◇こぼれたコーヒー◇
隣のデスクから雪崩が押し寄せて来たのは何も今日が初めてではない。
昨日その書類の山が9合目に達したのは知っていた。
10合目、つまり限界の高さまで2,3日かかると踏んでいたわたしの予想は大幅にはずれ、お気に入りのキャラクターのマグカップをまき込みながら、紙の山が崩れてこちらに迫ってきたのだ。
「あぁぁぁぁぁぁ……」
まるでスローモーションの世界。
たった数秒間の出来事が何分もの長さに感じ、今もなお書類がなだれこんで来る。
マグカップのコーヒーが残りわずかだったのは不幸中の幸いだけど、誕生日に同期の花山からもらったタオル地のハンカチが書類の下で琥珀色に染まっているだろうことは避けられないだろう。
「もぉーーーっ!植山先生。いい加減にして下さい!!」
いくら観音様のようなわたしでも今回ばかりは堪忍袋の緒が切れた。
せっかく出来上がった冬休みの保護者だよりの原稿も、書類の下敷きになってしまったノートパソコンのキーボード部分を見る限り、画面から消えてしまっていてもなんら不思議はない。
早めにバックアップを取っておくべきだったと思ったが。……後の祭りである。
「す、すみません。またやってしまった……」
頭をポリポリ掻きながら、その首謀者が誤ってくれるのはいいけれど、崩れた書類をガサゴソと寄せ集め元のように積み重ねるだけで、こぼれたコーヒーや保護者だよりの消滅はそのままま知らないふり……。まさか、気付いてない?
「あのですねぇ、植山先生!わたしの机の上、どうしてくれるんですか?今日放課後2時間もかかってやっとあと少しというところまで出来てたのに。冬休みの保護者だよりの原稿、パァーになっちゃったんですけど」
ほんとうはこんなこと、言いたくはない。
ただ知らないふりされるのが癪に障るので、ちょっとオーバーアクションで不満をアピールしてみたのだが。
この男にはこれくらい強く出て、ちょうどいいのだ。
一瞬何の事かわからなかったのか、わたしの顔を見てキョトンとしていた隣の主は、視線をデスクの上に移すと慌てて立ち上がり、給湯室の方に向って走っていった。
今度は早送りのアニメでも見ているようなスピーディーな展開。
雑巾を手にした彼が瞬く間に現れ、こぼれたコーヒーを拭き取り、また給湯室にもどっていく。
あっという間の出来事。
何も言えなかったわたしは、ただ呆然とその様子を見ているだけだった。
地元の教育大を出た後、すぐこの翠が丘小学校に勤務して3年目になる。
ようやく仕事にも慣れ、子供たちとの日々も楽しめるようになってきた。
で、隣の雪崩男。
植山達樹というこの男は教師歴6年目の先輩であるにもかかわらず、いつもこのありさまだ。
わたしが新任でここに着任してきた時、隣の校区から彼が転勤してきたのが縁で、知り合って3年目になる。
でも、話すことといったら仕事の事ばかりで、お互いプライベートはあまり知らない。
教職員住宅の独身寮に住んでいるので一人暮らしにはちがいないのだろうけど、彼女がいるのかどうか、はたまた休日は家で何をしているのかなどはまったくもって謎のままである。
別に興味もなかったので敢えてたずねることもしなかった。
そんな植山だが仕事は出来る方だと思う。
わたしと同じ6年の担任をしているが、もう3回目というだけあって仕事内容にも慣れていて、リーダーシップを取ってうまく学年をまとめてくれる。
高学年になると宿泊の行事も増えるので、独身族は身の軽い分、様々な仕事が振りかかってくるのは否めない。
あと2人いる6年生担任はキャリアを積んだ50代の女性教師木津と、おもいっきりマイペースな40代の筋肉教師平木だ。
どちらもいい人なんだけど、仕事の逃げ方もうまい。
木津先生はおっとりとしていて細やかな気遣いのできるママさん教師の鏡のような人。
何かにつけて、若い人の意見はいいわねぇ、その意見に賛成、と全ての責任を擦り付けるようにこちらに仕事を振ってくる。
あれこれ文句をつけて先輩づらをされるのもうっとおしいが、すべておんぶに抱っこもキツイものがある。
筋肉教師に至ってはストイックなくらい自分に厳しく、毎朝20キロの道のりを自転車で颯爽と通勤してくるのだ。
趣味のトライアスロンに忙しく、これまた学年行事の運営全てが植山の肩にのしかかる。
初めて6年生を持つことになったわたしも、植山に頼っているところは多い。
去年の5年生の担任の時も同じ学年だったので腐れ縁ともいうのかもしれない。
いや、かなりお世話になっているといった方がいいのかな。
こんな劣悪な環境の中でも文句ひとつ言わず黙々と仕事をしている彼には、正直頭が下がる。
だからよれよれのジャージ姿でも、寝癖のついたままの髪で通勤してきても、何も言わず大目に見て来た。
でも……だ。
それとこれとは話は別である。
どうしてそんなに、デスク周りが乱雑なんですか?
