その拾八:どんな女でも涙は大事な武器になる
気がつくと、どこか暗い場所にいた。
でも一人ではなかった。誰かが前にいて、自分の手を引いて歩いてくれている。
その人は、自分よりずっと背が高くて髪も長い………女の人だ、と分かった。
やがて、狭い通路から突然、天井の高い広々とした空間に出た。
どこかの工場の中らしい。壁にはパイプが張り巡らされ、手すりのついた通路やそこへ上っていくためのはしごが設置されているのが、薄く灯った工場の明かりの中にぼうっと見えた。
しかし、何より興味を引いたのは、部屋の真ん中の床に設置されている大きな筒みたいなものだった。
好奇心に突き動かされるまま、そばに近づいて筒の中身を覗き込むと、中は黒い液体で満たされていた。普通の水みたいに滑らかではなく、どろりとしている。何ともたとえようのない異臭が鼻をついた。
半ば無意識に液体へ手を伸ばした時、女の人が気づいてこちらに歩いてきた。自分に向かって何か言ったようだが、なぜかよく聞き取れない。
自分の腕をつかんで引っ込めさせると、女の人は筒の空洞の中を満たす液体に目をやった。
ちらりと笑みを浮かべ、女の人はそっと左手をさしのべて黒くどろりとした液体に触れた。そして手の平に液体をすくい上げて揺らし、液体の感触を楽しむかのように目を閉じた。
───が、突如目を開き、疑惑の表情を浮かべて左手の中に溜まったものを見つめた。
次の瞬間、女の人の手の中のものが───黒い液体が、ぼっ、と燃え上がった。
そしてめらめらと揺れる青白い炎が、女の人の左腕をさあっと、生き物のように這い上がった………。
ずん、と全身に重い衝撃が来て、トオルはハッと顔を上げた。
どうやら夢を見ていたらしい。ちょうどしんのすけが登場する悪夢を見て目が覚めた時のように、全身が汗ばんでだるかった。
トオルはため息をつき、額の汗をぬぐった。
何てことだ………この一年間、見ないで済んできたというのに、みおりに会ったことであの悪夢が蘇ってしまったようだ。
隣の運転席にいるみおりに目をやったのと同時に、トオルは自分がなぜ唐突に目覚めたのかに思い当たった。
バスは止まっていた。多分ブレーキを踏んだ衝撃が、トオルを目覚めさせたのだろう。どういうわけか、みおりは明らかに呆然とした表情を浮かべて前を見ている。トオルは前方の光景に視線を向けた。
そこにいたのは、定春とその背にしがみついたお妙だった。
あまりにも驚いたからだろう。土方はテルがけたたましく吠え出すまで、襲撃者の接近に気がつかなかった。
「!」
頬に熱気を感じたのと我に返ったのがほとんど同時で、土方は半ば無意識のうちにボーちゃんとテルをひっつかんで投げ飛ばし、自分は地面に伏せた。頭上で爆発音が響いたのは、ちょうどその直後だった。
ついさっきまで、自分たちが座っていた路地の地面に、大きな火の手が上がっている───。しかし見ているうちにそれは小さくなり、まるで最初から火などなかったかのように、跡形もなく消えてしまった。
そこへ、さっきまいたはずのネネとマサオそっくりの人影が、走り寄ってくるのが見えた。
ニセモノたち───ルビーとイリスの二人とも、怒りの度合いが違うとはいえ、先ほど土方にうまく逃げられたことにはそれぞれ腹を立てていた。だから本来の狙いはテルなのだが、何よりもまず、攻撃の目標を別の男に決めていた。今、地面に倒れている一人の男に。
しかし二人にとっては不幸なことに、ルビーとイリスは考えるのと同じくらい、いやそれより速いスピードで行動できる男を相手にしたことがなかった。土方はいたずらに倒れていたのではなかった………伏せるや否や、既に次の行動へと移っていたのだ。
土方に飛びかかるか飛びかからないかのうちに、イリスは焼けるような痛みを右腕に感じてぎょっとなった。頬に数滴の液体が飛んできたのでとっさに横を見ると、ルビーの肩から紫色の血がしぶいていた。
二人が凍りついている間に、土方は刀を手に飛び起き、地面にわけの分からぬまま転がっているボーちゃんと恐怖の吠え声を上げているテルを左腕に抱え込んだ。
イリスは地面に転がっている自分の右腕と、逃げていく土方の背中を悪夢を見ているような気持ちで眺めていた。
しかしルビーの方は傷が浅いこともあり、そう長くぼんやりはしていなかった。今まで見せたことのないような悪意のこもった視線を───そして力をこめた一撃を、逃亡者の憎い背中に送りつけた。
土方の背中に、炎の華が咲いた。
今しんのすけたち園児に銀時たち、そしてまつざか先生とみおりは、バスから降りてお妙と定春の周りに集まっていた。
