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ヤクザな退魔外伝 神無沼

作者:モロクっち
 

 そうか。
 あいつならなんとかできるかもしれないんだ。
 ろくに話したこともないけれど、あいつなら。
 もし、噂が本当なら。
 黒澤組の……比嘉。


 明け方、比嘉笙矢の夢に出てきたのは、いつもとはちがう雰囲気の『何か』だった。たまにこうして彼は妙な夢をみる。でも、たいてい、なんの役にも立たない。あまりにも曖昧な謎を突きつけられ、狐につままれたような気分で目覚める。それだけ。
 今日も、ベッドから抜け出して支度し、朝食を終えるまでのあいだに、夢の内容はすっかり消え失せてしまった。夢をみたことさえ忘れてしまいそうなくらい、完璧に忘れた。心の中に残っているのは、ただひとつ。いつもとはちがう『何か』だった、ということだけ。
 昨晩のうちにコンビニで買ってきたパンとフルーツ牛乳が、今朝の朝食だ。ゴミを捨てようと立ち上がった笙矢の足下で、ゆらり、と影が動いた。
「なんだよ」
 ひとりであるのをいいことに、笙矢は足下の『相棒』に声をかけていた。無論、返事はない。けれども、自宅でかれが動くのは珍しいような気がした。
 今日は何かが起こる、ということなのか。忘れなければ、覚えていようと思った。


 いつもと同じような時間に、笙矢はクロサワ不動産に『出勤』した。彼は一応、不動産会社の社員ということになっている。が、実情はそんなまっとうなものではない。クロサワ不動産とは、すなわち、関東門倉会系黒澤組のことである。顔にも声にも迫力はないが、比嘉笙矢はヤクザだった。
「おはよーございま……」
 窓際のデスクに座っている本部長に挨拶をしようとしたが、笙矢の挨拶はそこで止まった。
 いつもとちがったのだ。
 若い衆が、少し居心地悪そうにしている。挨拶にいまひとつ元気がない。
 そして、笙矢が定位置にしている三人掛けのソファーに、異分子がいた。
「よう」
「深谷さん」
「……ヤスでいい」
 そこに座っているのは、通称、門倉興業第四支部からの客だった。
 深谷しんたにおさむ。門倉会が誇る超武闘派、月島組の組員である。
 第四支部の若頭がときどきここに顔を出しに来るので、それなりにつながりがある組だ。黒澤組は組長命令により、カタギには手を出さない、Vシネの任侠のような組織だが、第四支部はちがう。本家からの命令があれば、カタギだろうが身内だろうが容赦なく殺す。門倉会の汚れ仕事を担い、内外から恐れられている組織だ。
 靖はその名前の漢字を誰にもオサムと読んでもらえず、上の者にも下の者にもヤスと呼ばれている組員だ。
 彼の見た目は……、こう言ってはなんだが……、映画や漫画で主人公の強さを見せつけるために一瞬でぶっ飛ばされそうな感じだった。
 坊主頭に、色が薄めの度入りサングラスをかけて、18金の太いネックレスを身につけ、妙な柄のスーツを着ていて、蛇柄の靴を履いている。これはひどい。
 だがそのザコっぽい(言っちゃった)外見にだまされてケンカを売ると、ひどい目に遭う。彼は第四支部きってのヒットマンだ。普段からサプレッサーつきのコルト・ガバメントの所持を許されている。使い捨ての鉄砲玉ではなく、殺しのプロとして信頼されている証拠だ。
 今日もジャケットの内側か車のダッシュボードにM1911をしのばせているにちがいない。非常に怖い。ヤクザがヤクザを怖がるのはどうかと思うが、笙矢にとって、第四支部の方々はみんな怖いひとだ。
「笙。おめェに用があるってよ」
 新聞から目を離し、本部長が言った。
 そんなことは、言われなくてもわかっていたような気がする。靖は笙矢の目を見て挨拶してきたからだ。
 ものぐさなヒラ組員である笙矢には、しばしば、組内外から相談を持ちかけられることがあった。それは、ドスやハジキといった『道具』では、いかんともしがたい問題が起きたとき。
 黒澤組の比嘉笙矢は、まほうが使える。
 そんな噂を聞きつけて、多くは、半信半疑で笙矢を訪ねてくるのだった。
 靖は立ち上がると、本部長に頭を下げた。
「桐生さん。早速ですけど、比嘉借りてってもいいですか?」
「オウ、煮るなり焼くなり好きにしな」
「あの、おれの意思は無視すか」
「最近ヒマそうにしてンじゃねェか。運動しろ運動」
 本部長は新聞をたたんで投げ出し、煙草に火をつけた。笙矢は内心ため息をつく。めんどくさいことは嫌いだ。しかし、これは、本部長が「行け」と言っているも同然だった。
 また、靖と目が合った。
 どこからどう見てもヤクザな彼だ、目つきは悪い。カタギなら、「今睨まれた殺される」と思うかもしれない。でも、その筋の笙矢にはわかる。彼は自分に期待している。そんな目だ。
「メシおごるからよ。来てくれ」
「いいすよ、そんな」
 靖は先に、事務所を出て行った。


