大人の事情
ダメだ。これ以上は出来ない。
7階南、外科病棟の一室で看護師の丸野愛梨は酒井さんの採血を諦めた。
「何度も失敗して、本当にごめんなさい。別の人に変わってもらいます」
この一年と4ヶ月の間に何度も繰り返したセリフだ。いつもこの言葉を口にするたびに、ため息が出てしまう。
病室を出たところで、牧田杏花の背中に声をかけた。
「牧田さん、酒井さんの採血を変わってもらってもいいですか?」
「いいよ。難しかった?私で大丈夫かな?」
振り返った牧田さんはにっこりと微笑みながら、左手首の時計をチラリと見る。
「あっ、もう終わりですね?すみません、他の人を探します」
彼女は九時から十六時半までのパートタイムで、時間はすでに十六時四十五分。
娘さんのお迎えに行くため、いつも時間きっちりに帰っていくのだ。
「大丈夫。それに丸野さんも早出だから、15時45分まででしょ、一時間も残業してるし」
牧田さんはいつも穏やかで丁寧だ。
この病棟で後輩の二人と彼女だけが、私を『丸野さん』と呼ぶ。後はみんな、丸野か丸ちゃん。後輩もこっそり丸ちゃんと呼んでいるかもしれない。
「助かります。お願いします」
牧田さんの微笑に私は甘えて、お願いをする。
わー、できなかったらどうしょう。にこにこしながら、酒田さんのもとへ向かう背中を見送り、詰所に戻る。
私は記録をしつつ、やり残しがないか確認する。そうこうしているうちに牧田さんがスピッツをクルクル回しながら、詰所に戻ってきた。
駆け寄ってお礼を言うと、ドキドキしちゃったわ、一緒に帰ろうっかと笑う。
「牧田さんは帰ったら、何をするんですか?」
「え?子供のお迎えに行って、洗濯物取り込む、畳む。夕飯の支度って感じかしら?別に普通に家事?」
「あぁ、私も家事したいです。旦那さんの帰りを待ちたい。パートになりたいです」
牧田さんの暮らしに心底憧れる。結婚して子供もいて、パートナース、最高だ。いつかは牧田さんみたいな生活がしたい。
「……すみません」
窓口に女の人が立っている。こちらを向いて声をかけてきた人を無視するわけにもいかない。
「はい?ご面会ですか?」
その人はアイラインでくっきりと縁取られた目をこちらではなく、もっと遠くを見ているようで、どこかぼんやりとしていた。
「いえ、あの牧田さん、牧田杏花さんはいらっしゃいますか?」
そう言った彼女の肩から、ゆらりと嫌な気配が立ち上った気がした。
「はい、私が牧田です」
牧田さんはいつものように穏やかに通る声で答える。彼女の肩から立ち上った気配が急に膨れ上がったような気がする。牧田さんは何も思わないのか、スタスタと近づいていく、その背中を引き留めなくてはならない気がした。
「こんにちは、はじめましてでよかったかしら?」
彼女は何も言わず、じっと牧田さんを見つめている。
私はとても怖くて動けない。牧田さんがにこにこ笑っていられるのが、不思議で仕方ない。
「丸野さん、説明室って空いてるかな?」
「……はい、空いていると思います」
「じゃ、ちょっと使わせてもらうね、先に帰ってて」
牧田さんが「こちらにどうぞ」と彼女の背中に手を伸ばした時、
「触らないで!」
その大きな声はその場に居合わせたすべての視線を集めた。
「うん、わかった。大丈夫、触らないよ」
肩で大きく息をする彼女をなだめるように、牧田さんはゆっくり、そして静かに声をかける。
「丸野、あんたも一緒に説明室に行って」
動けないでいると平原さんの真剣な声が聞こえた。
二人きりは不味いという思いのこもった、詰所のスタッフの視線が集まり、『お先に失礼します』なんて言える雰囲気ではない。
私より平原さんの方が適任だと思うのは、きっとみんな同じだ。けれども今、説明室に行けるのは、自分しかいない。諦めて足を向けると「勉強させてもらいなさい」平原さんが美しく言う。
