坂東蛍子、人形の瞳を閉じる
「もうちょっと待っててね」
「はい」
坂東蛍子はアンティークショップの中を再び見て回り始めた。アンティークといっても基本的にはアンティークドールを扱っている店であり、その手のものへの造詣があまり深くない蛍子にとってはどこを歩いても未知との遭遇である。
この店は蛍子の友人の結城満の祖父が経営している。満の祖父はアーロと言う名のフィンランド人で、海外のツテを使ってドールを細々と輸入し販売しており、合わせて修繕業務も行っていた。修繕に関してはドールのみ受け付けていたが、身内や友人に関してはその限りでなく例外的に裁縫で直せるようなものは無料で修繕を受けもっていた。坂東蛍子も孫の友人という事で子供の頃からよくぬいぐるみを直してもらっており、今回も修繕を頼んでいたロレーヌという名前の兎のぬいぐるみを学校帰りのその足で受け取りにきたのだった。
そこまで広くない、こじんまりとした仄暗い店内には蛍子以外の客はおらず静まり返っており、蛍子は足音を立てることを気兼ねして何かに隠れるかのようなひっそりとした足取りで歩いていた。なんだかドキドキするな、と蛍子は思った。そのドキドキは久しぶりに大事なロレーヌと再開できる喜びの高鳴りでもあっただろうが、それ以上に不可思議な、あるいは霊的な予感めいたものが霧のように立ち込めているこの場の空気に中てられた緊張でもあった。蛍子は常に四方からの自分への視線を感じて気を落ちつかせることが出来ずにいた。
「・・・あら?」
ロレーヌを入れた袋を持ってアーロが店内に出てくると、店の奥で蛍子が立ち止まって一つの人形を熱心に見ていることに気が付いた。アーロは、幼い頃に孫の満に連れてこられた蛍子が店に並ぶドールを怖がって泣いてしまったことをよく覚えていたため、今日も少し足を急がせてぬいぐるみを手渡す準備をしていたが、もしかしたらそれは杞憂だったのかもしれないなぁと一先ず壁にもたれて蛍子を優しい瞳で眺めた。あ、とこちらに気付いた蛍子が頭を下げてくる。アーロは「そのドールに興味があるのかい?」と流暢な日本語で蛍子に尋ねた。
「んー・・・実は私、本当は人形がその、得意じゃないんだけど、でもこの人形は怖いと感じないんですよね」
蛍子が前かがみになり、人形の高さに目線を合わせる。
「だってこの人形の瞳の色、おじいさんの目の色にそっくりなんだもん」
アーロはハッとしてそのドールを見た。蛍子が見つめているそのアンティークドールは、亡くなった妻が結婚するより前に人形師だったアーロにプレゼントしてくれたものだった。それは間接や目蓋等の可動部の多い一般向けに作られたドールだったが、毎日人形に触れて目の肥えていたアーロは何故このドールを自分に渡したのか疑問に思いその旨を尋ねたところ、彼女はニコニコしながら坂東蛍子と同じことを言ったのだった。
「だってこの人形の瞳の色、あなたの目の色にそっくりなんだもん」
それ以来妻に嫉妬されるぐらい常に傍らに置き大切にしてきた品である。妻が亡くなって間もない頃は胸に開いた穴を埋めるためにさらに執着を深めたが、直に自分に見られているだけでは寂しかろうと思い直し、色々な人の目に留めてもらおうとあくまで展示品として店内に置いていた。
「私この人形が一番好き」と蛍子が微笑んだ。ありがとう、とアーロが翡翠の瞳を細めた。
「でも、随分古い人形みたいに見えますね」
「そうだね、そのドールはこの店に置いてる人形の中では一番古株で、ずーっとここにいるんだ」
そうなんだ、と蛍子は感心して改めてドールのクロムグリーンの瞳孔と目を合わせた。色々なものを見てきた含蓄のありそうな眼差しが蛍子の両目を真っ直ぐ見つめ返してくる。
「でも、ということはこの子はずっと目を開けてきたんですよね。お客さんのために」
「そうなるね」とアーロが返す。
「じゃあ、今ぐらいは閉じさせてあげても良い?きっと疲れてると思うから」
アーロは坂東蛍子のこういった女子高生らしからぬ感性が好きだった。普段は客に対し売り物以外のドールに手を触れることは遠慮願っていたが、アーロは蛍子にニッコリ笑って「どうぞ」と頷いた。蛍子は手を差し伸べてそっと人形の目蓋を閉じる。
「お疲れ様。おやすみなさい」