 クロサワ不動産の駐車場に、靖の車が停まっていた。白のグロリア。かなり年式が古いものだが、大切にしているようだ。靖は何も言わず運転席に座った。
 ――おっ。感心感心。
 ちゃんと交通安全のお守りがフロントガラスの内側にくっつけてあった。
 彼は笙矢より少し年下だ。立場は対等、といったところではあるが、笙矢は自然と彼に敬語を使っていた。あまり話したことはない。でも、お互いに、相手の『特技』を知っている――。
「あんたオバケ退治できるんだってな?」
「はあ、まあ。幽霊から妖怪まで」
 事情を知らない第三者がこの場にいたら、さぞかし奇妙な光景に見えるだろう。ふたりとも幽霊や妖怪が「いる」前提で話しているのだ。真顔で。
「オレにはなんか憑いてねぇか?」
 そう聞かれたので、笙矢は『感度』を少し上げてみた。……いない。靖の背後にも、車内にも。
 正直ちょっと意外ではあったが、笙矢の見立てによれば、世の中には憑かれやすいひととそうでないひとがいる。それは体質のようなもので、その人物の人徳などはあまり関係がない。ただやはり、神職や僧侶の類はめったに憑かれないようだ。
「いないですね」
「本当かよ。月に三人はってるぞ」
「神社とかよく行きます?」
「いや」
「とり憑かれにくいひともいるんです」
「んじゃ、天職か」
 靖はちいさなため息をつき、ウィンストンを出して火をつけた。
 深々と煙を吐いたあと、靖は話し始めた。
「おととい、西にしってヤツがよ、死んだんだ」
「えっ。第四支部の?」
「ああ。普通の死に方じゃねぇ。現場にはオレと、あと、福田ってのがいた。福田はおかしくなっちまった。普通じゃねぇモンを見たみてぇだ……」
「…………」
「まぁ、もともと福田のヤツはシャブ中だからな。親分はあんまり取り合わなかった。でもオレは、福田がイカレたのはシャブのせいじゃねぇって思ってる。……カシラだけは、オレの話を真面目に聞いてくれた。あんたと仲いいからだろうけどな。気になるなら、あんたに相談してみるのも手だってさ、そう言ってくれたんだよ。カシラが信じてるんだ、だからオレも信じてみるか、って」
 いかにも血の気の多いチンピラに見える靖だが、こんな男だ。めったに笑わず、いつも冷静に話す。冷徹、と言ってもいいのかもしれない。仲間がひとり死に、ひとり錯乱したという話を、彼は実に静かに話した。
「いや、でもべつに、あそこにいるかもしれないオバケかなんかを、あんたにどうにかしてもらいてぇってわけじゃねぇんだ。ただオレは――」
 靖は煙草を吸おうともせず、しかめっ面で前を向いていた。
 笙矢は彼の意思を汲み取った。
「なにがあったのか知りたいってわけですね」
「そうだよ」
 靖は笙矢に顔を向けた。しかめっ面のままだったが、彼がわずかにほっとしたのがわかった。
「そういう相談も受けてますんで、おれは全然かまわないすよ」
 なんだか窓口に座っているような気分だ。しかし、いかに人脈に富むヤクザといえども、この手の相談窓口に座れそうな人間がひとりしか該当しないのだから仕方がない。
「場所は埼玉の山ン中だ。遠いけど、いいか?」
「はい。あ、準備しなきゃかもなんで、道々でいいすから、状況教えてもらえます?」
「わかった」
 靖は車のエンジンをかけ、笙矢が信じることを前提で、話し始めた。


     ◆ ◆ ◆

 
 人を殺す技術よりも大切なのは、人を消す技術や、人の死を偽装する技術だ。
 警察の目から、『人が殺された事実』を隠せばいい。死体はあえて発見させることもあるが、その場合、事故死や自殺と処理されるように工作する。当然、その手の工作は手間がかかる。
 第四支部は、人を消せる場所をいくつも知っていた。
『沼』はそのうちのひとつだった。しかも、最近になって開拓したところだ。
 靖もその沼に行ってみるまで、『底なし沼』なるものが現実にあるとは思ってもみなかった。
 血まみれの死体を沼に放り投げると、「消える」のだ。ごぷごぷ不穏なあぶくを浮かばせながら、数分も経たないうちに、死体はどす黒い水と泥の中に消えていく。
 底なし沼など、靖は、漫画やゲームの中にしかないものだと思っていた。実際にあればいいよなとさえ思っていた。第四支部の組員にとって、沼は、まさに夢のような存在だったのだ。
 死臭も気にしなくてよかった。沼の周囲にはひどい悪臭が漂っていたから。もしかしたら、自分たち以外にも、沼に死体を捨てに来る者がいるのかもしれない。
 沼のほとりには今にも崩れそうな廃屋があった。靖は本当に無人か調べたかったが、断念した。
 建物までの道はなく、草がぼうぼうと生い茂っていた。草のせいで、沼の正確な広さがわからないのだ。ぬかるみを渡るつもりが、一歩先は底なし沼だったということにでもなったら、笑い話にもならない。だいいち靴が汚れる。
 おとといは、組の車で沼に向かった。運転は西。助手席には靖。後部座席には、福田とホトケさん。
 死体は組の名前を無断で使用して荒っぽく金を稼いでいた、はた迷惑な中年だった。こういうクズ以下のクズはさくっとこの世から消したほうが社会のためだ。社会のクズが言うのもなんだが。
 靖はときどき、自分たちは蠅なのではないかと思う。多くのものに疎まれながらもしぶとく生きのび、誰に褒められるでもなく、いつも『掃除』をしているから。
 沼に着いたのは深夜だった。
 三人の中で最も上の立場にいたのは靖だった。西と福田は、すすんで死体を沼に捨てに行き、靖は車のそばで煙草を吸っていた。
 あたりに立ちこめる、ひどい匂い。冬だというのに、風はいやに生ぬるい。煙草でも吸っていなければ、やっていられない。服にも、靴にも、この匂いが染みついてはたまらなかった。
 あとからならいくらでも言えるが、靖は、この沼が最初から気がかりで仕方がなかった。
 この匂い。死臭さえかき消す悪臭。
 そう、これは。死体の匂いではない、のだ。
 どんなものをどんなふうに腐らせればこんな異様な匂いになるのか、靖にはまるで見当もつかなかった。腐った死体よりひどい匂いのものはないと思っていたのに、その常識が更新されてしまった。
 そもそも、だ。
 投げ落としたものが跡形もなく消える底なし沼など――本当に存在していいのか?
 叫び声が上がり、靖の血が一瞬で沸騰した。アドレナリンが全身に拡がるのを感じた。恐怖の叫び声だった。靴が汚れることなど頭の中から吹き飛んだ。煙草を捨て、靖は西と福田に駆け寄った。
 すでに中年の死体は半ばほどまで沈みかけている。その横で、西がもがいていた。泥まみれになりながら、黒い水をはね上げながら。必死の形相が見えた。福田もわめきながら西の腕を引っ張っていた。靖も怒鳴って西の腕をつかんだ。何を叫んだか、よく覚えていない。ともかく三人とも必死だった。無言でいたのは死体だけだ。
 つぶやきが聞こえたような気がする。いや、あぶくの音だったのかもしれない。
「ヒぎぇァアアアアアア゛ア゛ア゛ア゛ア゛!!」
 西がぞっとする叫び声を上げた。
 その手の叫び声が何を意味するか、靖は知っていた。
 それは断末魔の声だ。
 人が死ぬときの声だ。
 今死ぬ人間は、仲間。
 ブヂョぼッ、と凄まじい音がした。
 西の上半身が反り返った、ありえない角度まで反り返った。のけぞった彼の頭が、沼とも泥ともつかぬ黒の中に突っ込む。そしてその腹からは、勢いよくはらわたが飛び出した。
 西は、西は、
 身体を真っ二つにへし折られたのだ!
 ケチャップとマスタードが同時に出てくる、あの、ディスペンパックと同じだった。
 靖は、熱いくらいの血を浴びた。福田のほうは、内臓をも浴びていた。
 それと同時に、ぐい、と腕を引っ張られた。
「福田!」
 靖は叫んだ。
「手ぇ離せ、福田ァ!」
 福田と靖は、西の腕をつかんでいた手を、離した。真っ二つになった人間が生きているはずはない。だが、西の死体は動いていた。ぐいっと誰かが引っ張ったのだ。沼の、底のほうへ。
「にぐだ」
 間違いない。このときばかりは、間違いない。靖は聞いたのだ。あぶくの音と聞き違えるような、低い、ねっとりとした声で、『何か』がそうつぶやいた。
「逃げるぞ!」
「でもでっでぼ西がぁああ!」
「死んだんだ、どうしようもねぇだろうが!」
 そういうようなことを叫んだ気がする。西と福田は確かに仲が良かった。靖も西のことは面白いやつだと思っていた。だがこういう修羅場を、ともに切り抜けた数は少ない。ふたりとも靖より若かったから。
 泣き叫ぶ福田の服を引っ張り、引きずるようにしてその場を離れた。今やつぶやきは沼じゅうから聞こえてくるような気がした。
「いば」
「まま」
「いぶぁ」
「ごよいの」
「めぐみぼ」
「いあ」
「くふるう」
「ふだぐん」
「がんじゃじばす」
「まま」
「いぶぁいヴぁ」
「いあ」
「いあ」
 こけつまろびつ車に戻り、靖は運転席にまわろうとした。
 ひいひい言っていた福田が、そのとき、この世の終わりのような、ぞっとする絶叫をした。一瞬靖は福田までやられたのかと思ったが、彼は子供のようにわめきながら、自ら車の中に転がり込んだ。押し込む手間がはぶけたので、靖は運転席に跳び乗った。ここまではなんとか冷静さのかけらが残っていた。靖はすぐさまドアをロックしたのだ。
 ドガン、と車に衝撃が走る。
 何かが体当たりしてきたのだ。福田がまたものすごい声を上げた。
「うるせぇ!」
 反射的に靖は怒鳴りつけてしまった。そういう人間なのだから仕方がない。だがそれ以上に、もう、靖も限界だった。普段の冷静さは吹っ飛ばされていた。
 キーはキーはキーは。ああ映画でこういうシーンがあるよな。キーを回しても回してもエンジンがかからないのだ。あんなふうになったらどうする? チャカは持っている。ドガン。また車が揺れる。ドガン。今度は運転席側が。囲まれている? 窓を見た。泥だらけで何も見えなかった。いや、泥の向こうで白くて丸いものが動いたような。目か? 目なのか? ああ窓に、窓に! キーを回せ! クッソ、グロリアとちがう! プッシュスタートだ、ハイテクなんだよ、バカヤロー!
 エンジンは一発でかかった。さすがプリウス! さすがのトヨタだ!
 ドガン。
「にぐ」
 ドガン。
「にぐ」
「にぐ」
「肉!」
 チェンジレバーをDに入れ、アクセルをベタ踏みした。タイヤの悲鳴。ガリガリとボディが何かに削られる音。しかし、その後は問題なしだ。もちろん無事に逃げ帰れた。深谷靖は生きていて、今、比嘉笙矢にことの顛末を話し終えたから。


