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向山葉子の小説

カーマイン邪色

作者:向山葉子
   カーマイン邪色

                    向山 葉子


 うふふふ、という笑い声が次第に体からぬけていく。……と同時にだんだんと手に当たる水の感覚が強まってくる。ああ、私は今お炊事をしているのだ、という認識が頭の端に上ってきてようやく時間がまた動き始める。
 白菜はすでに切り終わって、ザルのなかにこんもりとした山を作っている。今は、葱を洗っている最中らしかった。栄養失調なのかもしれない、と薔子は思う。なにしろ、もう何日も白菜鍋で過ごしている。動物性蛋白の一切入っていない、貧しい鍋である。丸一日食べないこともある。だか浮腫んででもいるのか一向に痩せた気はしない。
 葱の独特の強い臭みが鼻に昇ってきて、急に吐き気がこみあげてくる。薔子は庖丁を放り出して流しに顔を突っ込む。……何も吐くものはない。苦い水がほんの少し出て、後はアシカのような声が喉から漏れてくるだけだ。
 薔子はその場に座りこんで、呼吸を整えようとする。蛇口から水がぽたぽたと落ちる音が頭の上で鳴っている。いくら強く締めても蛇口は涙を止めない。しまりのない中年女の涙線のようにいつまでも泣き続けている。
 薔子は、キッチンに座ったまま、ぼんやりと目に映る窓の歪んだ硝子を通して黄昏ていく空を見つめていた。やがてまた夜が来る。
 こうやって幾度の夕暮れを見たことだろう。働くことも放棄し、外へ出ず、電話を止め、おとなう人の声にも耳をふさいで。こうしていると、今日も昨日も一昨日も同じに感じられ、時の経過を思い知らずにいられるような気がするのだ。
 薔子は多分、何かを待ち望んでいるのだ。何を? 一体何を? それは考えても詮ないことだ。“それ”が訪れた時にしか分かりはすまい。ただそれが、時の経過を嫌うものだということだけは分かっている。
 陽はすっかり地の底へ沈み、闇が静かに足元から這い上がって来る。静かに闇に絡めとられながら、薔子は時と時の狭間に立ち止まっている自分を確認する。そこには、すべての時間に存在する薔子がいる。三歳の薔子も、十歳の薔子も十五歳の薔子も二十歳の薔子も、薔子という薔子が立ち止まっている。そこには、時という観念はない。どの薔子でいるのも自由なのだ。

“それ”の訪れの期待は、ずっとずっと昔からあったような気がする。ただ、そうとは認識していなかっただけだ。その時、気がついてさえいれば、それはたやすく訪れたのかもしれない。その機会を、気づかないばかりにみすみす逃してしまっているのではないか――そんなもやもやとした不安が影のようにつきまとい始めたのは、一体いつの頃だったろう、と薔子は考えてみる。あらゆる薔子の内面へと思いを巡らしてみる。するとそれは次第にぼんやりとしてはいるが、ひとつの映像を結び始めてきた。……玄関に揃えられた白いハイヒール……開け放たれた扉……目映い真昼の光……呼び止める男の声……武夫の声だ。
「待てよ! 行かせない、行かせないぞ」
 武夫は暴れる獣を捕らえるように乱暴に薔子の腕をつかんだ。
「怖いのよ。不安でたまらないの。お願い、行かせて」
 薔子は身を揉んで、武夫に訴える。
「何が怖いって言うんだ。どこが不安だって言うんだ。マンションも買った。昇進も決まった。俺は君を愛してる。それ以上、何が欲しいっていうんだ」
 武夫は薔子の頬を両手で挟んで、激しく揺すぶった。薔子は何も言わず、されるがままになっている。
「君の一番欲しいものを言ってみろよ」
 揺さぶるのを止めて、武夫は薔子の目の中を覗き込む。……薔子の唇が、かすかに震える。一体、何と答えたのだったか。

“――カーマイン、あの真っ赤な絵具――”
 薔子は、自分の声で我に返った。と、同時に二十三歳の薔子は闇の中に沈み、現在の薔子が浮かび上がった。あの時、薔子は確かにカーマインの絵具が欲しいと武夫に言った。薔子はもう一度、二十三歳の薔子が闇の中から呼び出す。
「――カーマイン、あの真っ赤な絵具が欲しかった……」
 震える唇から、きれぎれに言葉が漏れた。武夫の瞳から一瞬光が消え、ぽっかりと空いた二つの闇になった。そして、その底から、ちろちろと青い鬼火が昇り立ち揺らめいた。薔子はとっさに顔を背ける。そんなことを言う気はなかった。黙って立ち去るつもりだった。
 武夫は、いきなり薔子を突き飛ばし、馬乗りになって目茶苦茶に殴り始めた。殴られながら薔子は、武夫の目の中の鬼火が紅蓮の憎悪の炎となって渦巻くのを見ていた。やがて炎は、薔子の目の中に忍び込み体中に拡散していった。世界がすべてカーマインで満たされていく……。

 赤い色はやがて小さくなって、どんどん小さくなって、窓の外に遠く見える信号の点滅と見分けがつかなくなった。……ぽたぽたという蛇口の音が耳元に蘇った。
 ――もう絵は辞める。いくら描いてもだめだって分かったからね。いや、君がそんな顔をすると困るな。俺は自分の意志でそう決めたんだから――武夫はそう言って微笑んでいた。それは薔子が望んだことだ。口には出さなくても、ずっと望んでいたはずなのだ。
“本当にそうかしら?”
 無邪気な声が闇の中から浮かんでくる。十九歳の薔子が、薔子を押し退けて入り込んでくる。
“私は武夫の絵が好きだったわ。オットー・ディックスの亜流だ、と陰口叩かれても、私だけは理解できた。少なくとも、理解したいと思ってたわ”

『色を塗ってくれ』と札の掛かった、奇妙な絵に薔子は興味をそそられた。ボードの下から張り出した小さい棚には、いくつかの絵具のチューブが散乱していた。その絵はまだ描きかけで、まだ多くの部分が鉛筆の下絵の輪郭を残していた。テーブルに凭れる若い女。疲れたような表情。けだるく投げ出された細い腕。踊り子が着るような衣装だけが明るい薔薇色で塗られている。
 薔子はその絵を見ながら、いくつかの絵具を代わるがわる弄んでいた。赤い絵具を手に取った時、どうした弾みか蓋がはずれて、指の先に赤い色がべったりとついてしまった。薔子は、赤い指先を見てどうしようか、と考えた。絵の中の女も、ぼんやりとした目でそれを見つめている。色のない、白い顔をして。その時、薔子の手が無意識に動いて、絵の中の女の目の下に赤い隈取りをつくっていた。
「ほんとに塗ってくれたの、君が初めてだ」
 男の声に薔子は驚いて振り向いた。
「なかなかいいセンスしてるな。普通なら唇に塗るとこだよね。あ、君、もしかしてオットー・ディックス好きなんじゃない?」
 薔子は恐る恐る首を横に振った。
「そう、違うの。『ミーツェ、夜のカフェ』に因んだのかと思ったもんだから。あの絵、見たことある? そうそう、今画集あるから持ってくるよ」
 男は返事も聞かずに、奥へ駆け込んでいった。
 ――それは、奇妙な絵だった。苔色に沈んだ背景の上に浮かび上がる一人の女。丸いテーブルの上に赤く尖った爪を持つ右手の指をしなやかにつき、足でテーブルをさそいこむようにしている。黄色地に茶色の水玉模様を施した服を着崩して、丁度陰毛に当たる部分には、茶色の小さな犬がうずくまっている。微笑んだ唇は大きく赤く、虚ろな目は緑色である。その目の下に、赤いぼやけた隈取りがある。まるで赤い涙でも流したように。
「ね、色も似てるでしょ。君が塗ったのはカーマインという色なんだよ」
 男は一人で感心して、画集が自然に閉じてしまったのにも気がつかない。画集の裏表紙には、TAKEO・Nと記されていた。

“私、たぶん最初から武夫のこと好きになってたんだわ。『色を塗ってくれ』という絵を見た時から”十九歳の薔子が、夢見るように語る。薔子の意識は見知らぬ者を見るように十九の薔子を見つめている。その薔薇色の頬が嘘だとは思わない。潤んだ瞳が節穴だとは思わない。が、そうして芽生えた恋の感情は、芽生えた瞬間からゆっくりと暗い奈落への傾斜を始めているのだ。そして、決してその時、それに気づくことはないのだ。やはりその時の薔子も気づいてはいなかった。

