『いいえ……こちらこそ、全然気がつきませんでお恥ずかしい限りです。はい……はい。どうぞ、お気になさらず、何かありましたらすぐにお知らせください。はい。よろしくお願いいたします』
万里子は電話に向かって丁寧に頭を下げながら、受話器を下ろした。
「奥様……やはり?」
横で心配そうに立っているのはメイド頭の根元千代子である。
三年前に女主人であった皐月が亡くなり、ひとり息子の柊真二郎から一緒に暮らそうと誘われたものの、屋敷に残ってくれた。四十年間この屋敷に勤める千代子は、若い万里子が藤原邸を切り盛りするために、なくてはならない存在だ。
「ええ。どうやら、四月ぐらいから色々あったらしいの。でも、園長先生も遠慮なさったみたいで……。大樹は遊びに行ってしまったのね」
子供たちについている若いメイドのひとりが、「申し訳ございません」と頭を下げる。
「いいえ、あなたたちの責任ではないのだから」
万里子は少し間を置き、メイドたちに命じた。
「わたしは出かけてきます。光希と立志のことをお願いね」
「では奥様、わたくしも同行いたします」
そう言ってエプロンを外そうとした千代子に、
「大丈夫よ。美馬さんのお宅とは五百メートルも離れていないのだから」
万里子は笑って答えたのだった。
六月、梅雨の晴れ間に太陽が顔を覗かせる心地好い一日。
トラブルは一本の電話からはじまった。
藤原卓巳と万里子の長男、結人が小学校に入学して早二ヶ月。結人は整った容姿が父親そっくりの利発な少年だが、身にまとう柔らかな空気は母親と同じ、周囲から好かれるものだった。そのおかげか、幼稚園時代も小学校入学後も、揉めごとを起こしたことがない。三人の弟たちにとっても“優しいお兄さん”だ。
結人には一歳三ヶ月下の弟、大樹がいる。
慎重な結人に比べ、大樹は何ごとも積極的で怖いもの知らずの男の子だった。体格もよく、勉強もスポーツも兄に劣らない。幼児期の一歳差は大きいものだが、兄についていきたくて必死に追いかけた成果ともいえよう。
しかし、決して乱暴者なわけではない。正義感や使命感が強すぎる点、グループ内でリーダーシップを取りたがる性格からたまにトラブルを起こすくらいで……。
それが万里子の耳に入り、
『充分に人を配置しておりますので、藤原様のお坊ちゃまにお怪我をさせるようなことは絶対にございません。どうぞご安心ください』
幼稚園からはそんな説明を受けた。
万里子自身、乱暴なことは嫌いだ。でも何も知らずにいては、将来傷つける側に立つ可能性もある。とくに子供は男の子ばかり……。大会社の社長令息として大人にもかしずかれて育ち、それがあたり前の感覚になってしまえば、弱い者を平気で傷つける男性になってしまうかもしれない。
『園のご配慮に感謝します。でも、どうぞ特別扱いはなさらないでください。幼児期のケンカは人間関係を学ぶうえでの第一歩ですから。お互いの主張を聞いて、それぞれに妥協や我慢を覚えて欲しいと思っています。間違ったことをしたときは、遠慮なく叱ってやってください』
人の痛みを知って、人を思いやれる人間になって欲しい。
そんな気持ちで万里子は頼んだのだが……。
『そうそう……真から聞いたんだけど、怪我は大したことないみたいだから、そんなに怒ったらダメよ。万里子さんは意外と厳しいから』
電話の相手は一条夏海。卓巳が司法修習生時代に世話になった一条弁護士の妻である。彼女は卓巳と年齢が近く、万里子よりだいぶ年上だ。でも、一条家の次男、真が結人と同じ学年ということもあり、親しい付き合いをしている。
そんな彼女からいきなり『怪我うんぬん』と聞かされ、万里子はビックリした。
『怪我って……学校で誰か怪我でもしたんですか?』
『学校じゃないわ。幼稚園よ。……いやだ、万里子さんご存じなかったの?』
夏海の言葉に、万里子は鼓動が速まった。
子供たちの世話は決してメイド任せではない。どうしても下に手が取られるのは仕方のないところだが、四人とも同じように時間を取っているつもりだ。
子供たちに怪我をした様子はない。そして幼稚園となると……。
『いえ、全然。ひょっとして……うちの大樹が誰かに怪我でもさせたんですか?』
『私立の幼稚園だから、微妙に気を遣うのよねぇ……。でも、本当に大した怪我じゃないみたいだから、そんな慌てないで』
よほど万里子の声が緊迫していたのだろう。
夏海は万里子のほうを落ち着かせようとする。
『もちろん、わかっています。きっと、そう大きな怪我じゃないから、知らせなくてもいいって思われたんでしょう。でも、親としてそういうわけには……。夏海さんがご存知の範囲で構いませんので、お聞かせ願えませんか?』
そういって教えてもらったのが、大樹が口げんかの末に暴力をふるい、同級生の園児に怪我をさせたというもの。
相手の名前は美馬北斗であった。
~*~*~*~*~
『わたくしどもの目が行き届きませんで、申し訳ございません。ただ……北斗くんは以前から申し上げておりますとおり、少々乱暴なところがございまして。今回も暴れだした北斗くんを押さえようとした結果、相手のお子さんとぶつかるような形になってしまいました』
幼稚園からの説明は明らかに北斗の責任だ、と言っていた。園の対応に不満があるなら、他の幼稚園を紹介する、といったニュアンスまで伝わってきて……。
打撲と擦り傷程度とはいえ、子供が包帯を巻いて帰ってきて心配しない親はいない。
だが、問い合わせた愛実に、幼稚園の対応は冷たいものだった。
「そんな、気に病むものではありませんわ、奥様」
落ち込む愛実を励ましてくれたのは、夫の秘書であり親友でもある瀬崎の妻、香織だ。愛実よりひと回りも年上で、彼女自身が色んな会社で重役秘書として働いた経験も長い。東京に戻ってきて一年余り、愛実にとって姉のような存在だった。
「ええ、大丈夫です。きっと私たちは、幼稚園にとってお荷物なんでしょうね。そのせいで、子供たちにもイヤな思いをさせているのかも知れない……そう思ったら」
「そんなこと……。大地くんはしっかり頑張ってるじゃありませんか? 北斗くんも小学校に上がって、お兄様と一緒に通うようになれば落ち着くと思いますよ」
「だと、いいのだけれど……」
香織の言葉に、曖昧にうなずく愛実だった。
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