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幕間八(前) 篠崎陽太視点
 ――鬼、それは古より時代に名を連ねてきた歴史ある種族。
 鬼道術と呼ばれる妖の術を操り、反則なまでに長けた身体能力で他族を凌駕する存在。
 誰もが額に二本の角を隠し持ち、己の力を最大限に発揮する時のみ"鬼化"して本来の姿を現す。

 今でこそ角ある姿を表に出す事は無いが、東西南北の鬼一族の争いが激化していた約三百年前では事ある毎に本来の姿で鬼達が戦っていた。
 戦鬼として今でも鬼達の憧れの的となっている当時の藤見家当主も、それは見事な鬼だったと文献に残っている。
 藤見家の従者である我が篠崎家も、右腕という肩書に恥じぬ活躍をみせたのだとも。


 そんな藤見家と篠崎家の繋がりは初代当主まで時を遡る。
 今は各家に伝わる伝承でしか当時の関係を知る事はできないが、それは主従であって主従でない関係だったという。



 始まりは二人の少年だった。
 同郷で生を受け共に育った同じ年代の二人が後の藤見家と篠崎家の繋がりを築いた立役者。
 友人であり、好敵手でもあった二人は友情の誓いを結んで互いを親友と呼び合った。

 だがある時、篠崎の少年は生死の境を彷徨うほどの大病を患った。
 医師の知識では原因不明のため苦し紛れに処方される薬は効くはずもなく、日に日に衰弱していく友を目の前にして藤見の少年は名医と誉れ高い遠方の翁の元へ向かった。
 その旅路は決して楽な物ではなかったが、傷だらけになりながら短時間で幾つもの山を越えた。
 友と失う事への恐怖と焦りが藤見の少年の背を後押ししたのだろう。

 足腰が弱く遠出する事が出来ないという医師を背負って、少年は来た道をひた走った。
 少年の体力も限界だったはずなのに、少年は弱音一つ漏らさず疲労で震える脚を前へ進めた。
 まるで医師に望みを託す事が唯一の拠り所だと言わんばかりの姿で。


 しかし里に帰り着いた頃には、病に冒された篠崎の少年は虫の息だった。
 それは最後の時を友に看取ってもらう為に息をしているようにも見えた。
 そんな姿を診て、手の施しようがないと首を横に振る医師に藤見の少年は初めて涙を零し医師に泣き縋った。


 自分達の命を賭けた『禁薬』を作って欲しい――……、と。


 鬼一族には『禁薬』と呼ばれる禁断の秘薬がある。
 製造過程は難しくないが代償の大きな薬であるため禁断とされている、万能薬に近い薬が。
 その存在を知っていた藤見の少年は、それを作って欲しいと医師の翁に懇願した。

 『禁薬』を作るには材料として『鬼の角』と『絆』が必要だった。
 万能薬に近いそれは、第一関門として薬元になる角の持ち主と薬を飲む者の間に強い絆があるかが試される。
 絆が足りなければ『禁薬』に手を出した代償として両者共、命を差し出す事になる。生のために命を賭ける必要がある薬だ。

 更に、例え絆が足りて生き延びたとしても角を折った鬼は『力』の殆どを失ってしまう。
 鬼が力を失うという事は、大空を自由に飛び回る鳥が翼を失った事と何ら変わりがない。
 元の一割にも満たない力で、劣ってしまった鬼にできる事は少なく卑下の対象となる事も有り得る。


 それでも薬を作るのか、と医師は訪ねた。
 そして、それに一瞬の間さえ置かず首を縦に振った藤見の少年は、医師が止める間も与えず鬼化して生えた己の片角をへし折った。

 驚愕の相を浮かべる医師に藤見の少年は迷いなき瞳で告げた。
 禁薬の代償で己の命が尽きるなら、それは抗えぬ天命だと。

 禁薬を試す道を選ばず自分だけが生き残っても、親友が居なければ翼を失った鳥に変わりない。
 例え自分達の立場が逆だとしても親友も同じ事をしたに違いない。
 だから独りで親友を逝かせる事はしない、生きる時も死ぬ時も一緒なのだと。


 その言葉に二人の強い絆を感じた医師は、藤見の少年が自ら折った角で少年達の未来を繋ぐための薬を作った。



 結果、強い絆で結ばれていた二人の少年は生き延びる事ができた。
 医師の言葉通り、片角を差し出した藤見の少年は力の殆どを失ったが、篠崎の少年は無事に病から回復した。


 そして、親友の角で作った禁薬で生き長らえた事を知った篠崎の少年は、親友として生きると共に永遠の忠誠を魂の契約として誓った。
 命を賭けてまでも、己が生きる為に手を差し伸べてくれた唯一無二の絶対的存在に。
 翼を失った鳥のような主に、己が翼になると告げて生涯を捧げた。
 もともと結んでいた友情の誓いに、魂による隷属の契約を成した。


 藤見の少年はとても呆れたけれど、最後には苦笑しながら篠崎の少年に告げた。

 命の恩人だと自分を崇める必要はない。
 互いに絆がなければ自分達は共に天へ召されていた。だから自分達は互いの命の恩人だ――、と。



 そんな二人が藤見家と篠崎家の始まりだ。
 藤見家と篠崎家の長い歴史の中で、どのようにして今の地位や家臣を得たかは別の話になるが、この関係だけは揺らぎようがない。


 藤の名を持つ鬼には、魂をも捧げる従者が居る。
 それは呪縛に似た永遠の誓い。
 呪縛を解く方法はいくらでも存在するのに、呪縛にさえ縋りたいと思えるほどに幸福な契約という名の約束。

 篠崎家の魂には、藤見家との友情の誓いの上に隷属する魂の契約がある。
 名高い藤見家と篠崎家の関係は魂の契約だけが噂を呼んでいるが、両家には何者にも邪魔をされない絆が存在している。
 故に、いくら篠崎家の鬼が藤見家のために命を賭けて仕えたとしても、主である藤見家の鬼は篠崎家を親友として扱うのだ。




 始まりは二人の若い鬼だった。
 終わりは見えず、終わらせる様子もなければ意志もない。

 藤見家には過去も未来も変わらず魂の契約を結ぶ友――篠崎家が存在する。
 それは、始まりの少年達が結んだ友情の誓いによって成り立つ関係。

 篠崎家には未来永劫に渡り魂を捧げるべき唯一の主――藤見家が存在する。
 それは、始まりの少年達が結んだ魂の隷属によって成り立つ関係。



 藤見の地には鬼が居る。
 治める鬼と仕える鬼、そんな彼等に膝を折り同じ地で生きる事を選んだ多くの鬼が。

 東鬼が生きる南の地には藤が舞う。
 他族を牽制し、雄大に誇らしく生きる鬼達を称えるように藤は咲く。

 今となっては生きながらにして語る者は存在しないけれど。
 藤の花とその地に生きる鬼達は受け継いだ契約を自らの意志によって強く育てていく。

 厚い信頼を互いに抱いたまま、藤の花とその地は朽ちる事なく咲き誇る。

 藤の名を持つ全ての鬼が、その地で果てるその日まで。
 藤の花がその地で永久に咲かなくなる、その日まで――……。










*****










――陽太は傍仕えというより、親友だからなぁ。


 昨晩届いた花姫様の文で交わした約束通り、未の刻前に迎えに来た侍女と共に遠ざかる恭様を見送る。
 曲がり角の先に二人が消え、体から少しだけ力を抜くと、脳内に恭様の言葉が響いた。
 胸の奥で暖かく残るそれは自分の心を捕えるには十分すぎるほど甘美な物で、藤見家はどれだけ篠崎家を心酔させれば気が済むのだろうか、と頬が緩んでしまう。