2段目の引き出しの中身がつっかえて開かないまま3ヶ月も放っておくのは、いくら気の長い性格だといっても限度があると思うのですが……。
採点用の赤ペン、2本貸したままになっているのはもうあきらめます。
でも……。貸してもいないわたしの黒のマジックがあなたのペン立てにささっているように見えるのは、まぼろしでしょうか?
職員室の教頭の机の上の壁にかかっている時計の針が8時を指している。
どおりでお腹が空いて来たわけだ。
向かいの席の木津も筋肉教師も、もちろんもう帰宅してそこにはいない。
残っているのは、教頭と養護教諭の佐藤と隣の植山だけ。
わたしはノートパソコンを閉じると、返ってくることのない赤ペンに別れを告げるべく、隣のトラブルメーカーに帰ると言って席を立った。
一心不乱に数字ばかりのパソコン画面を見ていた植山が急にわたしに向き直ると
「送るよ……。今日俺、車だから」
と言うなりパソコンの電源を落とし、足元にころがっていた大きなスポーツバックを拾い上げ、教頭に「お先です」と軽く会釈をしてあっと言う間に廊下に出て行く。
目の前で起こっていることの意味が呑み込めないまま、先に出て行った植山の後を追うようにわたしも小走りでついて行った。
◇アオキ◇
植山の車は学校北門付近の校舎裏手に停めてあった。
シルバーグレーのスポーツカータイプのそれは、いつ見てもまるで彼に似合わない。
ともすれば仮装の小道具のようにさえ見えてしまうほど違和感があった。
乗せてもらうのは初めてではない。
研修で他校へ出向いた時などに、何度か乗せてもらったことがある。
ただし2人っきりではなく、他の先生も一緒だったのだが……。
うながされるまま助手席に乗り込むと、ケーブルでカーナビにつながれた携帯型MP3が静まり返った車内にアオキの歌声を響かせる。
バラードが絶品の邦人歌手アオキのクリスマスソングの限定アルバムだ。
男性にしては高音なその甘い声にメロメロになる女性ファンは多い。
わたしもその一人だったりする。
「先生もアオキのファンだったんですか?」
黙ったままでいるのも気まずいので、当たり障りのない話題をふってみる。
「うん。声もいいけど、彼の曲想が好きだったりする。このアルバムはクリスマスソングが中心だから彼のオリジナルは少ないけど、今一番気に入っているかもしれない。先生もってことは林田先生もファンなの?」
「え、ええ……。まぁ……」
な、なんでこの男、アオキが好きなんだ。
お互い同じアーティストのファンだとわかれば、もっと盛り上がってしかるべきなのだけど、なにせ相手は植山だ。
彼と同調しなければならないほど友人に不自由はしていない。
車だけでなく、好みの音楽まで彼に全くそぐわないと思ってしまう。
植山なら、70年代のフォークとか演歌ってイメージだ。
いやフォークが悪いと言ってるわけではない。現にいいなと思う曲がいくつかあるしね。
ただ彼の場合、わたしの父親世代の趣味嗜好と重ね合わせてしまうだけのインパクトを常日頃放っているのだからそう思われても仕方ないのだ。
いつの間にか駅を通り越し高速のゲートをくぐる。
ETCのバーが目前に迫り、このままぶつかったらどうしようなどとありえない想像をしながらも難なく通り抜ける。
いつもここでそう思うのはわたしだけだろうか?