     ◆ ◆ ◆


「どう思う」
「ヤバイすね」
「ヤバイよな」
 靖は前を向いて運転していたので、表情の変化があったかどうかはわからなかった。でもきっと、安心したにちがいない。笙矢は彼の話をすべて信じた。信じがたいほどに恐ろしい話ではあったが。
 この日は、朝から天気がぐずついていた。真っ昼間だというのに、空はどんよりと暗い。フロントガラスにぱらぱらと小さな雨粒がついたかと思うと、数分後にはやんでいる。その繰り返しだった。
 今は高速を走っているが、現場までは笙矢が思っていたより遠いようだった。カーナビは電源が入っているものの、ルート案内は設定していない。
 陰鬱な空気の中、靖は黙り込んでしまった。いや、基本的に寡黙な性分なのだろう。
「ちょっと見てみないことには、そいつらがなんなのかおれにも見当つかないすね」
「そうか」
「幽霊ではない感じですけど」
「じゃ、なんだよ」
「妖怪ですかね」
「妖怪なんてほんとにいるんだな」
「いるところにはいますよ。幽霊よりはずっとレアですけど。ちょっとめんど……いや、厄介なんですよねー」
「幽霊より強ぇのか? まぁなんかそんな感じはするが」
 なかなかするどい。しかも話がわかる。笙矢は今日一日で、深谷靖というヤクザを何度も見直しそうな予感がした。笙矢は安心して、長々と説明することができた。
「強いっていうか……、そのー、おれの力はべつにまほうじゃねんですよ。たいてい神様にお願いしてやってもらってるだけなんです。悪さをしてるやつをこらしめるためなら、神様はすんなり力を貸してくれます。でも、妖怪って、みんなが悪さしてるわけじゃありませんから。そもそも位の低い神様ってことが多くって。神様が、妖怪側は悪くないって判断したら、おれは『べつの手』を使わなきゃなりません。妖怪退治は力押しになることが多いんです」
「……オレが言うのもアレだがよ。人間真っ二つにへし折っといて、悪さじゃねぇってのか」
「神様にとっちゃあ、人間なんて、虫けらとか動物とほとんど同じレベルの生き物だと思いますよ。おれたちの価値観なんて、あんまり通用しないです。この国は人間だけのものじゃねーってのが神様の考え方だと思います。まあ、崇め奉られてヤな気分じゃないみたいで、参拝客のお願いごとはなるべく叶うように仕事してくれてますよ」
「現金なモンだ。人間とそんなにちがわなくねぇか」
 靖は何かをあきらめたような、そんなため息をついた。
「……で? 妖怪退治にはどんなアイテムがいるんだよ?」
「あ、うーん。どーしよーかなー」
「とりあえず下りるぞ」
「あハイ。じゃテキトーな100均寄ってもらえますか」
「100均? ンなとこで売ってンのか?」
 初めて靖が少し素っ頓狂な声を上げた。彼はきっとゲームをするほうなのだろう。その手のヤクザは、笙矢のお祓いには神聖な属性のアイテムが必要だと思う傾向にある。
「あり合わせのものでアイテム作っても、神様は大目に見てくれます」
「マジかよ……」
 高速を下り、目に入った100円ショップで買い物をすませた。その後、近場にあった吉野家で早めの昼食を取った。牛丼でいいと言い出したのは笙矢だ。もっと高いもんにしろよ、というようなことを言いながら、靖が奢ってくれた。
 空気が重い。空も、晴れる気配がない。
 笙矢が100円ショップで買い求めたのは、工作用の棒きれとコピー用紙、セロテープとチャチなハサミだ。赤信号になるたび、靖は訝しげに見ていたが、特にツッコミは入れてこなかった。
 不意に、靖が舌打ちをした。
 笙矢が顔を上げると、はるか前方に赤いパトランプが見えた。道は渋滞している。事故があったようだ。靖は舌打ちをしただけで何も言わず、道を変えた。
「遠回りになっちまう」
「仕方ないすね」
「……なあ」
「はぃ?」
「もし妖怪だったら……そいつはオレに殺せるか?」
「あー、種類によるとしか……実体がないやつも多いですし」
 それきり、しばらく靖は黙った。何か考え込んでいる様子だった。彼が何を考え、何を思ってそんなことを訊いてきたのか、笙矢にはわかってしまった。
 最初は、本当に、真実を知りたいと思っていただけかもしれない。しかし、笙矢にいきさつを話すうち、彼の恐怖は怒りに変わっていったのだろう。悲しいかな、ヤクザは非常に怒りやすい。いくら彼の表面には出ていないのだとしても、はっきりしている。
 笙矢は作業に戻った。作っているのは、大幣おおぬさだ。作るのはたいへんめんどくさいが、そのぶん攻撃力が高い。神が力を貸してくれればの話だが。
 沈黙が続いた。
 車は埼玉に入っていた。
 沈黙を破ったのは、靖だ。
「……悪い、CDかけてくれ」
「ああはい」
 笙矢はすでに大幣を完成させてぼーっとしていた。身体を起こし、グローブボックスを開ける。目に飛び込んできたのは、弾丸が詰まったマガジン3つと、桂歌丸の顔だった。
 CDは6枚入っていた。ジャケットに載っているのは、だいたい全部見たことがある名前と顔だ。笑点で。
「あのー、これ……」
「なんだよ。落語聞いちゃいけねぇのかよ」
「いえ、日本の伝統を守るのはいいことです」
「殺る前には聴くことにしてるんだ」
「あー、それってもしかして」
「ああ、清弘きよひろだよ。悪ぃか。『その男、凶暴につき』だ」
「いえ、悪いなんて。いい映画すよね」
「たけしはいい映画作るよ。あと『アウトレイジ』」
「ああはい。よかったすよね。本部長ブルーレイ買って。シモンさんもけっこう気に入ってましたし」
「……オレらはよ。ああ、あんたはどうだか知らねぇぜ? そんな悪ぃことしてねぇらしいし。でも、オレらはよ。みんなああいうふうに、意味なくサクッと死んじまうんだ。いきなりさ。ある日突然いなくなるんだ。そんで地獄に堕ちる」
「…………」
「オレはそれがわかってて、覚悟してた。いつだって死んでもいい。でも……、なのに、情けねぇよ。…………、怖かったんだ……」
「ぜんぜんおかしかぁないですよ。そんなもんです。人間なんて」
 笙矢は桂歌丸のCDをカーステに入れた。
 落語はあまり頭に入ってこなかった。歌丸師匠は何度もうまいことを言っていた。しかし、笙矢も靖も、ぴくりとも笑わなかった。


