その拾九:犬って本当は色分からないんだよ、知ってた?
不自然な揺れ方をした茂みの中から現れた何かをはっきり視認するより速く、斜め右の方向から白い光が走った。
土方の刀がうなり、その光を弾き上げる。キイィンという金属音が響きわたった時には、土方の刀はもう弾き上げた勢いを利用して回転し、左から飛びかかってきた襲撃者に斬りつけていた。
(相手が三人に増えたか…)
土方は全く落ち着きを失わずに、こちらへ迫ってくる敵を見据えていた。さっきからしつこく襲ってきたルビーにイリス、そしてもう一人、ボーちゃんにそっくりな少年もいた。彼の姿を見た途端、土方の後ろで立ち尽くしている本物のボーちゃんの顔が色を失った。
右側にいるイリスが口を開いた。土方がさっき切り落とした腕は、もう再生している。
「こいつだよ、ギルザ………このクソ野郎がテルとあのガキを助けやがったんだ。」
その言葉は茂みから現れた、ボーちゃんそっくりの少年に向けられたものだった。ギルザというのは、どうやらこいつの名前らしい。その小さな目はぎらぎらと光り、凄まじいまでの悪意と殺意を秘めていた。
息づまるような沈黙がその場に満ち───土方は突然、うなじがぴりっとするのを感じた。
ボーちゃんとテルを突き飛ばし、土方はニセモノ三人から大きく飛びすさって離れた。間一髪、さっきまで土方のいた所の地面に、ギルザの刃状化した鼻水が食い込んでいた。
三人が、無言のまま間合いをつめてくる。その間にもギルザの鼻水が飛んできて、土方は刀が刃こぼれしないよう気をつかいながら、それを跳ね上げた。
しかし、ギルザばかり相手にしているわけにもいかなかった。イリスの右腕がみるみるうちに変形し、大きな槍の形になるのを土方は見た。横から絶妙のタイミングで突き出されてくる鋭い先端を、なるべく最小の動きでよけていく。───油断した時か疲れた瞬間が、土方の最期だった。
土方は後ろに下がろうとして、突き飛ばされたまま地面に倒れているボーちゃんにつまずき、仰向けに転びそうになった。慌てて体勢を立て直したが、大きな隙ができ、間髪入れず突き込まれた槍をかろうじてかわした。しかしその結果ボーちゃんをまたぎ越えることになり、ボーちゃんは敵と土方の間に挟まれてしまった。
(まずい!)
さすがの土方もあせった。ボーちゃんは混乱と恐怖に捕らわれて動けないらしく、土方に突き飛ばされた時のままの格好でじっとしている。ギルザの鼻水かイリスの槍で一突きされたら、それで終わりだ。
一瞬、時間が凍りついたかのようだった………しかし次の瞬間、イリスはボーちゃんの上から身を乗り出すようにして、やはり土方めがけて槍を突き出してきた。
土方ははっと気づいた。ニセモノたちには、春日部の住民を傷つけるつもりはないのだ───とりあえず、今のところは。しかし春日部市民でない自分は、ただの邪魔者でしかない。
心に生まれた可能性に、土方は全てをかけることに決めた。
土方はボーちゃんを守ろうとするのをやめ、ギルザめがけて飛びかかった。予想外の動きに不意をつかれ、ギルザは身体を思い切りのけぞらせたが、刀が額を深く切り裂くのをふせぐことはできなかった。流れ出してきた紫色の血が目に入り込み、ギルザはうめいて動きを止めた。土方はそのまま刀をふるい、イリスの肩に斬りつけてひるませると、左側にいるルビーに襲いかかった。
しかし、ルビーはさすがに油断していなかった。驚くほど素早く、しかも最小限の動きで刃風をかわし、そのまま土方のふところに飛び込んだ。
ふところに入られてしまうと、特に相手の背丈が小さい場合は、刀が使いにくくなる。土方は焼けるような熱さと痛みが、胸の下から腹に走るのを感じて歯を食いしばった。
だがここで、さすがのルビーも警戒を緩めた。自分の手に炎の熱をこめて相手に斬りつける攻撃は強烈で、並の人間なら実際には大した怪我ではなくても激痛のあまり気絶してしまうほどのものだ。だから相手が反撃してくるはずなど、もうないのだった。
しかし、彼女は間違っていた。土方が並の人間ではないことを、失念していたのだ。………攻撃を受けることを覚悟した瞬間にもう、土方は反撃の準備にかかっていたのである。