みんな、それぞれ違った意味合いの驚きを顔に浮かべている。トオル、銀時、神楽、そして山崎は、なぜこの奇妙なコンビがこんな所に現れたのだろうと不思議に思っていたし、他の面々は定春の巨大さに唖然としていた。ただししんのすけは別で、彼はお妙のきれいな顔に目が釘付けになっていた。目の見えないマサオはネネに手をつながれ、一人どのような反応をすればいいのか分からないという表情で突っ立っていた。
やがて、神楽が彼女らしくもない、おずおずとした口調で話しかけた。
「あの、姉御………何かあったアルカ?」
すると───まったく驚くべきことが起こった。
お妙がわっと泣き出したのである。
「お妙さん!」
「姉御ォ!!」
トオルと神楽がそれぞれ仰天して叫んだ。お妙はさらに絶望的にすすり泣き、とうとう定春の首に顔をうずめてしまった。
「私…私、どうしたらいいか分からないの……お願い、助けて、お願い……」
トオルは銀時と神楽を見上げた。二人とも、トオルと同じようにお妙の様子から強い衝撃を受けたようだった。お妙は彼らの知っている女性の中で、最もしっかりした人物の一人なのだ。
「ど、どうしたんですか?姐さん、一体………」
山崎は動転のあまりつい、お妙のことを『姐さん』と呼んでしまったが、お妙はまるで気づいていないようだった。
「大変なのよ…私、怖いの。何が何だか、もう───」
「何があった?」
銀時が単刀直入に、普段使わないような鋭い声で問いただした。それに元気づけられたのか、それとも少し気持ちが落ち着いてきたのか、お妙は顔を上げた。
「私………し、新ちゃんと一緒に、買い物に行ったの。きょ、今日の、夕ご飯のおかずを買って、それで帰ろうとしたら、この子が───定春ちゃんが、来るのに会ったの。なぜか分からないけど、怪我をして血が出ていたわ。」
「怪我?」
神楽が聞き返し、慌てて定春の身体を調べ始めた。とうの定春自信は黒い目をくりくりさせて、珍しそうにしんのすけたちを眺めていたが。
「どうしようか迷ったんだけど………結局、酢乙女邸に連れて行こうってことになったの。でも着いてみたら、チャイムは鳴らないし、ドアも開けっ放しだし………もうその頃には、定春ちゃんも元気になってたんだけど。すごく嫌な感じがして、私は新ちゃんに、このまま定春ちゃんを中に入れて帰ろうって、言おうと思ったのよ。そしたら………」
お妙はここで、突然口がきけなくなったかのように言葉を切った。見ればその顔が、極度の恐怖で青ざめこわばっているのが分かる。何回か息を吸ったり吐いたりしてから、お妙は絞り出すようにして話を続けた。
「そしたら、ちょうど門の近くの地面に何かがあるのに気づいたの。水溜まりみたいだったんだけど、何だかどろっとしてて、しかも………紫色だった。変に思って上を見上げたら───あぁ、いたのよ、トオルくん。あなたにそっくりな子が、門の上にいたの。」
「えっ?」
トオルはびっくりしてお妙を見つめ返した。
「僕の………そっくりさんが?」
「それだけじゃないのよ。そいつは腕に、何かぼろぼろになった紫色のものを持ってたの。女の子のようだったけど、わ、私、あまりにもびっくりして、それに怖くて、動けなかった………そしたらそ、そいつがこっちを向いて───
新ちゃんを打ち倒したのよ!」
「おいちょっと、ちょっと待て。」
銀時が少し慌てた様子で遮った。
「話の順序ってやつを間違えてねーか?そのトオルそっくりの奴は門のてっぺんにいたっていう話だが、そんならそこからどうやって下にいる新八を倒したってんだ。バズーカでも持ってたのか?」
「え…あぁ、まあそうよね、ごめんなさい。」
お妙はそわそわと前髪をかき上げた。
「でも本当にあっという間だったのよ。門の上からこっちを見た、って分かった次の瞬間に、新ちゃんが血を吐いて倒れたんだもの。それに………」
「新ちゃんって………新八さんのこと?」
ネネが突然割って入った。ショックそのものの表情を浮かべている。
「あの…ネネを家まで送ってくれた人?」
その時しんのすけが目を上げ、明らかに怪訝そうな顔つきでネネを見たので、トオルは内心かなり焦った。しんのすけにはまだ、ネネが風間家の夕食に招待されたことを告げていない。隠していたことを知ったら相当腹を立てることは確実だ。
しかし幸い、しんのすけが何も言わないうちにお妙が話を再開してくれた。
「お腹を殴られたみたいだったわ。少しの血だったから、大したことなかったと思うんだけど………それにしても、あいつはとっても恐ろしい奴よ。それにとっても強いわ 。───沖田さんを一撃で倒したくらいだし。」
「沖田さんが!?沖田さんが、一撃で?」