     ◆ ◆ ◆


 車は山の中に入った。埼玉のどのあたりなのか、笙矢にはまるでわからない。カーナビを見ると、この車を示す三角形は、等高線の中をさまよっているように見えた。
 けれど。
 笙矢には、目的地が近いことがわかった。
 靖の言うとおりだ、――空気が、ちがう。
 ぞくぞくと肌が粟立つような気がした。正直、車を降りたくない。やっぱこの話なしで、と言いたくなってきた。しかしそんなことを言ったら靖に撃ち殺されそうだ。グローブボックスの中にはマガジンしか入っていなかったから、彼は間違いなく銃を携帯している。
 車が止まった。空は濃い鉛色。沼はもう少し先にあるらしい。
「弾持ってきてくれ」
 靖はキーを抜き、ためらうことなく車外に出た。
 笙矢は落語のCDのうえに乗っていたマガジンを3つ、急いでほうぼうのポケットに放り込み、大幣を手に車を降りた。
 よろめきそうになった。
 話には聞いていたが、想像していたよりもずっとひどい匂いだった。笙矢も死体の匂いは知っている。そして、買ってはきたものの食べるのもめんどくさくなって放置した結果、いろいろなものを腐らせてきた。……これは、確かに、どの匂いでもない。生臭いようだが、腐っているようでもある。空気自体が腐乱しているかのようだ。
 足下で、笙矢の影が鯉に似たかたちを取り、ゆっくりと泳いだ。『相棒』も、異常を察知しているようだ。あまり切迫した雰囲気には見えなかったが、……笙矢には、相棒が、戸惑っているように見えた。
 しばらく歩くと、崩れ落ちそうな廃屋が見えてきた。靖の話の中にも出てきた、崩れ落ちそうな、古い家。
 笙矢は無意識のうちに足を止め、その家に釘付けになった。
 胸騒ぎがする。
 ガサガサと物音がして、笙矢ははっとした。靖が草むらの中に分け入っている。少し慌てているようだった。
 自分には妙な『相棒』がいるということを、前もって彼に説明しておきたかった。それにもう少し辺りの様子をうかがいたい。だが、そんな暇はないようだ。冷静そうな靖も結局猪突猛進なのか。
「ヤスさん! ちょっと、いきなり突っ込まないでくださいよ!」
 靖は答えない。彼は沼のふちで足を止めた。何か見つけたようだ。
 笙矢は大幣をかついで草むらに入る。足の裏に、靴越しの、いやな感触。地面はぬかるんでいた。ぐぢゃり、と不快な音もした。ほとんど湿地と言っていい。
 笙矢は靖のとなりで足を止める。
 黒い沼。
 その中に、白いものがひとつ。
 男の右手が突き出している。
 中指に、シルバーのごつい指輪がはまっていた。
 だらりと手首から先が垂れている。
 思わず笙矢は靖の横顔を見ていた。靖ののどが、上下した。
「西」
 それだけで充分だった。
 あれは、西というヤクザの腕なのだ。
 笙矢は、となりの靖の怒りが、音もなく燃え上がっていくのを感じ取った。しかし、それと同時に、この場の空気の異様さが気がかりで仕方がない。頭の中がぐちゃぐちゃになっていく。
 いつも『掃除』はひとりでしていた。靖という頼りになりそうな漢がひとりいるだけで、自分がこんなにも混乱してしまうとは意外だった。
 普通じゃない。いや、いつも普通じゃない仕事をさせられているが、どう考えてもこの沼は普通じゃない。
 ふと、視線が、沼の中の白い手から、廃屋に移った。ぞくりとする。また目が釘付けになる。
 ぐぽっ。
 音と同時に、靖と笙矢の身体が、驚きでわずかに跳ねた。
 手が消えたのだ。シルバーリングをはめた男の腕が、タールのように黒い泥沼の中に、一瞬で消えた。沼の中にいるなにものかが、腕を引きずり込んだとしか思えなかった。
 呆気に取られていると、ぽひゅっ、と間抜けな音を立てて、白く鈍い光が沼の中から飛び出し、放物線を描いて草むらに落ちていった。
 シルバーリングだ。こんなものはいらないとばかりに。沼の中のものは、西のリングだけをなげうったのだ。
「…………!!」
 靖の怒りが爆発した。
 彼はジャケットをひるがえし、拳銃を抜いていた。サプレッサーがついた、コルト・ガバメント。
「ヤスさん、ちょっと待っ!」
 発砲。
 銃声は、パスパフパヒュッという、独特なものだった。靖が放った弾丸は、西の手があったあたりに命中した。黒いしぶきが上がったが、それ以外、何も起こらなかった。
 ほんのしばらくは、何も起こらなかった。
 ほんのしばらくは――。
 暗い鉛色の空の下、真っ黒い沼の中から、ぐつぐつと……音が聞こえてきた。
 音?
 いや。
 これは、笑い声、だ。
「にぐ」
 その言葉が聞こえた瞬間、笙矢は大幣を前に振りかざした。
 ――ここの神様誰だ!? 誰でもいい、よろしくお願いしますッ!
伊耶那岐大神いざなぎのおおかみみそぎはらえたまひしときりませる祓戸大神はらえどのおおかみたち!」
 し、ん。
 早口でここまで祝詞を上げたときに、もっと違和感を持つべきだった。
諸々(もろもろ)(まが)(ごと)(つみ)(けがれ)()らむをば(はら)(たま)(きよ)(たま)へと(もう)(こと)(きこ)(しめ)せと(かしこ)(かしこ)(もう)す!」
 笙矢の目は、稲妻と同じ光を放った。
「『力貸してください』!」
 黒い沼から、何かが飛びだした。ふたつ。靖の前と、笙矢のななめ左。笙矢は即座に判断した。銃が効くかどうかはわからないが、靖の前に現れたものは彼に任せる。靖が逃げ出すはずはないから。
 自分のすぐそばに現れたものを、笙矢は大幣で殴りつけた。
 ――え。
 感触が、ちがう。
 目と大幣の中で光った稲妻は、いつもより、ずっとずっと弱かった。コピー用紙の紙垂がちぎれて、はらはらと散る。奇怪な笑い声がした。背後では立て続けに控えめな銃声。
 ――まさか。
 黒い悪臭の塊が、紙垂の向こう側にいた。それは、それがなにものであるか笙矢が確かめられる前に、体当たりしてきた。
 泥水が顔面にかかった。ぞっとする話だが、口の中にまで入ってしまった。
 ……しょっぱい。まるで海水だ。
「おい! 比嘉!」
 あえなく倒れた笙矢の耳に、靖の声が飛び込んでくる。
 足をつかまれた。
 ――嘘だ、嘘だうそだうそだ。こんな。
 泥まみれの草むらの中を引きずられていく。行き先は考えるまでもない。沼の中だ。つかまれている足に痛みが走った。やつはするどい爪を持っているようだ。

