ムーンライトタウン1911
むら雲の向こうは、満月だ。
シエラネバダの赤色砂岩に、夜の気配が満ちる。
太古の色を宿すなだらかな起伏の中を突き抜けるフリーウェイ。
もう一時間、飛ばしに飛ばしているのに舞台装置のように風景は変わらない。ただ闇ばかりが濃くなってゆく。
と、ヘッドライトの光の輪の中に、一枚の看板がひらりと現れた。
文字を確認しようと、男はスピードを緩める。
Everybody welcome
Only 10mile to
MoonLight Town
アクセルを踏み込む。上下左右ぼこぼこのシボレーが悲鳴のような音を上げる。
やがて延々と続いていた丘陵の果てに、ふるいにかけた小麦粉をてっぺんに散らしたような、白っぽい丘が現れた。
乏しい月の光の下で、ヒカリゴケのように薄く発光している。
スピードを落とし、ハイウェイを外れて、丘に近づく。
小麦粉が無数の家々としての姿を現し始める。
近づくほどに、網目状にめぐらされた道路とその周辺に立つ家が増殖していくかのような錯覚にとらわれる。
五千万年前の色を残す古期赤色砂岩地帯の中の、売り出し中の新興住宅地。夜目にも白い、ただ白い、のっぺらぼうな家、家、家。
玄関灯のついている家はまだ十軒に一軒というところだ。砂糖で出来た箱のような白い家に、芝生の前庭。シンボルツリーのような木が、なぜかそれぞれの家に一本ずつ植えてある。ハルニレを小さくしたような、姿のいい、樹影の濃い木だ。
砂漠のただなかに身を寄せ合う、砂糖菓子のハウスの群れ。
豪雨が見舞えば、そのまま幻のように大地に溶けるのだろう。
タウンの中心部にある、花壇に囲まれたおもちゃのような噴水の脇に車を止め、男は外に出た。
砂漠を渡る夜の風は、八月だというのにひやりと冷たい。街全体が、名も知らぬ海の底に沈んだようだ。
暗くてよく見えないが、足元の花壇に咲きそろっているのは、ラナンキュラスだろうか。ふらふらと頭を揺らしながら、ほのかに甘い香りを振りまいている。
ふと花々が明るくなった。まるで地上のささやかなシャンデリアのように。
振り仰げば満月が雲から出でて、猛々しいほどに光り輝いていた。
あたり一面の白い家が月光に照らし出されるさまは、光の監獄のように見えた。
腕時計は午後十一時を回ったあたり。動くものの姿は見えない。
今は夏のバカンスシーズンだ。子どもはサマーキャンプに、小金持ちの夫婦は愛車でこの荒涼たる住宅地を出て、緑豊かな地にレジャーに出かける季節だ。ただでさえ少ない人口密度がさらに半分になっているところだろう。
噴水の横に事務所のような愛想のない建物がある。多分、分譲住宅地の管理棟だろうけれど、ここも無人だ。男は小さなバックパック一つを背に、静まり返った街をひたひたと歩いた。
月あかりのもと、自分の姿を押しつぶしたようなまっくろの影が、足元をついてくる。
アメリカの不毛の荒野には、ときとして文明を凝縮したような施設があらわれる。
遊園地に材木屋、レストランに映画館にスーパー、人の孤独を癒すすべてをかき集めた巨大ショッピングセンターだ。
何十マイルも車を走らせて、様々な肌の人間たちが、誘蛾灯にたかる昆虫のように文明の光の下に集まってくる。
今から三時間前、男はその光のただ中にいた。
地下のフードコートでアイスクリームをかじるその耳に、隣の席の太った白人女の会話が流れて来た。
だからね、ラナはテキサスに急遽いかなきゃならなくなったらしいのよ。
お婆ちゃんの緊急手術が明後日からで、経過を見届けるのに少なくとも一週間ですって。
……急な話ねえ。
でしょう、ご主人は海外出張でダイアナもジャスティンもまだ小学生だから当然連れていくらしいけど、その間家の植物とか熱帯魚とか猫とかの世話とかしてほしいって頼まれて、でも遠いでしょう、彼女の家。うちの反対側で、街の一番北の通りなんだもの、一番寂しいところよ。
で、街で一番大きな家よね。物騒だし、本当は留守にしたくないでしょうねえ。
銀行は信用ならないとかで、家の金庫にみんなため込んでるって話じゃない。
だからその役目をね、あたしお小遣い欲しがってる息子のマイケルに押し付けたのよ。日給二十ドルで。
毎日きっかり午前十時に行って、玄関先のドラゴンフルーツに水やって……
ドラゴンフルーツ?