 そう遠くない先に藤見の地を治めると決まっている兄上様方にも、自分の兄三名が仕えている。
 まるで数合わせのように自分達兄弟は主が居るが、藤見家の鬼一名に篠崎の鬼一名が付くという事は特段決まっているわけではない。
 現に、藤見家当主の義正様には篠崎家の当主である父とその弟の二名が仕えている。
 が、唯一の主に仕える事は至福であると現状に甘んじている自分は常に感じていた。

 恭様が藤見家にお生まれになった後に間を置いて数合わせで生を受けた自分だが、このように何気なく存在意義を口にして下さる事に喜びを感じずにはいられない。



 だからこそ、恭様には望む形で最高の幸せを手に入れて欲しい。

 上に立つ者の言動や表情、紡ぐ言葉がどんな印象を与えるかよく知っていてそれを上手く利用している方なのだとは知っている。
 口より先に体が動く藤見の鬼にしては、珍しく恭様は双方を兼ね備えている。
 しかし、やはり芯は藤見の血が勝るようで最終的には全ての真実を行動で語る。
 藤見の特性故に言葉が足らずに誤解を招く事が無いとは言わない。
 何でも出来て何でも持っている印象の強い大切な主は、心休める場所という意味で藤見と篠崎以外に何も持って無い不器用な方だから。



 そして、望む物を手に入れた恭様の傍らには忠臣の筆頭として自分が傍に居たいと切に願う。

 恭様が東鬼を統べる存在になった時、傍仕えの一人は確実に自分だ。
 深いお考えの底までを理解するのは容易ではないが、ある程度は恭様の意向を汲み取る事ができる。
 幼少の頃より長年お仕えしてきた中で得た経験は、他者には真似できない糧。
 離れていた五年の歳月で変わった部分も、すぐに時間が解決してくれる。五年の空白など簡単に埋める自信もある。





 見合いの席で姿を現した花姫様を見て、恭様が息を呑んだ事も直ぐに分かった。
 美女だという噂通り自然な美しさの中に若干の幼さを残す東の鬼姫、花姫様は自分が見ても『美しい』と簡単に肯定できる容姿の持ち主だった。


 花姫様を称美する他の婿候補達に脇目も振らず、ただ一点を見据えたままの恭様。
 その真剣すぎる視線は恋慕の情を含み、東条の姫ではなく女鬼として花姫様を見ていた。
 東条の長も花姫様を見る恭様に気付いて誘導尋問に似た言葉を投げてきたが、そんな陳腐な言葉に恭様が踊らされるはずがない。



 恭様は決して嘘を言わない方だ。
 友好的な態度はへつらう行為と同じようで全く違う、信頼を示すもの。


 花姫様に甘い言葉を囁きながらも突き離したのは、最終的に恭様無しでは生きていく事ができない程に溺れさせてしまうが故の所業。
 明らかに色恋沙汰に慣れていない花姫様だからこそ、それが最善だと判断しての事だろう。
 受け取り方によっては非道だが、恭様は一度懐に入れたモノは生涯大切にして下さる。
 これから先の未来を共に歩む伴侶であれば、それはより強く甘美な物のはずだ。
 未だ蕾でしかない花姫様を恭様が美しく咲き開かせる日は決して遠くない。


 その為に恭様は高い枝にある蕾を惹き寄せて、誰も気付かぬ内に枝を手折る。
 じわじわと侵食する罠には抗えない。どれだけ太い枝であっても内側から脆く壊されて行くのだから。
 伸ばした手にも、枝が折れる音も、折れた時の痛みも、気付いた時には全てが手遅れだ。
 花姫様を欲した恭様が動き出した今、もはや花姫様に逃げる術は残されていない。


 見合いの席で他の婿候補を圧倒的に蹴散らした恭様が、花姫様に対して今後どのように罠を仕掛けるか……不謹慎だが少しだけ楽しみだと思った。






 そしてやはり、恭様の仕掛ける罠を傍らで見るのは自分にとって至福の時間だった。


 恭様が優勢な状態で終結した顔合わせの後、我先にと花姫様への文を出すべく広間を退出した婿候補達など気にもせず、恭様は普段通りの落ちつきを払っていた。
 部屋に戻る道中も、文を書くと決めるまでも相変わらずの恭様。
 仕掛けた罠に対して東条側がどう動くのかを計るつもりなのだろう。
 藤見の地へ帰る事を会話に含ませているが、東条の選択肢は限られている。



 しかし予想に反して、東条側にも関わらず恭様を妨害しようとする輩も居た。
 それは花姫様付きの若い女忍だった。下手な変装で女中として恭様を探ろうとしていたので初日に追い払った女鬼――……名前は確か、千代。


 藤見の地に忍が居ないので詳しくはないが、基本的に忍は感情を殺した者だと認識していた。
 だが、この千代という女鬼は感情を殺すどころか剥き出しにして敵意を露わにしてきたのだ。
 

 正直、気性の強い女は嫌いではない。
 滑稽で愚者とも思える千代だが興味が無いと言えば嘘になる。
 興味本位の域を出ない程度の女鬼に手を出すほど飢えているわけでは無いが、東条の地に慣れるまで手駒として利用する価値はあると判断した。
 

 傀儡にして自分なりの方法で大切に扱ってやろう。
 加虐趣向の強い自分を見て恭様は良い顔をしない気もするが、時が満ちれば解放するつもりなので短期間の利用で済む。
 要は、東条の詳しい内情と忍が使うような隠された地理について知識が集まれば良いのだ。
 独自で調べる事もできるが、傀儡を得る事で時間が短縮できるなら、それに越した事はない。


 壊す気はない。壊れてしまったら仕方が無いけれど。
 もし途中で壊れたなら、せめて痛みを感じさせぬまま逝かせよう。 
 それに、役目を遂げても尚この興味が薄れぬようなら飼い慣らしてみるのも一興だ。
 歪んだ情なら幾らでも注げる自分が笑えて、クッ……と咽の奥を鳴らして千代に向けて口を開いた。



 売り言葉に買い言葉な会話で何度か千代を翻弄し、激情させ、己の存在を植え付ける。
 恭様から託された花姫様宛ての文を餌にして傀儡の術を施すために千代に直接触れれば、面白い程に動揺を露わにした。