 ――神様! 神様が、いない!!

 銃声、銃声銃声銃声。
 笙矢を引きずるものは大声を上げた。それで悲鳴のつもりか。痰でのどを詰まらせた獣が無理やり吼えたような、異様な叫びだった。
 足から手が離れるのを感じて、笙矢は必死で立ち上がり、靖のそばに駆け寄った。彼からは硝煙の匂いがした。腰が抜けそうだ。
「ヤスさん! 逃げましょう!」
「アァ!? なに言ってんだテメェ!」
「おれ役立たずです、鉛玉のほうがよっぽど役に立ちます!」
「……確かにチャカぁ効いたけどよ」
「殺ったんですか!?」
「いや、逃げた」
 靖は舌打ちした。
 彼はかすり傷ひとつ負っていない。泥は浴びていた。彼は自力で撃退し、あまつさえ笙矢を助けたのだ。この沼にいるものには、物理的な攻撃が効く。笙矢はあたふたとポケットからマガジンを出して、靖に渡した。
「第四支部のみんなでカチコミかけたほうが確実ですよ!」
「ダァホ! これ以上組に迷惑かけられッか!」
「でもこのへん神様いないんです! こんなのマジでおれも初めてで――」
「シッ!」
 靖が不意に口をつぐんで身構える。
 笙矢も固唾を呑んで、黙りこくった。
 沼がどのくらい広いのか、よくわからない。
 沼の中から聞こえてくるのか、沼のまわりから聞こえてくるのか、このつぶやきは。
 どす黒いヘドロまみれのものが沼から出てきたのはわかった。笙矢は草や紙垂のあいだから見えたものを思い起こした。
 白いものが見えた気がした。
 白く丸い、魚のような目が……。
 足をつかまれて引きずられたから、やつらが手を持っているのは確かだ。
 やつらは今、ささやいている。
「にぐ」
「まま」
「いあ」
「いあ」
「くするふ」
「ふだぐん」
「にぐ」

にぐだよ、まま……」

 夏の黄昏のように暗い昼下がり。
 ちかりと、空の向こうが光る。
 灰色の空と、黒い沼と、黒い草。その境界と輪郭が曖昧な視界の中、黒い影と、白く丸い目が、ゆらりと揺れる。いくつも揺れる。いくつもいくつもいくつも。
 つぶやきは、彼方の雷鳴よりも確かなものだ。
 ひた、とぬかるんだ地を踏みしめる足音。ひたひた、ひた。まるで水鳥の足音。水かきがあるのか。やつらの足には。
 ふん、とヤスが短く息をついた。笑ったつもりなのか。恐ろしい形相で黒い影を睨みつけている。
「弾ぁ、足りるかな……」
 この男は、西を殺された日、怖かったと言っていた。本当に恐怖したのだろうか。そんなことをつぶやいてマガジンを交換するのを見れば、とても信じられない。笙矢でさえ今は恐怖を感じているのに。
「ヤスさん、おれの『べつの手』使います。でもこっちも全部相手すんのはたぶん無理です」
「じゃあ、半分ずつだな」
「おれ妙なの出しますけど、撃たないでください」
「……は?」
 靖への詳しい説明ははぶいた。たぶん彼ならビビッて銃を乱射したりはしない。
(あま)()(かみ)(くに)()(かみ)()()(よろず)(かみ)(たち)(とも)(きこ)(しめ)せと(かしこ)(かしこ)(もう)す!」
 笙矢は二度、手を打った。

 パン! パン!

 其は、柏手!