月下美人みたいな大きな花が咲くらしいのよ、満月の夜中に。その日限りでしぼむんですって。だからその写真も撮ってほしいとか言われたんだけど、あんな寂しい街の淋しいエリアに夜中に行かせられると思う?
きっと今日の夜中あたり咲くわね、それ。何しろ街の名前そのものが、月に照らされてるんだもの。
それにねえ、世話っていうのが花と熱帯魚だけじゃなくて、もっと厄介なのが……
そこまで聞いて、男はコーンを噛み砕くと席を立ったのだった。
街灯の下に、タウンの案内図がある。近寄って指でたどると、北のはずれのストリートは、丘を登り切ったあたりだ。
一番大きな家、という情報だけを頼りに、男は通りを歩いた。
乾いた地面を、根無し草、タンブルウィードの塊がころころと転げていく。ウィードの影も、石畳を転がってゆく。からからからからと、砂糖菓子の街にふさわしい音を立てて。
やがて、ひときわ大きな邸宅が道のどん詰まりに現れた。
広い芝生の前庭の入り口に、一本足で立つ銀色のポストがある。
1911。名前はなく番号だけが記されていた。
コリント式の柱を立てた大げさな玄関の右横に置いてある、素焼きの鉢植えが表札の代わりになった。
静かに歩み寄って、背丈ほどもある奇怪な植物を眺める。
ドラゴンフルーツ。確かサボテンの一種だ。
アロエに似た大きな葉がふらふらと風に揺れ、その陰に白い大きな蕾が、
エリザベスカラーのような大きながくに囲まれて、震えながら下を向いていた。
……きっと今日の夜中あたりに咲くわね。
蕾は十分に膨らんではいたが、まだ開く気配を見せてはいない。
月の面がちぎれ雲に隠れた。と、空はたちまち燦爛たる星ぼしに満ちた。
男はふと思い出した。
南米の物語の中に出て来た。ドラゴンフルーツの花言葉は、
……たしか、永遠の星。
男は用心深く家の周囲を回り、裏庭に面した部屋に小窓を見つけた。
バックパックからガムテープを出し、窓に貼る。
小さなハンマーで、とんとん、と窓を二、三度叩く。ぐしゃりと窓に穴の開いた気配が、ガムテープの向こうから伝わってくる。
非常ベルは鳴らない。
鳴ったとしても、こんな砂漠のど真ん中の家だ。セキュリティシステムを利用していたところで、最寄りの都市の警備会社から社員が駆けつけるのに最低四、五時間はかかるだろう。
割れたガラスごとガムテープを外し、内側に手を入れ、二重鍵をやすやすと開ける。
室内に入ると、予想通り、洗濯機と乾燥機とアイロン台の備えてある狭いランドリールームだった。
真っ暗な廊下を渡り、居間に通じるドアを開ける。
さっと青白い光が男の足元に伸びた。
ソファとテレビとテーブル以外はなにもないがらんとした室内が、窓いっぱいの月光に満たされていた。
南に向かって、天井高のガラス窓が嵌め殺しになっているのだ。
美術館か温室のようなその部屋は、まさに、月を見るための部屋だった。
全身に月の光を浴びて、男は立ち尽くした。
アラビア絨毯の敷き詰められた足元にくっきりと、後ろ向きに影が落ちる。
ふと視線を感じて、右の壁を見る。
こげ茶の額縁に入った、自分の顔ぐらいの大きさの聖母マリア像が、壁にかかっていた。
月の光が、マリアの頬と、抱かれる幼子イエスの横顔に、斜めにさしている。
男は目の前のソファにゆったりと座って、月光に照らされた絵を眺め上げた。
……兄ちゃん、それ、マリア様?
幼い自分の声が、脳裏に反響する。
そうさ、クールだろう。友人に頼んで特別に描いてもらったんだ。
グリップでマリアが守ってくれてる銃なんてなかなかないぜ。
ほら、このタガーナイフもだ。触ってみるか?