 傀儡の術は施される者に直接触れ、意識を奪い、落ち切った後に主となる者の熱を流し込めば完成する簡単な術だ。
 と言っても、意識を奪うには幾つかの問題があって一般には使用されない部類に入る術。奪う事に慣れてしまえば簡単……という意味だ。
 手順を踏むなら血を舐めさせるのが一般的だが、場合によっては壊すかもしれない傀儡に己が傷を作る必要はない。
 息でも吹き込めば十分だと考えて、瞳に力を無くし始めた千代に顔を近づけた。
 飴色の瞳がゆらりと己を映した事に、何故か一瞬だけ胸が騒いだ。

 

 ……そんな雑念が過ったせいだろう。
 あと少しという所で、千代は沈んだ意識を取り戻してしまった。
 最後の詰めが甘くなるという、らしくない失策の反省は後にして即座に気を取り直す。
 このまま強引に落としてしまう事も出来るのだが、それでは呆気ないとも思えてきた。


 それに、強い警戒心を持つ千代を同じ方法で傀儡へ落とす事は面倒だ。
 未熟なりにも女忍であるなら、今回のように他者が近づくのを避けるはずだ。
 じわじわと理性を支配する術で千代を蝕む事にしようかと他の方法を考え始めた、その時。



「――……っ!」


 他の術を施す体勢に入った状態の自分に、恭様の突き刺さるような視線が制止を掛けた。
 視線元を追って目を向けると、少し離れた一角で腕を組んで立つ主の眼が細められている事に小さく息を呑んだ。
 『それ以上は止めておけ』、という恭様の声が聞こえた気がして至近距離で喧しげに声を上げる千代を適当に流しつつ、是の意を込めて恭様へ視線を送る。


 それを理解して下さった恭様は、若干呆れたように肩を一度だけ竦めて静かに足を進められた。
 千代との距離を離して恭様を迎えると、何事も無かったかのように振舞って下さる。
 更には、恭様と言葉を交わすたびに生じる千代の棘ある言動に殺気立つ自分を、恭様は簡単に宥めて下さった。
 それでも喰ってかかる千代を促すように言い包め、最後には諭してしまう姿に溜息が洩れた。


 あぁ、本当に、どこまでも慈悲深い方だ。
 行き過ぎた自分の行動を叱る事もせず、無礼な女忍の態度を咎める様子もない。


 無能な権力者は強さを振りかざして命を奪う事が過去も現在も大差ない。
 だが恭様は高い身分を利用せずとも己が優位に立ち、権力ではない物で場を治める。
 身分の高い者が特権を振りかざすなら、それなりの責務を果たす必要があるという先人の教えを理解しているからだ。もちろん、責務が何か、それは時と場合により圧し掛かる物が違う事も。
 本当に力を持っている者は己で権力を振りかざして力説せずとも、気づけば周りが認めているものだ。


 そう、この醜くも矛盾を孕んだ美しい世界は、その中で胸を張って生きる主をより一層引き立てている。





 目を閉じれば、自分の一歩先に立つ恭様の後ろ姿が見える。
 振り返らない恭様の背中から感じるのは圧倒的な力と絶対的な信頼。
 泣きたくなる程の情と震えは、憧れと傍に仕える事を許された幸福からの物。
 

 どんなに努力しても、どんなに失敗しても、一歩分の距離は昔から少しも変わらない。
 そんな距離が当たり前だと感じている自分と同じように、恭様も当然だと認識して下さっている。
 汚れても、傷ついても、この場所だけはどうしても譲れない。


 やがて来る未来に、藤見家の名以外に東条の名を背負うかもしれない唯一無二の存在。
 そんな恭様が、ふと振り返った瞬間に一番に視界に映るのは自分以外は考えられない。
 これはある意味、願望の域を出た欲望に似た感情だ。


 揺るぎない声が耳に絡みつき、救いを与えられながら抜け出せない闇へいざなわれていく。
 堕ちた廃人のように縋り、全て曝け出して、この身をゆだねる。
 本能のまま仕え従う自分には綺麗事など必要なく、ただそこに溺れるだけだから。




 ――藤見の鬼には篠崎の鬼が居る。
 その言葉がたがえない事を東条の地で、藤見の地から参じた我等が知らしめてやろう。


 暫く……否、かなりの時間を東条の地で足止めされる事に、十分すぎる時間があると感じる。
 藤見の地で生きた鬼が如何なる者か、その存在を彼らが胸に刻みつけた時。
 どのような顔をするのかを想像しながら、城下に出るために主が進んだ方向とは逆へ体を反転させた――。










*****










 東条の城を出て程なくすると城下町が風貌を現し、恭様と並んで歩いた大通りへ自然と足が進んだ。
 行き交う人の声や軒先で客寄せを行う言葉を耳にしながら、藤の花が咲く故郷を思い出して少しだけ口端が上がる。



 この町の作りは城を真正面に据える大通りを中心に、左右一本ずつ縦に通りが存在している。
 幾分か時間を掛けて三本の通りを余す事無く歩き、元の位置に戻って息を吐く。

 城を背にした状態で確認できる左の通りと大通りは商業の店が主で、人通りが多い事も関係して甘味屋などの軽く休憩できるものも多い。
 右の通りは他と比べて若干薄暗い印象を受けるが人の気配が定着しているので、居住区なのだと推測できた。


 平和で安心できる場所だが、やや緊張感に欠ける……というのがこの地への印象だ。
 『迷いの森』と呼ばれる深い森に囲まれた先にある地だとしても、安心し切るには不十分。
 それに、行商用の道を使えば多少の無理はあるものの比較的楽に森を抜ける事が可能だ。
 民の心に安堵を与える何かが働いていると考えるのが妥当だろう。





 気になった点は、幾つかある。


 まず、店舗や民家に関わらず軒先に吊るされていた『音の鳴らない風鈴』。
 一軒目で季節が合っていない事で疑問を感じたが、二軒目、三軒目からは疑惑になった。
 一見、何の変哲もない風鈴だが風に吹かれても音は鳴らなかった。だが単なる飾りならば城下の建物の全てに吊るされているのは不自然だ。


 防犯の意味があるのか、神教的な物なのか、流行っている飾りなのか。特に鬼道術の気配がしなかったので余計に気になる。
 実は単に平和ボケしているだけではないのかもしれない。
 東鬼の長の膝元で、薄雲に覆われぼんやりとしか見えない事情を確かめるのは諜報の一環でもあり、楽しみだと感じた。




 次に気になったのは、大通りの中央に設けられた二階建の建物だ。
 腕の立ちそうな男達が二人一組で出入りしており、不定期な足取りで三本の通りを徘徊していた。
 確認しただけでも二人一組の組み合わせは三組あったので、建物の規模から考えて数は五倍以上の男が居ると踏む。
 すれ違う民の目に恐れや嫌悪の感情は無いので、害はないと判断できた。
 むしろ、有志による警備組織のようなモノだと有力視しておく方が賢明かもしれない。


 現に、奴らには城下を見回っている内に尾行され始めた。
 見回った目的は城下の把握だ。後ろめたい事は何もないため無理に撒く事はしなかった。
 残りの予定は必要な物を買付けるだけなので、城に戻るまで撒かなくても良いと思っている。
 別に身分を隠すつもりもなければ、隠す必要性もない。胸を張って藤見の地から来たと公言しても良いくらいだ。
 まぁ、面倒事は避けた方が楽なので、それは己を警戒した奴等に声を掛けられた時に取る手段としておこう。




 そして気になった点の三つめは、治安云々には無関係だとは思うが……三軒ある呉服屋が全て休業していた事だ。
 恭様の反物を幾つか増やそうと考えていたので、特に目についただけかもしれない。が、三軒も同時に休業するだろうか。
 確かに内一軒は『仕入れのため』という納得のいく張り紙がされてあった。だが、残りの二軒は……?


