バケモノが子
「先生…私、怖いんです!もし娘が…」
「落ち着いてください、お母さん」
飯田は切羽詰った生徒の母親を両手で宥めた。相手の話を鵜呑みにして、冷静な判断を怠ってはいけない。涙目になる母親とその話を聞く自分をどこか客観的に眺めながら、飯田は相手が落ち着くまで待った。
ここはとある高校の生徒相談室。そこに飯田はいた。問題行動を起こす生徒の指導や、我が子の身を案じる親の相談を受けるのが彼の仕事だった。今学校は夏休みに入っていて、大半の生徒は登校してくることはない。それでも長期休暇というのは、何かと若者が羽目を外しやすい時でもある。そんな彼らを慮る保護者の話を聞くのが、最近の彼の日課になっていた。
飯田は目の前の母親を横目に、パソコンを操作し彼女の娘の情報を改めて読み直した。
森田景子 二年生。
ブラスバンド部所属。
成績は学年312人中107位。
性格は至って温厚。控えめで大人しい、というのが担任の伊藤先生の談だ。これといった問題行動も今まで起こしたことはない。クラスでいじめがあったとか、そう言った話も聞いたことはなかった。
(…だけど)
得てしてそういう子が、突然「デビュー」したりするのが夏休みという奴だった。この高校に就任して四年目の飯田にも、何となくその辺は理解していた。
「それで、娘さんは夜な夜な家を出ていくようになった…と」
「ええ」
森田の母親がすがるような目で飯田を見つめた。初めての反抗期、か。彼女が不安になるのも無理はない、と飯田は思った。法律に引っかかったりだとか、悪い大人に利用されるようなことがなければいいが。
「何か心当たりはありませんか? それから最近、急に親しくなった友人がいるとか…」
「いえ…でも」
母親が怯えたように目を逸らしたのを、飯田は見逃さなかった。飯田がじっと母親を見つめていると、やがて彼女が小さな声で語りだした。
「最近…家で飼っていた猫が亡くなりまして。それで景子ももちろん落ち込んでいたんですけれど…どうも、変なんです」
「変…?」
「その…景子が急に、誰もいないはずの壁に向かって話しかけたり…」
「……」
「あの子、ずっと魚が嫌いだったんです。それなのに…今では骨ごと齧り付いたり…ああ、嫌だわ。私、何を言っているのかしら」
「続けてください」
飯田はそっと促した。両手で顔を覆い取り乱していた母親が、蚊のなくような声で言った。
「私、私おかしなこと言ってるとは思うんですけど…娘が、猫に憑かれたんじゃないかって」
「猫に…」
「だっておかしいでしょう。昨日だって夜中に突然抜け出して…三時頃帰ってきたんですけど。お父さんから怒られてるのに、何一つ理由もいわずケロッとしてるんですよ。それに…」
「他にもあるんですか?」
「私…この間景子の部屋を掃除しようと思って…その、ふとした拍子に引き出しを開けてみたんですけど。ね…ねずみの死骸が…大量に…!」
ワッ、と泣き出した母親に、飯田は狼狽えた。確かに夜な夜な鼠の死骸を集めてくる女子高生というのは、尋常ではない。昔話では狐や蛇に取り憑かれるという話は聞いたことがあるが、猫に憑かれることもあるのだろうか。飯田は母親を落ち着かせ、近々必ず娘さんの様子を見に行くから、と約束した。森田の母親が帰ったあと、飯田は相談室に残りため息をついた。
素行に問題がある生徒は多く見てきたが、心霊の類は初めてだった。
飯田にはこれまでそういった経験が全くと言っていいほどなかった。幽霊や超常現象は信じておらず、だから対策の仕方も分からなかった。仕方がないので飯田は、地元で寺を継いだ旧友の藤原に連絡をとってみることにした。
「…と、言うわけなんだ」
「ふぅん。それで、飯田くんはどう思うんだい?」
電話口の向こうで、話を聞いた藤原がのんびりと言った。相変わらず緊張感のない奴だ。
「まぁ俺は幽霊だとか呪いだとかは信じちゃいないんだが。多感な時期だし、思い込みでそうなってる可能性もある」
「うんうん」
「彼氏が出来たとか遊びたいだけってなら話は単純だけどな。下手に事件に巻き込まれたり、最悪自殺なんてことになってしまうと、心霊現象以上に問題だからな」