土方は激痛をこらえて、刀の柄を両手で握りしめまっすぐに振り上げた。そしてちょうど顔を上げたルビーの額めがけて、柄の先端───石突を全力をこめて振り下ろした。
ルビーはぎくりとして首をひねった。が、よけられなかった。眉間の少し上を石突に強打されて、あっという間に目の前が真っ暗になった。土方はルビーが倒れるのを見もせずに身をひるがえし、今度は顔を覆っているギルザの脳天を石突で殴りつけた。そして、一人残ったイリスに向き直った。
イリスは呆然としていた。いくら強い男でも、自分たち三人でかかればあっさり殺せるだろうと思い込んでいたのだ。ことにルビーが気絶させられた時には、思わず自分の目を疑った。イリスもギルザも高い身体能力を誇っていたが、ルビーにはとてもかなわない。彼の知る限り、ルビーを敗北せしめることができる者 はリンドとリオルしかいなかった。
しかも自分たちは子供の姿をしているのだ。普通の大人なら、とても子供相手に本気で打ちかかっていくことなどできまい。それに斬られたというのにほとんどひるむことなく、すぐに攻撃へ移ったというのも信じがたいことだった。───それができるということは、この男がいかに強い精神力の持ち主かということ、そしていかに命のやりとりに慣れているかということを示していた。
しかし、こいつは傷を負っている。ルビーが斬った傷はそれほど深くはないようだが、かなり出血しているし、痛みも相当あるはずだ………。イリスはそう考えると気が楽になり、槍を構えようとした。
ところが次の瞬間、土方は傷を負っているとは思えないほどの速さで走り出し、森の中へと 飛び込んでしまった。
「あっ………おい、待て!」
相手の意外な行動に驚き、イリスが後を追おうとした………途端、すぐそばの木の陰から、土方が刀を振り上げて飛び出してきた。
不意をつかれたイリスは、槍を突き出すのが一瞬遅れた。その隙を見逃さず、土方の刀が振り下ろされた。紫の血がしぶき、イリスの槍が真っ二つに斬り割られた。
目を見開いたイリスの右肩に、土方は刀を勢いよく突き刺した。イリスはうめき声を上げ、突き飛ばされたように仰向けに倒れた。刺さった刀を、土方がイリスの胸を踏みつけながら引き抜いた。
もう、イリスにも動く気力は残っていなかった。───身体中から力が抜け、ゆっくりと視界が闇に呑まれていった………。
土方は激しくあえぎながら、その場に立っていた。
本当は、ここまでするつもりはなかったのだ。いくら鬼の副長と呼ばれていようと、子供を平気で傷つけられるわけがない。 特にネネにそっくりな少女を殴り倒した時には、傷と無関係の痛みを心に感じた。
しかし手加減する余裕がなかったのだ。いずれも気を抜いたら殺される相手ばかりだったし、実際ルビーに斬られた時は本気で死ぬかと思った。少し身を引いたおかげで、幸い傷はルビーが狙っていたほどには深くないようだ。
「だ…大、丈、夫?」
背後で不安そうな声がしたので振り返ると、本物のボーちゃんが青ざめた顔をこわばらせて立っていた。
「……あぁ。お前は、どうだ?」
ボーちゃんは突き飛ばされて倒れた時に、膝をすりむいただけだったので、大丈夫だと答えた。そして、困った顔をして言った。
「テルが………いなく、なっちゃった。」
「は?」
見回すと、確かに白い毛に空色の瞳をした犬の姿がない。さっきの戦いに怯えて、どこかに行ってしまったのだろうか。
どっちにしろ彼を探しに行くのは、今の土方には無理だった。
「まあいい。あいつはほっとけ………さっさと行くぞ。」
「ボ………どこに?」
「山の中だ。決まってるだろ。」
土方は傷がズキズキ痛むことも、流れ出る血が足を伝い落ちていくことも無視して、戸惑うボーちゃんの手を引っ張り、森の中へと消えていった。
「逃げろ!」
銀時の怒鳴り声で、全員はっと我に返り、一斉に逃げ出した。
さもなくばみんなバスにはね飛ばされていただろう。しんのすけがさすがにびっくりした顔をして、バスを振り返った。
「母ちゃんと父ちゃんが乗ってるゾ!でも、何で………!?」
「ニセモノだよ!」
トオルは簡潔に説明すると、しんのすけの腕をつかんですぐそばの狭い道へ逃げ込もうとした。
しかし不運なことに、バスは二人のいる方向へやってきた。
ひかれる!