 更に付け加えれば、大規模な小間物屋も二軒ほど休みを取っていた。空いていたのは良質とは世辞にも言えない品が扱われている小規模な店だけ。
 得意の客がついた時ならば店を閉めても不思議でないが、一般の客が同時に数店舗も――というのは何度考えても無理がある。


 可能性としては昨日今日で金銭面で苦悩しない客が急についた、という事だ。
 そこで安直に答えが導き出されるのが、東条の城に滞在している恭様以外の婿候補達。


 文で逢瀬の約束を取り付けた恭様と同じように、他の婿候補達も約束があるはず。
 未の刻という指定があったので、それ以前に逢う事になるが単純に計算しても一人の持ち時間が少ない。
 呉服屋や小間物屋を呼びつけての買い物は簡単に終わらない印象が強く、店の者も客を捕まえるために普段店頭に並べない品を披露する。




 一日で恭様を含め四名もの相手をする気か? と、ここで東条側に対する新たな疑問が沸く。
 遅延の連絡はなく、迎えの女中が来たので問題なく自分は恭様を送り出した。
 それに花姫様には女中頭の小萩殿が付いているので、この不安は杞憂に終わるとも思える。
 が、やはり拭えない不安が過るのも確かだ。



「――ん?」


 どうするか、と己が取るべき最善を考えていると微かな殺気を感じた。
 出元は尾行している二人組の方角からだが、過剰な反応を示さないよう気を配る。
 恐らく、通りに入らず一ヶ所でじっとしている自分に警戒心を強めたのだろう。


 考える時間が欲しい時に限って邪魔が入り、内心で派手な舌打ちをする。
 警戒しているだけで姿を現さないのは単に探っているだけか、一人になる機を伺っているのか。
 どちらにせよ、このままトンボ返りするのは怪しさを増すので仕方なく当初の目的を果たす為に用のある店に入る事にした。









 大通りを一定の速度で進み、酒屋の軒先に並ぶ数々の陶器に興味を引かれながら暖簾をくぐる。
 入口から真正面に厚木の長い仕切り台があり、そこが帳場である事が分かった。
 左の壁沿いには多種な酒瓶と形や色の違った杯が棚に並べられ、右には酒の入った大甕が置かれている。
 活気ある路上とは違って仄かに静寂を纏った空間は、見目だけではなく肌身で感じる温度が違っていた。
 質素だが落ちついた雰囲気で販売品への気遣いが行き届いており、この店は当たりだ、と少し気を良くしながら店内へ足を進めると直ぐに店主らしき老人が店奥から顔を出した。
 随分な高齢だが、しっかりした声が現役である事を物語っている。



「いらっしゃいませ、本日は何をお求めでしょうか」

「そうだな、では音沁水を」

「畏まりました」

「……店主。この店は杯も多く扱っているようだが、何か意味でもあるのだろうか」



 均等に酒瓶や杯が並んだ棚を見ながら訪ねると、店主は瞬きを何度か繰り返した後に皺だらけの目元を一層深くして微笑む。
 帳場から出て、目にしていた棚に近づく店主の足取りはどこか楽しそうだ。



「音沁水は初めてでございますか、お客様」

「あぁ、実は名を聞いた事があるだけで詳しくは知らない」

「それは勿体無ぅございます。是非とも音沁水の楽しみ方を知って下さい」

「楽しみ方……?」



 その言葉に疑問を抱いていると、慣れた手つきで棚から濁った灰色の酒瓶と杯を幾つか持って帳場に戻った。
 店主は赤、黒、白の杯を順に台の上に並べ、次いで酒瓶片手に帳場にあった筆を取る。



「音沁水は同じ読み方をする別名がありまして、多くの意味を持つ面白い酒なのですよ」



 サラサラと何か文字を書いて杯と同じように台に置かれた酒瓶は、未だ己の方に文字の面を晒していない。
 やや間を置いて、店主の手により半回転させられた酒瓶には言葉通り横並びする『音沁水』『落とし水』の文字。
 言葉遊びに似た酒の名と、今から語られる意味に興味がそそられた。



「この『落とし水』は飲み交わす者の仲を取り持つ酒として古くから親しまれております。
 基本的に同性同士で飲む場合に親交を深めるため、相手を『落とす』まで飲み比べます。
 他のモノとは比べ物にならないほど強い酒ですので、酔いが回るのも早く『落とす』には最適でございます」

「確かに親交を深めるには酒が一番手っ取り早いが……飲み比べか。では異性の場合は?」

「異性と申しますより、男性が女性に奨める形になります。
 男性が赤もしくは黒の杯に音沁水を注ぎ、女性の承諾を得るのが異性の楽しみ方です。
 この時に使用する杯により、男性が女性に何の承諾を請うているのかが明確になります」



 三つ並んだ杯の内、赤の杯を列より前に出して店主は音沁水を注いだ。
 無色透明な液体がトクトクと良い音を立て、辺りに甘い香りが広がる。



「赤の杯で音沁水を勧める男の意は『貴女と親密になりたい』。
 これは、まぁ……言葉通り現状より一歩進んだ関係を望んだ男性の想いを意図とします」



 他人から知人へ、知人から友人へ、友人から恋人へ。
 親密になると言っても明確な基準は無いと濁す言葉を付け加え、店主も曖昧に笑った。
 臨機応変に使い分ける事が女を口説く男の手腕に託されるという事だろう。



「次に、黒の杯で音沁水を勧める男の意は、『貴女を愛したい』。
 恋人または似た関係が成立済の場合に寝所を訪ねたい、という想いを意図とします。
 ここで面白いのは、一方的な思い込みによる関係であれば杯が割れてしまうという事です」



 赤の杯と同じように、列から前に出した黒の杯に寸分違わぬ量の音沁水が店主によって注がれた。
 薄れ始めていた甘い香りが再び辺りに広がり、決して酒に弱いわけではないのに、その匂いだけで酔いそうになる。
 店主の言葉通り、強い酒なのだと実感した。


 説明が聞きたいのであって、『落とす』感覚を知りたいわけではない。
 気を紛らわすために、ふと浮かんだ疑問を口にすれば、店主は平然として答えを口にした。



「急く男に全ての女が従うとは思えないが、杯が割れなければ了承した事になってしまうのか?」

「もちろん、断る方法もございます。女性が音沁水を飲むだけでは承諾とは言えません。
 杯に注がれた音沁水を飲み干し、その杯を男性に返さず膳の上に置けば拒否となります」

