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番外編
番外編「君の心に咲いた花(後編)」
 二十五畳ほどの書斎には、バーカウンターが付いていた。
 一条は棚からクリスタルデキャンタの容器を取り出した。既に琥珀色の液体が入っており、それ自体が酒瓶になっているようだ。デキャンタは一目でバカラ製だと判る。

「……飲むか?」
「ミシェルカミュのロイヤルバカラですか? 相変わらずXOが好きなんですね」
 ため息と共に卓巳は呟いた。
「悪かったな、安酒で……お前にはもうやらん」
「頂きますって」
「その辺のビールでも飲んでろ」

 言いつつも、ちゃんとグラスは卓巳の前にも置かれた。
 卓巳はカミュの注がれたブランデーグラスを、右手で抱え込むように持つ。少し回すと、体温で温められたブランデーはまろやかな香りを放ち始めた。そして、卓巳は少しだけ口に含む。

「まだ……あのままなのか?」
「まあ、そんなとこです」
「だが、結婚は本物なんだろう? でなきゃ、ペアルックは着らんぞ。普通」
「だから、弱ってます。こんなつもりじゃなかったのに……」

 ペアルックを茶化されているのだが、卓巳にはそれどころじゃない。
 卓巳と知り合った時、一条はすぐに彼の秘密に気づいた。理由は簡単で、女性に対して度を越した潔癖さは、自分自身と共通するものがあったからだと言う。ただ、二人はそうなる原因において大幅な違いがあった。一条は最初の結婚により、自信を喪失してのことだった。だが、女性に対する愛情や憧憬を失ってはおらず……。何より一条はセックスに歓びがあることを知っていた。卓巳はそれらを知る前に失ったのだ。その差は大きい。

 一条は卓巳の肩を叩きながら励ました。
「そう言うな。惚れた女を前にすれば、状況は変わって来るさ」
「僕は、一条先生とは状況が違いますよ」
「諦めの早い奴だな。チャレンジしたことはあるのか?」
「ダメだった時は取り返しがつきません」
「お前……まだ、美馬のことを怒ってるのか?」
「……」

(――聞きたくない名だ)

 同じ大学に通う学生の中に美馬藤臣みまふじおみという男がいた。学部が違い、学年も向こうが一つ上であったが同じ年齢だった。美馬グループの御曹子で、見かける度に違う女性を連れているような男だ。奴は、藤原の名前を持ち、嫡男でありながら奨学金を受けて大学に通う卓巳を、目の敵にしてくれた。
 卓巳が初めて恋心を抱き、ホテルに連れ込んで玉砕した女性を、それを知って横から掠め取ったのだ。しかも、その女性から寝物語で聞いた卓巳の醜態を、美馬は大学中に広めた。卓巳の傷口に塩を塗り、引き裂いてくれた張本人でもある。 
 後になって、真逆の立場であったことを知ったが……その時にはもう、卓巳は彼の立場を凌いでいた。
 
「奴からも結婚式に招待されてたんだが……あっちは中止だと連絡があった。何かしでかしたらしい。知ってるか?」
 一条が知らぬはずはない。本気で聞いてる訳ではなく、卓巳の反応を探っている様子であった。
 卓巳の知る限り、美馬家のやり口は違法の領域に踏み入っていた。一条が弁護士として関わることは決してないと聞いている。しかも、卓巳には美馬がお家騒動を目論む気配すら察知していたのだ。
 基本的に人が好く、面倒見の良い一条であるから、やたら目立つ厄介な後輩も気に掛けているのだろう。だが卓巳の目に、美馬がいずれ女で失敗するであろうことなど、自明の理であった。
 意趣返しのつもりはなかったが……つい、要らぬことを口にしてしまう。

「いえ、美馬の家とは親交がありませんので。それに、奴は僕の彼女を奪ったんだ。あの時の悔しさは忘れられるものじゃない」

 ――カタン。
 
 卓巳の言葉と同時に、背後で音がした。
 振り向いた卓巳の目に映ったのは、万里子であった。

「ま、万里子……いや、あの……今の話を」
「あまり遅くなってもなんですから……そろそろ失礼しませんか? 車はわたしが運転しますので」
「今の話なんだが」
「何のことですか? お仕事の話でしたら、日を改められたほうが」
「あ、ああ。そうしよう」

 万里子は一条に軽く会釈して部屋を出て行く。
 卓巳は不安な眼差しでそれを見送ることしか出来ず……。

「ドアを開けたままにしたのは失敗だったな」
「どうして閉めてくれなかったんですか!」
「呼びに来た時に判りやすいと思ったんだ。私を責める前に、自分の迂闊さを反省しろ」
「……」


~*~*~*~*~


 卓巳の心に深い傷を負わせた女性がいる。
 母親ではなく、大学時代に愛した女性――そのことを知ってはいたが、「忘れられるものじゃない」そう、卓巳は言っていた。万里子の耳にそれは、彼女への愛を忘れられない、と聞こえたのだった。


