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白薔薇の剣 ―最後の王女の物語― 作者:葵れい

<第5部>

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 第59章 君よ、求める事なかれ -1-


 ――音が。
 風が反響を起こして、まるで声のように。
 誰かが自分の名を呼んでいる――オヴェリアと。
 ひどく寂しく、ひどく弱く。
 反響の中で消えて行く……雨露よりも静かな終焉をまといながら。
 その音から顔を背けるように、彼女はそっと目を閉じた。
「出立は明日」
 目を閉ざした以外、彼女の表情はピクリとも動かない。
「場所はバジリスタ西部、ルアン大聖堂。殿下がお待ちだ」
 声が止んだ。
 次に聞こえたのは、ひどく高い鐘の音だった。
 いつだったか誰かが言っていた。今日は空が澄んでいるから鐘の音がよく聞こえると。
 ならば、今日の空は青いのか?
 万年雪で知られるこの大地にも、雲が及ぶ事すら許さない、蒼空の日があるのだろうか?
 だからこんなにも鐘の音は響き。
 ……まるで、心を打つかのように。
「……何を笑う? 王女オヴェリア」
 問われ、彼女は目を開けた。
 視線の先には、剃髪の男。慈愛をたたえる事もなく、ただ疑念の表情で彼女を見据えていた。
 オヴェリアは何も答えなかった。
 その代わりに思った。この音を覚えて行こうと。



 風よ。
 どうかもう、そよぐ事なかれ。
 どうか、もう……残響にも、何かを運ぶ事なかれ。
 ここにもし、最期の願いを神に託す事ができるなら。
 たった一言だけでいい。
 ――君よ、求める事なかれ。
 …………目に浮かぶ、黒色こくしょくの背中へ。



 59


 彼女が初めてその姿を見たのは、あの日。御前試合と呼ばれる、大祭の場であった。
 その剣士は一人、異才を放っていた。
 白い鎧を完全に着込み、剣を振るうその姿。
 まるで舞うかのようだった。
 小柄な体が宙を舞い、圧巻の剣が、きたる猛者たちを次から次へと落として行く。
 剣は曲線を描き、風をまとい、
 だが、身から放たれるのは完全に炎だった。
 ……その時感じた感覚が何だったのか、わからなかった。
 白い剣士が放つ炎が己の身にも乗り移ったような、不思議な感覚だった。
 高揚だというのならば、そうなのかもしれない。
 御前試合の顛末と剣士の正体、すべてを見届け主の元へ急ぐ足には、いつも以上の速度が宿った。
 ――白薔薇の騎士。
 記憶の中に残るその姿。かつて自分に剣を向けた騎士が蘇ったのだと。
 ……胸は、奇妙に高鳴った。


 初めて直接対峙した時の事は覚えている。
 それもまた、初めての感触だった。
 ゾクゾクした。
 足から背中、頭の頂点まで、電流で貫かれたような感覚だった。
 瞬間と刹那の中で、切っ先はどこまでも滑らかに、思いのままの軌道を描いた。
 今まで自分に貫けない物はなかった。
 敵わない物があるとすれば、それは師と、定めだけだと思っていた。
 神さえも、殺せと言われるならばどこであろうとこの脚は駆けようと。
 それ程に思うこの剣は、もう、翼を持っている。
 ――だがあの日彼女はその翼を受け止めた。
 しかし彼女は神ですらない。ただの王女だ。
 転倒した王女に剣を突きつけた瞬間、妙な錯覚を覚えた。
 ……その場は、結局、邪魔が入って仕留めそこなう。
 それから……ずっと彼女を見てきた。
 この国は私が守ると彼女は言った。
 連れ立つ仲間と共に、炎の中を走り抜けるように。
 幻影の竜を前に怯みながらも、だが懸命に戦い。
 闇の世界の黒い炎すらも、一瞬の煌きに変えて。
 どんな絶望の中でも、決してあきらめる事なく。
 圧倒的な敵を前にしながらも、剣を休める事なく。
 深い深い絶望の中からも、もがきながら、立ち上がってまた前に歩みだす。
 そういう姿を、ずっと見てきたのだ。
 一人の少女の生き方を。
「……」
 その少女が今、目の前にいる。
 見張りは他にいない。そして少女は繋がれているわけでもない。
 質素な部屋だが、牢獄ではない。人より大きい窓もある。
 少女は窓辺に座り、ずっと空を見ていた。
 そしてその脇には、あの剣がある。
 ――白薔薇の剣。
 ハーランドに伝わりし聖母の剣。
 ……あの日、誰も奪えなかった。
 少女が仲間と共に教皇の元へ向かい、仲間の命と引き換えに自らの命を差し出したあの日。
 彼女は、決して剣を離さなかった。
 枢機卿は、腕を落とせと言った。
 それを止めたのは……、自分自身に問う。
 なぜ止めた? と。
 少女はあの瞬間、自ら命を絶ったように見えた。
 絶叫の中仲間が去り、扉が閉ざされた瞬間、同時に彼女自身も自分の道を閉ざしたのだと。
 現実に今、少女は死んだように外を見つめている。
 空はそれほど美しいか?
 ……少女を見つめる彼女にはわからなかった。空を美しいと思った事などない。
 悲しくも。
 何かを美しいと思った事など。
 ……問えるものなら、問うてみたい。
 愛しいとは、何かと。
 もがくほどに執着できる、……少女が放っていたあの炎は何かと。
 ……答えを探すように、彼女は少女を見つめる。
 これが白薔薇の末裔。
 あの日、自分の運命を変えた白薔薇の剣を持つ、小さき娘がここにいる。