「私、来ちゃった……」
 開けられた扉の前にたたずんで、薔子は恥ずかしそうにそう言った。武夫は、驚いたように薔子の足元にあるスーツケースと薔子の顔とを代わる代わる見ていた。
「来ちゃった、って君家を出てきたの?」
 そう言う武夫の言葉に、薔子はこくりとうなづいた。
「とにかくそんなとこに立っていたんじゃ。とりあえず入りなよ」
「とりあえず? とりあえず、なの?」
 薔子は拗ねてふくれてみせた。それには答えず、武夫はスーツケースを持って部屋の中へ入っていった。仕方がないので、薔子も靴を脱いで中へ入った。絵具と煙草の混じりあった武夫の匂いがした。机の上の灰皿には吸口の茶色い煙草がまだ燻ったまま、白い煙を立ち昇らせていた。その煙の先には、質素な額縁に収まった『色を塗ってくれ』が掛かっていた。それはには、薔子の後にも先にも色を塗った者はなく、薔薇色の衣装と目の下の赤だけが際だって、遠くから見ると何の絵だかよくわからなかった。色彩は明るいのに、陰気な印象だった。何度もこの部屋を訪ねたはずなのに、今までそんなことは感じたことはなかった。薔子の心の片隅をちらりと不安の影が過った。しかしそれは、木の葉の裏を微風がほんの少しめくってみせたのに似てすぐにおさまったので、気がつく暇もなかった。
 薔子は武夫が何か分別臭いことを言っても、この熱い気持ちで説得する決意で武夫の表情を見つめていた。しかし武夫は居ろとも言わない代わりに帰れとも言わない。黙って珈琲をいれて、黙って煙草に火を点け、黙って薔子を見つめているばかりだ。その間が長引け長引くほど、幸福であれば幸福であるほど薔子の心には哀しい恐れが膨らんでいった。その恐れが頂点に達しようとする頃、武夫が何かを言いかけた。その時薔子は仔鹿のように飛んで、武夫の唇をふさいでいた。一瞬、宙に浮いた武夫の手はやがて諦めたようにゆっくりと薔子の肩に落ちてきた。

 一体武夫はあの時、何を言おうとしていたのか。今となってはもう知る術もない。薔子自身が断ち切ってしまった言葉。無邪気に、何の悪意もなく断ち切ってしまった言葉。飲み込まれた言葉は、時を経るに従って重く暗く澱んでいったのだ。気づかなかったからといって罪がないと言えるだろうか。そこで気がつけば、傷は浅くてすんだのかもしれないのだ。
 薔子は暗澹とした思いにかられて、十九歳の薔子を闇の中に思いっきり突き飛ばした。十九の薔子は薔薇色の頬をしたまま暗闇の底へ沈んでいった。
 ぽたぽたという音が、間断なく響き続けている。が、すぐにその音にもうひとつほたほたという密やかな音が混じっているのに気がついた。窓から入るわずかな光の中に、愛猫クロのシルエットが滲んでいる。蹠のたてる優しい音だ。その音は扉へと近づきククウという、開けてくれの声を出した。薔子はいざるようにして扉に近づき、細めに開けてやった。黒い影は隙間をするりと抜けて、消えていった。
 律儀な猫である。ここではろくな餌は貰えないのに、毎日必ず帰ってくる。食事は外で済ませてくるようなのだ。こんな主人のどこがいいのか、帰ってくると尻尾をぴんと立てて日向くさい体をすりよせてくる。それがまた哀れでもあり、愛しくもあった。時には、外でまるで薔子を呼んででもいるような可憐な鳴き声になにもかも忘れて飛び出して行きたくなることもある。
“君は仔猫みたいだ、って武夫は髪を撫でてくれた。そうすると私は、ほんとに小さな猫になって彼に甘えているような気がしたわ” 目の前で二十歳の薔子が微笑んでいる、と思った瞬間二十歳の薔子はもう内部に入り込んでいた。

 珈琲の香りの中で武夫を揺り起こす。武夫は顔をしかめたまま、布団を引き上げてまた寝返りを打ってしまう。もう一度揺すってみるのだが、武夫は布団の中で丸まって揺すられるがままになっている。コーヒーメーカーの中でその香り高い液体は滴って、こぽこぽと柔らかい音をたてている。
「ねぇ、気持ちのいい朝よ。寝てるなんてもったいないくらいいい天気よ。ねぇ、ねぇってば」
 武夫は、まるで貝の触手のようにそろそろと布団の中から腕を延ばして、揺すり続ける薔子の手をつかんだかと思うと薔子はもう布団の中に引きずりこまれている。布団の中は武夫の匂いでいっぱいだ。煙草と珈琲と絵具の混じった独特の匂い。“武夫くさい”と薔子はその匂いを形容していた。この匂いが好きだ。もっともっと嗅いでいたいと思う。薔子は体をすりつけるようにして武夫の匂いを呼吸する。武夫の手は寝惚けながらも薔子の髪をゆっくりと撫でている。「にゃーん」と猫の鳴き真似をすると武夫はごそごそと寝返りを打って、すっぽりと抱き込むようにしてくれる。“武夫くさい”息が目の上を温めて、お天気のことなどすっかり忘れてまたとろとろとまどろんでしまう……。
 ふっと目覚めがきた時、時計の針はすでに正午を少し回っていた。布団の中にはすでに武夫の姿はなく、窓から差し込む光の筋に埃がきらきらと舞っているのが見えるばかりだ。
「武夫? 武夫……」
 流しの方にでもいるのかと思い、声をかけてみる。少しかすれた、寝惚けた声が出て恥ずかしかったが、どうやらいないようなのでほっとして起き上がった。珈琲は朝のまま二人分の目盛りをさして湯気をたてている。今日はアルバイトもないはずだし、珈琲も飲まずに慌てて出掛けるところなんてどこかしらと少し気分を害していた。
 自分の分だけ珈琲を注ぐと、武夫の分がポットに残った。黒い液体が揺れているのを見つめていた時、急に一人でいるのが恐ろしくなった。こんなに明るい日差しがあるのに、こんなに穏やかな日であるのに。それがかえってよそよそしく、空恐ろしく思えたのである。薔子は気を散らすために部屋の中を丹念に見回した。机の上のまだ真っ白なボードを、ペン立てに林立する様々な種類の筆を、呆れるほど山盛りになった灰皿を、完成した絵が重ねてたてかけてある壁を、そしてあの『色を塗ってくれ』の絵を。輪郭だけの女がじっと見下ろしていた。目の下だけを真っ赤に彩られて。……突然、そのカーマイン色がとろりと流れ出した。まるで血の涙が流れるよかに。薔子は吹き出した冷たい汗に凍えながらそれを見つめている。目を逸らしたいのに逸らすことが出来ない。薔子の喉の奥から絞り出すような悲鳴が溢れ出した……。
 ふっとまた目覚めが訪れた。時計の針はまた正午を少し回ったところを差していた。脂汗で着ているものがぐっしょり濡れているのを感じた。夢だったのだ。だがやはり今度も布団の中に武夫はいない。
「武夫? 武夫……」
 やはり返事はない。薔子は夢の残像に脅えた。あの絵がひどく恐ろしかった。絵の存在がのしかかってくるようだった。薔子は武夫が戻るまで、布団を被ったままシーツの安っぽい花柄模様が布団の闇の中に続いていくのを見つめていた。少しでも視線をずらしたらあの絵を見てしまいそうだった。そしてまた、血の涙を見てしまったら……。薔子はしっかりと布団を被って強く目を閉じた。
 どのくらい時がたったろう。鍵穴に鍵を差し込む音がして、武夫が戻ってきたようだった。それでも薔子はまだ布団の中にもぐり続けていた。
「おいおい、まだ寝てるのかい? 君の方がよっぽど寝坊じゃないか」
 武夫が無遠慮に布団をめくる。薔子はまるで置いてけぼりを喰った子供のようにいきなりしがみついた。武夫の手から煙草の箱がばらばらとこぼれおちた。
「あの絵、あの絵が怖い……」
 武夫は何のことかわからずに絵を見上げているようだ。
「どこが怖い? 何ともないよ」
「……血の……血の涙……」
 薔子は武夫の胸に顔を埋めたまま、いやいやをするように頭を振る。
「血の涙? ……血の……」
 武夫はそう言ったきり、黙り込んでしまった。薔子は、沈黙のあまりの長さに耐えられなくなって武夫の顔を見上げる。彼はじっと絵を見つめていた。かと思ったら、突然薔子の肩をつかんで低い声で言い聞かせるように言った。
「あれは君が描いたんだよ。あの赤い色は、君が、君が描いたんだよ」
 薔子には分からなかった。何故武夫が急に不機嫌になったのか。薔子は、顔を歪めて見つめる武夫の顔を、茫然と眺めているだけだった。

