マキモドル夜
夏のホラー2017参加作品。
年上アラフィフ上司と、入社したての十八歳の女の子の話。
車が軽く止まってから、バックしたのがわかった。その瞬間、一気に意識を浮上させる。いけない、寝てしまっていた。
辺りはすでに真っ暗で、カーナビの光とメーターの微かな光、それから前方を照らすヘッドライトの光が見えた。
「お、起きたかい?」
「あのっ、すみません私寝てしまって」
「いいんだよ。疲れていただろう? 本当はもっと寝かせてあげたかったんだけど、ここを過ぎるとしばらくサービスエリアがないから」
真っ暗な中でもふわっと相手が笑うのがわかった。もう、何やってるんだろう私。自分を責めるものの、過ぎてしまった時間は戻らないのだ。
上司と二人で出張。私が今はまだ担当業務が少なく比較的身動きが取りやすいこと、それにいずれは誰かが引き継ぐ必要があるということで、今回はお供として私に白羽の矢が立ったのだった。
普段からわかりやすく説明をしてくれる上司だけど、取引先のこと、仕事のこと、それから車の運転なんかについても色々と教えてくれた。
「免許取ったばかりだと不安だろうから」と、本来なら部下である私が運転するべきなのに運転まで買って出てくださって、途中で代わると言っても「いいから、それより私の話し相手をしてくれないかな?いつも一人だと眠くなるから」と代わってもらえず、挙句の果てに私の居眠りだ。
せっかくちゃんと指導してくださってるのに、私はそれに応えられていないんじゃないだろうか。
今日になって何度もよぎったその考えがまた頭に浮かぶけれど、上司の「鈴木さんも起きたからちょうどよかった。晩御飯すませていこうか」の声に元気よく「はいっ」と返事をする。
上司の期待に応えたい、それだけじゃないこの気持ち。
私は、この上司に恋をしている。
高校を卒業してこの仕事について、何もわからない私に一から仕事のことや社会のことを教えてくれた上司。
ちゃんと教育係の先輩もいたけれど、「大丈夫?わからないことない?」とよく声を掛けてくれた上司に心惹かれたのはいつからだっただろう。
「そうそう、合ってるよ」
「早いな!じゃあこれもお願いできるかな?」
「だいぶ一人で出来るようになったね」
笑う時に目尻にできる皺も、癖なのかオールバックにした髪をそっと撫でる仕草も、その低い声も全部好きです。
そんなこと言えるはずもなく、ほかほかと湯気の立ったラーメンを食べながら「美味しいですね」と言うのが精一杯な私。
「ごめんね、もっといいものにすればよかった」
「いえいえ!私ラーメン大好きですから!」
「それでも若い女の子に…スーツだから余計に食べにくかったな、もっと早く気付けばよかった」
「え、えっと、あの」
「次はもっといい所で食べような。せっかくの経費だし」
いたずらっぽくウインクする上司。そのお顔もさることながら、また一緒に出張の機会があるんだ。顔が熱くなってくるのは、たぶんラーメンのせいだけじゃない。
こうやって、上司の一番近くにいられるのはいつまでなんだろう。今だけでも、独り占めできていることが嬉しくてたまらない。
「あ、アイス」
「え?ああ、ありますね」
「食べる?」
「いやあの、別に…」
「俺が食べたいからさ、付き合ってくれないかな。奢るから」
「そういうことでしたら…でも、自分で買えますので」
もう少しだけ、このままでいられるんだよね。
帰社するまでは、私だけの上司。なんて素敵な響きなんだろう。
食事を終えて外へ出れば、一層闇が濃くなっていた。
もう帰らないといけない。会社まではあと一時間くらいかな。…こうしていられるのも、あと一時間。今度こそ、寝ないようにしないと。
そんなことを考えていたところに、「あれ、これなんだろう」という上司の声。
「どうかしましたか?」と駆け寄れば、そこには『大観覧車』の文字。見上げた先には、キラキラと輝く、大きな観覧車。
「これ、乗れるんですか。たしかここ、昔廃園になった遊園地じゃ…」
サービスエリアの横にあった遊園地。
設備の老朽化の問題だったか、人身事故だったか。理由は覚えていないけれど、私が小さい頃に廃園になったと聞いた気がする。
ただこの大きな観覧車だけは、隣のサービスエリアのシンボルとして今でも写真に写っているのは知っていたけれど。
…あれ、でもこんなに大きい観覧車に明かりが点いていれば、サービスエリアに来た時に気付いたんじゃないかな。寝ぼけてて気付かなかったんだろうか。
一人考え込んでいれば「観覧車だけは廃園から数年後に運転を再開したらしいね。俺も廃園後に乗った事はなかったけれど」と言われて納得する。
「九時までは乗れるみたいだね」
左手の腕時計を見れば、現在の時刻は八時半。観覧車は一周約十二分とのこと。乗るなら今しかない、けど、その、上司と一緒に観覧車とか、変じゃない?もちろん私は乗りたいと思うし、こんなチャンスまたあるかなんてわからないし。でも、なんて言おう。
そう思っていたところに「どうする?」と言われてドキリとする。
「えっ、どっ、どうするって」
「あぁごめん。じっと見てるから乗りたいのかと思って」
そうだよな。会社のおっさんなんかとこんなの乗りたくないよな。
ごめんごめんと笑って車に戻ろうとする上司の手を咄嗟につかんでしまう私。あれ、待って私何してるの?