山崎が叫んだ。信じられないという気持ちを、青い顔にありありと浮かべている。彼は普段から沖田のそばで働いているだけに、彼の恐るべき剣の 腕はよく承知していたのだ。沖田を知る銀時と神楽も、同じく驚愕したようだった。
「そんで………お前はどうなったんだ。」
銀時がやっとのことで訪ねると、お妙はなぜかうなだれた。
「沖田さんが屋敷の中から走ってきたけど、あいつがさっと動いた途端にばったり倒れてしまって、私は何が起こっているのかさっぱり分からなかった。あのままあそこで突っ立っていたら、間違いなく私が次の標的になっていたでしょうね………でも新ちゃんが突然私に、『定春に乗って逃げろ!』って叫んで我に返ったの。でも私は新ちゃんたちを見捨てて行きたくなんかなかった……だけど新ちゃんは私の腕をつかんで、定春ちゃんの背中に突き飛ばしたのよ。いえ、投げ飛ばしたって言った方がいいかしら。その途端定春ちゃんが走り始めて、後は…あぁ、後は分からないわ!」
ここまで一気にしゃべるとお妙は声をつまらせ、また定春の白い毛並みに顔をうずめてしまった。銀時たちはそれぞれ顔を見合わせた。
「この人が言ってること、本当なの?」
一番最初に切り出したのは、風間みおりだった。黒い瞳にやや疑わしそうな色を漂わせて、お妙と定春を見比べている。
「もちろんだよ。」
トオルが怒ったように言い返したので 、みおりはちょっとびっくりしたようにトオルを見下ろした。
しんのすけとネネとまつざか先生は、定春に対して完全に気をとられている様子だった。
「この犬、一体何なの?」
ネネがこわごわ手を伸ばし、定春の白く滑らかな毛並みに触れながら誰にともなく聞いた。
「えーっと、まあその………」
まさか宇宙巨大生物だよ、と教えてやるわけにもいかない。トオルが返答に困っていると、またしてもお妙が話題をそらす助け船を出した。
「そういえば…あのトオルくんにそっくりな奴、変なことを言ってたわ。」
「変なこと?」
お妙はなぜか、トオルの顔をやけにじっと見つめ、そして口を開いた。
「君たちには風間トオルを苦しめるために協力してもらう………とか何とか。」
「何だと!?」
銀時がさっとお妙の方に視線を向けた。トオルは驚きのあまり飛び上がりそうになった。
神楽が言った。
「そういえば………ボーちゃんのニセモノも言ってたアルヨ。風間トオルを渡せって。」
「河村くんのそっくりさんは、風間くんを相手するのは自分たちじゃないとか言ってなかった?」
ネネがみんなに思い出させた。
「そうか…だとすると、誰かトオルを特別に狙ってる奴がいるってことになるな……」
「ちょっと待ってよ。」
みおりが少しイライラした口調で割り込んできた。
「トオルが誰かに恨まれてるとでも言うの?言っとくけど、この子がそんな人様に憎まれるようなこと、してるわけな───」
みおりの最後の言葉は、ついに聞けずじまいに終わった。お妙が大きな悲鳴を上げて、みんなの背後を指さしたのだ。
振り返った瞬間、無人だったはずのバスが滑るように、こちらへ向かって進み出すのが目に入った。
運転席と助手席に、にやにや笑いを浮かべた野原ひろしと野原みさえの顔が見えた。
土方は激しく舌打ちし、焦げた上着を地面に叩きつけた。
「くそっ!」
携帯を落としてきてしまったのだ。さっき伏せた時、無意識のうちに放り出してしまったに違いない。せっかく近藤から連絡が来たというのに………。
それにしても、どうして突然かかってきたのだろう?そういえば携帯電話を使って近藤たちと連絡するなんて、まるで考えてもみなかった。大体違う世界同士で電波がつながるなんて考える方がおかしい。実際向こうの世界からは、ずっと連絡など来なかったのだ。
土方、ボーちゃん、テルの三人は、春日部山の麓 (ふもと)辺りまで逃げてきていた。
幸いさっきの火は、土方の肌に到達するには至らなかった。しかしあのネネのニセモノは、自在に火を点ける力を持っているのだ。相当用心せねばならないだろう。
春日部山に逃げ込んだのも、そのせいだった。こんな所で火を起こそうものなら、山火事になりかねない。いくら奴らでもそこまでする度量はあるまい。
しかしやはり、ここでもあまり安穏としているわけにはいかなかった。
「…ったく、しつこいガキどもが。」
土方はいまいましげに呟いたが、その目はぎらぎらと獣のように光った。ボーちゃんとテルに隠れているよう合図し、ゆっくりと刀を抜き放つ。
目の前の茂みが、ガサリと揺れた。
いつもは平穏な春日部山の中に、凄まじい殺気が弾けた。
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