「様子はどうだ」
 ……呼ばれ、一時部屋を出る。
 交代は冴えない教会の騎士だったが、オヴェリアが動くとは思えなかった。
「いいか、殺すな。親父殿からの命令だ」
 親父殿などと、一度も呼んだ事はない。
 かと言って、盃という名を呼んだ事もない。
「王女オヴェリアの末路は殿下がお決めになる。いいな、アズハ」
「……」
「……相変わらず、愛想のない女だ」
 女。
 その単語に、アズハは相手をジロリと見た。
 そこにいるのは盃が飼う伝令の一人だ。
 簡単に殺せる――アズハがそう思ったのが伝わったかのように、伝令はそれ以上何も言わず去った。
 ――殺すな。
「……」
 部屋に戻ると、騎士が代わりに部屋を出て行く。
 木偶人形のような動きだった。
 大して世界を知らぬアズハでさえ思う。この場所は腐っていると。
 聖母のために祈り、世界の平和を祈るはずのこの場所は、世界のどこよりも腐臭で満ち満ちていると。
「……風が、また」
 ポツリとオヴェリアが声を漏らした。
 意味はわからなかった。そしてそよともアズハの頬には風など吹かなかった。
 アズハが風を感じるのは、自分で駆ける瞬間だけである。
 出立は明日――枢機卿ミゼル・ドルターナの言葉を、脇でアズハも聞いていた。
 その瞬間、オヴェリアの横顔は笑ったように見えた。
 ルアン大聖堂……バジリスタ屈指の聖堂と言われていたのは、昔の事である。
 20年前を境に、国によって封鎖された。その理由をアズハは知らない。
 その場にて待つと、殿下が言うのだ。
 第三王子、ズファイ・オーランド・バジリスタ。
 現状、バジリスタの実質国王。
 軍事蜂起から一気に国をまとめ、その勢いでハーランドに押し寄せながら。
 今ここで、オヴェリアと会う事を望む。
 アズハにその意図はわからない。だが少なくともわかる事が1つ。
 オヴェリアの命は、そこで尽きるのだろう。
 ズファイの手によって、王女オヴェリアは生涯を終え。
 同時に、ハーランドは幕を閉じるのだろう。
 出立の日取りを告げ枢機卿が去ると、オヴェリアはまた窓辺で座って空を見た。
 ……己の命と引き換えにバジリスタの侵攻を止め、国を救う。
 死ぬために、生きている。
 今そこに窓がある。開閉は自由だ。飛び立つ事などいくらでもできよう。
 だがオヴェリアはじっと外を見つめるだけだ。
 待っているのはもう、
「……」
 アズハは目を逸らした。
 ふと不意に、何か言いたい気分になったが。言葉の奏で方がわからなかった。
 だから黙ってオヴェリアを見ていた。
 窓の外に太陽が落ちて行き、次第に暗くなっていく室内と共に。
 その横顔を見つめ続けた。



 バタバタという音が聞こえたのは、太陽が最後の光を解き放った瞬間だった。
 正確には、僅かな音を拾っただけ。アズハの耳は常人よりも細かく周囲の気配を掴み取る。
 異変を感じる――オヴェリアはまだ気づいていない。
 念のために確認に行こうかと腰を上げかけた時。部屋に兵士がなだれ込んできた。
 兵士に続き現れたのは枢機卿だ。
 アズハは怪訝に眉を顰める。
「来い。行くぞ」
 出立は明日ではなかったのか? アズハは思ったが、オヴェリアは何も言わず立ち上がった。
 亡者のように白薔薇の剣を手にする。
 枢機卿がチラとアズハを見る。言われずとも、オヴェリアの真後ろにつく。
 オヴェリアがもしも剣を抜く事があったら。迷わず背中から絶つつもりでいた。
 ……何か異変が起きたのだ。明らかに異質の気配が漂っている。
 腐臭以上の……狂気。
 混乱の気配はまだない。
 ただ、枢機卿の足取りだけが闇雲に道を急ぐ。
 何が起きた? 問うてみたい気分になる。
 だが誰に問えばいいのか、アズハにはわからない。
 ……否、どうでもいいではないかと、自分に言い聞かせる。
 今、自分の使命は唯一、目の前の女を見つめる事。
 抜くならば抜け。
 王女の手を凝視する。動きはせぬ。
 凝視するうちに、アズハは気づく。
 自分は、抜けと、思っている。
 この白い女の腕が動く事。
 絶対たる速度で剣に指を滑らせて。
 風をすり抜け、何人の介入も許さない、誰もたどり着く事ができない境地にある。
 そんな刹那の。
 そんな間髪の。
 鋭利なまでの。
 ……求めている。
 抜け。
 今抜け。
 ここで。
 ――抜いてみろ。
 胸が高鳴る。
 ……アズハは目を細めた。
 この高揚を知っている。……初めてこの少女を見たあの日から。
「……」
 ……王女オヴェリア……と、アズハは心の一番深い所、暗い場所で呟いた。
 お前は……死ぬのか? と。
 このまま死ぬのか?
(もう、)
 お前は諦めてしまったのか?
 希望を忘れるなと言ったのはお前だ。
 例えどんな絶望の闇の中に落ちたとしても、光を忘れるなと。
 最後まで戦えと。
 誇りを持てと。
(これがお前の)
 枢機卿の後ろに続く、小さな弱々しい背中。
 幻のように見えるその背に向かってアズハは問う。
 ……それがお前の掲げ続けた誇りだと言うのかと。



「閣下!!」
 駆けてきた兵士が。
「兵団が、」
 息を切らせながら叫んだ次の言葉。
「敵は……黒の剣士」
 それにオヴェリアは。




 オヴェリアは。

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