ブックリスト登録機能を使うには ログインユーザー登録が必要です。
番外編―仲良きことは美しきかな
(3)悪い噂

「ご無沙汰しております、万里子様」
 万里子が愛実と色々話し合い、外に出たとき後ろから話しかけられた。
 見覚えのある女性だが咄嗟に思い出せず、言葉に詰まる。
 すると、
「七~八年前にF総合企画の秘書室におりました。志賀香織と申します。あの……宗さんの事件のすぐ後に、社長からご推薦いただき系列銀行に移りまして」
 香織は少し言いにくそうに言葉を濁す。
 そのとき、ようやく万里子は思い出した。
 彼女は宗と個人的に付き合いのあった秘書室の女性だ、と。上品で綺麗な女性だったが、どこか他人を寄せ付けない雰囲気を持っていた。バツイチだと聞いていたが……。
 そのとき、「ママぁ」と彼女のスカートを引っ張る幼い姉弟が目に入る。
「こちらこそ、あの時は色々大変でしたでしょう? でも、職場を移られて、すぐにご結婚されたんですね」
 万里子はひざを折り、幼いふたりに「こんにちは」と笑いかけた。
 でも、ふたりとも人見知りをするタイプなのか、母親の後ろに隠れてしまい……万里子は微笑みながら立ち上がった。
「すみません。ふたりとも恥ずかしがり屋で……。今は瀬崎と申します。夫がこちらの、美馬常務の秘書をしておりまして……秘書室の皆様はお変わりなく?」
 香織が気にしているのは宗のことかもしれない、と思いつつ、
「そうですね、半数ほど顔ぶれが変わったのではないかしら。でも、主人の第一秘書は変わらず中澤さんが務めてくださっています。理想が高いのか、なかなかご縁がないようで……」
 卓巳の個人秘書である宗の周囲で起こった事件は当時マスコミで騒がれ、逮捕者まで出してしまった。逮捕された女性は責任能力が疑問視され、起訴猶予となる。その友人で事件の発端となった女性も会社を辞めた。今はふたりとも新天地で新しい人生を歩み始めたと聞く。
 万里子がそのことを伝えると、香織はホッと息を吐いた。
 それを見てから、ついでのように……「宗さんもご結婚されて、今は四人のお子さんのパパですし」そう付け足したのだ。
 香織は一瞬ハッとしたが、すぐに笑顔を見せる。
 彼女は今、本当に幸せなのだと知り、万里子も嬉しかった。

「あの……万里子様にお願いがあるのですけれど……」
 美馬家の玄関から離れながら、香織は真剣な口調で話し始める。
「ひょっとして……幼稚園でのことをご存知なのかしら?」
「はい。今の経営陣、美馬常務にしても何も罪は犯しておられません。なのに、先代社長の事件で色々なところから責められることになってしまって……。お若い奥様がお気の毒でなりません。大奥様のお世話までしながら、周りに遠慮ばかりなさって」
 そして香織が口にした愛実の苦境は、万里子の予想を大幅に超えたものだった。


 先代社長の逮捕とともに美馬家は四散した。
 それぞれが持てる個人資産を手に逃げ出したのだ。残ったのは美馬の屋敷に執着した先代社長の妻、弥生だけだったという。認知症と診断されたが、誰も介護しようとせず……。それに名乗りをあげたのが美馬夫妻だった。
 ところが、そうなると文句を言いたくなるのが人間である。
『まんまと夫の愛人の息子に家も会社も乗っ取られて……』
『妻といっても、もとは“援助交際”だったのでしょう? 女子高生を妊娠させたような男が美馬本家の主だなんて』
『弥生様もお気の毒に、どんな目に遭わされているかわかりませんものね』
 美馬夫妻が結婚する直前、興味本位で書きたてられた週刊誌のネタを引っ張り出し、愛実は白い目で見られた。


「奥様はできれば区立の保育園に入れたいと思われたそうなんですが……。常務がお子様たちにはできる限りの教育をしてあげたい、とおっしゃられて今の幼稚園に」
 万里子は週刊誌などはあまり目にしないが、それでも愛実の夫が苦労人であることは聞いている。
 卓巳とは違う形で親に振り回された典型のようだ。幼児期にたどって来た道は似ているので、わかりあえば友人になれると思うのだが……。
 こればかりは、男性と女性の心理は違うのだ、と納得するよりない。
「今度の件で、奥様はお子様たちを公立校に転校させようとお考えのようです。うちの娘が北斗くんと同じ歳なので、できれば同じ幼稚園に、と。でも、その場合、ここから引っ越さなければ通えませんでしょう?」
 香織はそう遠くはないが世田谷区に住んでいるという。
 通えない距離ではないが、区立幼稚園は区民でなければ無理だろう。
「でも、それでは大地くんはどうなさるの?」
「それを悩んでおられまして。大地くんは成績も良くて問題なく通われているのに、親の都合で公立校に変えるのは……」
 幼稚園も小学校も母体は同じ、都内では有名な私立校だ。大学もあるが、多くの優秀な生徒は国立大学か或いは、さらに上位の私立大学を目指すという。ということは、このまま行けば高校まで同じ父兄とPTAで顔を合わせ続けることになる。
「藤原様の責任などとは思っておりません。ただ、風向きを変えることができるのは……万里子様だけではないでしょうか? どうか、よろしくお願い致します」
 そういうと、香織は深々と頭を下げるのだった。


~*~*~*~*~


「どうして謝らないとダメなの? 僕は悪いことなんかしてないもん!」
 夕食の後、母親である万里子に呼び出され、やんちゃな次男坊は口を“へ”の字にして言い返した。
 
 五歳児の話なので正確に知ることは難しいが、大樹の話から推測すると……。
 もうすぐ父の日なので父親の似顔絵を書きましょう、という課題が出たらしい。思い思いに描き始めたというが、そのとき、急に北斗が隣の子の絵を破いたという。机の上に乗り、別の子が描いた絵を踏み躙ったりして、先生に注意されてもやめようとしない北斗に、大樹は怒った。北斗の足を引っ張り、その拍子に机から落ち、怪我をしてしまう。
 ひじと腕を強く打っていたので病院で看てもらったが、打ち身と擦り傷だけで元気に走り回っていると聞き、万里子もホッとした。

「お母さんは僕が悪いって言うの? 僕の味方じゃないの?」
「お母さんは大樹が悪いと言っているんじゃないの。大樹が他の子をいじめる北斗くんを止めようとしたのはよくわかります。それはとてもいいことだと思うわ。でもね……いいことをしても、怪我をさせたときは“ごめんなさい”と謝らなくてはダメ。そうでないと、お母さん、大樹がいいことをしたと褒めてあげられないわ」
 
 大樹自身もわかっているのだ。
 そうでなければ帰ってすぐ、母親に報告したはずである。言わなかったのは、心のどこかに『怪我をさせた』という思いがあるから……。

「でも……北斗くんはどうして、お友だちの描いた絵を破ったりしたのかしら?」
「それはっ! ほんとうのことを言われて怒った北斗が悪いんだよ!」
 大樹はむきになって言い返す。
「ほんとうのこと?」
「うん」
「どんなことかお母さんにも教えて」
「北斗のお父さんは、いっぱい悪いことをしてるんだって。だから……」

 北斗の隣に座っていた少年が、北斗の描く絵を見て言ったそうだ。『あ、はんざいしゃの顔だ』と――。


拍手&メッセージお待ちしております。


+注意+
・特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
・特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)
・作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。