美馬邸は、藤原邸と別の意味で嵐が起こっていた。
「どうして? どうしてパパは仕事に行っちゃったのっ!?」
頑張って十一時まで起きて、北斗は藤臣の帰りを待った。でも、どうしても睡魔には勝てず……。その代わり、明日の朝はできるだけ早く起きて、父と一緒に幼稚園に行こうと張り切っていたのだ。
だが……。
北斗が目を覚まし、一階に駆け下りたとき、藤臣は仕事に出かけた後だった。
「仕事が終わったら来てくれるって。もし来られなくても、尚樹お兄ちゃんが来てくれるから……」
愛実は必死で北斗の機嫌を取る。
「うそだ! パパは来たくないんだ!」
「そんなはずないわ。ほら、お仕事が忙しくない頃、大地くんの幼稚園行事にはちゃんと参加してたでしょう?」
「じゃあ、僕がきらいなんだ!」
「北斗くん。パパが北斗くんのこと嫌いなはずがないじゃない」
北斗の大声に忍が泣き始める。
すると、北斗は妹に向かって怒鳴った。
「うるさい! うるさい! うるさい!」
「北斗くん! お兄ちゃんがなんてこと言うの。北斗くんが大きな声を出すから、しーちゃんが泣き出したんでしょう」
愛実に叱られ、今度は母親に向かって怒りをぶつける。
「きらいだ。パパも、ママも、お兄ちゃんも忍も、だいっきらいだーっ!!」
「北斗! 裏から文句を言われるから、うるさくするな」
大地が二階から下りてきて北斗を叱った。
「でも、パパが……」
「ママを困らせないって約束しただろ。早く着替えてこいよ」
「幼稚園は行かない。行っても笑われるだけだよ……パパが来ないから」
「北斗が行かないと、ママがもっと笑われる。ママを泣かさない、困らせないって決めたろ。だから行け!」
学年は一つしか違わないのに、北斗は大地の言うことをよく聞く。
兄に叱られ、北斗はとぼとぼと階段を上がって行った。
「ありがとう、大地くん……ごめんね」
兄弟の容姿はよく似ていて、ふたりとも母親似だ。だが、成長するごとに、特に大地のしゃべり方は藤臣に似てきている。
「パパのいない時は、ママと北斗と忍を守るのは僕の役目だって、パパと約束したから……。僕、早く大人になるからね。立派な大人になって、みんなを見返してやるんだ」
「うん、頼りにしてるわね。……でも、大人になるまではママが大地くんを守ってあげる。ママはそんなに弱くないから、甘えてもいいのよ」
暴れることのできる北斗より、我慢してしまう大地のほうが心配で、愛実は七歳の息子を力いっぱい抱きしめた。
藤臣は『できるだけ行けるようにするから』と言って六時過ぎには家を出た。
もし、藤臣が来られなかったら……。
そのときは区立の保育園に移ろう。可哀想だけど、大地も公立の小学校に転校させよう。良くも悪くも目立つ“美馬”の名前は使わず、愛実の旧姓“西園寺”で通えるようにしてもらおう。
そう心に決める愛実だった。
~*~*~*~*~
子どもが何人いてもメイドの手が借りられる万里子と違い、雪音の場合はすべてひとりで面倒を見なくてはならない。
小さな子どものいる家庭、それも『家族でお出かけしよう』なんていうときは戦場だ。
「ママぁ、和ちゃんがピンクのゴムとったの。藤ちゃんのなのにぃ」
「ちがうもん! かしてって言ったもん。今日は和ちゃんがピンクなのっ」
「藤ちゃん、青きらいっ!」
髪をくくるゴムの色をめぐって、双子の娘は奪い合いを始める。
朝から怒りたくはない。怒っても、子どもはいうこと聞かないし……とわかってても、叫びたくなるのがママの心情だ。
「ふたりとも、青とピンクの一本ずつでくくりなさいっ! イヤならお留守番よっ!」
姉の和音はふくれながらも無言で髪をくくり始め、妹の藤音はしばらくグスグス泣いていた。それでも放っておくと、和音のほうが妹の髪をとかして、くくってやっている。
十分もすると、ふたりは顔を合わせてキャアキャアと笑い始めるのだから……。
(ホント、子どもってわからない……)
末っ子でひとり息子、幸仁の準備をしながら思う雪音だった。
「絢ちゃんの着替え終わったぞ」
そう言って三女の絢音を抱き、子ども部屋から出てきたのは夫、宗行臣だった。
「ありがとう。今日は赤なんだ、絢はいいね~お洋服いっぱいあって」
「ふたり分のお下がりだもんな」
「大丈夫、大丈夫、絢にはまだわかんないから」
夫婦は顔を合わせて笑う。
女の子だからわかるようになったら文句を言うかもしれない。
(まあ、そのときはパパのお小遣いを減らせばいいし……)
雪音はにっこり笑いつつ、宗に尋ねた。
「それで、卓巳様ってマジでそんなこと言っちゃったの?」
「真っ青になりながら言わなくてもいいのにな……。まったく、困った人だよ」
昨夜の顛末を宗から聞いたのは今朝のこと。
「万里子様、怒ってたでしょ」
「そりゃもう……睨まれたときは石になるかと思ったさ」
「今日、大丈夫なの? まさか、夫婦喧嘩で行事欠席なんてしないと思うけど……。卓巳様って意外と子どもっぽいし」
雪音は万里子が嫁いでくる前から藤原邸で働いていた。ある意味、万里子より卓巳との付き合いは長い。万里子と結婚前の卓巳は、自宅では無彩色に近かった。いるのかいないのかわからず、感情のない人なのだ、と思ったこともある。
だが万里子と結婚して……卓巳が見た目より、おそろしく不器用だと知った。
「しかしなぁ……万里子様も、よりにもよって、あの美馬と会わなくても」
「ちょっと話をしてすぐに帰るつもりだったのよ。まさか、卓巳様と鉢合わせなんて……。普通はそこまで想像しないもの」
雪音の予想では、万里子のほうも驚いたことだろう。
というか……卓巳に知られたらまずい、と思いながら会いに行ったのだと察する。卓巳は余計なことを言わず、黙っていればよかったのだ。そのときは万里子のほうから『ごめんなさい』と言ったに違いない。
仕事では完璧に計算ができる卓巳なのに……そんな雪音の言葉に、宗もうなずいた。
「まあ、そうだろうな。でも、その駆け引きができないところに万里子様も惚れたんだろうし……。第一、お前だってそうだろう? 俺が中澤あたりと仕事以外で会ってたら、ホテルのロビーにいただけでも怒るんじゃないか?」
「あのね……万里子様はどっかの下半身無節操オトコとは違うでしょ! それに、幼稚園行事の件で父兄に会うのと、昔の女と会うのをごっちゃにしないでくれる!?」
「はい、すみません」
しゅん、とした宗を横目に雪音は立ち上がる。
「さあ! それじゃ今日は、卓巳様の焼いた焼きソバを食べに行きましょうか」
と、そのとき……。
「ママぁ! 和ちゃんが藤ちゃんのくつ下とったぁ~」
娘たちを怒鳴りつけるため、雪音はスーッと息を吸い込んだ。
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