 アパートの前の道路を、猛スピードで走り抜けていく車のカーステレオの音が、水音をしばしの間かき消した。その爆音にも似たギターやドラムの音が、二十歳の薔子の像をかき乱して闇の中へ葬ってしまった。
 外でクロが鳴いている。精一杯甘えた声を出して。薔子は思わず窓辺に近寄って、外を見た。しかし、道を照らす照明灯がぼんやりと向かいの家の垣根を浮かび上がらせているだけで、クロの姿は見えなかった。もう一度違う方角から鳴き声が聞こえた。薔子は窓を開けて、呼ぼうかと考えた。が、その時もう一匹の猫の声がクロに答えるように、やはり甘えた声で鳴いた。
 薔子は窓から手を離し、またその場にずるずると座りこんだ。奇妙な脱力感が襲っていた。私は何も分かってはいない、と薔子は呟く。自分のことですら分かってはいない。ましてや猫の気持ちなど分かろうはずもない。クロがなぜここに戻ってくるのか。それは彼が薔子を愛しているからなどという理由をつければ簡単なようだ。だが、一体そうであろうか、と薔子は考えた。すべては成り行きだった。
 冬がもうすぐ訪れるという雨の夜だった。薔子は、さっきから細い声で鳴く仔猫の声に気がついていた。だが、どうしようとも思わないまま気にもかけずにいた。そのうちに、新聞の集金人が扉を叩き、薔子はそれに答えて扉を開けた。金を渡して、二言三言言葉を交わす間に黒地に白のブチのある痩せた仔猫が、集金人の足の間をすりぬけてよろよろと部屋に入ってきてしまったのだ。
「やぁ、すっかりぬれちゃって。可愛そうになぁ」
 集金人は気楽にそんなことを言って、そのまま扉を閉めて行ってしまった。貧弱な猫だった。薔子はこれといった感興もないまま、猫の行動を漫然と眺めていた。
 猫はよろよろしながらも、部屋の中の匂いを端から確かめ始めた。本棚の周辺やベッドの下やテーブルの脚や飲み残したコーヒーカップなどなど……。やがて、危険なものはないと納得したのか、だんだんに薔子の膝元まで寄ってくるようになり、少しづつ行動に表情が現れてきたような気すらしてきた。“ぶらっとはいってきて、すみません”というような、“わたしはまだあなたのことはなにもしりませんが、すこしおじゃまさせてください”というような。そして、猫舌の薔子が冷ましておいたホットミルクのカップに近付いていき、しばらくその周りをうろうろしていたが、やがて意を決したようにその中へ鼻を突っ込んだ。が、思ったよりも量が多かったのか、まだまだ冷めきっていないミルクがいきなり口に触れたらしかった。猫は飛び上がり、一メートルも後ろにすさって、熱かった部分をしきりに舐めていた。薔子の唇に微笑みが浮かんできた。
「ほんとに猫舌なのね、私とおんなじ」
 薔子の心の中に、急速に親しい身近なものとしてその猫の存在が入りこんできていた。「ちょっと待って。ミルクが冷めるまでの間に食べるものあげる」
 薔子は急いで立ち上がり、冷蔵庫を開けて猫が食べそうなものを探していた……。
 ……クロは私でなくてもよかったのだろう。入っていける暖かい場所があり、ミルクを与える者がありさえすれば。彼は、自分で扉を開けたわけではなかった。
 にゃーんと遠くでまたクロが鳴いている。その声はだんだんと遠ざかり、やがて聞こえなくなり、ふたたび水滴がステンレスを叩く音だけが大きくなった。孤独な音だ。薔子は無駄だと分かっていながらも、蛇口を強く締めた。しかし、水滴は止まらない。蛇口の丸い輪にぷくっと水は膨れあがり、次第に下へと垂れさがり、やがて張力の均衡を破って落下する。そしてまた輪には水が膨れあがってくる。薔子はその水滴の表面に女の顔が映っていることに気がついた。妙に歪んだ、輪郭のはっきりしない顔。それはどんどん膨れて蛇口に垂れさがり、いよいよ輪から離れようとするその瞬間に、水滴から飛び出して薔子の前に姿を現した。陽炎のようにゆらゆらと揺れている女。その顔は確かに薔子だった。だが幼い薔子のようでもあり、老いた薔子のようでもあり、薔子自身にもよくわからない薔子である。陽炎の薔子は、ゆっくりと口を開いた。
“あたしは、どっか扉が開くのを待ってたんだよ。そうだろ、よーく思い出してごらん。こころのずっと奥で、無意識のうちに待ってたんだ。あたしは退屈で退屈でどうしようもなかったからね。でも自分で何かをやろうという気力はありはしない。
 あたしはあたし自身の無意識をみんなしってる。あたしは無意識そのものなんだから。あたしの意識が忘れてることも、あたしはしってる。みんなしってる。あたしがあの時、赤い絵具を絵の中の女の目の下に塗ったわけも、武夫から逃げたわけも。いまあたしがこんな馬鹿なくらしをしてるわけも。でもあたしの意志は気づいていない。でも、教えてやらない。それはあたしの意志でしらなければいけないこと。あたしは時々ヒントをここから押し出してあげるだけ。それでもあたしの意志はだんだんあたしに似てきてる。あたしがこんな日陰の暮らしから抜け出せるのも、きっともうすぐだ”
 陽炎の薔子は、不敵に笑うと闇の中に退いていった。
「待って。待って、もっと教えて」
 叫んだが、無駄だった。水が、だだだっとまとめて三滴ほど落ちた音がやけに大きく響いて、薔子は飛び上がった。それが終わると不思議なことに、いくら締めても止まらなかった水滴がしばらく音を止めた。しーんと夜の音が拡散していった。そして夜の音が部屋中に広がった頃、扉の外でかさこそと密やかな物音が聞こえた。クロが帰ってきたようだ。薔子は扉を細めに開けて、クロが入ってくるのを待ったが、しばらくしても入ってくる気配はない。薔子は細い隙間の向こうの夜に向かって声をかけた。
「クロ、クーロ」
 答えは無かったが、確かに気配は感じられる。
「クロ、はやく入っておいで」
 そう言いながら隙間から外を覗いた薔子は、夜の中に突然浮かびあがった白い手を見て、後ろへ飛びすさった。扉はゆっくりと開かれて、そこに一人の青年が幽鬼のように立っていた。目の下に赤い痣があり、唇は切れて流れた血がこびりついていた。
「あ……」と薔子が声を出したか出さないかのうちに、青年はがっくりと膝を突き、前のめりに崩おれていった。その振動が伝わったのだろうか。水滴がまた蛇口からぽたぽたと落ち始めていた。
 薔子は電灯のスイッチを入れた。闇に慣れていた目はすぐには像を結んではくれない。まるで夢から覚める時のような感じだ。
 床に投げ出された青年の手には、乾いた血らしいものに塗りかためられている。薔子はおずおずと倒れている青年に近付いていった。その時、階段の下から酔っぱらった女の歌い声が聞こえてきたので、薔子は青年の身体を引き込んで慌てて扉を閉めた。その行動は無意識のうちに行われた。やがて女の歌声は扉の前を過ぎ遠ざかり、しばらくして一番奥の扉のがしゃんと閉じる音とともに静まった。
 薔子は青年の側にしゃがみ込んでしげしげと眺めてみた。息はしているようだ。伏せられているまつ毛は長く、意志的な感じのする形のいい唇は赤みを帯びて結ばれている。短く刈ったうなじの若々しい線も目に快い。窶れてはいるが、美しい青年だ。薔子は青年の背中に手をかけ、ちょっと揺すってみた。
「あの、大丈夫ですか? あのー」
 その声に青年はうっすらと目を開けた。そして、満身の力をこめて起き上がろうとしながら、きれぎれに言った。
「……すいません。少し、疲れてるものですから。……ほんの、ほんの少し休ませていただけたら、すぐ出ていきます」
 青年は不自由そうに座り直すと、流しに凭れてまた目を瞑った。目の下の痣は殴られたかぶつけたかした跡らしい。倒れた時にまた傷が開いたのか、唇からはまた新しい血が流れ始めていた。薔子はタオルを濡らして差しだしながら言った。
「血が出てるわ。これでお拭きなさい」
 青年は目を開けてタオルを認めると少し微笑んだようだった。
「すみません。御迷惑かけて」
 青年は素直にタオルを受け取ると、顔を痛そうに歪めて血を拭き取った。
「手も」
 薔子は命令口調になっている自分が可笑しくなった。青年はぎこちなく笑みを作って言われるままに手も丁寧に拭いていた。だが、拭いているうちに青年の笑顔が次第にまた暗く沈んでいった。
「もういいわ。きれいになりました」
 薔子は不思議と快活な気分になって、青年の前に手を出した。青年はその掌の上にタオルを乗せ、薔子をじっと見つめた。澄んだ美しい瞳だった。
「すみません。電気消してもらえますか」
 薔子はその言葉にたぶん、少し驚いた顔をしたのだろう。青年は続けて、慌てたように付け足した。
「……いや、あの、へんな意味じゃなく、ちょっと、あの、眩しいので」
 薔子はその慌てぶりに思わず笑ってしまった。久し振りの笑いだった。
「いいわ。私も眩しかったの」
 スイッチを切ると、部屋はまたしんとした闇に包まれた。薔子は青年をキッチンに置いたまま、窓辺に戻ってまた座りこんだ。青年の深い溜め息が聞こえてきた。
 しばらく、二人はお互いの場所で黙りこくっていた。――どのくらいたっただろう。沈黙を最初に破ったのは青年のほうだった。
「……電気、最初から点いていませんでしたね。誰もいないのかと思ってたから、あそこの洗濯機の陰に隠れてたんです。他人に迷惑かけたくなかったから、少し休んだら移動しようと思って」
「誰かに、追いかけられてるの?」
 その問いに青年は答えなかった。代わりにぽつりと別のことを言った。
「クロって、猫?」
「そう。でもクロのかわりにずいぶん大きなのが転がり込んできたけれど」
「心配しないでください。俺、すぐ出ていくから。本当にすいません……」
 今度は薔子が答えなかった。青年ももう何も言わなかった。眠ってしまったのかもしれない。薔子は押し入れから毛布を出して、キッチンへと歩いていった。外から入る薄明かりの中に、青年が流しの下の物入れに寄り掛かって膝を抱えて目を瞑っているのが見えた。疲れているのか眠ってしまったようだ。幾つくらいなのだろう。寝顔にまだあどけなさがうっすらと残っている。薔子は毛布を着せかけると、その場に座って青年を見つめていた。唇からは、またうっすらと血が滲み出していた。薔子は、その血を指で拭ってやった。指の先は赤い色で彩られた。
“今度はそれをどこに塗る? カンバスはどこにもありはしない。もう彩る場所はないんだ。今度はどうする? どうするつもり?”
 薔子の肩に手をかけて、薔子の無意識が囁きかける。薔子は赤い指先をじっと見つめている。その鮮やかな赤は次第に乾き、やがて色褪せてしまうだろう。
“乾かないうちに決めなけりゃ。これが最後かもしれないよ”
 と無意識の声が幾重にもこだまする。そのこだまの向こうから、憂鬱な瞳をした二十一歳の薔子が幻のように立ち現れてきた。

