私と9年目の彼氏。
短め一人称。
私の彼氏は妙に形から入りたがるタイプだ。25歳の誕生日に車で夜景の綺麗な高台まで連れ出された私に、彼氏は小さな箱に入った指輪を差し出す。
「お姉さん、俺と結婚してください」
真剣な顔をして向かい合う彼氏に、私はにっこり笑ってみせた。
「嫌だよ、死ねば?」
私の彼氏、水神祐樹は浮気をしている。いや、私が浮気相手だ。しかも本命は私の弟。
弟の中学の同期生だった祐樹は頻繁に我が家に遊びにきて、週2で夕食を食べて帰り、月一で泊まり込む程入り浸っていた。弟たちの中学卒業が間近に迫った冬に、祐樹から告白された。私は歳の割に大人びた祐樹を好ましく思っていたし、頻度の高いお泊りも私目当てか、と自惚れもした。付き合っていれば情も湧くだろうと深く考えずに告白に応じた私は馬鹿だ。
弟はそれなりに偏差値の高い公立へ、祐樹は中堅所の私立へそれぞれ進学した。私が通っていたのが女子高で会えないからと、祐樹は以前に増して我が家に入り浸りになった。母親は祐樹を婿扱いし、ほくほく顔で世話を焼いた。進学した途端すくすく成長した祐樹は見た目も中身も立派な好青年で、ミーハーな母はすっかり祐樹の味方だった。
祐樹は付き合っていても私にキスすらしなかった。これを初だと微笑ましく思っていた私をタイムマシンで今に送れ。目を覚ませと殴ってやりたい。
なぜいつまでも手を出さない。なぜいつも弟の部屋に泊まる。なぜ私を「お姉さん」と呼ぶ。
簡単だ。私は絶好の隠れ蓑で、恋人の「お姉さん」でしかなかったのだから。
そんなママゴト恋愛を数年続け、私は商社のOLの座に収まり、祐樹はメーカーの営業に就職した。私にとって祐樹は既に「家族」であり、もう一人の弟だった。未だに手を繋ぐだけの昨今の若者にあるまじき清らかな交際も、まあこんなものなのかぁと楽観的に構えていた。笑いたければ笑ってくれ、私は祐樹としか付き合ったことがない。
私はこのまま当たり前のように祐樹と結婚するのだろうと考えていた。私の25回目の誕生日の一週間前、リビングには私と弟だけだった。少し娘に甘すぎる父とやたら祐樹を婿扱いしたがる母が丁度席を外しており、祐樹も実家にいる、本当に珍しい日だった。スリリングなサスペンスの後番組の、さして笑えないバラエティーを惰性で視聴していた私はぽつりと漏らしたのだ。
「私もこのまま祐樹と結婚すんのかなー……」
画面でガタイの良いウエディングドレスの花嫁が、花婿衣装の相方に頭を叩かれていた。
「………っ!!!」
チャンネルを替えようとリモコンを探す右手に、バシャっと液体がかかる。
「ひゃあっ!!何すんの?!」
弟が空のガラスコップをこちらに向けている。さっきまで、冷えたビールが入っていたはずだ。右手の冷たくて、苦い臭いの正体だ。
「最悪っ、さっきお風呂入ったばっか、」
「どっちが最悪だよ!!」
「うわっ!」
弟は空のコップを床に投げる。幸い柔らかいラグのおかげで割れずに済む。
「危ないじゃない!」
「ふざけんな!!何が結婚だよ!」
「なっ!」
私はこのとき、彼女のできない弟が癇癪を起こしたのだと判断した。なんて身勝手な弟なんだ。姉と友人の幸せも喜べないなんて。
「あんた……っ」
「姉貴なんか、祐樹と俺が付き合ってるのごまかすためにいるだけのくせに!」
「……は、」
思考が凍り付いた私を誰が責められようか。
「姉貴みたいな不細工が祐樹の彼女面してんのもムカつくし!俺に会う口実で、彼女にしてもらってるダケのくせに!」
「何言って、」
「姉貴祐樹と寝たことある?!キスしたことある?!俺は何回もあるよ!当たり前だろ、俺が本命で姉貴は浮気相手ですらないんだから!」
「………」
「今時手を繋ぐだけってねーよ!馬鹿じゃね?!だから自分が都合良く使われてるだけって気付かないんだよ!!」
歪んだ顔で高笑いを続ける弟に、