説明室のそっとドアを開けると、待ってました言わんばかりに、牧田さんに椅子を勧められ、私はそろりと椅子に座った。
牧田さんはいつも以上におだやかに問いかける。
「何か私に用事があってここまで来てくれたんだよね?」
「……」
「あなたが話してくれないと何か私にはわからないの」
しかし、目の前の彼女はじっとうつむいたままで、何も言葉を発しようとしない。
牧田さんはそんな彼女に何も言わず、ただ彼女が語り始めるのを、そっと待っていた。
「……別れて」
「何?」
「彼と別れて下さい。裕貴と別れて」
大粒の涙がポタリポタリと落ちる。それとともに、絞り出すように発した言葉は、すんなり、はいわかりましたと言える代物ではない。
「あなた、牧田裕貴と付き合ってるってこといいののかしら?それで私に離婚してくれるように話に来たのね。間違ってない?」
牧田さんの声はいつもと全く変わらない。酒井さんの採血は左手からでいい?アルコール綿はかぶれない?と変わらない。
堪えきれずに溢れた涙はとどまることを知らず、彼女は机に突っ伏して声を圧し殺し、泣き始めた。牧田さんはスッと彼女の隣に座り、肩をそっと撫でる。彼女は泣きながらその手を振り払うけれど、牧田さんはそっとそっと撫でる。
「つらい思いをしてたんだね」とその手に言葉を重ねる。
彼女はその手を受け入れ、激しく泣き始めた。
「……赤ちゃんが」
嗚咽の隙間にとんでもない爆弾が投下される。
さすがに牧田さんの手の動きが止まる。でもそれは一瞬で、またそっと撫でる。
「赤ちゃんができたの?」
「だから……」
「そう、ここまで頑張って来たのね」
「……うん」
少し小さくなっていた泣き声がまた勢いを取り戻す。
牧田さんは辛くないのだろうか、さっきからまるで他人事だ。
他人事というよりは患者さんやその家族を慰めているようだ。
普段の様子からは全くわからないけれど、すでに旦那さんとのなかは冷えきっていたのだろうか。
「じゃ、いつまでもここで泣いてるわけにはいかないし、いくつか確認しなきゃいけないこともあるし、場所を変えましょう。それとお名前を教えてくれるかしら?」牧田さんはやっぱり穏やかだ。
白衣を脱ぎ、正面玄関で待たせておいた牧田さんの旦那さんと付き合っているという彼女、松川早奈英を車で拾い、チェーン店のコーヒーショップに入る。
さんざん泣いた松川さんは病棟を出るとき、ゾンビみたいになっていたけれど、どこかで洗い落としたらしく、生き返っていた。
ほぼ素っぴんであろうその顔は青白く、目の下にはクマがくっきりと浮かんでいた。
「さてと、失礼を承知で聞くわ、怒らないでね。病院には行ったのかしら?」
「……」
うつむいたまま、顔を上げないことが答え。つまりは病院での診断はない。
「妊娠検査は?」
「……でも、生理が来ないの。10日も遅れることなんてないもの!」
「それもまだね」
牧田さんとバチっと目が合う。
無理です、そんな恥ずかしいモノは買いに行けません!私は小さく顔を横に振る。
チラリとうつむいたままの松川さんを見る。
――この人と二人きりで過ごすのはもっときついかもしれない。
私の中で、いろんな考えが浮かんでは消える。
そうしている間に、牧田さんは穏やかな口調で、でもしっかりと言葉を連ねる。
「松川さん、あなたを疑ってるわけじゃないの、私も納得したいじゃない。五年も一緒に暮らした人よ、事実を目の前にしてから、スッパリあなたにあげたいわ」
「じゃあ、別れてくれるんですね?裕貴、いつも奥さんが別れてくれないって、何度も話し合ったけど、ダメだって」
松川さんの青白かった頬にほんの少し赤みがさし、目はまた少し潤んでいる。