「女の一連の動作が男への返事になる、という事だな」

「はい、左様でございます。
 とは申しましても、異性同士でも深い意味などなく飲み交わしたい事もあるでしょう。
 そのような場合には『他意はない』という意味を込めて、己の手酌で飲む事になります」



 店主が言葉を切った後、ふむ、と腕を組んで未だ香り立つ赤と黒の杯に入った音沁水を見つめる。
 同性同士の交友に相手を『落とす』まで飲み交わすとは確かに名の通り『落とし水』だ。
 そして、異性を恋情の意味で『落とす』方策の一つである『落とし水』も同等。


 確かに面白い酒だな、と再び店主を見ると酒瓶に栓をしながら変わらぬ笑みを浮かべていた。
 それは接客用の笑みだが、無理を感じさせないだけの経験を持ち合わせ好感さえ抱ける。



「最後に白の杯は婚礼用でございます。
 求婚する時も必要ですが、杯はそのまま式でも使用致します」



 店主は白の杯を先に出した二つの杯と同じ列並びに沿わすが、音沁水を注がなかった。
 既に酒瓶には店主の手によって栓がされており、これ以上触れる様子は一切ない。
 たったそれだけの行為なのに、白の杯が持つ重要性を十分に語っていた。


 これだから年配者は喰えないのだ、と己の何倍もの時間を生きて来た店主の計らいに、苦笑しながら肩を竦めるしかなかった。





 それ以上店主からの説明は無いようなので、恭様に必要な分を注文をすべく再び店内を見回す。
 音沁水以外の酒の種類も豊富なので、気紛れに酒の味を変えたがる恭様の要望にも応える事ができるだろう。
 普段の買い付けでは質や値を比べるために複数の店舗に足を運ぶが、今回は珍しく即決の形となりそうだ。


 やはり分野の違う業種は、専門の腕が試されるのだと感心した。
 従者という立場では分け隔てなく他人に柔軟な態度で接する事は、それほど必要ではない。己の第一は主人に変わりないのだから。



「……良く分かった。では、杯は赤と黒を貰おう」

「お買い上げありがとうございます」

「それと音沁水は瓶ではなく、そこの甕で頼む」

「か、甕でございますか?」

「よく飲まれる方だから、私も頻繁に顔を出す事になるだろう。
 店主の対応が気に入ったので、暫くは贔屓にさせてもらう事にする」

「それはそれは嬉しい限りでございます!
 しかし……はて、お客様がお飲みになるのではないのですか?」

「私は使いだ。酒好きの主人に仕えているので他に良い酒があれば奨めてくれ」

「では店の酒を全て奨める事になりますので、長いお付き合いになりましょう」



 初めて表面上だけではなく声を上げて笑った店主に、こちらの気も良くなった。


 その後、音沁水の甕は城に届けてもらうより人手を借りる事にして店を後にした。
 他の用があるので帰り際に再度立ちよると告げると、それまでに運び手を用意しておいてくれるらしい。
 簡単な挨拶を店主と交わし、入った時と同じように店の暖簾をくぐって未だに人の行き来が激しい通りに身を投じる。


 酒屋に入る時に己を尾行していた者達は既に消えたようで、それから特に視線を感じる事はなかった。
 音沁水の他に買い付ける予定の物を思い出しながら、民の流れに身を任せ品定めを楽しむ。


 抱いた疑問や不可思議な組織の存在を目の当たりにして、東条の地もなかなか有意義だと感じたのだった――。








 

*****








 朱色に藍色が交った空には巣へ帰るカラスが群を成しており、鳴き声が遠方で響く。


 あれから必要な日用品を適当に買い付け日が沈まぬ内に酒屋に足を向けた……のだが。
 丁度、仕入れから帰って来た呉服屋が店に品物を運んでいる所へ遭遇してしまった。

 仕入れ直後は良い生地を目にする好機だ。
 日を改めて訪ねるのが筋だとは理解しているが、この機を逃すのは惜しい。
 良い物ほど早く買い手が付き、手に入れたいと思った時には既に手を回せない状態になっている事が多い。
 しかし忙しなく店の者に指示を出している店主に声を掛けるもの忍びない。


 と色々考察していたはずが、指示を出し終わって一人になった呉服屋の店主を見た途端、声を掛けている己が居た。
 営業時以外に声を掛けた事を陳謝し買い手が付く前に品物を見せて欲しいと頼むと、男は快く笑って店内へ案内してくれた。
 それからは、最近跡を継いだばかりだという意外に若い店主の商売魂と、恭様に良い物を着て頂きたいという己の従者魂に火がついて、かなりの時間を呉服屋で過ごしてしまった。




「……何をしているんだ、オレは」



 呉服屋を出て冷静になった頭で己を罵る。呟いた言葉は誰にも拾われず空気に溶けた。


 選んだ生地を売ってしまわぬよう店主に金を渡し、次に恭様と共に城下へ来た時に採寸を済ます気でいる子供のような思考にも嫌気が差した。
 恭様が一緒に城下へ足を運んで下さると思い込んでいる事もそうだが、完全に依存して甘えている。


 きっと恭様は嫌な顔ひとつせず、むしろ意気揚々と城下へ共に来て下さるだろう。
 そして己も酒屋や呉服屋へ恭様を案内して幸せを感じるのだ。
 まったく、どれだけ恭様を慕っているんだと己が恥ずかしくなってくる。初恋に思いを馳せる妙齢の娘でもあるまいに。



 『面映おもはゆい』と名づけるしかない感情に一人で照れながら、人数の減った通りを酒屋へ向かって歩く。

 軒先にある見本の陶器を片付けていた酒場の店主に約束通り声を掛け、運び手の男を紹介された。
 甕を乗せた荷車を引く男と歩く帰路は微かに肌寒く、箪笥の中にあるはずの肩袖羽織を確認しておこうと長く伸びる己の影を見ながら思った。




 東条の城の門前まで男と歩き、門番に酒蔵まで甕を運ぶための人手を頼んだ。
 流石に城外の者を断りなく招く事などしない。暗殺や間者の類はこうして入り込むのも少なくないからだ。
 暫くして中から下働きの男が二名現れ、その者達が持ってきた荷車に甕を移す。
 そして、何故か呆けたまま城を仰ぎ見ていた酒屋の男に手間賃を渡し、礼を言って別れる。
 その男は慌てて頭を下げ、小走りで元来た道を帰って行った。



 酒蔵への道のりを覚えながら、ガラガラと荷車を押す男達と言葉を交わす。
 酒を出したい場合は誰に断りを入れるべきか、膳や酒瓶は調理場で借りる事ができるのか等の質問を投げると、男達は目を丸くした後『客人が気を遣う必要はない』と笑った。