「あ、俺砂糖いらないよ」
 ラフ・スケッチから目を上げて、武夫がとがめるように言う。
「あら、だっていつもは甘いのがいいって」「……いつも甘いのがいいとは限らないだろう。今日は苦いのが飲みたいんだよ」
 また我が儘病が出た、と薔子は思った。作品がうまくまとまらないのだろうと自分をなだめて、薔子は黙って苦いコーヒーを入れる。香ばしい香りが部屋いっぱいに漂っていく。その間も武夫は、ラフ・スケッチを描いては破き、また描いて、を繰り返した。
「はい。御注文の苦いコーヒー」
 薔子は出来るだけ優しい声を出して、カップを机の上に置いた。
「ああ……」
 そう呻くように言って、武夫は薔子の顔をじっと見上げた。
「君は、お上品だね」
 皮肉っぽい微笑みを浮かべて武夫が言う。
「俺には君がよく分からんよ。君は優しい。君は親切だ。だけどそこから先が見えない。一体、何を考えてるの分からないんだ」
 薔子は驚いて、武夫を見つめた。
「え? 一体、何が君の望みなんだ?」
「何って……。あなたがいい仕事をできるように、それだけだわ」
 武夫はしばらく薔子の顔を見つめた後、少し唇を歪めてまたスケッチ・ブックに目を落とした。
「いい仕事か。結構だ。じゃ、その耐えてます、という顔はやめろ」
 そう言いざま、武夫はいきなりスケッチを破いて捨てた。薔子はその後ろ姿を茫然と眺めながら、その心外な言葉に唖然としていた。仕事がうまくいかないための八つ当たりにしては酷すぎる。薔子はいつだって武夫のいいように考えて振る舞ってきたではないか。武夫の負担にならないように、武夫のためになるように。そう考えていくと、自然に涙が溢れてきた。しかし、大声で泣くわけにはいかない。武夫の邪魔になる。薔子は静かに泣き出した。
「……泣く時は大声で泣けよ」
 武夫が苛々したように言い放った。

“私、本当にどうしたらいいかわからない。どうしてあの人が苛々しているのか”
 二十一歳の薔子は、濡れた瞳で言った。薔子はその内部にあって、もやもやとした気持ちを共有する。しかし薔子のそれは、武夫とのいさかいによる不快感ではない。吐き気がするようなもどかしさである。気持ちが擦れ違うというような哀しさとは違う、もっと乾いた満たされない哀しさだった。だがそれは、あの絵に色を塗った時からすでに芽生えていたようにも思われる。
“あたしは頽廃が好きなのさ”
 無意識の声が囁いたような気がした。
「え?」
 薔子はもう一度、その声を聞き取りたいと思ったが、もう声は聞こえてはこなかった。
「はい?」
 青年がその声に答えた。寝惚けた声だった。
「何か……言いましたか?」
「いいえ。ごめんなさいね。起こしてしまったわ」
「……毛布、ありがとうございました。俺、行きますから」
 青年は、毛布をきちんとたたんで持ってきながら言った。そして正座して頭を下げた。
「御迷惑かけました」
 その時、扉の外でがたりと音がした。青年は身を固くして、音の方をうかがった。薔子はとっさに押し入れを開けて、青年を中に押しこんだ。そうしてから、そっと扉の方へ近づいていった。扉に耳を当てて、外の様子をうかがう。がさごそという音は続いている。一分たち、三分たち……十分が経過した。この時間の間、薔子は何も考えなかった。ただ音を聞き分けるために神経を集中して。それは何と充実した時間だったろう。緊張がぴんと張りつめて、薔子をしっかりと支え続けていた。
 音は次第に小さくなって、やがて咳払いのようなワンという鳴き声を残して遠ざかっていった。薔子は一気に緊張が解けて、へなへなとその場に座り込んでしまった。そして、押し入れの中に息をひそめている青年のことを考えた。あれはどういう青年なのだろう。誰かに追われている。いったい何に? 異常な状況に置かれた闖入者であるのに、まるで目上の者を訪ねてきたように礼儀正しいではないか。あの神々しいまでの瞳を持つ者を追うのは、いったい何者なのか、と。まるで彼の肉親にでもなったように、熱っぽく考えた。
 薔子はややして立ち上がり、押し入れの前にたたずんだ。
「大丈夫よ。犬だった」
 青年は、ゆっくりと押し入れを開けて出てきた。恥ずかしそうに目を伏せて。
「……すいません。いろいろと」
 言って青年は目を上げた。その瞳の無垢な光が落雷のように心の中に落ちてきた。守らなければ、と薔子は思った。この青年の今を、今この時を。
「もう少し、いた方がいいわ。少しほとぼりがさめるまで」
 薔子はきっぱりした声で言っていた。青年は少し驚いたように薔子を見上げた。
「いいえ。ここが見つかったら、あなたも巻き添えをくう。いけません。俺は一人で死ななければいけないのです」
 青年は哀しそうな瞳で言った。だが薔子はなおも重ねて言った。
「いいわ。私も死んであげる」
 それは、薔子にとっても思いがけない言葉だった。がそれはまた、快い酩酊を誘う言葉でもあった。青年は深々と頭を下げた。まるで、女神にでも拝礼するように。
 青年と薔子はそれぞれに毛布にくるまって部屋の端と端に転がっていた。
「あなた、名前は?」
「てつお。てつは一徹の徹、おは英雄の雄、です」
 青年は律儀にそう答えた。
「私は薔子。薔薇の薔という字を書くの」
「綺麗な名前ですね」
 薔子は、武夫に初めて名前を教えた時もそう言った、と思い出して思わず微笑んだ。
“綺麗な名前だなぁ。いいなぁ、やっぱりカーマインを塗ってくれた人だけあるなぁ”
 腕組みをして、天を仰いで、やたらと感心している武夫が可笑しかった。
“シに誘われるような……”
 とその時武夫は続けた。薔子は幸福の始まりに酔っていたために、その言葉の真意を汲み取ることができなかった。シは詩だろうと思っていた。だが、はたしてそうだったのだろうか。
「僕の死を見取ってくれる人にふさわしい……」
 徹雄の言葉に薔子の回想は急に現実味を帯びて立ち上がってきた。武夫は、何を期待していたのだろう。そして、薔子は何を待っていた、いやいるのだろう。
 二十一歳の薔子が闇の中からまた浮かんできて、薔子の上にのしかかった。
“私、もっと考えたの。どうしたら武夫のためにいいのか。武夫のためになれるのかって。だって私、武夫を失いたくないの。私には武夫しかないのよ”
 二十一歳の薔子が、中にゆっくりと侵入してくる。