「どうした?」
「あ、の…えっと、乗りたいので、一緒に行っていただけませんか…」
「…無理しなくていいんだぞ?」
「無理じゃないですっ!」
思わず大きな声を出してしまってから、まわりに人がいたらと辺りを見回してしまう。幸い近くには誰もいなくって、だけど上司の返事を聞くのもこわくて上司の顔を見られずにいれば「いいぞ?行くか?」という声が降ってくる。
「いいんですか?」
「いいよ。ちょっとくらい遅くなっても、もうこの時間なら関係ないしな」
「えっと、あの、じゃあ…お願いします」
真っ赤になった顔、暗い中で隠れていたらいいな。
そんなことを考えながら、先に階段を登る上司についていった。
「どうせならこれに乗らないか?」
「透明な、ゴンドラ…?」
券売機でチケットを買って、観覧車の説明書きを読んでいたら、気になるものを見つけた私たち。
『透明なゴンドラは数に限りがあります』
『ご希望の方は案内係に』
『ご利用後のクレームは一切受け付けません』
「こういうの平気ならこっちにしないか?」
たぶん上司の言うこういうの、というのは、きっと足元やゴンドラ自体が透明であること、高いところからの風景がダイレクトに見えてしまうのが平気かどうかということだろう。特に高所恐怖症でもない私が「大丈夫ですよ」と答えた為、係員の人に「じゃあこちらで」と別の通路に並ばされた。
普通のゴンドラが過ぎていくのをいくつか見送れば、ようやく透明なゴンドラがやってくる。
カシャンと鍵を外し、ギィッと音を立てて扉が開かれる。
「先に乗るな」と乗り込んだ上司に手を差し伸べられ、一瞬躊躇するけれど乗り遅れるわけには行かないと、大きな手に自分の手を重ねて引っ張ってもらう。
向い合わせに座るけれど、ドキドキして顔が見られない。
そっと視線を逸らし、係員さんがドアを閉めるところをなんとはなしに見ていればうっすら笑ったその人の口が動く。
「それでは、いってらっしゃいませ」
閉まった後に、小さく聞こえた言葉。
「…どうぞ、ご無事で」
「……え?」
聞き間違いかと思い上司に「あの、今何か」と言いかけたものの、「おお!結構すごいな!」と嬉しそうな声に掻き消されてしまう。
一緒になって外を見てみれば、足元には一面の夜景が広がっていた。
「わぁっ……!」
「ほら、あっちが駐車場だぞ」
「本当ですね。すごい、まだそんなに高くないのに車が小さいです」
「ここ来るのにも坂上ったからなぁ」
そっとスマホを取り出して夜景を撮影する。自分の座席、それから足元も透けていて、たしかにこれは苦手な人にはたまらないだろうと思わされる。
自分のパンプスと、上司の革靴が一緒に写るように撮影して少しだけ嬉しくなる。そうだ、今ならそっと、上司の写真も撮れるかも。
夜景を撮るふりをして、上司をカメラの端に捉え、シャッターを押して…あれ、ブレちゃった。動いてなかったはずなのに。
もう一度チャレンジして、うまく撮れたことに安心する。これは誰にも見せないで、宝物にしなくっちゃ。
「風が強いな」
上司の声が聞こえた瞬間、ぐらりとゴンドラが傾いだ。
思わず「ひゃっ」と間抜けな声を上げればスマホが自分の手から離れてカツンと床に落ちる。バランスを崩して椅子に倒れ込みそうになったところで、「おっと」と伸びてきたのは上司の長い腕。
「大丈夫か?」
「はっ、はい…」
「びっくりしたなぁ。こっち来るか?」
「へっ!?あの、えっと、だいじょうぶ、で…?」
待って。なにこれ。