 そうは言っても、と言葉を詰まらせた己に男達はもう一度笑って女中達に断りを入れておいてくれると約束してくれた。
 これは思わぬ収穫だ、と内心ほくそ笑んで男達と同じような他者に受けが良い笑いを返す。
 この男達や女中と仲良くできれば、聞き出せる情報も増える。
 仕事や性別によって情報の内容や幅も違うので、聞き出せる人数は大いに越した事は無い。


 近い内に調理場にも顔を出そうと決めて、視界に入った酒蔵を目指して足を動かしたのだった。










 酒蔵から宛がわれた部屋に戻っても、未の刻に恭様をお送りした状態と何ら変わりがなかった。
 どうやら恭様は未だ花姫様との逢瀬を楽しんでいるようで、今頃は花姫様と心安らぐ一時をお過ごしのなのだろう。
 音沁水での段階など踏まずに事を運んでしまいそうだ、と藍色に染まりきった空を見ながら思う。



「……散策でもするか」



 持ち帰った赤と黒の杯を片してしまえば、己の仕事は他に特にない。
 ここ数日で脳裏に描いた城内の地図を思い出しながら、部屋を出る。


 東条は内部の構造が極力統一された造りになっている城だ。
 同じような部屋や道は侵入者を撹乱させ易いので、覚えるのに時間が必要になる。
 が、一度覚えてしまえば難なく出歩けるようになるので、日頃からこの城で生活する者にとっては安心だ。


 しかし藤見の城は違う。
 対侵入者用の悪どい仕掛けが多く構造自体が複雑な藤見の城は、翌日には罠が増えている事など日常茶飯事で、ただ廊下を歩くだけでも気力を消費するのだ。

 僅かに出張った廊下の板を踏めば瞬く間に底が抜け、回避するために飛び退いた先にも同じ仕掛けが施されている。
 壁に手をつけば隠し扉という名の拷問部屋への扉が開き、一歩足を踏み入れれば網に囚われて宙吊りにされてしまう。
 庭には竹槍が仕掛けられた落とし穴が至るところに存在していた。
 他にも例として挙げるのも疲れる量の仕掛けが施されており、実は城を覆う結界など必要ないのでは……と考えている自分がいた。










 恭様に宛がわれた部屋は本殿の客室が連なる場所の一角だ。
 真四角の形をしている客室群の四方に婿候補の部屋が割り振られており、東条側の配慮が感じられる。
 端部屋は移動が面倒だが、個人的な交流を図るには向いている。特に逢瀬を目的とした場合に。


 無人の廊下を歩き、脳内の地図に記憶されていない曲がり角を見つけて先を覗く。
 すると、一瞬だけ先の角を慌てた様子で過ぎた数人の姿が見えた。
 


「あれは、……小萩殿?」



 落ちついた印象の強い小萩殿が、人目も気にしない素振をするのは腑に落ちない。
 追って詳細を調べるか、と気付かれぬよう尾行しようとした時――近くに慣れた気配を感じて足を止めた。


 小萩殿の姿が見えた方向とは真逆の先にある気配――……これは、間違いなく恭様だ。

 急いで後を追おうとするが、恭様はかなりの速度で移動している。
 これは追うより目的地を推測して回り込む方が早いと判断し、脳内の地図から経路を選択する。
 幸いな事に、恭様が移動している方向は既に調査済みだ。





 その甲斐あってか、ふわふわと定まらない恭様の軌道に苦戦を強いられたが、恭様の足が止まる頃に何とか遭遇する事ができた。


 しかし己に背を向けたまま微動だにしない主に、嫌な予感が過る。
 まさかまさか、と焦りながら何とか絞り出した声が震えていないのは奇跡に近かった。



「恭様?」

「……陽太か?」

「はい。こんな所で何をなさっているのですか?」



 振り返った恭様に一瞬、ほんの一瞬だけ、途方に暮れた表情が浮かんでいるのが視界の端に映った。

 恭様は弱った部分を他の者に見せない。
 それが外傷であっても、心の痛みであっても同じだ。
 そんな恭様が、たった一瞬でも表情を曇らせていた事に衝撃が走った。

 花姫様から届いた文を、恭様にしては珍しく子供のような笑顔でオレに見せたものと正反対の状態に。
 愛しそうに文字を指先で追い、ふわりと優しい笑みを零す恭様は間違いなく幸せを感じていた。
 花姫様との逢瀬に緊張しながら、恋心を厄介だと言いつつも耳を赤く染めていた姿とは違いすぎた。



「部屋に帰る途中だ。そういうお前は?」

「オレは城下町への買付かいつけが済んだので城内探索をしていました。
 あの、確か恭様は花姫様とお会いになる予定だったと記憶しているのですが……」

「あぁ、今の今まで待ったが我慢できなくなってな」

「は? 約束の時間は未の刻だったはずですが……って、今は酉三つ時ですよ!?」

「俺と花姫様は、縁が無いのかもしれないな」

「そ、そんな事は……」



 へにゃりと音がしそうな程悲しそうな恭様の表情に、オレの心がチクチクと痛む。
 こんな風に力なく笑うのは随分我慢している証拠だ。

 別に恭様に落ち度は何も無い。
 約束を取り付けて来たのは東条側であるのに、何たる仕打ちだ。


 下唇を噛み、悔しさで胸がいっぱいになる。
 東条側にも腹が立つが、本当は気の利いた言葉の一つも掛ける事ができない自分自身も歯痒い。

 恭様は奥底の感情を他者に悟らせない方だから、時々酷く不安になる。
 最後の言葉の後に疲れたように聞こえた溜息はきっと気の所為じゃない。
 だからそんな恭様にオレの心はチクチク痛み続ける。


 歪んだ顔は、悔しさと悲しみからか。
 それとも強く握った手に爪が喰い込んだ事によるものか。
 理由はどうあれ、それによって情けない顔をしていたせいだろうか。

 恭様はオレの顔を見て、もう一度へらりと力なく笑った。
 添えられる言葉は、花姫様への想いを語った時と同じもの。



「言っただろ? 厄介な感情だ、と」

「で、では花姫様の事は……」

「今回の展開は予想外だったから、部屋で少し考えるよ」



 ああ、こんな声を出させたい訳ではない。
 何時だって恭様には心から笑っていて欲しいのに。
 こんな状態で、無理に笑ってくださる事を恭様に望んではいないのに。

 
 恭様は弱さを見せずに、いつも笑う。
 だからいつの間にか、返される笑顔の感じで恭様の痛み具合が分かる様になってきた。
 言葉にできないオレの声も、いつも震える拳と共に形を現さない痛みとなって掌に残るだけ。



 そして、今の沈んだ気持ちを浮上させた恭様がどのような行動に出るかも簡単に予測できた。

 凍てつくような視線で、恭様は邪魔者に自分の存在が如何なるものか教えるだろう。
 策を練って動き出す恭様が与えるのは、制裁と報復と二度と逆らう気を起こさぬよう強い絶望感。