トオルはしびれるような恐怖を感じた。必死に走ろうとするが、どう考えても追いつかれそうだ。───が、その時、思わぬ救世主が現れた。
トオルは突然、後ろの襟首をつかまれて宙に持ち上げられるのを感じた。びっくりする間もないうちに、トオルを持ち上げた誰かはすごいスピードで突進し、目指していた路地の中にさっと飛び込んだ。
まさに間一髪。ちょうど地面に下ろされた瞬間、トオルはバスが塀に激突したような音を耳にした。
トオルは自分の命の恩人を見るため、くるりと振り返った。
「定春!」
巨大な白犬が、嬉しそうにトオルを見下ろしている。すぐ横でうめき声がしたので見ると、しんのすけがなぜか、ひどくみじめな姿で地面に転がっていた。
「オラ、風間くんにいっぱい引きずられて痛かったゾ………」
その言葉でトオルは事情を理解した。トオルはずっとしんのすけの腕をつかみっぱなしだったのだ。そしてトオルが定春にくわえ上げられ、路地に運ばれた時もずっとつかまれていたので、結果的に地面を引きずられることになったわけであった。
悪いとは思ったが、トオルは吹き出しそうになった。
「えぇと………とにかく、ここは狭いからもうバスは来ないよね。」
何とか普通の顔を取り繕いながら、トオルは言った。
「そうですな。………ところでこの犬、何でこんなに大きいの?」
「でもいつ敵が来るか分からないしさ。早くどこかに隠れようよ。」
トオルは慌てて話題を変えた。
辺りを見回してみたが、自分たち意外の人影は見当たらなかった。どうやら銀時たちとははぐれてしまったらしい。彼らもどこかの路地へ逃げ込めたのだろうか。
「それじゃしんのすけ、定春を連れて……定春!!どこに行くの?」
定春はもう歩き始めていた。鼻を地面にくっつかんばかりに寄せ、くんくんと動かしている。しんのすけとトオルは顔を見合わせた。
「匂いかいでるみたいだゾ。」
「そうだね…ついてってみようよ。」
「オラと風間くんの、愛の逃避行ね〜♪」
「気持ち悪いこと言うな!意味も知らないくせに!!」
二人は定春の巨大な尻にぴったりくっつく形で歩き始めた。定春は明らかに何かの匂いをたどっているらしく、迷うことなく進んでいく。時には定春には狭すぎるんじゃないかと思うくらい細い路地を、何とか通り抜けたこともあった。
そのうちトオルは、何だかえらく見覚えのある家々が立ち並んでいるのに気がついた。
「お?なんかここ、来たことあるようなないような………」
しんのすけも同じ気持ちらしい。不思議そうに周りをきょろきょろ眺め回している。
やがて定春は、一軒の家の裏手にある生け垣の前で止まった。
「オラん家だゾ…」
この時ばかりはしんのすけも呆気にとられたらしい。それ意外何も言わずに、自分の家と定春とを交互に見比べている。
しかし定春の奇行は、そこで終わりではなかった。
「定春!!?」
トオルは仰天して叫んだ。定春が突然後ろ脚で立ち上がり、生け垣のてっぺんに前足をかけて寄りかかったのである。
見た目から分かるように、定春の体重は相当重い。そしてその重みをもろに受けた生け垣は、当然のごとく───。
メリメリメリ…バキッ。
何とも不吉な音が辺りに響いた。
そして最後にドシン!と地響きを立てて、根本から折れた生け垣が、ごっそりと内側に倒れた。
トオルは定春の予想外の行動に、開いた口がふさがらなくなった。
「母ちゃんに怒られる!」
しんのすけはまるで場違いなことを叫んだ。
そんな二人にかまわず、定春は倒れた生け垣をぐいっと前足で押しやった。
「あっ!」
今度はトオルとしんのすけが、同時に声を上げた。ちょうど生け垣が生えていた所の地面に、大きな穴が開いていたのだ───人が五人ぐらい入り込めそうな穴だ。
「………しんのすけ、お前こんな所に秘密基地でも作ったの?」
「オラ知らないゾ。」
しんのすけも唖然としている。こんなところに大穴が隠されているなんて、まるで気づきもしなかったのだ。
定春は穴に顔を寄せてしきりに匂いをかいでいるようだった。───と、不意に身を躍らせ、穴の中に飛び込んだ。
「定春、ダメッ!」
トオルが慌てて駆け寄って、定春の尻尾にしがみついたが………。
彼一人で引き止めるには、定春はあまりにもでっか過ぎた。しかもさらに不運なことに、定春が飛び込んだ穴には───底がなかった。
