西方大陸暦2812年10月未明【東部侵攻】其の3:
ベルハレス将軍の言葉に副官達の顔は青ざめた。
まさか、最高指揮官がこの場で負けを認める様な発言をするなど、誰が予想出来ただろう。
「か……閣下……」
ベルハレス将軍の名を口にした副官の声は、あまりの衝撃に震えていた。
この世界の戦争は肉体を使った白兵戦が主流であり、その勝敗を決めるのは兵の士気に他ならない。
そして、其の士気を保つためには指揮官への信頼が何よりも大事だ。
指揮官が勝利すると思うからこそ、兵は命を賭けることが出来る。逆に言えば、勝てない指揮官のために命を賭けることができる人間は圧倒的に少ない。
それにベルハレス将軍はこの戦においてザルーダ王国軍の最高責任者でもある。
それはつまり、勝敗は彼の考え方一つに掛かっているという事だ。
どれほど兵を失おうと、指揮官が負けを認めない限り勝敗は決しない。戦意さえ失わなければ其の戦場では負けたとしても、戦そのものは終わらないのだ。
しかしそれは同時に、戦意を失ってしまえば兵が幾ら残っていても負けるということを意味する。
つまり、軍の指揮官に求められる最高の資質は不屈の精神力と言う事になる。
軍略の才は部下を選べば補うことが出来る。しかし、人の心や精神力を他人の力で補う事はできない。
そういった意味で、ベルハレス将軍はまさに最高の指揮官だったはずだ。
オルトメア帝国、エルネスグーラ王国。この2国の東部地方侵攻を長年阻んできたのは彼だからだ。
ローゼリア、ミストといった東部の王国と連合し、幾度となく大国の野望を阻止してきた名将。
其の名将の口から、負けの言葉を聞いた副官達の心はまさに絶望としか言えない。彼らの脳裏から、ジョシュアの傲岸不遜で言葉を選ばない態度を気にする気持ちは消え去っていた。
「閣下……それは、それはあまりのお言葉ではありませんか! 前線ではいまだ多くの騎士達が勝利を信じて命を削っております……それなのに、今此処で閣下が負けをお認めになるなど!」
副官の一人が、顔を真っ赤に紅潮させてベルハレス将軍へ詰め寄る。
本来であれば決して許されない暴挙だったが、彼を止めようとするものは誰も居ない。
皆同じ思いだったからだ。だが、ベルハレス将軍はゆっくりと右手を挙げて彼を制止すると、周囲に鋭い視線を向ける。
「誰が戦の負けを認めた?」
低く落ち着いた声だ。
幾多の戦を勝ち抜いてきた戦士の自負と威厳が、ベルハレス将軍の声ににじみ出ている。
其の言葉には怯えも揺らぎもない。ただ確固たる意思だけが存在していた。
「え? しかし先ほど閣下は……」
「ワシは戦に負けたなどとは一言もいっておらん。それに……ジョシュアもな」
副官達は皆、将軍の言葉の意味が理解できなかった。
確かに彼らは其の耳で、将軍の口から負けたという言葉を聞いた。
それは決して聞き間違い等と言う事ではない筈だ。
「ワシ等は戦略で負けたといったに過ぎん……まぁ戦略面で大きく負けが確定してしまっていれば、勝敗の行方はほぼ決まってしまうがな」
此処で大きくため息をつくと、どこか自虐的な暗い笑みを浮かべたベルハレス将軍は静かに語り始めた。
「オルトメアは今回の戦に戦略レベルで様々な手を使い、こちらの行動を制限してきた……どういう意味だか判る者は居るか?」
誰も口を開く者は居ない。皆、押し黙ったまま言葉の続きを待つ。
彼らが判らない事はある意味仕方の無いことだった。
戦場で命を散らす事が仕事の騎士に、国家の戦略レベルの視野を持てと求める事の方が無茶なのだ。
ベルハレス将軍は副官達に理解できるよう、少しずつ語り始めた。
「そもそも、我々が野戦による決戦を選択した理由はなんだ?」
「それは……オルトメアの動員兵力が思ったほど多くなく、陛下直属の騎士団を総動員すれば勝てる可能性があったからです」
「うむ、其の通りだが、過去に我が国単独でオルトメアと戦をしたことがあったか?」
過去、ザルーダは単独でオルトメアと戦った事はない。常に隣国からの援軍と連合した上で迎え撃ってきたのだ。
副官達の脳裏に其の事実が浮かび上がった。そして、其れは将軍の言葉と結びつき一つの結論へと辿り着く。
「「「あっ!」」」
「まさか……ローゼリアの内乱は……」
副官の一人がベルハレス将軍へ探るような視線を向ける。
「其のとおりだ……無論、確証が有る訳ではない。だが、今度の侵攻はあまりにもオルトメア側に有利すぎる……おそらく、何年も前から準備した上での策だろう……わが国へ援軍を派兵させないためのな」
国土、人口、経済力。全ての点で、ザルーダ王国はオルトメア帝国に劣っている。
それでもザルーダ王国が独立を維持できてきたのは、東部地方の同盟国の存在だ。ローゼリア、ミスト、両王国が有事の際には常に援軍を差し向けてくれた。だからこそ、今までザルーダ王国は存続できたのだ。
無論それは善意からではない。
ザルーダ王国が滅びると言う事は、東部地方に大国の領土が広がる事を意味する。
そしてそれは、ローゼリアとミストの両国へも侵略の魔の手が伸びてくると言う事に他ならない。
