「ごめんね、北斗くん。パパが悪いんじゃないの。ママが、今日の用意があるってパパに言い忘れちゃったの。ホントにごめんなさい」
愛実がしゃがみ込んで北斗に謝った。
すると、
「僕、平気だよ! ママは泣いちゃダメだからね。僕がパパの分もガンバルから」
愛実の悲しそうな表情に気づいたのか、北斗は急にはしゃいだ声をあげた。
そんな息子の期待に応えようと、愛実は無理やり笑顔を見せる。とたんに、北斗もホッとしたような笑顔になった。
飲食コーナーが設けられるのは遊戯室。
鉄板は前日に組み立てる。ガスは当日でないと取り付けてもらえないが、飲食用の椅子やテーブルを運んだり、外にテントを作ったりする力仕事があった。
その間に、女性陣は野菜の下ごしらえをする。
喫茶コーナーではマドレーヌやクッキーをドリンクに添えることになっていた。それは万里子が自宅で作って持ってくる予定だ。可能な限り、万里子自身が作ると言っていたが……。
『どうしても間に合いそうになかったら、コックにお願いしてあるの。ちょっとズルだけど、見逃してね』
愛実と話したとき、万里子はそんなふうに言っていた。
今回の実行委員の中で飲食コーナーの責任者的立場である万里子は、かなり忙しそうだ。食品は衛生面を考え、学校と取引のある業者に注文してあるが、細々したものの買出しは別だった。保健所の申請や、専門器具の手配もある。
それに、他の母親たちはやる気はあっても要領が悪い。普段は人任せにすることが多いのだろう。
その中で、最も多くの使用人に囲まれているはずの万里子が、一番テキパキとして段取りが良かった。それもそのはず、万里子は大学のとき、幼稚園と小学校の教員免許を取ったという。
『教育実習とボランティアでしか教壇には立ってないから……実際の経験はないのよ』
万里子は控えめに言うが、愛実には彼女が眩しかった。
同じことをしろと言われても、愛実にはできないだろう。生後四ヶ月の娘がいるから、という理由もある。でもそれだけじゃないことを、愛実自身がわかっていた。
(高校時代はバイトで追われてたし、三年のときはほとんど通ってないんだもの。それに、お友だちを作るのも苦手だし……)
考えてみれば、結婚前から十二歳違いの末弟・慎也の面倒をずっと見てきた。
高校三年になってすぐ藤臣と出逢った。お金のために愛人になることを承諾したものの、最初から藤臣に惹かれていた。半年後には妊娠、出逢いから一年も経たずに結婚。藤臣に子どものための結婚ではなく、愛しているからと言われたとき、愛実は飛び上がるほど嬉しかった。
でも、藤臣が優しくなったのは結婚してからなので、ふたりきりの甘いデートの思い出もない。結婚前の藤臣は自分本位で、一緒にいるときはデートというよりセックスばかりだった。結婚後は何年も家計のやり繰りと子育てに追われてきた気がする。
なのに、愛実の実家“西園寺家”は身分だけは高い。旧華族で彼女の肩書きは、旧伯爵家令嬢という大げさなものだ。
なんの実を伴わない身分でも妬む人間はいて、愛実が悩まされる原因のひとつになっている。
万里子を羨む気持ちはないし、子供たちの世話が嫌だと思ったことなど一度もない。
でも……。
「愛実さん。お疲れさま! 北斗くん頑張ってたわよ。パパの代わりだから長机も自分で運ぶんだって言って」
「まあ。すみません、準備の邪魔をしたんじゃないかしら」
愛実は野菜を切ったまな板を洗っていた手を止め、エプロンで濡れた手を拭った。
「とんでもない! うちの大樹も負けまいと頑張っちゃって、ふたりで運んでたわ。あれで仲良くなってくれたらいいんだけど」
万里子の笑顔に愛実は安堵の笑みをこぼす。
「そうですね。あ、忍はいい子にしてるでしょうか? 藤原のメイドさんにお任せしてしまって」
万里子にも、まもなく一歳の四男と来年の春から幼稚園の三男がいる。