「あなたの絵、私好きよ。誰が何といっても好きよ」
 誰が理解しなくても、自分だけは分かると信じていた。
「これの、この絵のどこがいいっていうんだよ。言ってみろよ。君は何もわかっちゃいない。オットーの物真似じゃないか。だれもが知ってるよ。俺がオットーの亜流だって。俺の絵はどうしようもないよ。めちゃくちゃだよ。俺が、うまくいったのは、あの絵だけだ。君が塗った、あの絵だけだ」
 何をやっても、何を言っても、武夫の心を逆撫でする。              「……私、いないほうがいいのね」
 薔子はぽつりと言った。武夫は答えない。
「私はあなたをだめにしてしまうわ」
 言うなり薔子は、発作的に机の上のカッターナイフを刃を取り上げ素早く手首を切っていた。みるみるうちに鮮やかな赤い液体は溢れ出し、ばたばたと畳に滴った。綺麗だと薔子は思った。手首は熱く燃え、時間が凝縮されていくようで気が遠くなった。何だか気持ちが良かった。武夫が青い顔をして抱きとめ、とっさにその辺にあったタオルをぐるぐるときつく巻きつけた。
「馬鹿なことを! 馬鹿な……」
 武夫は呟きながら、血の気のない顔で薔子を抱き締めていた。
「私にはあなたしかいないわ。親も友達もみんな捨てた。……あなたしかない」
 武夫の唇が震えた。が言葉にはならなかった。黙々と武夫は傷の手当てを始めた。血の量にしては傷は浅かった。薔子は他人事のようにぼんやりとそれを見ていた。転がった血塗れのタオルが眩しかった。

「……さん?」
 徹雄の呼ぶ声に、放心した二十一歳の薔子は引き剥がされていった。
「薔子さん……眠ってしまいました?」
「……いいえ。ちょっとぼんやりしてただけよ。なぁに?」
「薔子さん、兄と同じくらいかと思って」
「お兄さんと? 二十九よ」
「やっぱり同じ歳だ。だけど兄はもう歳をとりません。いつまでも二十九のままだ」
「……亡くなったの?」
 徹雄は少しの間、躊躇うふうに黙っていた。そして、思いきったように言った。
「殺されたんです」
「……殺された……?」
「女の人と一緒に兄は死にました。心中……と警察の人も言ってました。でも、結局は殺されたも同じです」
「……殺、された……」
 薔子は呻くようにもう一度呟いた。

 床に流れる夥しい赤い液体。血溜まりの中にうずくまる男。その青白い顔はもう目をし開けることはない。少しづつ床を這って広がっていく血潮の中に女はじっと座り込んでいる。やがて女は、男の手に握られた細い銀色のナイフを取り上げ、ゆっくりと自分の白い手首に当てる。ぐっと力が入って白い皮膚は無残に切り裂かれ、血が真っ赤な花びらとなって辺りに散っていく。女の血はとめどなく滴り、男の血と混じりあって、やがて一つの流れをつくり始める――。
 また一瞬、薔子の認識は空に浮いたようだった。がそれも、青年の静かではあるが意志的な声に引き戻された。
「僕は、兄のようにはなりたくなかった。精神から衰弱して、死んでいくのはまっぴらだと思っています。そう、今も今この瞬間にも」
 その時、闇の中にいるどれかの薔子が、その言葉にぴりっと反応したのを薔子は感じた。いや、どれかではない。薔子という薔子がすべて、感電したようにその心を震わせている。今、ここに存在している薔子自身でさえも。“間違っていたのかもしれない”
 無意識が、澱んだ声で言った。
“はじめっから間違ってたのかもしれない”
“いいえ! 間違ってなんかいやしないわ。今の、私の気持ちが間違ってるはずはない”
 無意識の声を激しく否定したのは、十九歳の薔子だった。
“私は武夫になってしまいたいくらい、好きなのよ。あの人自身になって、あの人の絵を一緒に描き、あの人の喜びを一緒に受けて、あの人の哀しみで心を切り裂かれる。そうなりたいくらい、愛してるんだわ”

「私、あなたが好きだわ」
 薔子は、武夫の目を真っ直ぐに見て告白した。
「命を賭けてもいいくらい」
 武夫は眩しそうに一、二度まばたきをして薔子の顔を見つめていた。そうしてから、少し冗談めかして言った。 
「俺にその命をくれるっていうのかい?」
「真面目に聞いてくれないの? あなた、もうそんなことなんて分かってると思ってたわ」
「……うん、分かってる。君があの絵に色を塗った時から分かってたような気がする」
「でしょ。あなたは私の命も使っていいのよ。人の二倍も生きられるわ」
 薔子は武夫の言葉に満足していた。自分なんて犠牲になってもいい。武夫がそれでいきいきと生きていければそれでいい。そんな気持ちだったのだから。
「でも君、あまりそんなことを考えないほうがいい。俺も、君も、一緒に同じ時間を生きていくんだって考えたほうがいい。そのほうが前向きだろう」
 武夫の言葉はいかにも分別臭かった。薔子は口を尖らせて抗議した。
「いいわ。あなたったら、ちっとも私の気持ちを分かってくれないんだ」
 武夫は尖らせた薔子の唇をひょいとつまんで、笑っていた。
「わかった、わかった。つまり君は情熱的なんだ。とてもね。よし、その情熱が吉と出るか凶と出るか、薔子クンの腕のみせどころだね」
「あなたは? 私を、好き?」
 薔子はきらきらした瞳で言った。武夫はその瞳をじっと覗き込みながら、低い声で答えた。
「あの絵を、信じるよ」
「それじゃ答えになってないわ」
武夫は苦笑しながら、言った。
「もちろん、好きだ」

“その気持ちが嘘じゃないことは、私が保証する。確かに完璧だ。あの愛情は完璧だったさ”
 無意識が、十九の薔子に向かって嘲笑するように言い放った。
“十九のあたしは、気がついてない。気配に恋をしているだけだ、と。実体のない空想に恋をしているのだ、と。もちろんその気持ちは真実だ。だが、武夫に対する真実じゃない。今のあたしならその意味が分かりかけてるはずだ。そうだろう?”
「僕は、僕の意志で、生きて、死ぬ。誰の意志でもなく、僕の意志で」
 徹雄の声が闇を凛然と貫いた。その潔い響きに、無意識も、十九歳の薔子も、みな押し黙ってしまった。
 夜気に包まれた静けさが部屋を支配していた。私は一体、何が欲しかったんだろう、と薔子は考えていた。武夫に何を欲していたんだろう。『カーマイン、あの真っ赤な絵具』そう薔子は武夫に答えた。何故そんなものが欲しかったと答えたのだったろう。
 徹雄の規則正しい寝息と水の音、そして僅かばかりの街灯の明かり……薔子の意識がだんだんぼんやりしてきた。眠っていくのだ、と薔子は思う。だが、闇に潜むたくさんの薔子は眠りはしない。夢の中にも容赦なく侵入してくるのだ。
 夢の中にもぞもぞと入り込んできたのは、随分と幼い薔子だ。七歳の薔子は、可愛らしい刺繍の入ったブラウスを着て、赤い襞スカートを風にひらひらさせている。真っ直ぐに切り揃えたおかっぱが、風にいいようになぶられている。七つの薔子は怒っていた。
“帰るなんて、だめよ。帰っちゃ、だめ”