予想もしていなかった成り行きに少し慌てる。
「あの……植山先生?すぐそこの駅でよかったんですけど……」
電車に乗れば1時間ほどで住んでいる町の最寄駅に着く。駅からは自転車で10分ほど。
学校からのバスの時間も入れると通勤に1時間半もかかるけれど、慣れればそんなに苦ではない。
でも高速を走っても50分くらいはかかる。
ただの同僚にそこまでしてもらうのはやはり気が引けるのだが。
「気にしないで……。家まで送るよ」
「で、でも、遠いし。先生の帰宅時間が遅くなりますよ」
「いいから、まかせておきなさいって。あっ……。ところで、お腹空かない?」
もちろん、空いてます……ってこの展開。
きっと一緒に食事でもってことだよね。
彼と2人で食事っていうのは、どう考えても想像すらできないありえないシチュエーション。
「す、空いてるっていうか、そ、その……なんていうか……」
「君んちの近くのインター付近にいろいろあるよね。そこで晩飯食おうよ。帰ってから作るのもめんどくさいし、一人で食うのも……ね?」
……ね?って言われても、わたしの場合、家に両親と双子の弟もいるので一人の晩御飯はあまり経験がないのだけど。
そうだ。この人一人暮らしだから、寂しいんだ。
たまには、付き合ってもいいか……。
なんと言っても今夜はこうして送ってくれるんだし、無碍に断る事も出来ないなと、さっきの職員室での怒りはこの際封印して、うん、と頷いてみた。
「よし!そうと決まれば、目的地に直行だ。やった!」
やったぁ?何それ?
聞き捨てならない彼の言動に少し動揺したわたしは、気付かれないように横で運転している人物をそっと盗み見る。
するとどうだろう。にこにこと嬉しそうに微笑みながら、アオキに合せて鼻歌まで歌い出す始末。
ステアリングに添えられた右手の人差し指は、音楽に合せて軽くリズムまで刻んでいるではないか。
えっ?待って……。
初めて見たわけではないのに彼の横顔が別人に見える。
あんなに鼻が高かったっけ?
それに彫の深い目元にくっきりした眉。
相変わらずヘアースタイルはなんとも形容し難いけれど、日焼けしたその横顔は、わたしの目を釘付けにするのに充分なほどかっこいい。
そんなことあるはずがないと、必死で頭の中で考えたことを打ち消そうとするけど、自分の意思ではもうどうにもできない。
念のためもう一度見てみると、突然こっちを向いた彼とおもいっきり視線がぶつかってしまい、はっと息を呑んだ。
奥二重の黒目がちな瞳に、わたしの心は一瞬にして鷲づかみにされてしまったのだ。
これって、もしかして……。
恋に落ちたのだろうか。このわたしが植山に?
◇あっさり、こっくり◇
インターに到着したのは9時前だった。
この付近の店はほとんどが深夜も営業している。
閉まってしまう心配はまだないので、仕事帰りのサラリーマンにはありがたい一角だ。
「林田先生は何が食べたい?」
急に聞かれてびっくりしたわたしは、使えない女の定番ワードを発してしまった。
「な、何でもいい……です」
植山もそんなわたしの返答に驚いているのがわかる。
普段わたしは意外とものをはっきりと言うタイプらしい。
自分ではこれでも言いたい事の半分も言えない控えめな女性であると思っているのだが。
皆で連れ立って食事に行っても希望のメニューを真っ先にオーダーするのは当然のこと、みんなの注文も取りまとめるのがわたしの使命だと信じて疑わない。
そんな時、みんなと同じでいいとか、なんでもいいって言う主体性のない人物に容赦がないのも周知の事実。
そんなもんくらい、さっさと自分で決めろっつーの!
なのに……なのに……。
一番嫌いな台詞をこのわたしが口にするとは……。
「林田さんがなんでもいいなんて珍しいね。仕事が長引いた時の夜食の注文も、てきぱき取りまとめてくれるのに。なんだかいつもの林田さんじゃないみたいだ」
珍しい生き物でも見るように植山はつぶやく。
でもそう言うあんたもいつもの植山でないよ!
だって、さっきから違和感ありすぎだし。
なんでだろう?
先生抜きで苗字で呼んでくれたからかなぁ?
年下のわたしにもいつも敬語で話しかけてくる彼からは、『林田先生』と先生付きで呼んでもらったことしかないのだから。
同期や親しい先輩の先生方は、沙由奈をもじってさゆちゃんと呼んでくれる。
逆立ちしたって彼がそんな風に呼ぶわけもなく、仮に呼ばれたとしても身体が受け付けずに、拒絶反応を起こしてしまうだけだとは思うが。
でも今一瞬、そう呼ばれてみたい気持ちになったのには正直参る。
「じゃあ、ラーメンでいい?」
ぇええ!ラーメンかよ!と、なんでもいいと言っておきながら、心の中でおもいっきり彼に突っ込んでしまった。
嫌いじゃないけど、ちょっといいムードの2人がラーメンね……。
やっぱり植山だわ、と思ったのもつかの間、
「あそこのガソリンスタンドの隣のラーメン屋、去年できたばかりだけど結構いけるらしいよ。インターネット外食部門ランキングで市内1位になってたくらいだし。チャーシューが半端なくうまいんだって。スープもあっさり、こっくりなんだってさ」
などと切り出す。なんだ、ちゃんと調べてるんじゃない。
あっさり、こっくりってよくわかんないけど、結構有名な店なんだ。
ランキングで市内1位だってことももちろん知らなかった。
……って、さっきからモヤモヤしていた理由がわかった!
