第140話 最期の時
何時間もたった気がする。でも、実際には1時間もたっていなかった。病室のドアが開き、医者が顔を出した。
「意識が戻られました」
「え?!」
医者の表情が暗かったから、違う言葉を言うのかと思い、みんな一瞬覚悟したと思う。でも、医者から出た言葉は、予想を反していた。
「じゃ、じゃあ、母さん、峠を越したってことですか?」
爽太パパが椅子から立ち上がり、医者に駆け寄ってそう聞いた。
「いいえ。あまりよくない状態ですが、意識が戻り、今、ご主人とお話をされています。みなさんにも会いたいとおっしゃっています」
医者の顔は、暗いままだ。
「……」
一瞬の安心感から、またどっと不安が押し寄せた。それでも、みんなはおばあちゃんに会いに病室に入った。
「爽太、春香」
おじいちゃんが二人を呼んだ。おばあちゃんは、うっすらと目を開けていた。
「母さん」
泣きそうなのを堪えながら、爽太パパがおばあちゃんの横に立ち、おばあちゃんの手を握った。春香さんはすでに泣いていた。
「爽太、春香」
おばあちゃんはかすかに言葉を発した。それから、ありがとうと息が漏れるように囁いた。
「ばあちゃん。元気出して」
パパがそう言って近寄った。くるみママも、
「そうですよ。元気になってまりんぶるーに戻ってきてください」
と、必死に泣くのを堪えながら訴えた。
「ばあちゃん…」
碧は泣き顔だった。近寄れず、そう泣き声で呟いた。空君は私のすぐ隣に立ち、ずっと手を握っていてくれている。
ひっく。
現実を受け入れたくなかった。でも、涙が溢れ出てしまった。
おばあちゃんは、うっすらと開けた目で、私と空君、碧を見た。そして、優しく微笑んだ。
おばあちゃん!
ダメだよ。弱気にならないで。また元気になってよ!そう心の中で叫んだ。でも、言葉にできなかった。言葉にしたら、そのまま、その場で崩れ落ちそうだった。
「圭介…」
おばあちゃんは、おばあちゃんのすぐ隣で、ずっと優しくおばあちゃんを見ているおじいちゃんを呼んだ。
「ん?」
おじいちゃんは、優しく顔を近づけた。
「今、圭介と出会った頃の夢を見てたの。私、圭介に一目ぼれしたのよね」
「俺もだよ。瑞希」
「昨日のことのように覚えているの」
「ああ、俺もだ」
「それから、ずうっと一緒にいるね」
「ああ」
「圭介、ありがとうね。ちゃんとずっとそばにいてくれて」
「うん」
おじいちゃんの目からも涙がこぼれた。
「ごめんね。私のほうが先に逝っちゃうね…」
「……。俺は幸せだったよ。瑞希。瑞希がいたから、こんなに長生きできた。あの時死んじゃってたら、玄孫にまで会えなかった」
「そうね。本当にそうね」
おばあちゃんの目からも、涙が一筋流れた。
「ねえ、ガン細胞が消えちゃった時のこと覚えてる?」
「覚えてる。これで、自分の子供に会えるって、すごく嬉しかった」
爽太パパの目からも、涙がぼろぼろとこぼれた。その隣で春香さんも、しゃくりあげながら泣いている。
「一つ、一つ、叶えられそうもないって思っていたこと、叶えていったよね」
「うん。瑞希と叶えて行ったよ」
「圭介はなんでも、私の夢を叶えてくれたの」
「瑞希がいたからできたんだ」
「……圭介。最後のお願い」
「何?瑞希…」
「私、死んじゃっても、天国には一緒に逝きたい。死んじゃっても、魂になって圭介のそばにいたい」
「うん」
「そばにいてもいい?」
「いいよ。それだって、叶えられるよ、瑞希。今迄みたいに、まりんぶるーのリビングで、一緒にみんなで笑おう、瑞希」
「…よかった」
おばあちゃんはそう言って、嬉しそうに微笑んだ。そして、私や空君を見て、
「空君。これからも、話し相手してくれる?」
と、そう聞いた。
「うん。おばあちゃん」
空君は、目を真っ赤にして頷いた。
「ふふ。よろしくね。じゃあ、さよならは言わないわ」
おばあちゃんは、また嬉しそうに笑い、またおじいちゃんの顔を見た。
「圭介、ずっといるからね」
「うん。瑞希…」
すうっと、すごく静かにおばあちゃんは目を閉じた。
「お母さん!」
「母さん!!」
「ばあちゃん!」
みんながいっせいにそう叫んだ。でも、もうおばあちゃんは目を覚まさなかった。
私は、空君の胸の中で泣いた。しがみついて泣いていると、空君は優しく、
「そんなに泣かないで、凪。おばあちゃん、困ってる」
と、耳元で囁いた。
「だって、だって…」
ひ~~っくとしゃくりあげ、空君の顔を見ると、とても優しい目で私を見ていた。
「どうして、空君は悲しくないの?」
