最愛の妻、万里子が美馬藤臣と談笑している。
それを目にした瞬間、卓巳の理性は十万光年彼方に飛び去った。隣で秘書の宗が、『私が事情を聞いてきましょう。社長は出られないほうが』そんなことを言っていた気がする。だが、卓巳は宗の気遣いを無視して、ふたりのもとに歩み寄った。
「た、卓巳さん……」
万里子は目を見開いて夫を見ている。その仕草が、まるで密会に乗り込まれた人妻のようで、卓巳の怒りを煽った。
「知らなかったな。君が東部日本貿易の常務と懇意にしていたとは」
「明日のエコ・カーニバルのことです」
万里子は卓巳の嫌味に気づいたのか、ムッとした顔をで言い返す。
「それはそれは。我々との会議を控えて、随分と余裕があるらしい」
卓巳は射るような視線を藤臣に向けた。
それを真正面から受け止め、藤臣は少し困ったように笑う。
「とんでもない。余裕がないので、奥様に藤原社長の攻略法を伺っていたところですよ」
「なっ!」
真っ青になる卓巳をよそに、
「冗談です。ご主人がいらしたなら、安心ですね。どうもありがとうございました。それでは、失礼いたします」
藤臣は万里子と卓巳に会釈をして背を向ける。
何も答えずに顔を背けた卓巳とは逆に、
「いえ、こちらこそ。大事なお仕事の邪魔をしてしまい、申し訳ありませんでした」
万里子はわざわざ藤臣の後を追い、謝罪を口にしたのだ。
「万里子! もういい。来なさい」
まさか、一流ホテルのロビーで彼女の手をつかみ、引きずるような真似はできない。そんな卓巳の言葉を万里子は聞き流し……「明日、お会いできるのを楽しみにしています」そう付け加えた。
軽く手を上げた藤臣を、ジッと見送る万里子の姿に、卓巳は信じられないほどの憤りを感じていた。
「宗、上に部屋を取れ。――万里子、言い訳なら後で聞こう。君はそこで待って……おいっ! 万里子っ!」
目の前を素通りしていく妻の後を、卓巳は慌てて追いかける。
「どこに行く気だ!」
「家に帰るんです。もうすぐ八時ですもの。帰ったら、子供たちを寝かさないと」
ホテルで男と会っていたところを夫に見つかったのだ。
それなのに、万里子は何もなかったかのように子供たちのことを口にする。
「子供たちにはメイドがいる。今はそれどころじゃないだろう!?」
「何がですか?」
「美馬とホテルにいながら、釈明もなしか!?」
肩で息をしながら、卓巳はできる限り音量を落として怒鳴った。
それでも、周囲の数人は不審そうにこちらを見ている。
「ロビーラウンジのスペースから出てきたことはおわかりでしょう? 事情なら、明日のことだとお話しました」
興奮する卓巳とは逆に、万里子は妙に冷めた瞳で夫を見上げた。
そして口にしたのは……。
「卓巳さん、いつまでも二十歳そこそこの、学生のような態度は取らないでください。美馬さんはちゃんと態度を分けていらっしゃるじゃありませんか。あまり、恥ずかしいことはなさらないで……。――まさかとは思いますけど。公私混同なんてなさいませんよね?」
万里子の言葉に、卓巳の中のストッパーが外れた。
「君は何か勘違いをしてるんじゃないのか? 何をしても、私は君の言いなりだ、と」
「お話なら、帰ってから伺います」
「忘れるな。藤原邸に君の帰る場所があるのは、私の妻でいられるからだ、ということを」
その傲岸不遜なセリフは万里子の足を止めることに成功したが、同時に、かつてないほど彼女を怒らせることになり……。
「それは、わたしに妻でいて欲しくないということですか?」
「そんなことは言ってない」
「わかりました。明日のPTA行事が終わりしだい、実家に帰らせていただきます」
そこで、そんな必要はない、と言えばよかったのだ。