「だって、もう四時半だもの。だんだん暗くなってくるし。帰らなくらゃ。お母さんとそう約束したんだ。薔ちゃんのお母さんだって心配するだろ」
 半ズボンのポケットに手を突っ込んで、困ったように卓郎が言う。
「卓ちゃんのウソツキ! いい、一人で行くから、いいもん」
 そう言いざま薔子はもう歩き出していた。美しい沼。夕暮れになると夕焼けの色を映して時と共に五種類の紅に変わるという沼。それをはじめに見つけたのは卓郎だった。
「夕方になるとね、沈むお日様の色と同じになるんだよ。なんて言っていいのかわかんないくらいの、真っ赤な色になるんだ」
 卓郎の、多分に夢見がちな性格からその沼はことさらに美しく薔子に伝えられた。薔子の空想力が、それをさらに幻を見るような心地にまで膨らませた。そして、二人の子供は秘密の地図づくりに熱中した。二十四色のクレパスを存分に使って、秘密の記号を書き込み、道を塗り、森を描きして。
 だが卓郎はなかなかその沼へ連れていってはくれない。
「いつか、きっとね」
 じらすように微笑むばかりだ。
「いつかって、いつ?」
「うーんとねぇ、えーとねぇ。そうだ、雨が降ってからぴったりやんで、夕焼けがすごーく真っ赤になった日にしよう」
「どうしてそういう日がいいの?」
 薔子の問いに卓郎はもったいをつけて言う。
「そういう日のほうが絶対綺麗だと思う」
 ……そしてその日がそういう日だった。
「待ってよ、薔ちゃん。今日は危ないかもしれないよ。あんなに雨が降った後だし、きっと道が滑るよ」
 卓郎はどんどん歩いていく薔子の後を追いかけながらそう言い言いしていた。
「だって卓ちゃん、言ったもん。雨が降ってやんだ後に夕焼けになった日って。見て、ホラ、夕焼けになってくよ」
 卓郎は諦めたように薔子の後ろからとぼとぼとついていた。
 蛙の鳴く田圃を横切って、疎らな林を抜けて、低い丘を越え、茂みを踏み渡って行くうちに、空はどんどん赤くなっていった。やがて、クレパスでは茶色で描いた廃屋の横を右に曲がって細い小道を草を分けて進んでいくと視界が突然に開けた。そこには、蒲の穂や葦の繁った小さな沼があった。
 何の変哲もない、ただの沼だった。夕日を水面がわずかに受け止めてほんのりと赤く光っているだけの、きわめて平凡などこにでもあるような沼だった。
「卓ちゃん。ほんとはここじゃないんでしょう? 私を騙してるんだ」
 薔子は怒りを含んだ目で卓郎を見上げた。卓郎は何も答えずに、悲しい目をして薔子を見返していた。
「卓ちゃんってば。ほんとにウソツキなんだから」
 卓郎は物も言わずに、その澄んだ瞳から大粒の涙をこぼしていた。子供に似合わない、静かな涙だった。薔子は驚いて卓郎を見つめていた。何で泣くのだろう。嘘をついたのは卓ちゃんの方なのに。
「卓ちゃん、卓ちゃん」
 薔子は名前を呼びながら、だんだん心細くなってきた。声が涙声になってくるのが分かった。卓郎が卓郎ではないような、卓郎が違う世界の者でもあるような、何とも形容のしがたい哀しみだった。薔子は卓郎のシャツを握りしめて、ついには大声で泣き始めていた。
「薔子さん! 薔子さん!」
 薔子は激しく揺すぶられて、ようやく夢から覚めた。徹雄の顔が薄明かりの中に白く浮かび上がっていた。真剣な表情だ。
「あ、あたし……?」
「大丈夫ですか? 急に大声で泣き出すから驚きました」
「夢、見てた。ちっちゃい頃の夢。そのつもりで泣いたんだわ。やだな、恥ずかしい」
「俺なんて、しょっちゅうありますよ。昔のことを夢に見て泣いちまうなんてこと。秘密ですけどね」
 徹雄はそう言って、微笑んだ。そうすると思いつめたような表情が、急に幼い無垢な印象になる。
「……もう大丈夫ですね。俺、向こうに行きますから」
 側を離れようとする徹雄の手をいつしか薔子は握っていた。
「いいの。ここにいてよ」
「でも……」
 徹雄は少し困ったように口ごもっている。「お願い。部屋の中に人の温かみがあるの、久しぶりなの」
 徹雄は黙って毛布を取りに立ち、薔子の隣に丸まった。白檀のような、いい薫りが鼻孔をくすぐった。徹雄から立ち昇っているようだった。白檀の香は空気を清めるといわれている、と何かの本で読んだような気がすると薔子は思った。
“あたしはちっとも変わってない。今も昔もあたしはあたしだ。あたしはあたし以外の何にもなれない。いくら考えても、あたしはあたしの中にしかいない。あたしという螺旋階段を昇っているだけ”
 無意識が耳元で囁く。がその示唆は、薔子には理解し難かった。
「誰に、誰に追われているのか、聞いても構わない?」
 薔子は無意識の声に取り合わずに、徹雄に向かって問いかけた。徹雄はごそごそと寝返りを打っただけで、しばらくは答えなかった。
「ゾンビ、かな」
 ぼそっと徹雄が言う。
「腐りかけた死人たち。そう、彼らはもう死んでいる。生きているつもりでいるだけなんです。知らないうちにそうなってしまった可愛そうなやつらです。仲間だったのに、いつの間にかゾンビになっちまってた」
 徹雄の声は震えていた。泣いているのかもしれない。が、その顔は暗闇の中に溶けてよくわからなかった。薔子は徹雄の手をそっと握った。冷たい手だった。
「……薔子さんの手、あったかい……」
 徹雄は両手で薔子の手を包みこむようにして握り返してきた。冷たい手は薔子のぬくもりを受け取って、次第に温まっていくようだった。手にかかる徹雄の息がだんだんに規則正しくなり、やがて寝息に変わった。
 クロの帰ってくる気配はない。どこかの雌猫に誘われて、ふらふらと付いていってしまったのかもしれない。あの雨の日、クロは覚ましたミルクを美味しそうに飲み干した。そして、部屋の真ん中に座り込んで身体中を舐め始めた。やがて大欠伸をして、そろそろと薔子の膝元まで歩み寄ってきたのだ。薔子は恐る恐る彼の頭を撫でてみた。ぐるぐると音を立ててクロは目を細めてされるがままになっている。耳が切符切りでぱちんと切られたように破けているのが痛々しかった。冷たい、雨の匂いのする毛を指の先で弄んでいるうちに彼はひょいと薔子の膝の上に乗ってきた。膝の上に、少し重い温かみがわだかまった。たぶん、クロの方でも温かさを求めての行動だったのだろう。偶然開いた扉から入り、偶然にあったミルクを与えられ、そこにいた人の体温を受け取る。自分ではなにもしない。たまたまそうした状況がそこにあった、というだけなのだ。薔子は、警戒心もなく膝に乗ってきた猫に確かに親しみを持った。ぐるぐると甘えた声を出す、この小さな生き物に興味と打ち解けた気持ちとを持った。だがこれもまた、彼が偶然に入ってきたからであり、自分から働きかけて得た感情ではない。
“運命の力だもの。自分ではどうしようもない力が働いているんだわ”
 十九歳の薔子が闇の中から叫んでいる。
“それが運命っていうもんだわ。運命が私に絵具を塗らせたのよ”
“それじゃ、あたしは運命ってわけか。運命の女神は自分自身の中にいるってわけか。十九のあたしは無意識であの絵具を塗った。つまりあたしが塗らせたのだ。あたしは今、無意識の内に徹雄の手を握った。これも運命ってわけか。いや、あたしが握らせたのだ。この意味をよくかんがえるんだ。さぁ、かんがえるのだ”
 無意識が薔子の意識を揺さぶっている。すべての薔子を揺さぶっている。十九の薔子は耳をふさいでうずくまる。薔子は徹雄の手を離そうとする。しかし徹雄は両手でしっかりと握りしめており、離れない。
「もう、もうしばらくこうして握っていてください。お願いします」
 徹雄の声が薔子を引き止める。薔子は何かを言おうとした。徹雄の手を振り解いて何かを言わなければいけなかった。しかし薔子がその言葉を発する前に、徹雄の熱い唇が薔子の唇をふさいでしまっていた。まるであの時の薔子のように。一瞬空に向かって抗うように開かれた薔子の手は、次第に力を失い徹雄の背にぱたりと落ちた。薔子は忘れてしまった。何を言おうとしていたのか。とても大切なことだったのに、転がる珠のように掌から離れて、ぽっと赤く燃え上がったかと思うともう闇の中に沈んでしまった……。閉じられた目の裏にその赤い色がしばらくたゆたっていた。それは、カーマイン、その色だった。
 唇を離して徹雄は慌てたように身体を離した。
「……すいません。こんなこと……会ったばかりなのに。許してください。でもこれは今の僕の正直な気持ちです」
 薔子は倒れた姿勢のまま、目を瞑り続けていた。すぐに目を開けてしまいたくなかった。
「いいの。気にしないで……」
 薔子は答えた、目を閉じたまま。それは、目を瞑ってしまうと自分が消えたと思い込む子供の心理にも似ていた。目を瞑っている間は、時がゆっくりと流れを止めていくように思われた。あたかも、死んでいくかのごとく。
 徹雄の体温が、閉じた世界から緩慢に染み入ってきていた。不快ではなかった。それは哀しいほど甘く薔子の中に広がっていった。“私、証が欲しかったの”
 甘いたゆたいの中で、二十一歳の薔子も、またたゆたっていた。