 黒ずみ、湿った地面が揺れる。
 そしてそこから、異形の魚は飛び出した。
 靖は撃たないでくれた。沼から現れたものどもも、はっとしたように目を向ける。その白く丸い目を。
「『喰えるだけ喰ってくれ、相棒』!」
 笙矢の、鯉に見えなくもない『相棒』は、空中で身を躍らせた。そのあぎとをいっぱいに広げて、ひとまず1体に食らいついた。
 やつらがひるんでいたのはそこまでだ。
 言葉とも音ともつかないものを口にしながら、びたびたと距離を詰めてくる。そして跳躍した。笙矢を狙っていた。
 三発の弾丸がそいつの頭部に叩き込まれた。
 黒い影は、笙矢の前にどうと倒れた。
 銃声はなおも続き、鯉が沼に潜り込んでは飛び出していく音が響く。その根底で流れ続けるのは、やつらのつぶやきだ。
 笙矢は大幣の先で、うつ伏せに倒れた襲撃者の身体をひっくり返した。ひどい匂いだ。あたりの匂いを凝縮したような体臭だった。
 そして、顔は。
 魚。
 泥と黒い液体にまみれたその顔は、笙矢の相棒よりは若干ましな、魚のものだった。白い目はひとつ銃弾に潰されている。半開きの大きな口には牙がある。身体は鱗と粘液に覆われ、手足には水かきがあった。服は着ていない。
 ぞくりと肝が冷えた。
 なんだこいつは。
 幽霊や妖怪を見飽きるほど見てきた笙矢にも、とんと心当たりがない。こんな――半魚人としかいいようのないものが――日本にいたのか。河童なら見たことがあるがそれともちがう。あいつは、愛嬌があった。こいつはどうだ。本能に働きかけてくるほどの邪悪さしか感じない。
 また、ぞくりと体内を悪寒が走る。
 どくりと心臓が高鳴る。
 鯉はざぶんと地面に潜りこみ、地面を泳いで、笙矢の前に戻ってきた。
 笙矢が顔を上げると、敵の数は半減していた。倒れているものは、全部で4体。靖が射殺したぶんだ。
 鯉が突然、ぐぐぐとうめいた。
 相棒がそんな声を上げるのは珍しい。しかも若干苦しんでいるように見えた。笙矢まで、ぎりぎりと胸が締めつけられるような圧迫感に襲われた。
 ぐぼばっ!
 いやな音を立てて、鯉は黒いものを吐き出した。どちゃどちゃとぬかるみの中に吐き出された半魚人どもは、全部で何匹かさっぱりわからない。骨を砕かれ、牙で裂かれ、ひとまとめにされていた。
 1匹の頭部と、目が合った。ばかでかい口がかすかに動いたが、つぶやきもうめきも聞こえなかった。それは、でろり、と血ともヘドロともつかない黒い液体を口から垂れ流した。それきり動かなくなった。
「なんだよ、相棒……まずすぎてハラ壊したか?」
 笙矢が声をかけると、鯉の腹からぐるぐると妙な音がした。半分冗談で言ったのだが、そのとおりだったのかもしれない。しかし、喰ってくれなかったが殺してはくれた。
 そういえば、と。
 朝、相棒が不意に動いたことを、今さら思い出した。やはり、今日は何かが起こるという前兆だったようだ。しかし今の今まで笙矢は忘れていた。すでに『何か』は起きまくっている。何の意味もない警告だ。
 靖の姿を探す。銃声も小さいし、靖は雄叫びのひとつも上げないので、どこにいるのかすぐにはわからなかった。
 いた。無事だ。草むらの向こうで奮闘している。知らぬ間に、廃屋にずいぶん近づいていた。
「ヤスさん! 中入ってください、そこ!」
 笙矢は怒鳴りながら、相棒を影の中に戻した。
 よろめいた。
 鯉を出しっぱなしで酷使したせいだろうか、身体がずんと重くなる。
 靖は反論もなしに、銃撃を打ち切って身をひるがえした。びっくりするほど敏捷な動きだ。飛ぶように走って、あっという間に彼は廃屋の玄関ポーチに到達した。
 かと思うと、ドアにヤクザキックをぶちかました。
 ドアはあえなく開き、笙矢は靖とともに、転がるようにして屋内に入った。いや実際、笙矢は転んだ。靖はそんな笙矢の胴体につまずいてつんのめって引力に抗ったが結局転んだ。
「クッソ! なんだってんだ!」
 そして靖もやはりいっぱしのヤクザだった。立ち上がるなり、苛立ちをキックに変えて壁にぶつけた。
 玄関は土埃まみれで、カビ臭かった。壁やたたきには、やつらのものと思しき、水かきのついた手形足形が無数にこびりついている。
「マジでなんだってんだテメェはデケェ魚出すし! ヤツらのツラ見たか魚じゃねぇか! ふざけんなオレぁ魚といっしょに魚殺すために組入ったんじゃねぇぞ! オレぁな! 魚殺すために月三で人殺してねぇんだよ! アァ!? だいたい魚嫌ぇなんだよ!」
 どうやら冷静に戦いつつもすでにいっぱいいっぱいの状態だったようだ。靖は額に青筋を浮かべてひとしきり大声を出した。
 笙矢もその気持ちはわからないでもない。だが笙矢は魚料理が好きだし、相棒のこともそれなりに信頼しているので、賛同しかねる部分もあった。
「……お、落ち着いて。ヤスさん」
 よろよろ立ち上がり、へっぴり腰で笙矢が言うと、靖は荒々しいため息をついた。顔は恐ろしいままだったが、それきりわめくのはやめてくれた。「落ち着いて」と言ってあっさり落ち着いてくれるヤクザを、笙矢は初めて見た。
「まま」
「いあ」
「いあ」
「ばぼりだばえ」
「いあ」
「まま……」
 外から、つぶやきが聞こえる。
 だが……やつらは、黒い沼と鉛色の空を背にして立っているだけだ。いくつもの白い双眸が、黒の中に浮かび上がっていた。不思議なことに、家には近づこうとしない。
 靖はすっかり冷静さを取り戻し、両手で構えた銃で狙いを定めた。
「どうすんだ? なんか考えあってここに突っ込んだんだろうな?」
「はぃ、まあ。――ヤスさん」
「なんだよ」
「光り物、貸してください」
「ああ」
 靖は両手で銃を構えたままささやく。笙矢は彼の腰の後ろに手を伸ばした。
 すらっ、と冴えた音。靖がベルトに挟んでいたのはドスだった。彼が奮闘しているとき、ちらと見えたのだ。
 神がこの地にいないなら、
 神をこの地に喚べばいい。
「神様喚びます。目閉じててください」
「いねぇんじゃなかったのかよ」
「今あっちの空にいる神様、指名します!」
 雲の向こうが光った。
 笙矢はドスの切っ先を稲光の方角に向けた。
けまくもかしこ建御雷神たけみかづちのかみ!」
 ごろっ、と空が応えた。
 ああ、振り向いてくれた。こっちを見ている。
諸々(もろもろ)(まが)(ごと)(つみ)(けがれ)()らむをば(はら)(たま)(きよ)(たま)へと(もう)(こと)(きこ)(しめ)せと(かしこ)(かしこ)(もう)す!」
 しん、と一瞬空が鎮まりかえった。
「『助けてください』!」
 笙矢の目と鉛色の空は青白く光る。
 轟音。
 天から放たれた稲妻は、笙矢が突き出したドスに吸い込まれ――ドスの切っ先から、勢いよく地面めがけて疾走した。
 びちゃびちゃにぬかるんだ、湿地同然の草むらに。
 つぶやきが歪んだ絶叫に変わった。
 青白い稲妻は龍のように、地面と沼を跳ね回った。ほんの3秒ほどのできごとだった。
 つぶやきがやんだ静寂の中、黒い魚人どもは、煙を上げながら、痙攣しながら、泥の中に倒れ伏していく。悪臭に、焦げ臭い匂いが加わった。
 靖が銃を下ろす。わずかに口が開いている。無言で驚いているらしい。
「…………。すげぇな、あんた」
「そうすかね。疲れました」
「いやマジで面白ぇよ。カシラがあんた推すわけがわかった」
 笙矢はどうしようもなく疲れていたので、照れる余裕もない。若い衆が言うところの、「MPを使いすぎた」状態だ。これであとは帰るだけだ。早く帰って寝たい。いや、面倒だが、着替えてシャワーを浴びないと。全身ひどい匂いだ。
 そう、安心していたのだが。
 家の中のどこからか、物音がした。
 靖は下げていた銃をすばやく構える。
「……だから確かめたかったんだよ」
 彼はそううそぶいた。
 初めて見たときから、本当に無人かどうか気になっていたと言っていたはずだ。靖は土足でたたきから上がった。
 まだ仕事は終わっていないと知り、笙矢はげんなりしてしまったが、ドスを片手に靖に続いた。
 家の中は荒れ果てていた。水かきつきの手形と足跡はそこらじゅうにある。電化製品や家具の雰囲気を見ると、この家は昭和で時が止まっているように見えた。
 1階は、居間を少し調べただけで終わってしまった。また物音がしたのだ……頭上から。
 笙矢と靖は目を見合わせた。靖は何も言わず居間を出て、階段に向かっていった。階段は玄関から見えていた。
 それにしても、靖の動きは、まるで映画やドラマのFBIだ。うかつに肩を叩いただけで撃ち殺されそうな隙のなさだった。やはり第四支部は敵に回したくない。さっき玄関先でちょっとバグっていたが、あんな場面でバグらなかったらかえって怖い。このひとも一応人間だった。
 少し急な階段を上っているうちに笙矢は気づいた。
 階段には、あまり足跡がない。泥汚れは次第に少なくなっていく。
 自分の呼吸音と、彼方の雷鳴だけが聞こえる。雷神はまだ見守ってくれているだろうか。ドスを握る笙矢の手に力がこもった。
 2階は埃まみれだ。水かきのある足跡は少ないものの、確実に残っている。足跡は奥の部屋をまっすぐに目指していた。やつらにとって、用があったのは、その部屋だけだったようだ。
 靖はためらうことなくその部屋まで進み、笙矢に目配せしたあと、再びヤクザキックをドアに見舞った。
 古びたドアはあっさり開いた。
 ぞっとする匂いがした。それはやつらや沼が発していた匂いとはちがう。明らかな、死臭だった。
 骨。ほね、ほね、ほね。
 笙矢は古典ホラー映画の『悪魔のいけにえ』を思い出した。幽霊やらなにやらに触れていて怖いもの知らずだったのに、子供の頃あの映画を観たあとはひどい目に遭った。夜にトイレに行けなくなった。
 骨で作られた謎の飾りが天井から吊るされている。部屋の四隅には骨の山が築かれている。ほとんどは人骨だった。獣のものも混じってはいたが。
 壁には、奇怪な、魚なのか蛸なのかわからない生物を象った、金属製のレリーフがかかっていた。その下には祭壇らしきものがある。骨と、骨と骨と骨と黒い水が入ったコップが捧げられていた。
 腐った肉と乾いた肉と、生乾きの骨の匂いが充満している。そんな部屋の奥、白く汚れた窓の前に、安楽椅子があった。椅子には誰かが座っている。
 靖は銃を構えてその椅子に近づいた。眉間にしわを寄せたまま、彼は銃を下ろす。
 笙矢は彼の横に立った。
 椅子に座り、窓の外を無表情でみつめているのは、花柄の服を着たミイラだった。下半身には、毛玉だらけの膝かけがかかっていた。灰色の髪の毛は癖毛なのかパーマなのか、ぐちゃぐちゃに乱れている。
 笙矢は気分が悪くなった。見てはいけないものを見てしまったのだ。ミイラなど、それに比べればかわいいものだった。
 ミイラの前には色褪せたプラスチックの皿がある。その皿のうえに……うえに、脳味噌が、乗っていた。灰色がかったピンク色。信じたくはないが、大きさからして、それは……ヒトの脳だ。スプーンですくった跡があった。
 スプーンは床に落ちている。
 笙矢はミイラの顔をもう一度見て、はっとした。
 ミイラの頬に、涙の筋があるのをみつけたのだ。
 それと、同時だった。
「ぁぁぁぁああああんだだぢ、よぐもぉぉ!」
 ミイラは振り向き、うめき、立ち上がって、靖につかみかかった。それはミイラではなく老婆だったのだ。
 一瞬笙矢にも正面から見えた、その顔!
「よぐもあだじのこどもだぢをぉぉおお!」
 さすがの靖も虚を突かれたようだ。だが、すばやく後ろに下がって発砲した。
 弾丸は老婆の首と鎖骨の下を射貫いた。老婆は前のめりに倒れた。彼女の身体はびくびくと痙攣していた。やけに黒い血が、骨のかけらと粉末だらけの床に広がっていく。
 靖はその後頭部に銃口を向け、とどめを刺した。
 だらりと伸びた腕の先の手には、水かきがなかった。長く、ささくれだち、欠けた爪も、人間のものだった。
 しかし、笙矢が一瞬正面から見た老婆の顔は、異様に口が大きく、目は真っ白で、真ん丸だった。
「オレのクソババアの顔のほうがまだマシだぜ」
 靖は銃を下ろし、捨て台詞と唾を吐いた。
「……帰りましょう」
「ああ」
 靖は銃をだらりと片手に下げて、廊下に向かった。
 靖が吹っ飛んだ。