「じゃ、丸野さん、お願いします」
満面の笑みで牧田さんが私に微笑む。
「牧田さん、マジですかぁ」
「生娘じゃあるまいし」
「私、自分でいきます。自分のことだし、買ってきます」
生き返ってきた松川さんが行くのが確かに順当と思う。
――あぁ、よかった。うん、うんそれがいいね。
「薬局、近くにないのよ。丸野さんの車で来ちゃったし、ね?」
牧田さんは眉間にしわを寄せ、小首をかしげて言う。
――そうでした、さっき初めてあった人に車を貸せない。
「私もちょっと、電話してきていいかしら?娘の学童保育のお迎えを頼みたいし」
牧田さんにしぶしぶついて店の外に出る。
じゃ、よろしくと手を振られた。
せめて、自分の検査のために買いたかったなぁ。歩くには遠いけれど、車では数分の距離にあるチェーン店の薬局に向かう。
それを一つだけ買うなんて、無理だ。
いつかは使うだろうハンドクリームとポテトチップスとチョコレート、ボックスティッシュをかごに入れ、最後にポイっと妊娠検査薬を放り込んだ。
男の人のレジには並べず、おばさんのレジに並ぶ、それを袋に入れるとき、おばさんの視線を感じた。松川さんが使うんです。私はただのお使いです。そう言えたらいいのに、言葉にすることはできない。
私は小走りに店を飛び出し、あわてて車を出した。
コーヒーショップに入る前にこそっとカバンに忍ばせた、妊娠検査薬をそっと牧田さんに渡す。
「お疲れさま」
「すみません、ありがとうございます」
松川さんは消え入りそうな声で、少し顔をあげる。また泣いたのか目が赤い。
「早速、行きましょ」
牧田さんはいつになく表情が明るい。躊躇する松川さんの腕をとり、連れだって化粧室に行ってしまった。
牧田さんは無理をしているのだろうか、どんなに冷えきっていてもあんな態度はとれないだろう。夫の浮気相手の妊娠、まだ未婚で彼氏すらいない自分が想像したとしても、とても耐えられない。
遠目にトイレから二人が出てくるのが見えた。
がっくり肩を落としている牧田さん、どこかほっとしている松川さん、答えの予想はついた。
「私の早とちりでした」
「はぁ、……えぇ!じゃあ、妊娠してなかったんですか?」
「はい」
松川さんは大きく息を吐く。今までの思い詰めた表情は消えて、頬は赤く、心なしかクマも薄くなったようた。
「牧田さんが何でそんな顔をしてるんですか?」
これまた、先ほどとはうってかわって、露骨にがっかりしている。
「牧田さんって、旦那さんと上手くいってないんですか?もう、好きじゃないんですか?」
「好きじゃないんですか、丸野さんのピュアさが滲むわね。好きか嫌いか、なら好きね。間違いないわ。私、裕貴より魅力的な人に会ったことないと思うもの」
「じゃあ、どうしてなんですか?」
「丸野さんには、ちょっと理解できないと思うな」
テーブルにおいてあった牧田さんの携帯が呼び出し音を鳴らす。
目の前でそれに応えると、立ち上がり、入り口に向かって手を挙げる。
30台半ばくらいだろうか、スーツをかっちりと着こなし、ゆったりと歩いてくる男の人。
牧田さんを見てにっこりと頬を緩める。
「忙しいのにごめんね、裕貴」
「ん、大丈夫」
空気が変わるというのはこのことだ。
裕貴と呼ばれた人がきたとたんに、牧田さんはパッと笑みを浮かべ、花がほころぶように雰囲気が変わった。
「え……違う」
反対に松川さんの表情が消えた。
やっと戻った頬の赤みが消え、また青白く唇を震わせている。
「牧田裕貴よ、免許証持ってきてくれた?」
「違う、裕貴じゃない……、裕貴じゃない」
松川さんは免許証を手に取り、ぶるぶる肩を震わせている。
つまり、松川さんの裕貴さんと、牧田さんの裕貴さんは別人だったってこと?