「今日はご馳走様でした。――悠くんと桜ちゃんにも、今度は遊びに来てね、とお伝え下さい」
 駐車場は家の半地下にあり、一条夫妻は見送りに来てくれた。
 万里子は、卓巳に対する複雑な想いを堪え、二人に笑顔を見せる。

「いーえ、何のお構いも出来なくて……この人が、藤原社長に“幸福”を見せ付けてやりたいって。でも、それで新婚さんを招待しても……こっちがあてられるだけなのに、ね」
 夏海は言いながら、幸福を絵に描いたような笑顔を見せる。
 実は、万里子の誤解はついさっき解けたばかりであった。万里子は一条夫妻の長男が、夫の連れ子であろうと想像していたのだった。
 それを聞くと夏海は「よく言われるの」と笑って答えてくれた。
「でも、不倫とかじゃないのよ、誤解しないでね。聡さんは不誠実でも女性にだらしない人でもないの。私も彼も少し運が悪かっただけ……。人生に必要な遠回りってあるものね」
 
 遠回りしても辿り着ける道ならいい。だが万里子には、命を育むことの出来る夏海に対して、劣等感のみが降り積もっていった。
  
「本当にお幸せそうで、羨ましいです。素敵なご夫婦で、『理想の家庭』だと……。遠回りしても辿り着けたらいいんですけど……」
「それは……僕が相手じゃ出来ないと言ってるのか?」
 自分の失言が気になっていた卓巳は、些細な万里子の言動にもイラついている。

 だが、その時、急に夏海の表情が変わった。
 万里子の言葉に、笑顔のまま涙をポロポロ零し始める。驚いたのが卓巳と万里子だ。何も、彼女に対して悪いことは言ってないつもりであった。 

「どうした?」
「そんな風に言ってもらえる日が来るなんて……思ってなかったから、嬉しくて……ごめんなさい。驚かせてしまって」
「君のおかげだ。感謝を忘れた日はない。――藤原、些細な誤解や不安は、溜まると利息が付くんだ。人生は結果よりも過程が重要なこともある。何を成したかより、成そうとしたか、だ。家に戻るまでに、万里子さんの誤解を解いておけ。明日も幸福でいたいならそうしろ」

 一条は妻の肩を抱き、優しく抱き寄せながら卓巳に忠告するのだった。


~*~*~*~*~


「結婚した時に植えた桜の木が、ようやく花を咲かせるようになったそうです。春には、見に来て欲しいって、夏海さんが仰ってました」
「ああ、そうか……」
 万里子が運転する帰宅途中、交わしたのはそんな会話だけだった。

 一生を約束しても、二人の間には共有できるものが少な過ぎる。
 夫婦の間にだけ漂わせることの出来るベッドの中の秘密も、かすがいと呼べるはずの子供も、現状では何も得ることは出来ないのだ。
 
 だが翌日、藤原邸の正門から玄関までを右に迂回する車道沿いの木が、一斉に植え替えられた。
 何ごとが起こったのか訳が判らない。戸惑う万里子の手を引き、卓巳は新しく植樹された苗木の側まで連れて来たのだった。
 苗木の近くにはまだ造園業者と、住み込みの庭師・ひいらぎが仕上げの作業をしていた。
 卓巳より少し年長だが、土いじりが何より好きだという柊は、少し呆れたような声で万里子に声を掛ける。
「これほどの寒さですからね、植樹はギリギリですよ。もっと早く言って下さればよかったんですが……」

 そこに植えられていたのは、見渡す限りの桜の苗木であった。

「一条先生のお宅は一本だったろう? ざっと三十本は植えた。先生の奥さんより三十倍は幸せにしてやるから……羨ましがる必要はない。判ったな」
 
 万里子の頬に涙が伝った。
 数が問題ではないのに……万里子はそう思い掛けて訂正した。それを言うなら寧ろ、桜の数ではなく『卓巳の心』が重要なのだ。不器用でも、精一杯の想いを示そうとしてくれる。それを“愛”と呼ばずしてなんと呼ぶのであろう。

「足りないなら裏庭にも……」
「いいえ。いいえ、もう充分です。春が楽しみですね」

 来年は無理だろう。再来年も難しいかも知れない。でも、何年掛かっても何十年掛けても咲かせて行けばいい。
 万里子の心には、満開の桜並木の下、寄り添うふたりの姿が浮かんでいた。

 ―-そして、それが二人きりではない幸運を、この時の卓巳と万里子はまだ知らない。


御堂です。どうもありがとうございます。
質より量!コレが卓巳の基本でしょうか?
超幸せそうなだなぁ~どっちのカップルも。
明日から、「鬼」って言われるかな(苦笑)
いやいや、ラストの引きに相応しい幸せを掴むために頑張ります!
後半戦も応援よろしくお願い致しますm(__)m
拍手&メッセージお待ちしております。


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