洋上・オテント丸
二日も寝ていると、いい加減に飽いた。船室を出てみようと思った。もう、歩いたっていいだろう。
ベッドを降りて自分の足で立ってみた。引きつったような感じがあるが、痛みはない。全然平気だ。
彼女はそっと扉を開けると外へ出た。階段がある。あの階段をのぼればデッキに出られるのだろう。
ぱあっと眩い光に目がくらんだ。真っ青な空。白い雲。降り注ぐ陽光が彼女を迎えた。
おずおずと甲板に姿を現した千鶴を最初に見つけたのは陸だった。
「やあ、もう起きても大丈夫なんだ!!」満面の笑みで声をかける。
戸惑いながら笑みを返す。医者の許可はもらっていない。
「来いよ。案内してやる」並んで歩き始めた。あそこがブリッジで、ここがメインデッキだ。で、これが世界最強の大砲アームストロング砲だ、自慢げに話す陸の言葉を上の空で聞いた。ちょっと外の空気が吸いたい、と思っただけだ。こんなに堂々と散歩するつもりはなかった。水夫たちが、物珍しげに彼女を見ている。軍医に見つかりはしないかとひやひやした。が、それは杞憂だったようだ。前から歩いてきたのは桜井だ。
「どうだ。もう歩けるか。散歩するのは悪くないがほどほどにしておけ」そう声をかけて立ち去った。
何だ。心配するほどのことはなかったな、と見送った。
前から三人男が歩いてきた。一人はあの棒の男。一人は牙使い。一人は年配の男。陸が名前を教えてくれた。
「背の高いのが新居浜で、悪党面が外松で、爺が天谷だ」勿論、小声でだ。
その天谷が言った。
「陸、機関室に行くぞ。なにやら調子が悪いらしい」
「へえ、どうせまた、同じところじゃないの」と言いつつ、陸は千鶴に手をふって、天谷、外松とともに船内へ降りていった。
「あんたは行かないのか?」千鶴は一人残った新居浜に話しかけた。
「俺は最近仲間入りしたばかりだ。船のことはようわからん」困った風に真顔で答えた。
「ふーん、そうなんだ」そこで途切れて会話が続かない。じっと二人で海を見ていた。
数分後、思いついたように新居浜が言った。
「お前、名前は?」
そういえば言っていなかった。聞かれてもなかったし。
「千鶴だ」
「ちづ?」
「そうだ」
幕府は山口攻撃を許可しなかった。それは先日の芸州口攻撃での諸藩ならびに英国の抗議に恐れをなした故である。また、水戸藩に不穏な動きあるという。藩主急逝に穏やかならぬ空気が漂っているらしい。そんなことはまずありえないとはいえ、今日まで水戸藩には弾圧を加えてきた。いらぬ反感は買わぬほうが良い。
派兵はしない。それが結論だった。
その報を受けた豊永志功、目を白黒させて憤った。自分の策を否定された。こと、己が自尊心を傷つけるものだけは徹底的に許さない男だ。実権を握っている今、尊大な思考を身の程知らずに持っていても不思議ではない。部下は影で蟷螂殿と呼んでいる。志功の斜視を皮肉ってだ。その斜視が冷徹に光った。ふん、まだ策はある……。どこを見ているかわからない目で居並ぶ部下を見た。こいつらは使えない。
二日もたつ頃には、船の雰囲気にもすっかりなじんだ。水夫たちも、この珍客を歓迎している風である。『赤い筏』が五人きりだと知ったときは驚いたが、あの時の戦いぶりを見れば納得できないことはない。それに、噂というものは、必ず誇張されるもので、彼らの噂も例にもれず、たった二人の海賊、とか、たった三人の男が、とか吹聴されていた。それに比べれば、五人というのは妥当な数である。が、海賊行為を(しかも幕府相手に)たったそれだけの人数で行ってきたのは快挙である。褒めてはいけない。無謀、無茶苦茶である。何故、そんな経緯となったのか、聞くまでもない。頭領を見れば一目瞭然である。
この男を理解できる人間は少ない。しかも、彼自身人間の好き嫌いが激しい。自然、集まる人間は少ない。
今、オテント丸は、瀬戸内海の無人島の入り江に投錨している。彼らの備蓄基地だ。全員総出で、小船を使い石炭を積み込んでいる。
彼女はその様子を甲板から眺めていた。背後からそっと横に並んだ男がいる。東夷だ。
気配に気づいて目をやったが、話しかけてくる様子もないので、再び海上に目を移した。
しばらくしてから、東夷は言った。
「凄い腕だな。お前」銃のことだ。
「見ていたのか」聞き返した。
「ああ。あの時、お前は塀の上にいて、庭先に五発撃った。庭先からは一発の反撃もなかった。庭先にいたのは五人か?」
「そうだ」
「五発で全員をしとめている。反撃の暇も与えず」
千鶴はうつむきがちに回顧の目をあの日に向けた。
「あの日、わたしは十四人殺した……。初めて人殺しになった」初めて人を撃った。相手の顔も憶えている。何人殺めたかも憶えている。忘れられるものではない。
「いずれ、何人殺したか憶えていられなくなる。相手の顔も忘れてしまう」慣れる、ということではない。麻痺する、と言ったほうが近いかもしれない。だが、彼は違う。正直には言わなかったが。彼は幕兵殺しを楽しんでいる。幕兵を一人殺すごとに、自身を絡め取った鎖を一本断ち切るごとく感じている。俺は人間ではない。鬼の子だ。
「何故、下関にいた」あの総攻撃の日に。
「白石のおじさんに、銃の修理と弾を作ってもらうよう頼んでいた。父の遺した銃で少し変わっている。それを受け取りに行った」
「狗の銃か。やはりお前は狗の子なのだな」
「お父はどこにいるのか知らない。でも、きっと生きている。いつか帰ってくる。それまでわたしが家族を護らないといけない」
東夷は頭の中で逆算した。この少女の年齢とあの狗の片割れの処刑の日、つまり連合諸藩の下関奪還の日、それを計算すれば、この娘がおそらくあの時の混乱の中で父親と生き別れただろうことが推測できる。彼女が、父が生きているという根拠も推測できる。あの戦いの後、狗の死体は見つからなかった。二人ともだ。
「家族というのは?」
「母と弟だ。芸州口に住んでいる」
東夷の顔色が変わった。その眼見て不思議そうな顔を見せる少女。
「知らないのか?」なにをだ。怪訝な顔をする千鶴。
東夷は目をそらすと、芸州口攻撃のことを口早に語った。千鶴の顔色が蒼白となった。ついで憤り真っ赤になった。
東夷は大喝した。海上の小船に向かって吼えた。
「急げっ!! 出航だっ!!」
芸州口へ行ってやる。だが、それで何ができる。もう、手遅れだ。
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