 クソ。クソ、クソ、クソ!
 頭の中はその罵声でいっぱいだ。
 油断した。すっかり終わったと思っていた。魚のツラのクソどもは比嘉が皆殺しにしてくれたと思っていたし、あのクソどものクソババアもぶっ殺した。これですべて終わり。ケジメはついた。そう思い込んでいた。
 しかしよく考えれば、これで終わりと決まったわけではなかったのだ。ゲームとはちがう。現実は、仕事がすべて終わったかどうかなどはっきりとはわからない。
 疲れていたせいだろうか。あるいは、もうこれで終わりであってくれと願っていたからなのか。油断した。油断した自分がクソすぎる。
「クソ……!」
「ヤスさん!!」
 廊下からいきなり部屋に飛び込んできたのは、黒いような灰色のような、ごつごつした塊だった。靖はそれがなんなのかもわからないまま床に転がっていた。突き飛ばされたらしい、と気づいたのは、馬乗りになっているものが、鉤爪と水かきをそなえた手を持っているのを見たからだ。
 その爬虫類めいた身体は乾いていた。そのうえ、べたべたに汚れた黄色いエプロンを身につけている。こいつだけ、家の中で暮らしていたのか。間近で嗅ぐ体臭で鼻が曲がりそうだ。エプロンからは……血の匂い。人間の血と臓物の匂い。
「ままあ!?」
 ホラー映画の怪物のような声で、そいつは吼えた。
「ままあままあままあ!」
 白い目は、靖が撃ち殺したババアを見ていた。それから、見たくもないツラを、靖に向けた。
 これだから魚は嫌いだ。目が真ん丸で、口が半開きで、何を考えているかわからない。
 しかしこいつが考えていることは、変わらない表情を見ても、はっきりわかった。
「ままを! おばえらがままぉお! おばえええ!!」
 爪が靖の胸と肩を引き裂いた。
 視界を真っ赤に染めるのは、痛みか血か。比嘉の叫び声が聞こえる。
 相手は馬鹿力だった。靖は片手で軽々と持ち上げられ、廊下に投げ捨てられた。だが、意地でも銃は手放さなかった。
「いっ、ヅ!」
「ごおしでやる! 殺してやるう!」
 腕は動く。傷は深いのか浅いのかわからない。出血の量も確かめている暇はない。
 靖は銃を向けた。撃った。パスパスッ、と音を殺された弾丸が飛ぶ。ろくに狙いを定めなかったが、幸いやつの体格はデカかった。弾丸は二発とも胸に当たったが、やつの動きは止まらなかった。
 比嘉が部屋から飛び出してきた。ドスを持っている。やけにまぶしく、その刃がかがやいているように見えた。比嘉はやつの脇腹にその刃を突き立てた。
 靖は、彼はちょっとイモ引きだと思っていたが……助けてくれた。
 やつは獣のような叫び声を上げて身をよじったが、タフだった。倒れることなく、比嘉を殴り飛ばした。
 そして、脇腹にドスを刺したまま、再び靖に襲いかかってきた。
 引き金を引く。
 かちっ。
 むなしい音。
 その音を聞いたとたん、やつは、
 魚のくせに、
 嗤った。
 ばかでかい口の端を引き攣らせるようにして、だらだらと、涎なのか血なのかわからない液体を吐きながら、やつは嗤った。そして靖の右手を引っ掻いた。血しぶきとともに、M1911が飛んでいく。
 やつは靖のうえに覆い被さってきた。
 ひどい口臭だ。
 恐るべき牙だ。
 しかし、やつは凍りついた。
 靖は内ポケットから銃を取り出し、やつの顎下に突きつけていた。
 これも靖の愛銃のひとつ。ワルサーPPK。
「よけてみな」
 ――いっぺん言ってみたかったんだよ、これ。