すごくクールだね。こんなのが持てるなんて、兄ちゃんはすごいや。
……何でこんなときに、こんな会話を思い出すのか。
ブロンクスのローハウスで、女手一つで七人兄弟を育ててくれた母親は、昼はホテルで働き、夜は半裸に近い姿でクラブの歌手をしていた。父親は男が四歳の時にヤバい仕事を持ちかけられてコロンビアに出稼ぎに行ってから消息不明だ。貧しい街の、ブロンズ色の肌をした一家にありがちな環境だった。
貧しい暮らしの中では、腕っぷしが即金に結び付く。ストリートのチンピラの中で名を上げ始めた長兄は、時折まとまった金を持って帰ってはうまいものを食べさせてくれた。幼い男にとってヒーローだった。
母はことのほか信心深かった。家にはたくさんの十字架とマリア像があり、母は毎夜その前にろうそくをともして祈った。
日曜は必ず家族そろって礼拝に行き、声を張り上げて黒人霊歌を歌った。そして帰りには必ず、家族全員でアイスクリーム屋へ寄ったものだ。
Children, go where I send thee
How shall I send thee?
I'm gonna send thee seven by seven
Seven for the seven that never got to heaven……
――子どもたちよ、わたしの示す先へ行きなさい
どうやって送り出そう?
七人ずつ送り出そう
七人ずつ、天国と縁なき者たちを――
息子たちがヤクの取引で熊(警官)に追い回されても、ギャング同士の抗争に巻き込まれても、母はさほど気にしていないようだった。
帰れば彼らは必ず母と一緒に食卓を囲み、その頬にキスをし、食前の祈りを欠かさなかったからだ。
十字架に向かい首を垂れるならば、祈りの言葉を忘れていないならば、神を称えるならば、
家族仲がよいならば、母はすべてを良しとして神に感謝した。それが彼女の信仰だった。
だから、子どもたちはいつもすべてを許されていた。母によって。マリアの描かれた銃とナイフによって。
死も憎しみも悲しみも、みな祈りの向こうで幻のように輪郭を失っていた。
長兄以下三人の兄たちは、手っ取り早く食える職だからと、軍隊に入った。本物の武器が扱える上に英雄になれるんだぜと自慢しながら。
二年後、中東のテロリストたちが乗っとった飛行機がツインタワーとペンタゴンに突っ込んだ。
こいつはおまえにやるよ。
大事にしな、ろくでもない世界からお前を守る、お守りだ。
そう言って長兄はあの銃とナイフを男に譲り、アフガニスタンに派遣された。
もう十四年も前のことだ。
荒れ果てた国からは、何度か写真を添えた手紙が届いた。写真の中で、迷彩服の兄は薄汚れた白猫を抱いていた。
みんな、元気か。俺には親友ができた。毛並みのいい白いカワイコちゃんさ。
爆撃で焼け出されるのは人間だけじゃない、人間に飼われていた犬猫も家を失う。
散々な目に遭ったのに、連中は人間と見ると助けてくれると思ってすり寄ってくるんだ。
勝手な話だけど、子猫を飼うことが基地の連中にとって結構な癒しになってるんだ。
いずれ本国に連れ帰りたいと思ってる。こいつが孤児になったことに、俺たちには十分に責任があるしな。
もしも俺に何かあっても、気にするな。夜空の星が一つ増えたと思っとけばいいさ。適当なのを選んで、祈ってくれ。
家族みんなに神のご加護を。
手紙のひと月後、兄は猫を抱いたまま、テロによって爆死した。
マリアの描かれた銃とナイフは、今、男の手にある。
掌だけが白く、手の甲が夜の色の、その手に。
兄さん。それでもあんたは英雄さ。
敵とみなしたもの相手に戦い、愛するものとともに死んだ。
おれは兄さんに憧れて空軍に入ったけれど、海外派兵されるまでもなく、結局しごきに耐えられず、上官を半殺しにして逃げた。
軍を選ばなかったほかの兄弟たちはギャングの構成員となり、あるいは一旗揚げると南米にわたり、もう散り散りだ。母は三年前酒酔い運転のトレーラーにはねられて呆気なく他界した。
ろくでもない世界ってのは、外側にあるんじゃない。おれたちみたいなバカが集まってこつこつ作り上げているんだ。だがくだらない人生を終わりにしてくれるのも、またこの銃なんだろう。
男は立ち上がった。真っ黒な影を連れて。
冷えた空気が沈殿する廊下を通り、勘に従って奥の寝室を目指す。寝室のクロゼットの中。定番の、金庫の位置だ。
寝室らしき大きなドアに手をかける。回らない。鍵がかかっている。
舌打ちして腰に手をかけた、そのとき。
廊下の向かいの部屋の中から、ことり、と音がしたのだ。
小さいけれど、確かな音だ。
男は身を固まらせて、腰のホルスターから銃を取り出し、銃口を上に上げた。
すっと廊下を渡ると、壁に背中を寄せながら、ドアに近づく。
すり寄ってよく見ると、ドアは半開きだ。月とは反対側なので、部屋の中は真っ暗だろう。
……いや? 幽かな灯りが漏れている。
ダウンライトか、足元灯か。あるいは、……熱帯魚の水槽の灯り?
