番外編―仲良きことは美しきかな
(5)妻の交渉―万里子
「なんだ、そんなことか。それがどうしたと言うんだ?」
万里子が問いただしたとき、それが卓巳の第一声だった。
子供たちの前で『美馬は悪いことをしてきたんだ。美馬の人間には気をつけろ』そんな言葉を口にするなんて、万里子には正しいことだとは思えない。
だが、卓巳にすれば違うという。
「理想を言えばそうだろう。だが万里子、子供たちの未来を決めてしまう気はないが……。藤原家の息子として生まれた以上、誰かにこの会社を継いで欲しいと思う。――君は反対か?」
「いいえ……そんなことは言ってません。できるなら、兄弟で助け合って守っていって欲しいと思います。でも、それとこれとは……」
「同じだ。友人だと思えば甘えも出る。助け合いの精神だけでは、これだけの会社を維持していくことはできない」
卓巳は無造作にネクタイを解き、万里子に差し出した。
それをいつもどおり受け取りながら、
「そんなことを言い出したら、子供たちは友だちも作れません。わたしは……大学時代に誰とも親しい付き合いをしてこなかったから、彼女たちとはたまに会うくらいになってしまいましたけど。卓巳さんにとって宗さんは、ただの秘書ではなく親友でしょう?」
幼稚園・小学校時代の友だちと、大人になっても付き合いがあるのは稀ではないだろうか? 卓巳が宗と親しくなったのも大学卒業後だと聞く。
遠い将来、社会的に対立したとき、相手との懐かしい思い出があれば情が芽生えて判断を誤る。卓巳はそんなことを案じているのかもしれないが。
しかし、それでは“美馬”に限定する意味がわからない。
(今日の友は明日の敵というし……逆もあるのだから、気にしていたらきりがないわ)
万里子は納得できない顔つきで卓巳を見ていると、彼も気づいたのか渋々口を開いた。
「君と結婚した頃……大学生だった太一郎の放蕩ぶりを覚えているか?」
「え? ええ、まあ」
卓巳は唐突に、彼の従弟の名前を口にした。
「太一郎は計算するヤツじゃないから、ただ無軌道に暴れていたが……。私の知っている美馬は、あの太一郎の傍若無人な振る舞いを、計算してやっていたようなヤツだ。当時の美馬は相当な力があったからな」
「でも、それは大学時代のお話でしょう? もう十年以上前のことじゃありませんか」
「今は違うと、どうして君に言えるんだ?」
万里子の反論を卓巳はひと言で切り捨てた。
よほど根深いものがあるらしく、卓巳も一筋縄ではいきそうもない。
万里子は一旦口を閉じ、矛先を変えてみることにした。
「そのことがきっかけで、大樹が美馬さんの息子さんに怪我をさせたんです。もちろん、わざとじゃありませんけれど……」
さすがに、卓巳も顔色が変わった。
「怪我の具合は? ひどいのか?」
万里子は怪我は軽症であることと幼稚園側の過剰な気づかい、美馬家を訪れ謝罪したことを伝える。
愛実と話した内容を口にしようとした途端、
「どうして君が謝罪に行ったりするんだ!」
と珍しく卓巳が声を荒げた。
「どうしてって……子供がしたことですもの。母親がお詫びに行って当然でしょう? 本当は大樹も連れて行きたかったんですけど。北斗くんには明日の朝、幼稚園で謝るように言いましたから」
「駄目だ! 謝罪などしたらこちらの非を認めるようなものじゃないか!? 園側は大樹のせいじゃないと言ってるんだ。だったら君が息子に罪を押し付けてどうする? もし、美馬が文句を言ってくるようなら、うちの顧問弁護士に任せて……」
はじめは唖然としていた万里子だが、ハッと我に返り叫んだ。
「子供のケンカですよ。会社の賠償問題とは違うんです!」
「だが……」
「何が弁護士ですか。どこの世界に子供のケンカで訴訟を起こす親がいるんです!? 馬鹿なことおっしゃらないで!」
万里子の剣幕に卓巳もビックリしたようで、目を丸くしている。