「だって、目の前にいるしなあ」
「おばあちゃん?でも、もうおばあちゃんは…」
空君は優しく私の肩を抱き、病室を出た。医者や看護士さんが駆け付け、私たちはおばあちゃんから離れないとならなかった。
「桃子ちゃん、ばあちゃんの死に目に会えなかった」
パパが涙を手で拭いながらそう言った。
「……か、母さんに知らせてこようか?」
碧が聞いた。パパは、
「俺が電話する」
と、携帯を手にしてその場から離れて行った。
ふらり…。最後に病室から出てきたおじいちゃんが、足元をふらつかせた。
「危ない」
碧が慌てておじいちゃんをささえ、
「じいちゃん、椅子に座って」
と、長椅子に座らせた。
おじいちゃんの隣に、碧も座った。
「大丈夫?じいちゃん」
と、優しく背中を撫でながら。その反対側に私も座ろうとすると、
「あ、凪。そこ、おばあちゃん座っているからダメだよ」
と、空君が私の腕をひっぱった。
「え?」
「ばあちゃんが?」
おじいちゃんと碧が同時に、空君に聞いた。
「うん。おばあちゃん、体から魂抜けて、ずっとおじいちゃんの隣にいるんだ。おあばちゃんはすごいね。碧や聖さんのそばにいられるんだね」
「空君!見えるの?おばあちゃんが見えるの?」
「え?うん」
「だから、悲しがっていなかったの?」
「うん。おばあちゃん、さっきからいっぱい話しかけてきていたし。でも、みんなが泣いていたから、おばあちゃん、困ってたんだ」
「ずるい!空君にだけおばあちゃんが見えるなんて!それも、声も聞こえるの?」
「うん。会話もできる」
「ずるいよ」
空君はにこりと微笑み、
「凪の光に包まれても、おばあちゃん、消えないんだよね。強いなあ、おばあちゃんの魂」
と、感心した。
「瑞希が、隣にいるんだね?空」
「うん!おじいちゃんのすぐ隣にいる。さっきもおばあちゃん、言ってたじゃん。おじいちゃんが死ぬまで、そばにいるって」
「……ああ。瑞希いるんだね。でも、わかるよ。いつもの瑞希の優しいまなざしを感じるよ」
「うん。今、おじいちゃんのこと嬉しそうに見てるもん。え?なに?おばあちゃん」
空君はおじいちゃんの隣に空いた空間のそばに行った。
「ああ。うん。リビングにまた行くよ。いつも、そこにいるんだね?おばあちゃん」
「リビングに?リビングに行けば、おばあちゃんに会えるの?」
私は空君に思わずそう聞いていた。
「会えるよ。でもね、これからは、会いたい時にすぐ凪のもとにも飛んでいくってさ」
空君はそう言って微笑んだ。
おじいちゃんは涙を流して、うんうんと頷き、そんなおじいちゃんを春香さん、くるみママ、爽太パパ、そして櫂さんは黙って見ていた。
「俺も、見えたらよかった。幽霊」
ぼそっと碧が呟いた。
「違うよ、碧。おばあちゃんの場合、幽霊じゃない。もっと別の次元なんだ。おばあちゃんの魂は」
「別って?」
「もっと高い波動って言うか…。だから、碧の近くにだっていられるし、凪の光浴びても消えないんだ。あ、あれかな。守護霊ってやつかな」
「守護霊?」
「おじいちゃんのことを守る守護霊…」
「すごいな。母さんは…。そんなに父さんのこと愛しているんだね」
爽太パパは感心しながらそう言って、くるみママの顔を見て抱き寄せた。
くるみママは、ひっくひっくと泣きじゃくっていたが、
「そ、そうか。お義母さん、ずっとまりんぶるーにいてくれるのね?」
と、おじいちゃんの隣の空間にそう聞いた。
「うん。いるってさ」
空君が、通訳をした。
春香さんも泣きじゃくっていたが、ようやく落ち着きを取り戻した。櫂さんに肩を抱かれたまま、空君のそばに来て、
「空、お母さんと私も時々話したいから、ちゃんと通訳してね」
と、そう言って空君の頭を撫でた。
「うん」
空君は優しく微笑みながら、頷いた。
私と碧は、パパがママと雪ちゃんが心配だから、いったん家に帰ると言い出し、一緒に家に戻ることにした。空君は、おじいちゃんと櫂さんの車に乗り込み、先にまりんぶるーに戻り、病院には、くるみママ、春香さん、そして爽太パパだけが残った。
家に着くと、ボロボロに泣いているママがいた。でも、雪ちゃんがぐずっているので、必死に泣きながらあやしていた。
「桃子ちゃん…」
「お、おばあちゃん、本当に亡くなったの?」
ママがパパに聞いた。
「母さん、雪ちゃんは俺が寝かせるよ」
碧が優しくそう言って、ママから雪ちゃんを受け取った。雪ちゃんは、安心したのか、ぐずるのをやめた。でも、ママがパパの胸に抱き着いて、わあっと堰を切ったように泣き出すと、また雪ちゃんまで泣き出してしまった。