何に、何を、祈ればいいのか。
誰とも出逢わないことか。殺さないことか。殺されないことか。
グリップのマリアの頬に、真珠のような涙が光る。
ドアの横に立ち、男はつま先でそっとドアを蹴った。
そうして体の正面に銃を構えたまま、さっと開いたドアの前に立った。
観音開きの窓の前に置かれた水槽の青白いライトが、その前に置かれたロッキングチェアの影を床に踊らせている。
エンゼルフィッシュとネオンテトラが、水草の群れを出たり入ったりしている。
主の書斎なのか、壁は一面の本棚だ。反対側の壁には、暖炉がある。
部屋の隅には、東洋の塔のような形の仰々しい置物。ライティングテーブルの上の天球儀。
だがこの匂いは何だ。この空間に似つかわしくない、獣臭い糞尿の匂い。
男は空間にまんべんなく視線を走らせながら、ひやりとした空間に足を踏み入れた。
そしてようやく、気付いたのだ。
使っていない暖炉の暗闇の中に、白いケージがあることに。
その中の白い塊に。
しゃがみこんで、覗いてみた。
闇の中できらりと、ピラニアの鱗のように光るものがあった。
二つの、透明な光。
目の底が、薄緑に光っている。
男はそっと手を伸ばした。
毛足の長い白猫が闇の中で身じろぎした。大きな目を見開いて、瞳孔を最大限に広げて、こちらを凝視している。
古い写真の中の猫にあまりに似たその姿に、男はふるりと、身震いした。
やあ。一人で留守番かい?
かすれた声で問いかけてみる。猫は赤い口を開けると、にゃあ。と、返事をした。
ずいぶん、痩せてるんだな。餌はもらってるのか?
にゃあ。
ちゃんと返事ができるんだな。誰かと話がしたかったのか?
にゃあ。
……俺もだよ。
檻には給水器がとりつけてあり、水が半分ほど入っているのが分かった。給餌器も小さいながら備え付けらえている。だが足元の排泄用マットには薄紅に染まった尿が匂い、消化不良の糞がいくつか転がっていた。
猫の毛並みはぼろぼろだった。口からはわずかに涎が流れ、そして、全身が小刻みに震えているのに、男は気付いた。
……血尿か。 おまえ、病気か?
猫は前足で、かりかりと檻をひっかいた。
その足元に、なにかを吐いた跡があった。かなりおびただしい量だ。
……マイケルとかいうガキの世話係は、お前の不調をちゃんと飼い主に伝えているのかな。
このままだと、危ないかもしれない。だが俺は獣医じゃないし、世話係でもない。何の義理もないんだ。……何の義理も。
男は指を檻に入れてみた。猫は顔を寄せて、指先に乾いた鼻面を摺り寄せた。
そして顔を上げると、再び檻をかりかりと引っ掻き始めた。
かりかり。かりかりかり、かりかりかりかり。
さっきまで静かにしていたことを考えると、人の気配を待って、ここから出してくれとデモンストレーションするつもりだったのだろう。出してくれるならば、もう誰でもいいという風情だった。
男はしばらく、爪も割れよと猫が檻をひっかくのを見ていた。
猫はふとひっかくのをやめて、男の顔を乞うように見上げた。
闇に見開いた猫の瞳孔は、月の光よりも能弁にあることを語っていた。
もう、時間がない。
……時間がない。
男の黒い指が伸びて、檻の掛け金を外す。
かちゃりと音がして、入口が開いた。
猫は右を見て、左を見て、その次に、男の顔を見た。
男は一歩下がって、頷いた。
猫はそろりそろりと、背を低くして、檻の外へ出た。
鼻を鳴らして、くんくんと床の匂いを嗅ぐ。
男はあたりを見回すと、廊下に出て、キッチンと思われるドアを開け、急いでシンクに歩み寄った。そして、食洗器を開け、適当な皿を見つけると、冷蔵庫を開け、牛乳パックを手に取った。
……常温保存牛乳。
賞味期限を確認して、皿に白い液体を満たす。
気配に導かれるように、キッチンの入り口から汚れた白猫が入ってきた。
……ほら。
男は白い皿を猫の鼻先へ押しやった。
猫は男の顔を見上げると、ひと口ふた口、牛乳を飲んだ。それはまるで、一応のあいさつのように見えた。
それから前足をそろえて座り、短くにゃあとひと声鳴いた。
……ユア・ウエルカム。
