「なるほど、なるほど。じゃあ、まだ喧嘩の真っ最中なわけですね」
雪音は可愛いお花で飾られた小さなイスに腰かけ、万里子に話しかけてくる。
今日の万里子は白いフリルのついたエプロン姿だった。実行委員はみんなお揃いだ。髪の長い万里子の場合、三つ編みにしたうえで、落ちてこないようにバンダナでとめていた。
喫茶コーナー担当の万里子がいるのは、飲食コーナーに指定されている遊戯室。
隣の給湯室を挟んで外に出る扉があり、すぐ外にテントが設置されていた。そこが焼きそばコーナーになっていて、卓巳と、今は愛実が準備をしているはずだ。
スタート前の準備時間、先に準備を終えた万里子は手伝いに行かず、雪音が来たのをいいことに、ついつい話し込む。
「だって……卓巳さんの大学時代の女性ってすごく気になってて。美馬さんに聞いたらわかるって思ったんだもの。……宗さんくらいだと、気にならないのかも知れないけど」
「まあ、ウチはあんまり知りたいとは思いませんね……ロクなことはしてないだろうから」
雪音は否定するのかと思ったが、あっさり肯定して笑っている。
「美馬さんはすごく卓巳さんのことを褒めてくれて、それに、女性のことも……」
難攻不落のひと言で、卓巳が自分から女性を口説いたり、積極的にしていたわけではないのだ、と万里子に教えてくれた。
「やっぱり、卓巳さんにはわたしだけなんだわって思って嬉しかったのに。あんなふうに、駄々っ子みたいな言い方するんだもの」
万里子が気にしていたのは、それだけではなかった。
藤臣を敵視する理由が過去の女性でないなら、原因はひとつしかない。
「結人の入学式で会ったとき、美馬さんには生まれたばかりの娘さんがいて……。その後からよ。次はしばらく時間を空けて、って話していたのに、やっぱり五人目を作ろうって言い始めて」
万里子は万里子で娘が授からないことを気にしていた。
そんな彼女に卓巳は『美馬に倣って、もっと若い女性を探すとしよう』と。言うにこと欠いて、愛実と比べたのだ。
万里子でなければ、もっと若い女性なら、自分に娘を与えてくれるのに……万里子の耳にはそんなふうに聞こえた。
「考えすぎですよ。卓巳様にそこまでの思惑はありませんて。単なるヤキモチじゃないんですか?」
雪音の言葉もわからないではない。
本当を言うと、万里子もわかっているのだ。なんと言っても、卓巳には自分しか……。
「あんまり冷たくすると、さすがの卓巳様でも浮気しちゃうかも知れませんよ」
「まさか! 卓巳さんに限って。あの人には……わたしだけだもの」
「でも、結婚八年でしょう? だいぶアッチも慣れてきて、目移りする時期かも。それに、完全復活してるかどうか、試してみたくなったり? だって、四十の大台に乗っちゃうと、落ちてくるだろうし。今なら男盛りって言いますもんねぇ」
雪音の言葉に万里子はドキンとした。
あの卓巳が万里子以外の女性と、なんて……。
「えっと……ちょっと、見に行ってみようかしら。その……愛実さんだけに任せるのも悪いし……」
急にそわそわして立ち上がる万里子を見て、雪音はクスッと笑った。
~*~*~*~*~
「お似合いですよ、社長」
宗の言葉に卓巳はムッとした顔を浮かべる。
何の嫌がらせか、万里子が卓巳に手渡したエプロンには、ピーターラビットが描かれていた。通りすがりの園児の母親や先生たちが、卓巳の姿を見るたびに笑っている。
「手伝いましょうか、という気にはならないのか?」
「無理言わないでください。ご覧のとおり、両手に花なんですから」
長男は妻の雪音がベビーカーで連れて行ったらしい。
宗の左右に双子の娘が立ち、二歳の三女を抱っこしている。確かに、これで手伝えというのは酷というものか。
「もう少ししましたら、体育館でオープニングセレモニーが始まりますので……。それが終わったら、体育館は遊びコーナーになりますから、お子さんたちも好きに遊んでくれると思いますよ」
大変そうな宗を見かねたのか、愛実が声をかけた。
万里子より小柄で繊細そうな女性だ。いや、万里子が図太いとは言わないが、一旦決めたらテコでも譲らないという頑固さはある。
(心配じゃないのか? 手伝いにきてもいいじゃないか。あんな売り言葉に買い言葉を、真に受けなくったって……)
鉄板を温め、油を引いて馴染ませ、それを何度か繰り返した後、卓巳は豚肉から焼き始める。
野菜がキャベツしかない、というのに問題を感じるが、まあ、幼稚園のイベントなら、こんなものなのだろう。
「でも……ビックリしました。藤原さんに焼きそばが焼けるなんて」
「中学の頃から働いていたからね。それでも飲食はあまり経験はないんだが……。どちらかといえば、力仕事が多かったかな」
「まあ! 私もアルバイトはたくさんしました。レストランの厨房でお皿洗いや仕込みの準備とかしてたんですよ」
「私が十代の頃は手で洗ってたな。酷く手が荒れたのを覚えているんだが……。今は機械で洗うんだろうな……」
「ええ、私のときはもう機械でした。でも、野菜は水洗いなので……真冬は辛かったです」
「ああ、確かに」
ふたりは顔を合わせて笑った。
(美馬の嫁さんにしちゃ、まともな女性じゃないか。……ひょっとして騙されてるのか?)