「二人が一つである証が欲しいの。だから、お願い」
 それは血塗れのタオルを見ていた時から考えていたことだった。薔子の血は鮮やかだったけれど、何かが足りないような気がした。
「そう、私の血とあなたの血を絵具に混ぜるの。きっとカーマインはもっと美しく、神秘的な色になって生きるわ。永遠に、私達が死んでしまっても」
 武夫は少し脅えた表情になった。そして、自分を落ち着かせるかのように急いで煙草に火を点けた。指先が少し震えていた。
「君はあまりそんな事ばかり考えてちゃいけない」
 低い声で言い聞かせるように武夫は言った。
「君は俺じゃない。そして俺は君にはなれない。二人は別々の人間なんだ。君は君として生きていればいいんだよ。俺になる必要はない。君には君の生があり死がある。君は俺にありのままを見せてくれればいい。俺のために君の二十一年を無駄にすることはない」
 武夫は諭すように言う。
「私の二十一年なんて取るに足らないものよ。だからあなたと暮らそうと思ったんだわ。あなたの生を私も生きる。あなたの死を私も死ぬ。それでいいのよ」
「……そんなの重た過ぎる。俺には重いよ。俺はこの頃君が怖い。俺も君が好きだ。離れて暮らすなんて考えられないさ。でも、何だか恐ろしいんだ。君の存在が重すぎるよ」
 武夫は頭を抱えて机につっ伏してしまった。その背中は付け入る隙を与えない。薔子は恐ろしく深い淵を覗き込んだ時のような、形容しがたい恐怖を覚えた。深淵から吹き上げてくる風はうそ寒く、言いようのない孤独を思い知らされる。
「君なら……君なら俺のことを分かってくれそうだって、あなた言ったわ。あの絵に色を塗った時、そう思ったってあなた言ったわ。あれは嘘だったの?」
 薔子はがくがく震えながら叫んだ。
「嘘じゃない。嘘じゃないけど違う。何かが違ってる。君は俺になりたいと言う。けれど君は俺になろうとはしていない。俺を見てはいない。君が愛してるのは俺じゃない」
 頭を巡らして、武夫は薔子を見た。その目はまるで気味の悪いものでも見るようにおどおどしていた。……薔子は叫び出していた。いけない、そんなことを言ってはいけない。他ならぬ武夫が、薔子を絶望の奈落へ突き落とそうとしている。そんな、そんな恐ろしいことが……薔子は側にあったペインティングナイフを握って立ち上がっていた。嘘よね、そんなの、これは夢よね。私が怖いなんて、嘘うそ。悪い夢だわ。叫びながら薔子はナイフの先を向けて突進した。武夫の驚いた顔が目の前にあった。ナイフの先が身をよじった武夫の、頬の皮膚を薄く切り裂いた。武夫はその手をとっさに捕らえ、ナイフをもぎ取っていた。押さえられた薔子の腕に、武夫の血が滴って流れ落ちた。溶かされたカーマインのように。

 薔子は目をいっぱいに見開いた。甘い感覚は霧散していた。
“これはあたしからの警告さ”
 と無意識が言った。徹雄の体温ももう遠ざかっていた。薔子は身を起こして、居住いを正して座り直した。窓から入る薄い明かりの中に、膝を抱えた徹雄の影があった。窓の外をぼんやりと見遣っているようだった。白いシャツが内側から仄かに明るんででもいるように薄闇の中に浮かびあがっていた。月が出てきたらしい。さっきより少し明るく感じられる。薔子の視線を感じたのか、徹雄が首を巡らした。目が合った。薔子は縋るように徹雄を見つめた。
「……やっぱりあなたは女神なんだ」
 と徹雄が微笑んだ。
「女神? 女神ですって?」
 徹雄はじっと見つめていた。月明かりに照らされてその顔は青白く見えたが、瞳だけは凛とした光りを闇に跳ね返していた。薔子はその光が自分を浄化しいくように感じた。そうであってほしいと願った。
「随分と薄汚れた女神もあったもんね……」
「あなた……綺麗です。とても綺麗だ。何をも恐れない魂を持っている。あなたは死んでくれると言いました。僕にはその言葉だけで充分だった。……僕はあなたを愛します」
 徹雄の声は静かに忍び寄ってきて、薔子をゆっくりと絡め取っていった。
「会ったばかりなのに……」
 絡め取られながら、それでも薔子は果敢ない抵抗を試みた。だがそれは、徹雄のきっぱりとした言葉にもろくも打ち崩されてしまった。
「会ったばかりだからこそ、そう思えるんです。……いいでしょう? そう思っても。いいえ、そう思わせてください」
 徹雄の言葉は熱い固まりとなって心の芯に深く切り込んできた。
「僕はもうすぐ追手の手にかかって殺されるでしょう。僕はあのままで腐っていきたくなかった。初めの頃のように、純粋で熱い思いを失いたくない。だから逃げたんです。同志を裏切って、死さえ覚悟して」
 薔子は痺れたようになって、もう抗うこともできなくなっていた。“あたしもそう言えればよかったのに……”無意識の声が頭の奥の方でかすかに響いていた。薔子の脳裏には、武夫の腕に滴った血の色が驚くほどに鮮やかに蘇って、それは次第に拡散して薔子を真っ赤に染めていった。
 薔子はカーマインに憑かれたように立ち上がった。徹雄もまた、月の光りの中に立ち上がった。薔子は優しく柔らかく徹雄の髪を弄んだ。
「やっぱりあなたは女神だ……」
 徹雄の瞳が、熱っぽく潤んできらきらと美しく輝いていた。
「逃げるのよ。どこまでも逃げるのよ。どこまでも……」
 薔子は熱病者のように呟き続けていた。そうだ、逃げるのだ。容赦なく流れていく時間から、そして武夫から。
 言葉の代わりに徹雄の熱い唇が覆い被さって、ゆっくりと絨毯の上に崩おれていった。
“俺、もう絵は辞める。いくら描いてもだめだって分かったからね”
 武夫が頭の中で微笑んでいる。徹雄の愛撫を受けながら、薔子は切れぎれに色々な場面を巡る自分を感じていた。
 武夫の愛撫は躊躇いがちで、不器用だった。しかしこの、徹雄の愛撫のぎこちなさとは違っていた。武夫は女もたくさん知っていたはずだ。ずっとずっと大人だった。それなのにひどく不器用に、ひどく遠慮がちに薔子を抱いた。あれは何故だったのだろう。ずっと気がつかずにいた。武夫がパトスを恐れているということに。それでいながら心の何処かでそれにひどく憧れているということに。
“いいや、あたしは気がついていたのだ。そのことに初めから気づいていたのだ。あたしは誘いこんだ。あの絵にカーマインを塗って、そのカーマイン色の蜜にふらふらと寄ってきた武夫を、誘ったんだ”
 無意識の声が聞こえたような気がした。しかしそれは、薔子自身の声のようにも思われたが、徹雄の激しい愛撫の前にそんな思いも次第に薄らいでいった。
“君は俺に何を望んでるんだ?”
 武夫の声が頭の中に幾重にも跳ね返ってハレーションを起こして消えていった。
「ああ……」
 薔子の口から、喘ぎ声が漏れた。徹雄は今パトスそのものだった。何もかもを忘却するために、熱く赤く燃え立っている。その情熱は、未来のない、今だけの果敢ないものだった。薔子は、徹雄の滾る血が薔子の中にあるカーマイン色のものと融合していく甘い夢を見始めていた。

「俺、就職決まったんだ。これからは君に心配をかけずに生活できる。こんなボロアパートもおさらばだ」
 武夫はそう言って微笑んでいた。淡々とした微笑みだった。
「これからはまっとうに暮らしていこうよ。家を買って、子供をつくって、平和で落ち着いた生活をするんだ」
 武夫がそう言い出したのは、あの事件があってしばらくしてからだった。武夫はあの事件を咎めなかった。非難することも、怒りを露にすることもなく、精神安定剤の力を借りて夢うつつの薔子をじっと見つめていた。
 夢と現実の狭間を行き来しているのか、薔子の目には武夫の顔とあの絵の女の顔が交互に浮かんでは消え、消えては浮かびしていた。

 薔薇色の衣装に身を包んだ女は、血の気のない顔で諦めたような微笑みを浮かべている。遠くを見つめる目、そしてその下の赤い色。やがてその乾いているはずのカーマインは内側から少しづつ瑞々しさを取り戻し、つやつやと輝きを増していった。そして段々に脹れ上がり張力に耐えられなくなった時、勢いよく一筋の赤い涙の後を残して溢れ落ちていった。涙の筋の先には、既に炎が女を舐めつくそうと青白い舌をちらつかせていた。

 武夫の右手には火のついたライターが握られていた。そして左手にはあの絵の描かれたボード。武夫はしばらくそのまま薔子のぼんやりした顔を見ていたが、やがて意を決したように素早くボードに火を付けていた。抗うようになかなか火は燃え移らなかったが、それも果敢ない抵抗であった。ぽっと音をたててボードは火を受け入れた。青白い炎はゆっくりと女の姿を舐め焦がしていった。

 女は薔薇色の衣装を激しく揺すって、狂ったように絵の中で踊り回っていた。幾重にも重ねられた薄手のダンシングコスチュームが咲き乱れる花のようだった。死のダンスを踊りながら、女の顔は次第に彩られていくように思われた。頬は薄薔薇色に、唇は真紅に、イヤリングはきらきらと金色の輝きを放っていた。くるくるとターンを繰り返しながら女の姿は炎の中に飲みこまれていった。

「俺ももう落ち着かなきゃね。もう三十五に手が届いてしまうから。君だってそう思うだろう? 君ももう二十二歳だ、そうだろ? もう終わりにしよう。夢は終わったんだ」
 武夫は黒い袋にぞんざいに筆やパレットや短くなったパステルなどを投げ込みながら言った。
「追いつめたの俺かもしれない。これからは君のことだけ考えて生きていくよ」