だが、このときの卓巳は、藤臣と比べられたことにどうしようもない腹立ちを覚えていた。
「帰りたければ帰ればいい。だが、子供たちは置いていけ!」
万里子は目を見開く。
「いいか? たとえ何があっても、ひとりも君には渡さない! 私の息子たちだ。本気で怒らせて勝てると思うなよ。子供と離れたくなければ、これ以上私に逆らうなっ!」
「……社長……」
背後で宗の声がする。それは微妙に震えていた。
(ま、まずかったか? 万里子が泣き出したら……すぐに追いかけて謝ろう)
卓巳の中で、謝罪のパターンと効果的な土下座の方法まで思いついたとき、万里子の口から予想外の言葉がこぼれた。
「そうですか。では、私は一条先生にご相談いたします」
「……え?」
万里子の瞳から溢れたのは涙ではなく、失望の光。引き止める暇もなく、万里子は身を翻してスタスタと出口に向かう。
卓巳は怒りに任せて、とんでもない過ちを犯したことに気づいた。
だが、とても取り消せる状況ではない。
「社長、すぐに後を追ってください。会議のほうは理由を作って延期させますから」
宗の言葉を卓巳はあっさり却下した。
「馬鹿を言うな。夫婦喧嘩で妻のご機嫌を取りにいったとでも言うつもりか? そんなこと……美馬に笑われるだけだ!」
「ですが……あの言い方は拙いと思います。奥様は本気で怒っておられましたよ」
「私がいつも折れてやってるのをいいことに、調子に乗ってるんだ。たまには、いい薬だろう」
ロビーから消え去った万里子のことをわざとらしく無視して、卓巳は会議の書類に目を落とす。
「何が恥ずかしいだ。ロビーといってもホテルはホテルだ。帰ったら、コンコンと説教してやる!」
小声でブツブツ言い続ける卓巳に、宗はポツリと呟く。
「帰ったとき、家にいらっしゃるといいんですが……」
「……」
直後の会議は散々だった。まさか本当に、藤臣に当たるわけにはいかない。卓巳は平静を装いながら、万里子が藤原邸に帰宅するよう、祈り続けていた。
~*~*~*~*~
会議中の卓巳の様子は、まさに“心ここにあらず”だった。
おかげで美馬にとっては有利な方向に話を進められたが、今回だけでは決着まで至らず。次回に持ち越しとなる。藤原からの巻き返しは必至だろう。
どうやら、藤原夫妻の仲に藤臣が一石投じることになってしまったようだ。とはいえ、彼には何もできない。いや、何かをしようとしたら、逆になるのは目に見えていた。
(驚いたな……藤原の動揺が見られるとは。嫁さんにはいつもああなんだろうか?)
どう見ても、何かの用事があってホテルのラウンジでお茶を飲んでいたのは明らかだ。上に部屋を取るような男女の距離が、一見してわからないような間抜けな男とは思えない。
「申し訳ありません、常務。ついつい事情を聞いていたもので……。しかし、相手が悪かったですね」
瀬崎は会議室から出てくる藤臣を待ち構えて謝罪を口にした。
卓巳の怒りを買ったことを、彼も目にしていたからだ。会議に影を落としたのではないか、と案じていたらしい。
「いや、今日のヤツが相手なら楽勝だな。だが、悪巧みを働いたみたいで……どうも、気分が悪い」
「常務のせいではありませんよ」
瀬崎は藤臣にとって兄同然の男だ。藤臣の立場がどれほど悪くなろうと、常に味方でいてくれた。今、東部日本貿易を中心に傘下数社の社長を藤臣が兼任し、かろうじて藤原と競り合えるのは、瀬崎のおかげともいえる。
「瀬崎、明日の予定だが――」
「イースト・アメリカン空港の東アジア担当者が、ぜひ常務にお会いしたいと。和威様経由で連絡がありました」
藤臣は数秒間息を止め、短く答えた。
「わかった」
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