偽りの世界
人間は思考の統一された、駒でしか存在意義をなさない。
此処の空気はまるで作り物で、酸素が薄いように感じられる。人は誰も歩いていない。
シャールラッハという少女は、小奇麗な町にあるビルの前に備え付けられた階段に座っている。誰かを待っているようだ。鼻歌などを口ずさんで、上機嫌である。親しい人を待つその表情に陰りは無いように見える。
その町にはビルとシャールラッハ以外、見受けられない。否、先ほどまで小さな犬が一匹だけ歩いていたのだけれど、いつの間にか消えていた。この町に今あるのはビルとシャールラッハと、穴と何か。太陽は雲に覆われていて、その光を直に浴びる事は出来ない。本当は真っ白であろうビルの軍団も、光の差さない下では少し灰色がかった色となっている。
鼻歌が、段々と曖昧になっていく。すると、向こう側から同じくらいの歳であろう少女が歩いて来た。それを見たシャールラッハは笑顔で手を振る。しかし、その少女は表情すら変えずに明後日の方向を向いただけだった。
「ハーリー」
シャールラッハは待ち切れないという風に声を上げる。向かって来る少女の名はハーリーというらしい。少女と大きな鞄という組み合わせは少々不釣合いであるが、現代では至って見慣れた風景である。人の極端にいなくなった今では、彼女位の年頃の子供達でも、皆働いている。
ハーリーは未だに明後日の、本当は太陽が見える筈の方向を向いてこちらへ歩いて来る。彼女が一歩進む度に、何処からか視線が集まる。彼女以外に人はいない。
「おはよう。今日も来てくれたんだ」
ぽんぽん、とシャールラッハは自らの隣を叩く。ビルの前に座った少女二人。何処からともなく耳が出て来る。人はいない。
何処かで猫が一匹消えた。ぽっかりと穴がそこに出来る。中を覗きたいとは誰も思わない。
「別に来たいわけじゃない。会社に行くついで」やけに後半を強調して、ハーリーはそう言った。
誰かが嘲笑う。他に人はいない。ハーリーの視線は未だに明後日を向いている。どさり、と鞄が階段に置かれる。
彼女らの目の前にあるコンクリートの道路には、真っ白の棒が何本も描かれている。それの数をあまり数えたいとは思わない。シャールラッハは無言で、がりっとその数を増やした。その音にハーリーは一度だけ視線を下げた。彼女達の視線はまだ絡んでいない。
「メモリの中にね、面白い話があったの」
ハーリーは何も言わずに先を促す。「えっと、ちょっと待ってね」そう言うシャールラッハの瞳は、深い緑色をしている。先までは薄い灰色だった。
「……あ、あった。昔、何処かの国ではね、犬を食べたんだって」此処じゃありえないよね。とシャールラッハは続けた。
此処というのは、現在の此処を差すのだろうか。それとも遠い昔の此処なのか。シャールラッハとハーリー以外には分からない。
ハーリーは時計を気にするような仕草をする。しかし、その意識は未だに空へと向けられている。また誰かが笑う。
「怖いよね」肯定を促すようにシャールラッハはぽつりと呟く。ハーリーは「別に」と答えた。
犬を食べる事は、現代の人間にとっては当たり前の所作となっている。それはシャールラッハも知っている。それでも、彼女は怖いと言った。彼女の記憶というメモリは膨大で、その中には過去の人間の意識も介在されているからであろうとハーリーは理解していた。
「シャールラッハは犬を食べないもんね」
ようやくハーリーは彼女の名を呼んだ。「うん」と小さな声が音のしない町に響く。ハーリーはそれを聞いて眉を顰める。そして、ハーリーの手が少しだけ彼女の手へと近付く。誰かが叫ぶ、それを誰かが制す。人間は彼女以外いない。
「駄目だよ」
シャールラッハは、笑いながらハーリーの手を声で制した。誰かが安堵する、誰かが舌打ちをした。ハーリーは目を伏せる。
「食べれないから仕方無いよ」シャールラッハは笑っている。ハーリーは、そうじゃないんだと彼女に聞こえないように呟く。
ぼんやりとした空気が時間を止める。朝日は昇っているのに、昇っていないような錯覚を覚える。それは雲のせいなのか、それとも世界のせいなのか。
ハーリーはぎゅっと自分の手を強く握った。痛みすらぼんやりと彼女の頭に伝わる。シャールラッハはもう一度、駄目だよと諭すように呟く。シャールラッハの目に溜まったそれは反射する当ても無く、ぼんやりとゆらゆらと少ない光を吸い込むばかりである。ハーリーはゆっくりと手を解いた。
「私がそれを食べれるようになったら、ハーリーは怖い?」
ハーリーの横顔を見つめる彼女の瞳は、灰色に戻っている。未だに彼女らの視線が絡む事は無い。ハーリーは薄く笑う。
「怖い」
もう一度、彼女は時計を気にする素振りをする。
「どうして」
「君はそれを食べれる訳がないから」
そうじゃなくて。と、シャールラッハは言えなかった。ハーリーはそれが答えになっていない事を知っている。誰かの泣く声がした。周りに人はいない。
そして、何処かで人が消えた。その音はシャールラッハにだけ聞こえる。ぎゅっと目を閉じたそこから、ぽたりと涙が零れた。その音はハーリーにしか聞こえない。
「泣かないで」思わずハーリーの口から漏れた言葉。
「また人が……」
シャールラッハはそう言って、膝を抱える。ハーリーは苦しげな顔をする。誰かが泣いている。誰かが不気味に口元を歪める。
「ハーリー、ハーリー」
掠れる声で、幾度もシャールラッハはその名を繰り返す。溢れるそれは空気を吸い込み、重く彼女らに伝わる。じわりじわりとシャールラッハの衣服が黒く湿る。ハーリーは目を閉じる。明後日を向いた目からも零れるそれらが、ぽたりぽたりと地面が黒く斑点模様に染めていく。
「ハーリーが好きだよ」
震える声で、シャールラッハは告げる。ハーリーは目と口を堅く閉ざした。代わりに彼女の手が震えていた。何も言わずに、ハーリーは立ち上がる。膝を抱えたままのシャールラッハは何度も名を呼ぶ。小さく震える彼女を見て、ハーリーは自分が時計をしていなかった事に初めて気付いた。どこまで嘘を吐けばいいのかとハーリーは自嘲気味に笑う。ぽたぽたと零れるそれだけが今の真実なのだろう。
「ねえ、シャールラッハ」
その声に顔を上げる少女は、目を真っ赤にしている。そしてハーリーの表情を見て、彼女は悟る。『言わないで、嫌だ』もうその台詞は彼女には言えなかった。限界だった。
「好きだよ」
また一つ、町に穴が増えてしまった。
もうこの町の何処にも人はいない。
「私もだよ」
もう誰も泣く人はいなくなった。彼女はハーリーの鞄を、ただ抱き締めた。
fin.
これが自分の精一杯でした。
殺伐とした世界を書きたいな。と思ってつらつらと書かせていただきました。
いやはや、SFよりも恋愛に重きを置いてしまった←
最後まで悩んだのは、これがGLになるかどうかです(笑)
……微妙!
以下、企画感想。
初参加の企画でおっかなびっくりでしたが、周りの皆様も優しく、参加して良かった!という感じです。
この場を借りて、関係した皆様に感謝の意を述べさせていただきます。
ありがとうございました。