 BLAM!
 BLAM!
 BLAM!



     ◆ ◆ ◆

 
 グロリアの運転をしているのは笙矢だ。久しぶりのマニュアルなのですこし緊張する。
 靖の傷はさほど深くはなかったが、病院行きは確実だ。死体のようにぐったりと助手席に座っている。にもかかわらず、彼はまず第四支部まで送れと言うのだった。
 カーステからは歌丸師匠の落語が流れてくる。
 自分たちの匂いに、吐き気がする。
「……なぁ、ありゃあ、いったい、なんだったんだよ」
 靖が目を閉じたまま言った。まるで寝言のように、生気がなく、疲れきっていた。
「わかんねっす」
 笙矢は正直に答える。殴り飛ばされたところと、ぶつけたところが痛い。自分が今運転しているということが信じられないくらい疲れている。
「幽霊でも妖怪でもありませんでした。悪魔でもなかった」
「あんた悪魔も見たことあんのか」
「ええまあはい」
「すげぇな」
「いやそんな」
「今度、ちゃんと、奢るからよ。スシとか……」
「いいですよ、そんな」
「金のほうがいいか?」
「いや、だからいいですって」
「……敬語なんかやめてくれよ。オレ、あんたより年下だぞ」
「えぇえ、でも……」
「あんた……下の名前、なんてんだ?」
「笙矢です」
「……今度からそう呼ぶよ……今日は、ありがとな……」
 それきり靖は黙り込んだ。死んだのかと思って、笙矢は信号で止まるたび靖を揺すった。しかし、ただ疲れているだけらしかった。しまいには、起こすなよと怒り出したので、笙矢は落語を聞きながら無言で運転した。
 しかし、ほんとうに、あれはなんだったのだろうか。
 日本の天地あめつちは神々のものだ。ここは、森羅万象にも、細部にも、神が宿る国。それは昨今の人間社会の中では、古くさくて、滅びるべき考え方だとされつつあるけれど――笙矢は信じている。というよりも、それが彼にとっての『真実』だ。この国には神々が住んでいる。
 それなのに……あの沼の周囲には……神が、いなかった。
 不意に、笙矢の意識の中に、あのとき見た謎のレリーフがフラッシュバックした。やつらなりに手厚く祀っていたであろう、あのレリーフ。あれが、あんなものが、やつらの神なのか。
 頭の中がぐちゃぐちゃになってくる。追究してはいけない気がした。


 第四支部に到着した頃には、夜になっていた。しかし、夕暮れまでの雨雲はどこへやら、今は月と星が出ている。
 駐車場にグロリアを止めると、靖はふらふら事務所に向かっていった。笙矢もふらつきそうだったが、途中で倒れやしないか心配だったので、彼についていった。
 血まみれ泥まみれの靖が中に入ると、第四支部の事務所は色めきだった。当然の反応だ。支部長代理のデスクには、月島組若頭の、市松いちまつ祠門しもんが座っていた。しかし彼も、ケータイを放り出して靖に駆け寄った。本日のスーツは真っ青。
「カシラ……」
 靖は血と泥にまみれた手をポケットから出した。
 そのてのひらのうえに、シルバーリングがあった。祠門の隻眼は、それを食い入るように見つめる。
「オウ。お前……、そうか。ケジメつけてきたんだな?」
「……はい。西の報復カエシ……済ませてきました――」
 ぐらり、と前のめりに倒れかけた靖を、祠門は抱きとめた。泥や匂いが自分のスーツにつくのもいとわずに。
「ヤス。ご苦労さん」
 そのやり取りで、笙矢は、祠門の存在が靖を動かしたのだと確信した。祠門が靖の話を信じなければ、今日は何も起こらなかった。靖が自主的に行ったにしろ、祠門が命令したにしろ、靖は代紋のために銃を執ったのだ。
 祠門の目が、笙矢に向けられる。
 笙矢は第四支部から、初めて報酬をもらった。
 報復の手伝いをしたのも、初めてかもしれなかった。


 深谷靖は、それから、ときどき、笙矢に会いにクロサワ不動産を訪れるようになった。
 笙矢は相変わらず、彼に敬語を使っている。



〈了〉

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