目の前にあるのは、上司の手に添えた自分の手、のはず。
「…なに…?」
私の手、こんなに小さくない。
いつもの時計はかなり緩くなり、文字盤がぐるんと下を向いてしまっている。
腕から抜け落ちそうになったところを慌てて掴もうとすれば、間に合わずにカシャンと音を立てて時計まで落ちてしまう。
そんなことをしている間にも、瞬きをするたびに小さくなっていく自分の手。
「なん、で、手…」
「手だけじゃないよ?」
「へ?」
カシャリ、とカメラのシャッター音がする。
「ほら、可愛い」
見せられたのは、夜景の中に浮かび上がる、小さな少女。
「だ、れ…?」
「ん?誰って…あゆりくんに決まってるだろう?」
呼ばれたのは私の名前。普段呼ばれない下の名前を呼ばれてドキリとするけれど、その言い方が妙に慣れていることに違和感を覚える。
「歩梨くん、あぁ、普段はあまり呼んだことが無かったね。もっとも、俺は何度も口にしていたんだが」
「あの、何言って」
「歩梨くんは知らないだろうなぁ。この観覧車の都市伝説を」
「…廃園になった遊園地にあった、って」
「その理由だよ。廃園になった理由」
人がね、いなくなるんだ。
その時すでに私の身体はガタガタ震えていた。
両手でぎゅっと抱きしめた身体に纏わりついた布はもうぶかぶかで、洋服としての意味を成していない。
めいっぱい見上げて上司の表情を見ようとするけれど、その眼鏡が鈍く光っていることしかわからない。
「どうしていなくなるのか、当時は誘拐事件だ神隠しだと随分話題になったものだが…気付いた人はね、ちゃんといたんだよ」
もう何も言えなくなった私を、手のひらの上に乗せる上司。
ふわりと巻かれたのは、可愛らしいピンク色のハンカチ。
「満月の夜、観覧車の、透明なゴンドラに乗ると…時間がね、巻き戻るんだって」
私が知っているより随分と若く感じられる上司の背中には、大きく輝く満月。
「もちろん巻き戻るだけなら君はとっくに胎児になって消えているんだろうけれど…不思議だね。こんなに可愛らしい姿になって」
「そうか、しゃべれなくなるのか。小さくなるとは聞いていたんだが…安心してほしい、もうこれ以上は縮まないはずだよ」
「しゃべれないのは不便だなぁ。何か合図を決めて、意思の疎通ができるようにしないとね」
上司の手の平に座りこめば、すっぽりとその手に覆い隠されてしまうほどに小さくなってしまったらしい私。
ほとんど上司の指一本と大差ない大きさになってしまったことに愕然とする。
これ、夢、だよね?
目を覚ましたら、私は上司の隣で寝ていて、起こされてごめんなさいって。
上司がポケットから、ガラス瓶を取り出した。
きゅぽんと音を立てて蓋を外し、「いい子にしているんだよ」とハンカチごと私を中に落とした。
ねぇ、いつ覚めるの。早く目を開けないと。
ぎゅっと目を瞑って、また開いて。
開くたびに嬉しそうに笑う上司の顔を見て、「歩梨くんは可愛いなぁ」という声を聴かされて。
違う、違うの。
(ねぇ、帰して…)
「帰ろうね、僕らの家に」
「ありがとうございました」
「…お気をつけて」
係員がドアを開ければ、若い男性が一人降りてくる。
ダークグレーのスーツに地味なネクタイ。年齢に合っていないその服装。
「またのお越しを」
軽く手を上げ、軽やかに階段を下りていく。
ポケットに添えられた片手。その手つきは、大切な宝物を慈しむようで。
「早く帰ろうね。僕らの家に」
観覧車の灯りが消え、深い闇が訪れた。