落ち始める瞬間、ズボンを誰かにつかまれたような気がしたが、それも一瞬だった。
トオルは定春の尻尾をつかんだまま、落下していった。暗闇の中を、下へ下へと………。
(ダメか………)
土方は、立ち止まった。隣にいるボーちゃんが、心配そうにこちらを見上げた。
時折気が遠くなる。歩いている自分の身体が、まるで別の人のもののように感じられた。このまま無理して動き続けたら、一分もしないうちに倒れてしまうだろう。腹の焼けつくような痛みも鈍くなり、自分の感覚神経が麻痺しつつあるのが分かった。
土方は手近な木の根本に腰かけ、ボーちゃんをすぐ隣に座らせた。いつもの習慣で、ポケットから煙草とライターを取り出す。
「ガキ、よく聞け。………お前、ちゃんと歩けるな?」
ボーちゃんはうなずいた。
「俺がいなくても、帰り道は分かるだろうな?」
ボーちゃんはやや不安げに土方を見つめたが、やがてためらいがちに首を縦に振った。
「じゃあ、すぐに山を降りて春日部に戻れ。そして幼稚園に行くんだ。───そこに、あの銀髪野郎がいる。チャイナ服の小娘もいるかも知れねぇ。とにかく、俺をここに置いてすぐに山を降りるんだ。」
ボーちゃんが真っ青になって首を激しく振るのを無視し、土方は言葉を続けた。煙草を持つ指が、頼りなく震える。
「いいか、なるべく木陰や茂みの中を選んで移動しろよ。あいつらがもう目を覚ましているかも知れねぇからな。もし見つかったら、とにかく全速力で逃げろ。お前を傷つける気は、ない、はず、だか、ら………」
そこで限界が来た。土方は崩れ落ちるように倒れ、気を失った。口にくわえようとしていた煙草がぽとりと地面に落ち、その拍子に火も消えた。
ボーちゃんは泣きそうに顔を歪めて、しばらく土方を揺さぶっていたが、やがてその場にうずくまってしまった。
土方を置いて山を下る気には、到底なれなかった。敵がやってきたら、きっと土方はあっさり殺されてしまう。ボーちゃんは自分を助けてくれた人をむざむざ見殺しにできるような性格ではなかった。
しかしだからといって、土方を連れて山を下りることは、子供のボーちゃんには土台無理な話だった。ここにじっとしていても、いつか敵に見つけられるかも知れない。
ボーちゃんは完全に途方に暮れてしまった。
「キャンッ。」
すぐ後ろで犬の鳴き声がした。
ボーちゃんは文字通り飛び上がり、ぐるっと振り返った。白いふわふわの毛の小さな犬が、じっとこちらを見上げている。テルかと思ったが、よく見ると目は空色でなく黒だった。
「シ、ロ………?」
半信半疑で問いかけると、白犬───シロは嬉しそうにボーちゃんの脚に身をすり寄せ、そして少し離れた所にある茂みの前に立ってこちらを振り返った。
ボーちゃんが立ち上がって近づくと、シロは茂みと茂みの間に身体を滑り込ませた。ボーちゃんが同じように通り抜けるとそこに、シロがさっきと同じ姿勢で立っていた。
これと同じようなことが繰り返し続いた。シロは少し先に立って歩き、時折立ち止まって振り向いては、ボーちゃんがついてきていることを確かめた。ボーちゃんはシロの後を追うのに一生懸命で、これが罠かも知れないなどとはこれっぽちも考えなかった。
気がつくと、ボーちゃんは山の頂上にかなり近いところまで上ってきていた。
しかしシロは、頂上まで後数十メートルというところで突然向きを変え、木々の間に入り込んだ。ボーちゃんもそれを追って中に入った───と、突然、横から右腕をつかまれた。
ボーちゃんは心臓が止まるかと思った。しかしその時の驚きは、自分の腕をつかんだ者の顔を見た瞬間の気持ちに比べれば何でもなかった。
野原しんのすけの顔が、目の前にあった。
しかしその顔は、しんのすけのものとは思えないほど真剣で、緊張していた。声も出ないボーちゃんをじっと見つめながら、しんのすけもまた無言で手を離し、すっと森の奥の方を指さした。つられてそちらを見たボーちゃんは、息を呑んだ。
薄暗い木々の間に、明かりが見える。それだけでなく、話し声もする。
何も言わず、何も考えもしないうちに、ボーちゃんの足は明かりに向かって歩き出していた。
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