偉そうな事言って別れたけど、毎日毎日涼の事ばかり考えて過ごしてた。涼と別れた事を後悔もしたし、出会った事も後悔した。」
「俺は沙綾さんを忘れるのに必死だったよ。結局忘れられなかったけど。」
「でも大変ね。これからはこの子とあなたを守らなきゃ。」
「沙綾さんは俺が守るって言ったじゃん。」
「頼りないけど…、楽しみにしてる。」

私たちは2年振りに、幸せに包まれて眠った。
夫とはまだ離婚出来ていない。
世間から見れば、不倫の関係。
けれど、私たちにとってはこれが初恋で最後の恋。
遅すぎる出会いなんてない。出会えた事に感謝して、愛を育めばいい。

涼、私と出会ってくれてありがとう。
私を愛してくれてありがとう。
私が必ずあなたを幸せにするから… 














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