「多分、誰かが牧田裕貴って名乗っていたんじゃないかしら?」
「そんなはずないっ!」
「うーん、でもこの人が牧田裕貴なのよ。同姓同名かしら?まぁそんな珍しい名前でもないしね」
「良かったら、君の裕貴さんの連絡先か、それか写メを見せてくれないか?もし、誰かが僕の名前を語ったなら、きっと知ってる人だと思うんだ。杏花のことを知ってるみたいだし」
牧田さんの旦那さんらしい穏やかな話し方、松川さんの力が少し弛んだ。
松川さんは目を閉じて、何かを考えているようだった。
ゆっくりと目を開け、携帯を差し出す。
待ち受け画面にはツンと気取った笑みを浮かべる男の写真。
「真田だ」
牧田さんの旦那さんは眉毛を八の字にして小さく呟いた。
「真田孝太。前に一緒の職場だった。半年くらい前に辞めてしまって、それから会ってないな。確か独身だったはずだ。結婚したって話は聞いてないけど、結婚してるかもしれない、そこまではわからない」
ということは、松川さんの裕貴さんは、真田孝太さんで、牧田裕貴さんじゃない。つまり、牧田さんの旦那さんはとんだ濡れ衣だった?松川さんは思い切り騙されていたということになる。
絶対にまた、大きな声で泣き始めると思って身構えた。
でも、松川さんはただ静かに頬を濡らしていた。
「お騒がせして、すみませんでした」
テーブルに額をつけるように頭を下げる。
「おかしいなと思うことがいくつかあったんです。今更ですが。……赤ちゃんが出来たと思って、でも出来てなくて、私、すごくホッとしたんです。赤ちゃんのことを嬉しくなかった。喜べなかった。それに彼が喜んでくれる気がしなかったし」
こころのどこかではちゃんとわかってたのかも、松川さんはうっすらと笑みを浮かべる。
「全部、わかっていたんじゃないですか?全然、怒らないし、表情も変わらない。浮気相手に優しくなんてできないですよ、普通。旦那さんのことを信じているんですね、凄い」
松川さんは牧田さんをまっすぐに見つめた。そして、小さく頬を緩め、その頬を涙が伝った。
そうか、牧田さんは旦那さんのことを信じていたんだ。初めから人違いだってわかってた。
だから『裕貴より魅力的な人に会ったことない』だ。
牧田さんも、牧田さんの旦那さんも少し困ったように笑って何も言わなかった。
頬を伝う涙をそのままに松川さんはタクシーに乗って去って行った。
その真田さんとこれからどうするのだろう、赤ちゃんが出来たことを喜んでくれないだろうと思う人とこれからも一緒にいるのだろうか。
「本当にありがとう。助かった。刺されるかと思ったわ」
ふふふ、牧田さんは笑っている。笑い事じゃなかったし、本当にどうなるかと思った。
「ちょっと痩せた?でも元気そうで安心した」
「ん、大丈夫よ。意外と図太いのよ、私」
「じゃ、もう行く。仕事、抜けてきたから」
「本当にありがとう」
牧田さんは牧田さんの旦那さんにヒラヒラと手を振る。
牧田さんの旦那さんは来たときと同じように、ゆったりと歩いて行った。
「……牧田さん。旦那さんなんですよね?」
「厳密に言うと、元旦那さんかな?」
「えー!元って、じゃ離婚したってことですか?」
「内緒よ、まだ3ヶ月だから」
「え?どうして?ラブラブじゃないですか?今だって!ニコニコしてたじゃないですか?」
「だって、好きだもの」
「え?ますます解りません」
「ピュアな丸野さんには難しい大人の事情があるのよ」
「何ですか?大人の事情って。好きな人と結婚できて、好きなのにどうして別れちゃうんですか?」
「わぁ、丸野さんが眩しすぎるわ」
「牧田さんっ!」
「何で、丸野さんが泣いちゃうかな」
旦那さんが来たとき、牧田さん、とびきりの笑顔で、あんな顔を病棟では見たことなくて、綺麗な人だとは思っていたけど、こんなに可愛らしいところもあるのかと、とても大切な人なんだと、羨ましくて憧れたのに、離婚したって、酷すぎる。
「丸野さんが嫁に行くとき、教えてあげるわ、大人の事情ってやつ」
「おめでたい席で聞きたくないですっ」
「そっか」
「子供さん……、牧田さん、子供さんも可哀想です」