わずかな微笑みをたたえて男がそう答えると、猫は立ち上がり、よろよろした足取りで出口へと向かった。
男はそっと後をついて行った。
コンクリート可塑剤の匂いの残る白い廊下を通り抜け、猫は居間に入る。
男も、入る。
部屋はさっきと同じに月の光に満たされている。
壁にはマリア像がかかっている。
アラビア絨毯を敷き詰めた居間の中央に進み、猫は一枚ガラスの窓越しに、満月を見上げた。
瞳孔がすっと細まるさまを、背後の男は脳裏に思い描いた。
……出逢ったのがお前でよかった。
猫の痩せた背中を見ながら、男は思う。
人間だったら、撃たなければならなかった。
月を仰ぐ猫を撃つ理由など、どこにもない。
どこにもない。
猫は尻尾をぴんと立てて、壁に沿って歩いた。壁に、ソファの背に、テーブルの足に、愛しげに名残惜しげにすりすりと体を摺り寄せながら。
そうして居間を出ると、おぼつかない足取りで、玄関に向かった。
男も後ろをついて行った。
開かない寝室のことも、金庫のことも、もうなにも頭に浮かばなかった。
マホガニーの玄関扉を開けてやると、突然白い輝きが目に飛び込んできた。
ドラゴンフルーツの花が、あでやかに開いていたのだ。
甘い香りが鼻孔をくすぐる。
白い絹で作り上げたようなたおやかな大輪の花が、黄色い雄蕊の群れをさやさやとなびかせながら、右に左に揺れる。夜風を受けて、怪しいぐらいに艶めかしく、もの言いたげに、そして誇らしげに。
白猫は花を見上げると、甘い声でひと鳴きした。そうして大きな鉢植えに身を擦り付けた。
別れを告げるべきもの一つひとつへの、丁重で愛に満ちた挨拶。
男はジーンズのポケットから小型のデジカメを取り出し、揺れる花に向かい、シャッターを切った。
ふわりふわりとブランコのように揺れる花は、ファインダーから振り切れた。
次に男は足元の猫の後ろ姿に向かい、シャッターを切った。
振り返った猫の両目が宝石のように光った。
男はカメラをポケットにおさめた。
猫は歩く。月夜の道を、小さな影を従えて。
男も歩く。月夜の道を、猫の軌跡を踏んで。
しばらく歩いて、丘の頂上に立つ。
反対側を見おろして、男は息をのんだ。
視界の闇いっぱいに、ドラゴンフルーツの畑が広がっていたのだ。
棘棘の葉を噴水のように広げ、その先には真っ白な花が咲き揃っている。
満月のもと、一斉に開花したのだ。
黄色い雄蕊をたなびかせ、絹の衣のような花弁を風にそよがせて、視界いっぱいに花々は踊る。
月明かりを受けて、歓喜に酔って。まるで約束のときを、生まれたときから待っていたかのように。
一人と一匹は並んで、シャンデリアのような花灯りを、しばらく眺めいった。
やがて猫は薄緑の目を光らせて男を見上げると、その砂だらけの靴に丁寧に痩せた顔を擦りつけた。
男はその喉をそっと撫でた。
指先にぐるぐるぐるぐると猫の喜びの振動が伝わると、男の目頭がきんと熱くなった。
サボテン畑の中に一筋、真っ直ぐに伸びた道がしらじらと見える。その果てで、星月夜は地平に溶け込んでいる。
痩せた白猫はあごを上げると、決然とその道をたどりはじめた。
男はもうついて行かなかった。
足元は少しもつれてはいたが、猫の歩みに迷いはなかった。
背筋を伸ばし尻尾を立てて、満月に照らされた道を、凛として歩いてゆく。
揺れる花々や葉っぱに隠されながら、猫の白い影が遠ざかる。
月がまたむら雲に隠れたと思うと、風のかなたから、にゃあああ。という、細い声が響いた。
猫の姿はそれきり、闇の中にかき消えた。
しばらくの間男は闇のかなたを見つめていたが、やがて畑の敷石の脇に座り、ポケットから愛用のナイフを取り出した。
頭上で満天の星ぼしがゆったりと回る。
男はマリアの描かれたナイフの柄にキスすると、星空に向かって高く掲げ、
そうして刃の部分から深々と土に刺していった。
次に銃を取り出し、同様にグリップにキスすると、星空に向かって高く掲げ、
銃口を下に向けてドラゴンフルーツの根元に刺しこんだ。
どちらも深く、最後まで。
聖母マリアの描かれたグリップが見えなくなるまで。