「そうだね。僕にもその子が本当に猫に憑かれたのかどうかは分からない。でもひとつだけ言っておくと…我が子が化物になったって話は、珍しいことじゃない」
そう告げると藤原は通話を切った。化物…。耳慣れない言葉に飯田の胸がざわつく。そんな話は飯田にとってはとても珍しいことには違いなかった。しかし、我が子の素行に疑問を抱き不安になる親というのはよくある話だ。
飯田にはどうも、この森田景子という生徒に問題があるとは思えなかった。彼女が奇行に走っているのも、本人よりも周りの影響かもしれない。後日、飯田は約束した通り森田の家を訪ねることにした。
森田の家は小高い丘の上の住宅街の中にあった。市内からは一時間に二~三本バスが出ている程度で、片道一時間は掛かる。交通の便はあまり良くない。バス停に降りた飯田が調べてみると、最終バスの時刻は二十三時四十四分になっていた。
もし森田景子が夜な夜な街に抜け出していたとしたら、母親の話のように夜中の三時に帰ってくるには徒歩では無理だ。車を使うしかない。だとすれば運転手は大人だ。未成年者に手を出していたとしたら、とんでもないやつだ。心霊現象よりよっぽど馴染みの深い「よくある事例」に気を重くしながら、飯田は歩を進めた。森田の家に行く途中、飯田は近くに雑木林があるのを見つけた。森田景子の机の引き出しに入っていたという鼠の死骸は、あそこから調達したのかもしれない。
我が子が化物になったって話は、珍しいことじゃない。
旧友の言葉を思いだし、飯田は森田が四つん這いになって雑木林を飛び回る姿を想像した。化物は誇張表現だろうが、暑さで気が触れてしまう人間は世の中には大勢いる。飯田はそれが自分の高校の生徒じゃないことを祈った。
「こんにちは」
「まぁまぁ飯田先生!ようこそいらっしゃいました。わざわざこんな遠いところまで…」
「いえいえお母さん。私も景子さんのことは心配ですから。彼女は今家に?」
玄関先で出迎えてくれた母親にそう尋ねると、彼女の顔が曇った。
「ええ。その…最近昼間はずっと寝てるんです。そんな子じゃなかったのに」
「昼寝中ですか」
猫みたいですね、という言葉を飲み込んで、飯田は家に上がらせてもらった。居間に通された飯田は、出された麦茶で喉を潤しながら、溢れんばかりの汗を拭った。
「景子さんは部屋に…?」
「ええ。お話されます?そっちにもお茶持っていきますね」
「ありがとうございます」
母親に頭を下げて、飯田は二階へと上がった。ローマ字で「KEIKO」と書かれたプレートが、右の奥の部屋の扉にぶら下げられていた。小さくノックを繰り返すが、中から返事はない。寝ているのだろうか。飯田は軽く咳払いをした。
「森田?生徒相談室の飯田です。お母さんから聞いてると思うけど、今日はお前に話があって来たんだ。入ってもいいか?」
だがやはり返事はなかった。立ち往生している間に、階下から母親が追いついてきた。
「あらまぁ、きっと寝てるんですわ。ごめんなさい先生。ちょっと景子!入るわよ!」
ガチャッ、とドアが開かれた瞬間、飯田は鼻にツンとくる悪臭に思わず顔をしかめた。
「ゥ…ッ!?」
これは…!?
飯田が目を見開いた。そこに居たのは昼寝をしている森田景子…その変わり果てた姿だった。
体中に無数の引っかき跡が残り、ところどころ肉が削げ落ちている。まるで食い荒らされたように無数の穴が空いた肢体が、だらんと床の上に横たわっていた。その周りを、小さな生き物が蠢いている。
鼠だ。
森田景子の肉を、鼠が食い荒らしている。
飯田が悲鳴を上げようとしたその瞬間。
目の前でぴくりと何かが動いた。そして。
飯田は横たわった森田景子と、
目が合った。
彼女は、まだ死んでいなかった。
体中を鼠に食われながら、辛うじてまだ生きていたのだ。
ヒューヒューと食い破られた喉で荒い呼吸を繰り返す彼女に、飯田は絶句した。その代わり飯田の目の前にいた母親が、大きな声で叫んだ。
「コラ!折角足の骨を折ってやったのに、また鼠を持ち込んで!次は腕を折ってやりますからね!!」