彼が敬語を使ってない。
学校に着任した当時は初対面だから敬語もアリと思って気にしなかったけど、3年たった今でもずっと敬語で話しかけられていたので、かなりの堅物か変人だという結論でどうにか彼を理解するように努めていた。
でもさっきから、普通に話してるよね。
どうりで調子狂っちゃうわけだ。
今まで知らなかった彼が次々と姿を現す。
なんだか今夜はおもしろいことになりそうだ。
髪はぐしゃぐしゃで、よれよれジャージを身につけているけれど、結構頼もしくていい奴に見えてくる。
……不思議だ。
この3年間、わたしは彼の何を見ていたのだろう?
いや、見ようとしていなかっただけなのかもしれない。
そこのラーメンは植山の言うとおりとてもおいしかった。
なるほどこれがすっきり、こっくりね。
実際食べてみなきゃわからないとはよく言ったものだ。
ここでも彼は饒舌だった。
仕事の事や一人暮らしの苦労話、趣味のスキーのことなど今まで知る由もなかった彼の日常が明らかになっていく。
前年度の1月後半にあった5、6年生のスキー合宿で見た限り、かなりの腕前だとは思ったけど、公認指導員の資格まで持ってるとは驚きだ。
だって何も言わないんだもの。
おまけにアルペン種目で国体の次点候補にまでなったと聞いた時には、ラーメン屋のカウンターの高めの椅子からマジで落っこちそうになったのだから。
わたしと植山の住んでいる県は、北部は山々が連なり、豪雪地帯もあるので結構ウィンタースポーツが盛んな地域でもある。
彼の母方の実家が北部地域にあって、小さい頃から自然とスキーに親しんできたらしい。
わたしもスキーは嫌いじゃない。
県南部出身だけど、小中高と学校からのスキー教室のおかげで、そこそこ滑れるようになっていた。
大学でスキー同好会に入ったのを機に、信州や県北部で過ごす事が多くなりスノーボードにもはまった。
最近は小学生相手ということもあって、もっぱらスキーなんだけどね。
わたしが目をランランと輝かせてスキーの話を聞くものだから、いつの間にか春休みに立山方面に春スキーに一緒に行こうと話がまとまってしまっていた。
あっ、でも安心して。2人っきりじゃないみたいだから。
彼のスキー仲間も一緒なので取り敢えずはOKってとこかな。
それから急に神妙な顔つきになると、いつもわたしに迷惑をかけてすまないとも言ってくれた。
わたしってそんなに怖かったのかな?と逆に恐縮してしまう。
わたしの方こそ仕事ではいっぱいフォローしてもらっているのに……。
でもあの山積み書類は整理しようねとやんわり注意しておくことは忘れなかった。
その後隣の喫茶店でコーヒーまでご馳走になってしまい、家に送ってもらったときには、あと10分ほどで夜中の0時になるところだった。
ほんとうにあっという間の数時間。
それもあの植山とこんなに長時間2人っきりで過ごしたなんて、どう考えても信じられない。
その上、別れ際になんて言ったと思う?
「朝は無理だけど、帰りは毎日送るよ。いいかな?ささやかな俺の罪滅ぼし。それと、君の携帯のメールアドレス教えて。電話番号しか知らないから」
そういって、ペンケースからごそごそペンを取り出す。
毎日送ってくれるって本気ですか?ちょっと嬉しかったりするこのわたし。
アドレスのメモなんてしなくても空メール送って登録しとけば澄むことなのに……。
実は彼の携帯、もう1週間も充電しないでそのまま放ってるんだって。信じられる?
彼が手にしたのはどこかで見たことある赤ペン。
そ、それって、わたしのペンだよ!と思わず心の中で声を大にして叫んでしまった。
彼の手元を見るわたしの視線に気付くと、悪びれることなくこう言った。
「このペン、返したくなかった。君をずっと手放したくなかったから……」
彼の部屋の机の上に、もうひとつのわたしの赤ペンがころがっているのを知ったのは、それから20日後のクリスマスイブの夜だった。
おわり |