高地を吹き抜ける風は、時に全てをなぎ倒すほど強く、突き刺すように冷たい。しかし生まれた時から死す時まで、この地に生きる者にとって、風の無い事は不吉を意味している。
黒い影が人々の頭上に重くのしかかっていた中つ国第三期において、ローハンの宮廷エドラスでは、白のサルマンの手なる蛇の舌にセオデン王が心惑わされ、世が終末へ向かっていく事を示すように、たたき付けるような風は日に日に弱っていくように感じられた。
人々は息を潜めるようにして日々を過ごし、一体この国はどうなってしまうのかと、小声で密やかに、晴れぬ空を見上げて嘆いたものだった。
しかし今、黄金館の盾持つ乙女を迎える風は力強く、花の甘い香りを絶えず運んでくれている。
波がかった美しい金髪を風にはらませ、蒼い瞳をそっと伏せたエオウィンは、冷たい土に口づけを落とし、ローハンの誇り高き墓標に刻まれた叔父の名を、愛しげに撫でた。
あの恐ろしく悲しい指輪戦争が、冥王の破滅とゴンドール王の帰還によって終結してから、はや数ヶ月。
新たなローハンの王となったエオメルの命により、ペレンノール野で戦死したセオデンの亡骸はゴンドールからローハンへと帰り、先祖代々王家の者が眠る墓に葬られた。
指輪戦争にローハンが参戦してから後、絶大な力を持つ暗黒の軍に敵わずとも、剣を手に率先して、数えきれぬほどの敵を屠った王の死に顔は、まるで生きているかのように若々しく、誇り高く、美しかった。
国民は偉大なる王の死を嘆き悲しみながら、その姿に畏怖を抱き、セオデンの死後の旅が安穏であることを祈り、また、エオメル王の凛々しく猛々しい姿に、かつてのセオデンの威容を見いだしその名を高らかに歌い、そしてまた、盾持つ乙女が以前にも増して美しく、輝かしい光を帯びて帰還した事に驚喜した。
その時彼らがあげた歓声はいまだ、エオウィンの中でこだまとなって響いている。
「叔父上……ようやく、セオドレド様とご一緒になられたのですね」
エオウィンは万感の思いを込めて囁く。
蛇の舌に幻惑させられていた頃セオデンは、サルマンの手のものと戦って討ち死にした息子に、別離の言葉を口にする事さえ出来なかった。
そして、あのガンダルフの参上によって正気に戻ってからは、その事を非常に悔いていた。最早取り返しのつかない事、と嘆くことをやめたのは表向きで、あの情深き叔父が、息子の死を、否、エオルの家の子全ての死を、常に心にかけてきた事を、エオウィンは知っている。
だからこそ今、ようやく戦いを終えた今、セオデンがこの地で息子や偉大なる父祖と共にある事は、何よりも喜ばしい。
「どうぞ、御心安らかにお眠り下さいませ。
叔父上の命ぜられた通り、兄もわたくしも、このローハンを何よりも愛し守りましょう」
――笑顔を見せてくれればよい。
そういって撫でてくれた無骨な手を、エオウィンははっきり覚えている。死に瀕して、彼女の頬に触れたのと、同じ大きな手。
エオウィンは立ち上がった。その瞳は潤んでいたが、涙がこぼれ落ちる事はなかった。エオウィンは墓標を見つめて、優美に微笑む。まるで今そこに、セオデンが彼女を見て微笑んでいるのに、応えるように。
「――エオウィン」
不意に、声が風の中をすり抜けてきた。驚いて振り向くと、ゆっくりした足取りでこちらにやってくる男の姿がややぼやけた視界に入った。
急ぎ目をこすって、彼を確認すると、エオウィンはドレスの裾を絡げて駆けだす。
「……ファラミア様!」
「エオウィン」
ゴンドールの白い木と星が縫いつけられた貫頭衣を身につけたファラミアは足を止め、彼女に笑いかけた。
そして駆け寄ってきたエオウィンをごく自然に抱きしめ、花の香りをうつした髪にキスをする。
エオウィンは頬を赤らめて、嬉しさを隠しきれずに囁いた。
「ファラミア様、ファラミア様……いつ、こちらへおいでになられたのです?
