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メランコリイ
作:夕焼け


ブザーの音で目を覚ます。
発車の音。
赤茶けた座席。
くすんだつり革。

古い列車だ。
地方の山間を、必要以上の時間をかけてゆっくり北上するような、そんな列車だ。

僕の乗る車両の前方のドアががらりと開く。
若い女だ。
若い女が向こうの車両から、こっちの車両に移ってくる。
女は一通り車内を見渡して、ゆっくりとこっちに向かってくる。
右の肩にショルダーバッグを抱え、左の手には大きな旅行用トランク。
豚皮の中々良質なトランクだ。
僕のすぐ横で立ち止まると女は丁寧な発音で僕にこう言う。

「こちら、よろしいかしら?」

僕はもちろんこう答える。

「ええ、どうぞ」

女は僕の向かいの席に腰を降ろし、ショルダーバッグから雑誌を取り出す。

そしてしばらくの間、その雑誌のページをめくる音と電車のがたんごとんという音だけが車内を支配する。

ふいに座席に立てかけた彼女のトランクが電車の揺れで傾く。
僕は咄嗟に手を伸ばし、それを抑制する。

「あ、どうも」

彼女は短くそれだけ言う。

「いえ」

と僕はそれに答える。

「大きなトランクですね。遠くまで?」

僕は彼女に尋ねてみる。
彼女は少しだけ煩わしそうに、顔にかかった髪を左手でかき上げ、
そして怪訝そうな顔で僕の顔を見る。

僕は「他意はないよ」という意味をこめて、眉を軽く持ち上げる。

「そうね、長い旅になりそうだわ。多分ね」

一呼吸分の間をおいて、彼女はそう答える。

「多分?」

僕は不意に沸いた疑問を半ば無意識に口にしてしまう癖がある。
この癖は厄介だ。
無意識の内に込み入った事情に足を踏み入れて、厄介な事情に巻き込まれる事が往々にしてある。

「目的地は決めてないの」

彼女は今度は自然にそう答える。
僕を訝しぶ様子は無い。

ああ、と僕は思う。

目的地を決めず旅に出る女の事情なんて厄介じゃないはずがないじゃないか。
どうして僕は考えもせず、こういった話題を自ら穿るような真似をしまうんだろう。

彼女の事情はこうだ。

彼女にはしばらく一緒に暮らしていた男がいて、
当然その男と彼女の間には肉体の関係があった。

彼は、「やれば出来る男」だった。

妊娠。

彼女は悩んだ末、生む決意をする。
そしてその意志を彼に伝えると、彼は無言で金を突き出した。

長くは無い。
だが密度の濃い沈黙。

彼女がその沈黙を破り、こう言う。

「なに?これ」

男は彼女と目を合わせずに言う。

「分かるだろう?この不景気だ。
その中にあって俺達は選りすぐりの底辺だ。
だから俺は最低のお前を必要としたし、
だからお前は最低の俺を必要とした。
そんな最低の俺達が子供なんて育てられるわけないじゃないか。
わかるだろう?
無理なんだ。
これが今ある全財産だ。
育てるには足りないが、おろすには十分だろう」

女は男の顔を見つめる。
男は床に敷かれた薄汚い赤のカーペットの一点をただ見つめている。

女は子供をおろした残りの金で旅に出た。



そして今に至るわけだ。

気まずい。
けれど何かを言わなければいけない。
僕が次にどんな言葉を選び、そしてそれをどれほど正しく発したとしても、
それは間違いなく見当違いなものになるだろう。

だから嫌なんだ。
正解が無い。
僕には滑稽なピエロになるか、無粋な小男になるかの二択しかない。
それでも何かを言わなければいけない。
やれやれ。

「これから寒くなる。
あまり北までは行かない方がいいかもしれない。
寒さが多くの余分な熱を奪ってくれるように君は考えてるかも知れないけれど、
それは勘違いだ。
虚しい気持ちになるだけさ」

彼女は無感動な表情で僕の顔をちらりと見る。
そして無言のまま窓の外に視線を向ける。

ほら、思ったとおりだったろう?
彼女はこんな古ぼけた列車の中で、こんなくたびれた男に自分の事情を話すべきじゃなかったんだ。

+++++++++++++++++++++++++++++



どういうわけか、彼女は僕に身を預けて泣いている。
僕が着込んだセーターの胸元を湿らし、しくしくと静かに。
どんな展開を経て彼女は向かいの席から僕の側に移ったのか、
どんな言葉を取っ掛かりに彼女の涙の一滴目が零れるに至ったのか。
僕にはもうそれを思い出すことができない。

僕は仕方が無いので彼女の頭をそっと何度か撫でてやる。
こういうのには慣れてる。

彼女は顔をゆっくり上げると、無造作に僕の唇にキスをする。
とても事務的な動作で。
ときめきも情緒もあったもんじゃない。
ただ進行の都合上必要とされて、次のシーンに移るための「記号」としてだけ意味を成す淡白なキス。


人は往々にして間違った道を歩かされる。
この道は間違いだと気づいていながら、引き返す事が出来ない。
終着地点にたどり着くまで、ただ無感動に足早に歩くしかないのだ。
時間は戻らないから。

「それじゃあ」

と彼女が言う。

「うん」

と僕は言う。

昇降口に立ち、一度だけ僕の方を振り返り、一瞬悩んだ表情をして、そして数秒後に口を開く。

「あなた」

「そんなんじゃ一生誰からも愛されないわよ」

そして彼女は列車を降りる。
最後の彼女の表情は、嬉しさも悲しさも湛えない「ただの表情」だった。


僕はこの古ぼけた列車の、この固い座席の上で、
一体あと何度目を覚ませばいいんだろう。

誰かが遠慮がちにあのドアを潜り、僕の元へやってきて、
必死に僕に何かを擦り付けて、
そして最後は無感動に去っていく。
残された僕は彼女らに擦り付けられた「何か」をぼんやりと眺め、
たまに指でそれを擦ってみたり、匂いをかいでみたりする。
それは積み重ねた二人分のミスの匂いがした。


ずっとそんな事の繰り返しだ。
いつまでも、いつまでも。

僕はこの列車を降りるわけにはいかない。
そして彼女たちはこの列車に乗り続けるわけにはいかない。

その事を考えると僕は、
物悲しい気持ちになったり、
腹が立ったり、
あるいは安らいだ気持ちになったりする。

だから僕は「こう」である事以外を選べない。
間違っている?
確かに。
間違ってるんだろう。

そもそも。
と、僕は思う。

与えられた選択肢の全てが「間違い」だったんだ。
僕がどれを選んだところで遅かれ早かれゲームオーバーになる。
間違いをした僕に彼女達は最大限の罵りの言葉を浴びせて、そして列車を降りる。

冬が去り、春が来た。
しかしそれは僕にとってあまりいいニュースではない。

新しい季節というのは未知の厄介事を連れてくるからだ。














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