「うん、寂しがってる。でも彼の子供じゃないから」
「は?」
「娘は七歳、結婚したのは五年前よ」
「…え?話が見えません」
「丸野さんに察するとか、遠慮するって考えはないみたいだから、教えてあげるわ、大人の事情。誰にも話しちゃダメよ。高井さんもよ」一瞬にして涙が引っ込んで、頬が熱くなる。
分かりやすいから丸野さんは。そう呟いてから、牧田さんは淡々と話始めた。
娘さんはお姉さんの子供。事故でお姉さんが亡くなり、義理の兄、その両親も引き取りを拒み、一歳の娘さんを引き取った。牧田さんの両親は父方の祖父の介護をしており、協力は得られなかった。看護師の常勤として、夜勤をするのは難しく、パートで働くことにした。
六年前に付き合い始め、娘さんの事情も受け入れ、五年前に結婚。
旦那さんは牧田さんの言葉を借りるなら『世間体とプライドを固めて焼いた家の一人息子』だそう。血縁のない子供を育てるのはあり。でも血縁のない子供に牧田の家を継がせるのはなし。そして、牧田さんは卵巣の異常で妊娠できないとわかってからが、最低だったと。自分は夫の子供を産めない。その事実は覆しようがない。努力でなんとかできることじゃない。代理出産とか、小さく呟いたら、牧田さんはもっと小さな声でお金かかるのよ、世間体も良くないんだって。
『こんな家、継がなくていい、自分の代で終わらせていい』そう旦那さんは言ってくれた、牧田さんはちょっとはにかんんで、そして、うっとりとして続けた。その言葉をもらってね、五年間、彼と暮らしてね、それだけで、残りの人生いけると思ったわ。
それにね、こんなに素敵な人の遺伝子は残さなきゃって思ったのよ。
それが大人の事情だそうだ。
「今日は夢みたいだっわ。そうでしょ、裕貴の子供を妊娠した女が妊娠したくなかったと思っているのよ。産んで私に赤ちゃんをちょうだいって言いたくて、ウズウズしたわ。あぁ、楽しかった」
――牧田さん、どうして笑えるんですか?ここで笑うのが大人なら、私は、一生大人にはなれない。
「そんなのおかしいです。絶対におかしいです。二人とも好きなのに。こんなの嫌です」
「私、裕貴がとても大切なの。私より裕貴の幸せを思う女はいないの。でもね、私より裕貴を幸せにできる女がいるの」
「いません……、その女は二番です。牧田さんも旦那さんも可哀想です。可哀想すぎです」
「丸野さん、いい子ねぇ。真面目なご両親に大切に育てられましたって感じね。意地悪したくなっちゃう」
涙で視界が滲んでいたけれど、それでもはっきりと牧田さんの口元が歪んで、見たことのない顔を見せているのがわかった。
「私ね、裕貴と約束してるの。彼の両親が亡くなった時、その時迎えに行く、結婚しようって」
その意味を理解することができずに、言葉を発せずにいた。
「裕貴、別れてくれなかったの。子供なんていらないって。でも、両親はそうじゃない。私もそうじゃない。そしたらね、待ってるって、私が拘っているのは子供じゃない、僕の両親だろうって、僕の柵が無くなるまで、待ってる。それから、迎えに行く。そう約束してるの」
「じゃあ、牧田さんは、ご両親が亡くなるのを待ってるんですか?」
「うん。一日でも早いといいかな」いたずらっぽく首を傾げながら笑う。
70歳になったばかりだから、長くても二十年かな、事も無げに言う。おかしいかもしれないけど、彼が他の誰かと結婚して子供が産まれることも同じように、一日でも早いといいと思っているのよ。目を伏せて頬を緩ませる。
牧田さんの幸せは、両親の死の向こうにある。
そして、それを心待ちにしている。
口元に微笑みを浮かべ、いつもみたく穏やかに言う。
心に仕舞いきれない戸惑いと、納得できない嫌悪をどうすることも出来ない。
カウチから立てずにいる私をおいて、牧田さんはまた病棟でねと行ってしまった。
誰かの幸せが誰かの不幸につながる。そんなのおかしい。このすべてを飲み込める日がくるのだろうか?それが大人になることなんだろうか。誰かに軽々しく相談できるわけもない。そこまで幼くもない。
牧田さん、これはとびきりの意地悪です。
誤字修正しました