「桃子ちゃん、2階に行こう。碧、雪のこと頼んだぞ」
「ああ、うん」
パパがママに寄り添いながら、階段を上って行った。
「パパもママも、おばあちゃんがまりんぶるーにいること知らないんだよね。さっき、空君と一緒におじいちゃんとまりんぶるーに戻ったこと教えてくるね」
私は碧にそう言って、2階に駆けのぼった。寝室からは、ママの泣き声が聞こえている。
「ママ、いい?」
私はノックをしてそう聞いた。ママではなくパパが、
「いいよ、凪」
とそう返事をした。
ドアをそっと開け、中に入った。ベッドにパパとママは座って、ママはパパの胸で泣いていた。パパは優しくママの背中を撫でている。
「ママ、泣かないで。おばあちゃんね、今、まりんぶるーに空君とおじいちゃんと帰ったから」
「……。まだだよ、凪。お通夜はきっとまりんぶるーでするだろうけど、まだ病院にいるよ」
パパが静かに私にそう言った。
「え?あ!違うの!魂がおじいちゃんと一緒にいるの」
「そうだね、凪。おばあちゃんの魂はきっと、おじいちゃんと…」
「空君、見えているの。それに、おばあちゃんと話したの。パパがね、ママに電話している時、空君がそう教えてくれたの」
「見えてるって?ばあちゃんの幽霊ってこと?」
「幽霊じゃないって言ってた。多分、おじいちゃんの守護霊になったんじゃないかって」
「守護霊?」
ママは、顔を上げて私を見た。わあ。鼻も目も頬も真っ赤だ。
「いつでも、おばあちゃんのリビングに行けば、会えるの。空君しか見えないし、話もできないけど、空君が通訳してくれる。だから、話もできるよ」
「まじで?」
パパがものすごく驚いて目を丸くした。
「うん」
「空が嘘つくわけないしな」
「そ、そ、そうなの?凪。じゃあ、おばあちゃんの姿は見えないけど、声も聞こえないけど、話はできるの?」
「…姿が見えなかったり、声が聞こえないのは寂しいけど、でも、いつでも会えるんだよ」
私がそう言うと、またママは泣き出した。
嬉し泣きなのか、なんなのかわからない。だけど、私までもらい泣きをしてしまった。
「でも、やっぱり生きている間に話がしたかったよ」
ママはそう言って、鼻をすすった。
「ごめんね、桃子ちゃん。病院連れて行ってあげられなくて」
「ううん。雪、熱あったし、今は37度だけど、またあがるかもしれないし」
「そうだ。碧に任せちゃったけど、雪、大丈夫かな。俺、見てくるから、凪は桃子ちゃんを頼む」
「うん」
パパはママの髪を優しく撫でてから、部屋を出て行った。
ママはまだ、泣くのがおさまらないようだ。私はパパがしていたように、ママの背中をさすった。
「ごめんね、凪」
「ううん」
「凪、辛いかもしれないだろうけど、おばあちゃんの最期、どうだったか、教えてくれる?」
ママにそう聞かれ、私は、病院についてからのことをママに話した。おじいちゃんに、「ずっと一緒にいる」と言ってから、目を閉じたことまで。
ママは静かに聞きながら泣いていた。私も泣いた。
「おじいちゃんと、おばあちゃん、お別れじゃないんだよね。まだまだ、一緒にいるんだよね」
「そうだね、凪」
「ママは?パパとずっといる?」
「もちろん。聖君、プロポーズしてくれたの。病める時も、健やかなる時も、死んでも、死んだ後も、ずうっと永遠に愛しますって」
「ひゃ。すご~~い」
そんな言葉を聞いて、涙が一気にひっこんだ。
「おばあちゃんね、意識がなかった時、おじいちゃんと初めて会った時のこと、夢に見ていたんだって。昨日のことのように覚えているって」
「そう。ママもだな。聖君との出会い、覚えてるなあ」
「私は空君と初めて会った時のこと、覚えてないよ。だって、3か月とか4か月だよね?」
「そうだね」
「記憶があるのは、4歳くらいの時。空君と結婚するって言っていたのは憶えてる」
「すごいね。最初の記憶がすでに、プロポーズしている記憶だなんて」
「え?あれ?そうだよね」
くすくす。
ママと一緒に私は笑った。
「良かった。ママ、もう落ち着いた?」
「うん。凪、ありがとうね」
ママは私にハグをした。
ふっと、あったかいまなざしを感じた。なぜか、ママも同時に、私と同じところを見た。そこには誰もいない。だけど、なんだか、あったかい何かを感じた。
「おばあちゃんかな」
「うん。きっと、ママに会いに来てくれたんだよ」
「そうだね」
ハグしあったまま、私とママはしばらく、あったかいまなざしを感じて、癒されていた。