「ローゼリアは今回、内乱の後遺症でとても他国へ援軍を派遣する余裕はない……出したくとも、物理的に不可能なのだ。そしてローゼリア王国が混乱している以上、ミスト王国はローゼリア国内を通って兵を派遣することが出来ない……かといって、海路を使うのも難しい。南回りの航路ではあまりに時間を喰い過ぎるし、北周りにはウォルテニア半島と言う難所が有る……誰が考えた策かは知らぬが、ローゼリア一国を内乱に陥れる事で残りの二国の行動をし封じ込めた……まさに大したヤツよ」
両国よりの援軍がこれない事を副官達は皆十分に理解していた。だが、其れが全てオルトメア帝国の策謀による結果だったとなれば……
将軍の説明に副官達は息を飲んだ。此処まで説明されれば、彼らにも自分達が如何に危険な立場なのか理解できたのだ。
「では……ジョシュア殿が言われた罠と言うのは……」
親の七光りと蔑んできた男の言葉に真実の可能性があることを悟りったのだろう。其の声はか細いものだった。
「それほどまでに綿密な準備をしてきた敵が、そう簡単に退却などすると思うか? まず間違いなく、兵を伏せているだろうよ……こちらの息の根を止めるためにな」
ベルハレス将軍の言葉に副官達は異の唱えようがなかった。
オルトメア側の退却を聞き、予想していなかった勝機に己を見失いはしたが、冷静さを取り戻せば、今回の一連の動きが罠である事を理解できないほど、彼らは愚かではなかった。
「では……もはや戦の勝敗は決したと言われるのですか……この戦は無駄だと……そういうことですか?」
悲壮と絶望に彩られた言葉だ。
勝つと思うからこそ戦える。大事な者を守れると思うからこそ命を賭けられる。ベルハレス将軍の勝利を信じて戦ってきた人間にとって、将軍とジョシュアが突きつけた現実は過酷だった。
この言葉を呟いた副官はきっと断腸の思いで口にしたのだろう。だが、ベルハレス将軍は其の言葉を静かに首を振って否定した。
「そうではない。今までの話はあくまでも有利不利と言うだけの話。まぁ絶望的なまでに不利なわけだが、まだ勝機はある……」
「本当ですか!「それはどのような!」」
絶望した人間ほど、希望と言う甘美な誘惑に弱い。
勝機の見込めない現実を認識させられた上で突然出された希望。副官達がそれに飛びついたとしても誰が責められるだろう。
だが、彼らの前に示された道はあまりにも過酷な死への道だった。
「敵軍の最高指揮官であるシャルディナ・アイゼンハイトの首を狙う……」
ベルハレス将軍の言葉に天幕の空気は凍りついた。
それはあまりにも可能性の低い、殆ど自殺行為に近い策だ。
確かに敵の最高指揮官を討ち取る事ができれば勝利はザルーダの物だ。
戦略的な敗北も、シャルディナの首を取るという戦術的な勝利によって覆す事が可能で有る。
確かに理論的に将軍の言葉は間違ってはいない。
「……しかし閣下……それはあまりに無謀では……」
年配の副官が意を決して将軍に問いかけた。
敵の罠を逆手にとって、敵司令官の首を狙う。
言葉にすればとても容易いが、実行するとなればそれは針の穴を通すほどに僅かな可能性。
だが、副官達はベルハレス将軍の体から漂う決意を感じ、黙り込んだ。
「判っておる……敵の罠を力で噛み破ろうと言うのだ……こちらも全滅を覚悟せねばなるまい……だが、ほんの僅かだがこの国を救う可能性が残る……今のままでは、仮に我ら全軍がこのまま退却してもオルトメアは困らぬ。温存した兵力を使って、侵略拠点をザルーダ国内に作るだけの事……元々の国力差を考えれば、ザルーダ国内に前線基地を作られた段階で、我らはそれを取り戻す事ができなくなる」
峻険な山々に守られた天然の要害であるザルーダ王国。
敵国からの侵略を阻む地形の険しさ。
国内に敵国の拠点を作らせてしまうと、其の険しさがザルーダの領地奪還を困難なものにしてしまう。
まして、オルトメア帝国の国力はザルーダ王国よりも大きい。 もし拠点に大量の兵を守備兵として動員されたら、ザルーダ側は打つ手がない。
砦を攻めるのに必要な兵力が守備側の3倍以上と言われるのは兵法の常識と言える。
だが、オルトメア帝国に対して国力そのもので劣るザルーダ王国に、それだけの兵力は存在しないのだ。
「それに策士は策に溺れ易いもの。此処まで相手の戦略どおりに展開しているのだ。どれほど用心深くとも勝利を確信している筈。其の油断を突く」
既に他の選択肢は存在していない。
唯一、残された希望に彼らは縋るしかなかった。
「閣下は……既に決断されているのですね?」
「うむ、済まぬが皆には死んでもらう事になる……」
ベルハレス将軍の言葉は非情だった。
生きて戻る可能性が殆どない戦術を選択し命じたのだから。だが、将軍の命を聞いて怯えを見せた人間は誰も居ない。
初め、副官達の心は絶望で満たされていた。誰だって負けが決まった戦に命など賭けられるはずもない。
そこを上手くベルハレス将軍は操った。
死を覚悟した人間ほど強く恐ろしいものは無い。
「良かろう……これより本陣に残る全部隊にて追撃を行う。退却は無い! 良いな!」
「「「はっ!」」」
彼らの体からは、悲壮なまでの闘志が火の様に激しく噴出していた。自らの窮地を自覚した事によって、ただ無駄死にをするより、祖国の為に命を捨てると覚悟した人間の意思の表れだ。
ザルーダとオルトメア。両国の戦は今、最終局面を迎えた。
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