一日仕事になるPTA行事では、万里子は決まって専属のメイドを伴い、小さな子どもたちも連れて来ていた。そういったときは必ず、ついでだから、と言い、空いた教室で同行している乳幼児の世話も引き受けてくれるのだ。
「さっき覗いたときは眠ってたわよ。うちも下ふたりはお昼寝中。でなきゃ光希なんて、お兄ちゃんの真似をしようとチョロチョロして大変」
万里子につられて愛実も声を立てて笑う。
そのとき、
「万里子、悪いが迎えが来た。そろそろ抜けていいかな?」
そう言って姿を見せたのは藤原卓巳、その人だった。
卓巳は藤臣に比べて五センチ以上低いのではないだろうか。体格もいくらか細身ですっきりして見える。貴公子然とした顔つきは、魅力的な男性に違いはないが……。
愛実にすれば冷ややかな印象が先に立ち、緊張を覚えた。
「ええ、今日はご苦労さま。明日も朝からお願いね」
「はいはい。仰せのままに」
「もうっ! 卓巳さんたら。わたしがムリヤリ押し付けたみたいじゃないの」
「……違ったのか?」
「卓巳さんっ!」
ふたりのやり取りを聞いて愛実がクスッと笑うと、
「あ、そうだわ。こちらが北斗くんのママで美馬愛実さん」
万里子に紹介され、愛実も挨拶をする。
「はじめまして。奥様にはいつもお世話になっております」
「いや、こちらこそ。先日は大樹が北斗くんに怪我をさせてしまったとか。申し訳ないことをしました。でも、今日は元気に手伝ってくれて……たいしたことがなかったようで、よかったです」
軽く会釈をして卓巳は北斗の怪我を気遣った。
だが、続けて卓巳が口にしたのは、
「明日ですが……。美馬は仕事を抜けてくるのかな? 彼の会社は株主総会でちょっとしたトラブルがあって、数字を出さなきゃならないはずなんだが」
ふいに探るような視線を向けられ、その変化について行けず、愛実は戸惑いを露わにした。
「お仕事のことを愛実さんに聞いてもわかるはずがないでしょう? わたしだって卓巳さんが今からどんなお仕事に行かれるのか、まったく知りませんもの」
万里子のフォローに卓巳は愛実から目を逸らせる。
「ああ、すまない。他意はないんだ。ただ、北斗くんが楽しみにしてるみたいだから、ちょっと気になってね。明日、一緒に焼きそばを焼くのを楽しみにしている、そうお伝えください。じゃ」
万里子は夫を正面玄関まで見送ると言ってその場から離れた。
ふたりの後姿を、複雑な心境でみつめる愛実だった。
~*~*~*~*~
卓巳に悪気はないと思いたい。
それに万里子自身、藤臣が本当に来るのかどうか不安に思っていた。
愛実と藤臣の記事は万里子も目を通した。あれが真実とは到底思えない。だが、ふたりにしかわからない微妙な関係があったのだと察する。
微妙な関係……それを言うなら万里子も同じだ。
婚約当時、藤原グループの社長に見初められた“聖マリアのシンデレラ”と週刊誌に書かれたが……。実際は、本当の結婚がしたくない卓巳が計画した偽装結婚であった。
卓巳は悪い人間ではないが、経営者としては非情な面も持ち合わせているという。
藤臣はどんな人物なのだろう。愛実とは、子どもの話は気軽にできるようになったが、『ご主人ってどんな方なの?』と聞けるほどの親密さはない。
夫の話を丸々信用するわけではないが、卓巳の知っている藤臣はあまり信頼のおける男性ではなかったようだ。
(本当に、美馬さんてどんな方なのかしら? 愛実さんや子どもさんのために、仕事を後回しにしてくれるかどうか……)
会社の責任者として、後回しにはできない時もある。そのことは万里子にもわかっている。
(それでも、と夫に願うのは……単なるわがままなの?)
「あやまれっ!」
その直後、思い悩む万里子の耳に聞き覚えのある声が飛び込んできた。
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