ああこれが「目の前が真っ白に」か、
と頭に僅かに残った冷静な部分が納得していた。
「ねえ、祐樹。私怒ってるんだよねー」
「え?」
「あんたら最低。本命が男だから?不細工な姉を隠れ蓑に?部屋で毎晩お楽しみ?」
「……え、」
祐樹の整った顔が蒼白になる。好青年な見た目に9年も騙されていたのは私だけじゃない。父も母もだ。
「私も馬鹿だけどさ、あんた私のことナメすぎ。フォルダにロックかけとけよ」
「見たのか!」
「うん、9年ばれなかったからって気を抜くモンじゃないね」
私はフィーチャーフォンを未だに愛用しているものだから、スマートフォン限定のゲームをするために度々祐樹のスマートフォンを借りている。9年前はちゃんとロックをかけていたのかもしれない。
「オエー、キモっ。男同士でハートだらけのメールもキモいし、写メも最悪っ!指で拡大する気起きなかったよ」
「……ごめん」
「は?何に対してよ」
祐樹はその一言で、何を終わらせる気なのだろう。
両親と私を騙していたこと?9年間を無駄に過ごさせたこと?ちょっとモテる祐樹の彼女役として近所の女の子たちの嫌われ者してたこと?
「その一言で、9年間の何を償う気なの?」
「………」
「いーけどさ、どうでも。あんたもう家に入れないし。バカ愚弟も勘当されたから二人でどこへでも消えれば?」
「勘当?!」
馬鹿は馬鹿とくっつくものか。男同士だけならまだしも、9年間も私たちを騙していたのだ。まさか今まで通り過ごせるとでも思っていたのか。
「あいつ今頃家放り出されてるよ。精々バイトしたこともない馬鹿ニート養えば?遺産とかもアテにしないでよ、遺言書しっかり書いてるから。ウチの両親抜け目ないの知ってるでしょ?」
「………」
絶望した顔の祐樹の頭には、どんな思考が巡ってるんだろう。恋人を勘当させた罪悪感?ダメニートを養う不安?9年に渡る不誠実への後悔?
どれも、遅すぎた。
「じゃあ、私電車で帰るから。あんたの私物は宅配便であんたの実家に送るからね」
ドアを空けて助手席から外に出る。祐樹は運転席で俯いていた。
「……本当にごめん」
「だから何がよ?」
祐樹にとっての9年は、「ごめん」で済むほど短かったのか。祐樹にとっての私はたった一言の謝罪で済ませてしまえるくらい、軽い存在だったのか。
滑らかな手触りの小さな箱の蓋を閉めて、
ピンヒールで踏み抜いた。
「じゃあね、精々野垂れ死ね」
25歳にしてファーストキスすら未経験の売れ残りだ。まともな恋愛経験もない。
二つ折のフィーチャーフォンをポケットから出して、見慣れた番号を表示させる。
「……もしもしー。うん、突然ごめんー。この前言ってた婚活パーティーさ、まだ予約大丈夫?……うん、そ。今別れたんだよね」
去年の誕生日に貰った腕時計を片手で外して、
「……はぁ?顔だけだよあいつ。9年無駄に、したぁ!」
踏み潰す。私の好みに合わせた実用一点張りのデジタル時計はなかなか壊れない。
「ほんとっ、最悪っ!キモい!サイテーッ!死ね!ふざっ、けんな!」
がつがつヒールで力の限り踏み付けるが、丈夫な腕時計はびくともしない。
「……はぁ!うんっ!きいっ、てるっ!ちょっ、とね!」
息が荒くなった頃にやっと画面にヒビが入る。さすがにもう疲れた。そもそも祐樹が寄越した物のために労力を費やすのが悔しい。
「……うん、うん、そー。私も婚活するわ。合コンでもいい……。うん、ありがと、じゃあね」
通話を切って、腕時計を睨みつける。
時計を拾おうか迷って、やめた。不法投棄万々歳だ。
「……あー、彼氏ほしいー」
本当は愛されてはいなかったが、流石に9年もいれば情も湧くものだ。
10年経っていたら許していたかもしれない。
時計を道路脇に蹴り飛ばす。パンプスはヒールのところに違和感があった。駅までもってくれればいいのだけれど。
彼氏視点も後日追加します。