 逃げる事を許さぬ眼差しで、恭様は愛しい姫を恋慕という名の海で溺れさせるだろう。
 幸か不幸か予想外の妨害により逃れた美しい姫には、足掻けども抜けられぬほどの深い愛情を。

 眠る獅子のように、今は未だ手の内を見せない恭様だけど。
 この気落ちという眠りから覚めた恭様が誰を狙って、誰を捕えて、誰を仕留めるのか。

 その時、オレは恭様のために何ができ、どのように動くべきだろうか。

 そんな事を考えつつ、オレは静かに歩みを進める恭様に合わせて半歩先を歩き、気を紛らわせて頂けるよう別の話題を振る事にしたのだった――。









*****












 部屋までの道のりで少しずつだがオレの言葉に返事をして下さる恭様の様子を、半歩先を歩きながら盗み見る。
 その表情は良好とは言えないが、先ほど纏っていた沈んだ空気は消え失せていた。
 ……となると次にオレが起こす行動は、何故今回の状況が起こったのかを追及する事だ。



 状況を整理しようと思い、着目点となる事項を幾つか上げてみる事にした。

 まず、未の刻時点では特に大きな問題が起こっていなかったという事だ。
 刻限通り恭様を迎えに来た女中に不審な様子はなく、世話役を任されていた事から気遣いも感じられる。
 これは東条側の企みだという可能性を低くする証拠ともなり得る。

 それに、昨日の千代の様子から花姫様が恭様に好印象を抱いていると推測できる。
 故に、東条側がこんな行動に出るのは考えにくい。
 相手を焦らすのは駆け引きの一つだが、このような方法は裏目に出る事が多いので賭けに出るような行為はしないだろう。
 それ以前に、恭様の想いを打ち明けられて激しく動揺していた花姫様に、駆け引きが出来るとは思えない。 
 それについては恭様も同じ考えのようで、東条側を非難する言葉は口にされなかった。
 


 次に、花姫様の予定だ。
 未の刻に茶会への誘いがあったという事は、少なくともそれ以降は予定がないと考えて良い。
 先に上げた理由から、花姫様は恭様との逢瀬をないがしろにしないはずだ。
 そうなると、考えられるのは未の刻以前に予定していた事で何か問題があったか、だ。

 しかしここでもう一点着目すべきなのが、遅れる連絡が恭様に無かった事だ。
 待たせているにしろ一言あるのが普通で、何より花姫様に付いている女中頭の小萩殿が、そんな無礼を許すとは思えない。

 更に繋がる点としては、オレが恭様の気配を感じる前に見た小萩殿の姿だ。
 慌てたように移動していた小萩殿の行き先は、恐らく恭様が花姫様を待っていた奥御殿の方向。
 もし恭様の元へ向かっていたのであれば、既に手遅れなのだが……手遅れなりに何か連絡があってもおかしくない。



 他の点としては――、どうやら今から目の前で起こるようなので敢えて挙げるのは止めよう。
 今まさに、最も有力で犯人を裏付けるであろう人物が、遠方からドスドスという品のない音と共にやって来るではないか。
 恭様も流石と言うべきか、オレが音に気付いたのと同時に一歩分前に出て相手が確認できる距離まで進み足を止めた。


 噂をすれば……、とはこういう時に使用する言葉だろうか。
 と思いながら、見合いの席で恭様に無礼を働いた婿候補が青筋を浮かべながら歩いてくる様子を眺める。
 贅沢暮らしを物語る体は世辞にも戦闘向きとは言えないが、確か彼は商業が盛んな地の出身だったと思い出した。

 商業という言葉から、城下で会話した酒屋や呉服屋の店主が思い浮かぶ。
 が、目の前の男とは正反対の印象を抱いている自分には、同類だとはどうしても思えなかった。
 唯一、よく通る声が商業向きだとは感じたが。 



「おのれ藤見恭、この私を愚弄しおって……!
 私が進む道を阻む邪魔者めが! どうしてくれようか!!」

「一体何の事ですか」

「黙れ黙れ黙れ、このっ、すけこましが!」

「はい? 何故そのような話に……」

「調子に乗るなよ藤見恭! 必ず、近い内に必ず貴様に恥をかかせてやるからな!!」



 ……利点だと思えたその声も、この場では耳触りなモノでしかない。

 口を開けば他人を罵る言葉を吐き、目を開けば見下した視線しか寄越さない。
 あまりの態度に、一度縛り付けて市中を引き摺り回してやろうか、と思えてくる。


 推測でしかないが、恐らくこの男が諸悪の根源だろう。
 何かと恭様に敵意を抱いているようで、今回も稚拙な策を立てたと見受けられる。
 この様子からすると、何らかの手違いが生じて思わぬ方向に事態が転んだようだが。


 その後、男は罵声を浴びせるだけ浴びせて、何を思ったのか自分の帯に挟んであった扇子を大きく振り上げ膝に叩き付けた。
 恐らく真っ二つに割るつもりだったのだろう。だが予想に反して扇子の作りは丈夫だったようで、膝を強打するという失態を晒すだけになった。
 

 何とも形容し難い空気が場に漂う。
 うずくまる男とそれを介抱する従者を見て、恭様もオレも苦い表情のまま黙り込んでしまった。

 そんな我らの視線から逃げるようにして消えた黄色の主従に、呆れと共に沸々とした怒りが込み上げてきた。
 その延長のせいか、呆れた様子で苦言を漏らす恭様に、あの主従を非難した答えをも返してしまう始末だ。

 恭様の事になると、情に流されて歯止めが利かなくなる。
 それが改善すべき点だと理解しているのに、なかなか怒りは収まらない。
 むしろ、歯止めが利かなくなりつつあると言った方が正しい。



「傲慢な態度で自分を強者として見せようとしているのでしょうか。
 今の発言で小細工を仕掛けた事が予測できますが、程度が知れましたね。
 生き残るために必死なのに、策の詰めが甘い事で落魄おちぶれる手本のような方だ」



 あの男は、オレから見れば恭様の周りを煩く飛び回る虫だ。

 仇を成し不快だな、と思う前に虫は捨てるに限る。
 刺すような虫だったなら殺すこともある。
 羽音を疎ましく感じても尚、生かしたいと思う虫は過去にも存在しなかった。
 それがどんなに美しい羽を持つ蝶でも同じこと。

 言わば、あの男にとって権力は自由に飛び回るための羽だ。
 生まれながらにして美しい羽を持つ害虫のような男は、羽を見せびらかすだけで使い方を知らない。

 そんな羽なら、毟り取ってしまえば良い。
 そんな羽を持つなら、見限ってしまえば良いのだ。

 考えず声を上げる事なら赤子でもできる。
 考える頭や実行する意志を持たぬなら、他者に迷惑を掛けない世界に閉じこもってしまえと毒づいた。



「陽太、最後に生き残るのは力や権力が強い者でも立てる策が完璧な賢い者でもない」

「では何者が最後まで生き抜くのですか?」

「……何だと思う?」


 柔らかい色を含んだ恭様の声は、幼い頃から変わらない問い掛け方だ。
 瞬時に気を落ちつけて小首を傾げたオレを見て小さく笑う恭様の姿も、昔の記憶と違いがない。

 権力者や策士を上回る存在を思い浮かべながら、答えを探す。
 相手を支配する何かを認識させ、それを有効に使用して決して逆らわぬ意志を植え付けるには。
 うーん、と考えた後に出た、狂った歯車がかみ合うような閃きに自信が沸き上がった。