それに、落ち着いて考えると、自分の言いすぎにも気づいたらしい。コホンと咳払いを一つして、宥めるように万里子の肩を抱き寄せた。
「まあ、その……弁護士は言いすぎた。その、君を責めるようなことを言ったのも……私が悪かった。ただ、君が行かなくても、代わりの者をやればよかったんじゃないか、と思っただけなんだ」
口を閉じた万里子が怖くなったのか、せっせとご機嫌を取り始める。
大樹にも悪気はなかったんだし、それに、万里子の論法なら何も“美馬”の息子と友だちにならなくてもいいわけだし……。大樹自身は大勢の友だちと仲良くやっているのだから、問題は美馬の息子にある。それは、向こうが解決すべき問題ではないか、と。
「君が誰にでも優しくて、お節介……あ、いや、面倒見がよいのはいいことだと思うよ。だが、ほら、何ごともほどほどに、と君が私によく言ってるじゃないか。とくに美馬と仲良くしようとしなくても、普通にやれば……」
卓巳からその言葉を聞いた瞬間、万里子はニコッと笑った。
「ええ、そうですね。わたしもそう思います。これまでは卓巳さんが美馬さんの名前を聞いただけで嫌な顔をされるので、なるべく親しくしませんでしたけど……。これからは普通に接したいと思うの。よかった、卓巳さんがわかってくださって」
呆然とする卓巳に、万里子は愛実と話し合ったことを告げる。
それは……
「エコ・カーニバル? なんだ、それは……」
卓巳は素っ頓狂な声をあげた。
それは七月に入ってすぐ、幼稚園のPTAで行うイベントだ。昨年は違うイベントの担当だった万里子だが、今年はエコ・カーニバルの実行委員であった。そして、愛実も同じ実行委員である。それを利用しない手はない、と思ったのだ。
愛実と話し合ったときは、父親同士も参加してもらい、仲良くしているところを子供たちに見せようということになった。
だが香織の話を聞き、子供たちだけでは駄目だと万里子は思いなおす。
卓巳はこう見えて、子供たちの行事にはすべて参加している。入園入学式はもちろん、父親参観や運動会も。だが、美馬が出席したのはこの春の入学式のみ。幼稚園には姿を見せたこともない。
美馬の悪い噂を払拭するためにも、卓巳と協力し合う姿を父兄にも見てもらう必要がある。会社と子供は別だと、“藤原家”としての方針を示さなければならない。
「ムリだ。そんなこと……あの男と協力なんて」
ブツブツ言う卓巳に、万里子はジョーカーを使うことにした。
「そうですか……。卓巳さんはまだ、大学時代に奪われた女性のことを気になさってるんですね」
詳細は不明だが、卓巳は女性絡みの問題で美馬に良い感情を持っていない。それは新婚当時、一条弁護士に話していた言葉で明らかだ。
「ば、ばかを言うなっ! そんなこと」
「いいんです。その方のことを覚えている限り、きっとわたしのお願いなんて……」
「わかった! やる。やればいんだろう。万里子……君ほどの策士を私は知らない。我が社で雇いたいくらいだ」
万里子が本気で疑っていないことを承知で、卓巳は折れてくれたみたいだ。不満そうに前髪をかき上げ、眉間にシワを寄せている。
出逢った頃にくらべたら、少し目尻にシワが増えた。でも端正な顔立ちと誠実な気性は変わらない。加えて、万里子や子供たちのためならどんな犠牲もいとわない心を持っている。
卓巳は永遠に万里子の騎士なのだ。
「ありがとう、卓巳さん」
万里子は背伸びをして卓巳に口づけた。彼の胸に手を添え、頬を寄せる。
「……君には敵わない」
「そんなこと……。卓巳さん、お背中流しましょうか?」
「背中だけ?」
卓巳の唇が万里子の耳たぶに優しく触れる。
万里子はクスッと笑って、「ううん、全部よ」そう答えた。
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