あらかじめあなたのご訪問を知ってさえいれば、わたくしどもは、いつでもお出迎えしましたものを」
「いえ、私がこちらへ参ったのはつい先ほどの事。
我が君エレスサール王よりセオデン様へ、あらためて追悼を捧げよとの命を受け、心の逸りのままに急ぎ馬を駆って参りました故、先達よりも先にたどり着いてしまいました。
先ほどエオメル王に許可を頂きましたが、あなたにもこの無礼をお許し願いたい。 そしてどうか私を、誉れ高きリダーマークの寝所へ、ご案内頂けませんか?」
エオウィンは喜んでファラミアの手を取り、セオデンの墓標へと案内した。
今やゴンドールの最後の執政となった男は、墓の前に膝をつき、腰を折って深々と額ずいた後、シンベルミネの白い花を捧げて、哀悼の意を示した。
彼は、セオデンが戦死したペレンノール野の戦闘時、オスギリアスでの戦で負った傷が原因で瀕死の状態にあり、また父デネソール候の狂気に殺されかけた事もあって、セオデンの勇姿を目の当たりにしてはいない。
しかし、彼が成した勲は、同じ戦場にいたホビットのメリーからつぶさに聞いており、同じ戦士として深い尊敬と敬愛を抱き、あの戦いの後も交友を深める事が出来れば良かったのに、と心から思っていた。
自然、セオデンへの拝礼も心のこもったものとなり、エオウィンの目に涙を浮かばせる事になる。
立ち上がって彼女に向き合った時、その頬に涙が滑り落ちていくのを見たファラミアは、そっと微笑んだ。
「あなたは、セオデン様を愛しておられたのですね。いいえ、あなただけではなく、この国の人々は皆、かの方を愛しておられるのでしょう。
私には、この国にかぶさる悲しみのベールが見える。
人々の顔にはまだ、深い憂いが根を下ろしているように思われる」
ファラミアはふっと顔を動かして、黄金館を仰ぎ見る。
そして強風に目を細めてしばらく黙り込んだ後、
「――ゴンドールもまた、悲しみが拭われぬ。先の戦いでは、あまりにも多くのものが失われ、破壊された。
都は再建され、新王の名の下に、人々は新たな希望を胸に明日を見据えて生きていく事が出来よう。しかし」
再びエオウィンに視線を戻したファラミアのまなじりには、光るものがあった。
「私の愛した父も兄も、最早戻ってはこられない。
私は、そのどちらの末期の言葉も得る事が出来なかった。どちらにも、心から愛していると伝える事が出来なかった。私は、それが悲しい」
「ファラミア様」
エオウィンは、彼ら親子の確執や、デネソール候の死の理由を知らないのだが、ファラミアの悲しみが宿った瞳に、身が引き裂かれるような思いがして、ため息とともに名を漏らした。
白い手を伸ばして彼の頬に触れ、優しく撫でると、彼は目を閉じてエオウィンの手のひらに口づけを落とす。
重いため息を唇から漏らし、ファラミアは今にも泣き出してしまいそうに見えた。
しかし、シンベルミネが風に揺れてささと音を立てた時、ファラミアはエオウィンの手をしっかり握り、再び笑みを浮かべる。
光が屈折したような、それは哀切を秘めたものではあったけれど、明るく優しい笑みだ。
「私は今もなお、父と兄を深く愛している。
きっとこの思いは、私の命がつきるその時まで、消える事はなく捧げられ続けるでしょう」
ファラミアの言葉に、エオウィンは頷いた。そして花の綻ぶような笑みを浮かべて、彼の手を包み込み、
「ええ。そしてこの愛は、わたくし達の後へ続く者達へ、受け継がれてゆくのです。決して絶える事無く。
――さぁ参りましょう、デネソールの子、ファラミア様。館で王があなたをお待ちしております」
柔らかい声音で彼を誘い、黄金館にむかって歩き出した。
互いの存在を確かめるように寄り添い、手と手を取り合った恋人達が去った後。
ローハンの墓標の風は決して吹きやまず、地に伏した者達に葬送の歌を投げかけ、いつまでも白い花の香りを運び続けていた。 |