 これで良かったのだ、とその時薔子は思っていたはずだった。だがその時が不安の萌芽だった、と今になって思う。
“あたしもそこまでは計算できなかったよ。武夫があんなに強い意志を持った人間だったなんて、まったくの計算外だった”
 そう無意識が言った。薔子も同時にそう思っていた。
“あたしはようやく、日の当たる所に出られた。あたしはあたしに気がついた!”
と無意識が叫んだ。
“あれは、武夫が絵を辞めたのは、そして平和な暮らしを自分に課し、また私にも課そうとしたのは……”
 その言葉の後はもう薔子が受け取っていた。無意識の声と薔子の思いがぴったりと重なっていった。
「武夫の復讐だったのかもしれない」

 徹雄が内部に深く侵入してきた。薔子の身体は自然にのけぞった形になっていた。喉の奥から、低い呻き声が漏れ出していた。身体中にカーマインの液体が逆巻きながら駆け巡っていた。渦の中で薔薇色の衣装の女がくるくると回り続けていた。薔子は徹雄の身体を強く抱きしめた。今だけの重み、今だけの肉の存在を。ほどなく失われるであろう、その魂を。
 もう何も考えることはない。薔子の限り無い孤独な魂もまた同時に失われ、消滅するであろうから。
“ようやく私は解放されるんだわ。そうよ、今こそ解き放たれるのだわ”
 たくさんの薔子がいっせいにそうどよめいた。
“ようやく安らかに眠ることができるのよ” 闇の中のざわめきが次第に薄れ、溶けるように消えていった。

 事が終わっても、混じりあった汗が二つの身体を張り合わせていた。徹雄は薔子の胸に顔を埋めて、まるで幼児のように目を瞑っていた。あるいは、死の前のひとときの眠りを得ようとしているのかもしれなかった。時間の流れは完全に止まっていた。死が訪れるまでの空白な空間に漂っていると薔子は思った。煩わしい蛇口の音も聞こえなかった。クロの鳴き声もしじまに食われて、聞こえてはこなかった。薔子もまた目を瞑った。目の裏にはカーマインが満ちていた。武夫と別れた日、殴られながら見たと思ったのもカーマインだった。武夫はあの日、初めてパトスに支配されていた。
 武夫は薔子の上に馬乗りになって目茶苦茶に殴りつけてきた。手加減はなかった。殺意さえ感じさせる激しさだった。薔子は初めて武夫の昂りを感じていた。しかしすべては遅ぎた。それは燠火でしかない。ぶすぶすと燻ってやがてそれは白い灰になるしかない、老いた情熱だった。恐らく彼は生き続けていけるだろう。この老いた情熱をとろとろと小出しにして引きずることによって、この先何十も生きていくことだろう。それが武夫の強さなのだ。……武夫の振り上げた手の激しさはだんだんと鈍っていった。そして憑き物が落ちたかのように止まり、押し黙ったままふらりと立ちあがった。寒々とした背中が扉の中に消え、がちゃんという重い音をたてて閉じられた。
 薔子は冷たいコンクリートの感覚を体の下に感じながら、しばらく倒れたままでいた。目を瞑って、死体のようにじっと動かずに。それは武夫への最後のはなむけのつもりだったのかもしれない。
 徹雄はいつの間にか、柔らかな寝息をたてていた。息に合わせて上下する規則正しい動きが眠りを誘う。薔子もまた眠ろうと思った。消滅の前の静かな仮の死は、思う間もなく速やかに訪れた。

 薔子の丸々とした幼い手が、草むらを掻き分けていく。やがてそれは水辺の植物へと変わっていき、突然に視界が広がる。一面真っ赤に輝く沼が姿を表す。夕日を写し取り、それにきらめきという装飾を身に纏った美しい沼。木々も、蒲の穂も、水辺を彩る花々も、みな燃えていた。薔子も代赭色に染められて立ち尽くしている。
 薔ちゃん、と卓郎の呼ぶ声がする。薔子は首を巡らして声の主を捜す。
「薔ちゃん、ここだよ」
 卓郎は、沼の真ん中の水の上にたたずんでいた。薔子がその姿を認めたと知ると卓郎はにっこりと微笑みを投げてよこした。
「どうやってそこに行ったのぉ」
 薔子は叫ぶ。だが卓郎は微笑んだままゆっくり手招きをするだけだ。薔子は長く垂れた蔦に捕まって、用心しながら沼に足を踏み入れた。卓ちゃんに行けて、私に行けないはずはない、と思いながら。だがその途端蔦はもろくも切れて、薔子はとぷんという音をたて、沼の真っ赤な水の中に沈んだ。水泡をたてて、どこまでも沈んでいった。幻のように美しい沼に抱き締められながら。……水面の輝きがだんだん遠ざかって、やがて漆黒の闇に包まれていった。

 ……薔子は闇が次第に白んで来るのを感じた。それはだんだん光彩を増し、やがて目覚めが訪れた。薔子は夢を見ていた。現実の過去ではないまったくの夢を。それは薔子に確信を与えるのに役立った。すべての時間の薔子が消滅を始めている、という確信。過去の薔子がすべて消滅し尽くした時、薔子の昇華が始まるのだ、という確信。それは過去に向かって修正を加えることと同じだ。
 窓の外では雀が愛らしい鳴き声をたてて朝の訪れを知らせていた。薔子はこんなにも幸福な気持ちで目覚めた朝はこれまで無かったような気がした。明日のこの時間にはもう存在しないかもしれない、という感覚は何と甘い感情だったことだろう。薔子は目を瞑ったまま、この短い至福の時を思う存分味わおうとしていた。そして味わいつくしてしまう直前に目をぱっと開けた。高い天井が白々と明るみ、そこに何かの反射光がたゆたっているのが見えた。ゆらゆらといつまでも揺れて、美しいけれど不安定な不吉な感じを与える。薔子の中に急に不安が兆した。恐る恐る手を伸ばし、徹雄が眠っているであろう辺りをまさぐってみた。だが、手にはただ絨毯がちくちくと当たるだけだった。薔子は弾かれたように起き上がり、辺りを見回した。――徹雄の姿はどこにも見当たらなかった。薔子は体が小刻みに震え出すのを感じた。洗面所の方にいるのかもしれない、と立ち上がり洗面所の扉の前で声をかけた。……返事は無かった。扉を開ける。中には白い洗面台が鈍い光を放っているだけだった。
「そうよ、きっと煙草を買いにいったのよ」
 薔子は呟いた。
「今に、煙草の箱をたくさん持って帰ってくるわ。茶色の吸い口のいい匂いのする煙草。そうよ、もうすぐ帰ってくるわ」
 薔子はブラウスを羽織って窓辺にたった。太陽はまだ遠くのビルの後ろにあって見えはしなかったが、ビルの輪郭を金色に縁どってその存在を示していた。道路を隔てた家々の何軒かにはまだ玄関灯がついたままだったが、街頭はもう消えていた。薔子は朝の光に包まれ始めた道路を眺める。……犬の散歩者が走って過ぎていく。……新聞配達のバイクが疾走していく。……ジョギングの男が通っていく……その後は何も来ない。何者も通らない。その時、薔子の手が何かの触れ、それは落下して床の上に割れて飛び散った。水中花の硝子器だった。温んだ腐りかけた水が絨毯に染み込み凄まじい匂いを立ち昇らせた。真っ赤な水中花が色褪せて萎れていた。薔子は叫び声を上げていた。いやいやをしながら、後ずさりし、玄関の扉に背が届いた。薔子は扉を開け放った。眩しい光が一瞬の眩暈を誘い、薔子の中の時を目茶苦茶に掻き乱していった。
 ……ニャーという甘えた鳴き声が聞こえ、日向くさい毛の固まりが足に触れた。薔子の目に、床に転がった血塗れの白いタオルが映っていた。
「ああ、あれは私の血? それとも武夫の?いいえ、徹雄の?」
 薔子はタオルの方へ近付いていき、それを取り上げた。途端、薔子は驚いてそれをまた床に落とした。鈍い音がしてそれはまた床の上に静まった。白い鳩だった。薔子は鳩の血に染まった手を見つめた。
「カーマインね。とっても綺麗……」
 薔子は血塗られた手のままドレッサーの前に座り、にっこり微笑んでみた。
「なんて色のない顔かしら」
 呟きながら薔子は、真っ赤な指で目の下に隈取りを描いた。
「とっても綺麗よ」
 クロがごろごろと喉を鳴らしながら、丁度陰毛に当たる部分にうずくまった。
 鏡の中で、虚ろな目をした女が赤い隈取りだけを鮮やかに際立たせて、微笑んでいた。
                      (了)
『カーマイン邪色』向山葉子
〔第一稿〕
起筆・平成元年一月
擱筆・平成元年八月
〔初出稿78枚〕
改定・平成七年十月
【初出】『日&月』第二号・一九九六 夏(平成八年七月発行)
(C)1989-1995 Mukouyama Yoko

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