「拷問を好む者ではないでしょうか!」

「…………」

「自由を奪った上で肉体的・精神的に痛めつける事により要求に従うように強要する。
 特に情報を自白させる目的で行われる事が多いですが非常に効果的だと思っています」

「拷問を好む者より強くて賢い者が相手の場合、それは実現できるか?」

「……難しいかと。それに、生き残るという事には役立たない気がします」

「もう少し考えてみるんだな」

「えぇっ、教えて下さらないのですか!?」

「あぁ、答えは保留だ。陽太への課題にしておくよ」


 自信のあった回答が間違っていた事と、恭様が正解を教えて下さらなかった事で二重の脱力感に襲われる。

 何とかして答えを聞き出さなくては、と決意新たに恭様を見上げれば、ニヤリと片方の口端だけを上げた恭様と視線が合った。
 その悪事を企んでいるような笑みを見ると、背にぞくぞくとした何かを感じる。
 そして、自分の考えは不正解でもない気がした。

 きっと恭様には誰も逆らえない。
 誰が絶対であるかを認識付け、決して逆らえぬよう意志をも支配する存在。

 楽しげに笑う恭様が幼い頃と重なる、なんて言ったら呆れられてしまうだろうから。
 オレは『幸せだなぁ』と頭でぼんやり考えながら、その感想は胸に秘めたままにした。








 が、次の瞬間に背後から掛けられた声に、その思考は一気に吹き飛んでしまった。



「それは残念でなりませんなぁ。是非藤見殿のお考えを拝聴しとうございました」

「「――っ!!」」



 声を掛けられるまで、気付かなかった。
 完全に気配を断ち切った白髪の男に、自分も恭様も全く気付く事ができなかった。
 まるで元からそこに佇んで居たような様子でいる、白髪の老人に。

 東条で出会ったどの鬼よりも強く面倒な相手だと直感が告げている。
 殺気は無いが、敵とも味方とも判断できない老人に凄みを利かせながら恭様の前に立つ。
 老人と恭様を結ぶ直線上に己が入る事で、仕掛ける間合いが十分になった。



「そう警戒されずとも、危害など加えませぬ。
 その証拠に、藤見殿の影獣も姿を見せておらぬでしょう」

「何者だ」

「東条に仕官する臣でございます。名乗るほどの者では……」



 余裕の表情で笑い、口髭を梳く老人の動きにさえ反応した自分の声は低く緊張をはらんだものだった。
 藤見の地でも滅多に出会う事のない強者を目の前にし、冷静さを欠きそうなほど興奮している。
 流石に自分から仕掛ける事はしないが、恭様に肩を叩かれて少しだけ落ちつく事ができた。

 元の位置に下がった事により、恭様の肩越しに老人の行動を監視する形となる。
 恭様と向き合った状態で一層深く笑った老人は、名も名乗らず先ほどの婿候補の男との一件を言の葉に乗せた。



「しかし藤見殿、婿候補同士で仲違いがあるなど感心できぬ事でございますぞ」

「……そう見えましたか」

「やや一方的ではありましたが、大きくは違いますまい」

「少し誤解があるだけです。話し合えば理解してくれます」

「さて、藤見殿の欠けた部分を探そうと目論む者の目を逃れられますかな?
 上手く隠しているようでも、鑑識眼のある者ならば一目瞭然でしょう。
 欠けている事に気付かれるのは時間の問題。向き合わねば脆弱なままですぞ」



 聞き流せそうなほど軽い口調で言葉を紡いだ老人の指摘に、オレは全身の血が滾るのが分かった。

 今の言葉は、明らかにオレへ向けたものだ。例え視線が向いていなくても理解できた。
 恭様も老人がオレの何に対して指摘しているのか、理解されている。
 それを肯定するかのように、ピリッと痺れた空気が恭様から漏れ出した。

 後ろに居るオレには恭様の表情を見る事が叶わないが、背中から伝わるのは静なる怒りだ。


 隠すな、取り繕うな、逃げるな。

 突き刺さる老人の言葉に体が大きく反応し、額に汗がにじむ。
 いとも容易く見破られた素性と、わざわざ遠回しに告げられた事に焦りが生まれる。


 ――それ以上の会話は無かった。
 何も言わない老人が恭様に静かに頭を下げ、去っていくのを呆然と見ている事しかできなかった。
 
 そして老人が去った後も、恭様の機嫌は最悪だった。
 不快感を隠しもせず愚痴を零そうとされた恭様に、気落ちしたオレは自虐めいた返答をした。
 だが、逆にオレの弱音を聞いて、ここに居るはずのない老人にでも聞かせるかのように大声を出した。


「馬鹿言うな、お前が居なきゃ俺なんか何も出来ない。
 それに、そんな風に自分の事を悪く評価しても何も解決しないだろ」

「しかしオレは未だ――……!」

「じゃぁ俺達二人合わせて『無能主従』だな。
 お前と一緒なら有能や無能という評価なんて気にならない」

「……きょ、う様」



 そう言い切った恭様の眉間には又深い皺が刻まれていて、オレは妙に申し訳なくなって首を竦めた。
 しかしそんなオレの様子に気付いた恭様は苦笑を浮かべると、乱暴にオレの頭を掻き撫でた。


「お前が考えるほど、お前の欠点は俺にとって重要ではない。
 俺にとって重要なのは、お前が俺と肩を並べる意志を失う事だ」


 と、落ち込みそうになるオレに恭様は素っ気無く言いつける。
 笑って励ます方法ではなく、さも当然であるかのような物言いが恭様らしさを増していた。

 その言葉に嬉しくなって、いつも以上に頬を緩めて頷いたオレを恭様は苦笑一つで受け流す。
 しかし、その表情は次第に苦笑からむにゃむにゃとした笑顔になった。

 いつかきっと、近い内に、老人が指摘したオレの欠点が皆に知られる事になるだろう。
 驚愕されるかもしれない。笑われるかもしれない。蔑まれるかもしれない。

 でも、ただ一つだけ自信を持って言えることがある。
 恭様だけは、オレに驚愕せず、オレを笑わず、オレを蔑む事をしないと。
 いつでもオレの味方でいて下さる恭様だけは、オレとの繋がりを断ち切ったりはしない。


 じん、と胸が熱くなって、笑っている恭様に心の中で感謝した声もいつかは届くだろうか。
 そう考えながら、自室に戻る間は互いにずっと頬が緩みっ放しだった事に、また笑い合った。

 変わらぬ態度で笑う恭様が、オレには本当に眩しくて。
 目を瞑った時に流れた滴に、恭様は気付かぬフリをしてくれた――。



へっぽこ拍手

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