卓巳は心の中でとんでもない想像をしつつ……。
そのとき、姉弟らしき子供がふたり、愛実を見つけて駆け寄ってきた。
「あら、瑞穂ちゃんと大輔くん。来てくれたのね」
瑞穂と呼ばれた少女はちょうど宗の双子たちと同じくらいだろうか。愛実に向かって「おはようございます」と頭を下げた。少年のほうはまだ全力で走れる年齢ではなく、姉に引っ張られている。
「奥様、おはようございます。何かお手伝いができたら、と思ってきたんですが……。お子さんたちは?」
「上ふたりはお友達と一緒に来るみたいなの。忍は、実行委員用のベビールームで預かっていただいてるのよ」
子供たちの後方から現れた女性を見て、卓巳は息を飲む。
宗から聞いていたが……。宗を見ると、卓巳以上に青ざめている。
「あ、藤原さん、紹介します。主人の秘書である瀬崎さんの奥様、香織さんです。……おふたりとも、瀬崎さんのご主人とは面識があると聞いてるんですが、香織さんのことはどうなのかしら?」
愛実は屈託ない笑顔で、卓巳と宗に向かって香織を紹介した。藤原本社に勤めていたことは知っているが、宗との関係までは知らない口ぶりだ。
香織のほうは大して驚いている様子はない。
「ご無沙汰しております。結婚して、名前が瀬崎になりました。――主人がいつもお世話になっております」
そう言いながら、ゆっくりと頭を下げた。
香織は卓巳と変わらない年齢だったはずだ。藤原本社の秘書室にいたときは、どこかギスギスした印象だったが、今は角が取れて艶めいて見える。
「瀬崎氏は秘書としてだけでなく、経営者としての才覚もある。ぜひ、引き抜きたいくらいだ。それに、君も優秀な秘書だったが……。うちにいた時は世話になったね。今は幸福そうで何よりだ」
「まあ、お世辞でもうれしいですわ。でも主人は、こちらの美馬さんのご主人と、実の兄弟のように仲がよくて……。藤原社長と宗さんみたいなんですよ」
「仲が悪いとは言わんが……宗を兄と思ったことは一度もないぞ。どちらかと言えば、反面教師というヤツだな」
卓巳の言葉に、愛実と香織は顔を見合わせ、クスクスと笑っている。
「社長……それはあんまりですよ」
「いやいや、私も秘書を取り替えたい気分だな」
卓巳の嫌味に気づいたのか、宗も嫌味で切り返してきた。
「それはそれは、“奥様ごと”ですか?」
「言うじゃないか、宗。お前もそのつもりじゃあるまいな」
嫌味の応酬を聞いても、愛実には何のことかわからないようだ。きょとんとした顔をしている。
一方、香織はピンときたのか……。
「イヤですわ。おふたりとも、たくさんのお子さんに囲まれて、とってもお幸せそうですのに」
「ええ、もちろんですよ。社長もそうですよね」
きっぱりと言い切る宗の様子に妙なものを感じつつ……。
「ああ、四人の息子に囲まれ、この上なく幸福だ。妻から、焼きそばを焼けと命令されても逆らえないくらいにな」
「それは申し訳ありませんでした。お願いしたつもりでしたのに、命令だなんて」
振り向いた卓巳の目に映ったのは、頬を引き攣らせて立つ万里子だった。
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