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 衝撃らしい衝撃は無かった。
 ガリーナは床穴を真上に見上げ、地面に横たわっている。
 獣の唸り声に波が怯んだ瞬間、床板が抜けて下へと落ちたのだ。石で出来ている建物も、場所によっては改築を重ねて木と綯い交ぜの造りをしている部分もあったらしい。
 もうもうと上がる土埃も気配では感知できるものの、地上よりもより一層暗いここでは見る事が出来ない。咳き込みながら口と鼻を両手で庇い、周囲を見渡した。
「けほっ……うえ埃舐めちゃった、ぺっぺっ」
 頭上の穴からはほんの僅かな光が漏れるだけで、ガリーナのいる地下には漆黒の闇だけが支配している。どうやらここは地下貯蔵庫か倉庫らしいが、自分の指先さえ目視出来ない状況ではどうとも言えない。
 いつの間にかあの青い波も笑い声も冷気も消えている。
「ああ怖かった……。あの黒い獣もいなくなっちゃったみたいですね、良かった」
 盛大に胸を撫で下ろすガリーナの下で、もぞりと何かが動いた。
「………」
 硬直する。
 そろそろと自分が倒れこんでいるその真下の物体に手を這わせる。柔らかい。温かい。ふさふさ。
 ――ふさふさ。
「いた―――!!」
 瞬時に跳ね起き、飛び退き、がごん、と何かに頭をぶつけて目の前に星を散らしてもう一度倒れる。
 倒れた先には滑らかな毛皮。柔らかく尖った二つの耳らしきものに触れた時、その獣は大きな狼か犬らしい形をしていることが判った。判ったところでどうだという話だ。
 密閉された土蔵のような地下室で、自分を襲おうとする獣と二人きりである事に変わりはない。
「ちょっと待ってください、卑怯じゃないですか。貴方は目が良いのでしょうけど、私なんか自分のこの指が何本あるかも判らないんですよ。ええ、五本ですか。それくらい知ってますよ。でも見えないんです! フェアじゃないです、やるならおてんと様の下でガチンコしようじゃありませんか!」
 漆黒の闇の中でファイティングポーズを取り、震える声でなんとか啖呵を切った。しかし指が何本あるかも判らないのだから、闇の溶け込むような黒色の獣がどこにいるかなどもっと判らない。明後日の方向を睨んでいたと気付いたのは、自分の右斜め前あたりで爪が石の地面にぶつかる小さな音がしたからだった。
 ちゃっ、ちゃっ、と掠れるように鳴る音でその爪の鋭さを思ったが、獣はどうやらガリーナから離れていく。それから少し離れた所から壁をがりがりと引っ掻く音がしたかと思うと、再び地面に爪をぶつけて歩き出す。そうやってガリーナを中心に部屋をぐるりと一周した頃、溜息が聞こえた。
 獣も溜息を吐くのだ。
 それきり何の音も聞こえなくなる。爪の音も、吐息も。
 ガリーナはいきり立った体を弛緩させ、爪先立ちを止めると胸元で構えていた腕を下ろした。
「あの、勝負はやっぱり外でということで良いのでしょうか?」
 獣は答えない。代わりに再び溜息の様な吐息を漏らし、この場所から動かないことを示すように横たわったようだった。
 否、動かないのではなく、動けないのだ。
 貯蔵庫の天井の真ん中に開いた穴はまるで鼠返しのようで、その上ガリーナと獣が落ちた衝撃で中の大きながらくた達が倒れ外への出入り口を塞いでしまい、部屋は袋小路となった。獣はそれを確認し、諦めたのか思案しているのか、座り込んでしまったのだ。
 しかしガリーナはそこまで考えていない。ただ獣は怖いし真の闇で動けないし、あと眠いし疲れたしお腹も空いたし探し人には会えないしの絶望と恐怖と共にその場にへたり込んだだけだった。
「フェアな狼さんで良かったです……でも私もう駄目です、なんかどんどん暗くなってきちゃって……。多分ここで死んじゃうんでしょうね、私。寂しいよう、おかあさーん……」
 そう呟いて周囲を見回し目を凝らす。閉じても開けても同じ漆黒だ。
「ああ、思えば短い人生だったなあ。皆からは馬鹿だと言われ、まあそれはそうだから良いんですけど、親元を離れて一人暮らし早や十数年。学校にも行っちゃいけないし友達もあんまりいないし勿論恋人だって――ああ、やだ恋人だって! 私ったらはしたない、聖女なんだから」
 地面に横たわり、走馬灯を見ているガリーナの言葉は夢現のように儚げだった。
 獣は身じろぎせずに暗闇の中でそんな少女の姿を凝視している。
「そういえば私が子供の頃ここで会った黒くて怖いの、貴方なんですか? 凄く怖かったんですから、あれから暫く一人で眠れなかったくらい。何か言ってた様な気もしますけど――こんなわんこみたいな姿だったかしら? 私、本当は狼さん好きなんですよ。今度空の下でお顔を見せて下さいね」
 あらやだここで死ぬんじゃない、私ったら馬鹿ね、と小さく笑って顔を覆う。
 獣はじっとしている。一人で喋る少女の饒舌に戸惑っているようだった。
「次……次生まれる時は……普通の女の子がいいな。村の学校に行って、税金もちゃんと納めて、お母さんと羊を追いかけて、ファイさんの油っこい料理を食べて、意地っぱりなキリアの面倒をみて。私が大きくなるまで、皆は私の事を覚えてくれてるかしら。ああ、それから――カイムさんに謝らなきゃ」
 それきり黙り込む。
 ガリーナは仰向けで顔を覆い、闇に体を溶かす感覚を噛み締めながら、言葉にならない無念に心を奪われていた。こんな廃屋の奥底に聖女が倒れているなんて、一体誰が気付くことだろう。誰にも見止められず、永遠の夜の中でこの身は朽ちてゆくのだ。
 遣り残した事など山ほどある。遣り遂げた事を数える方がずっと早い。桃色の服だって結局は一針も入れず寝台の上に放置してあるし、大好きな聖騎士シリーズの新刊だって読みそびれている。ライバルであり恋敵である唐辛子色の騎士との決闘の続きが気になって仕方が無いというのに、この間行商が来た時にけちらず買っておけば良かった。
 そんな細々とした曖昧な日常にはもう戻れない。無念を地上に残したまま、自分は一人で死んでゆく。死体は獣が食べてくれるだろう、別に今となっては怖くもなんともない。
 怖いのは、やはり最大の無念である、カイムの怒りを解けなかったことだ。
 カイムに嫌われたままその理由も解らぬままに死んでゆく、この無常といったら無い――。
 そこでガリーナは目を見開き上体を起こした。「カイム?」
 そして思い出した。
 ここが一体、誰の屋敷であるのかということを。
「カ、カイムさ――ん!! ここにいます、助けてくださああーい!!」
 駆け足でやって来た希望と焦慮に急かされてそう叫んだその時、室内に小さな風が吹いた気がした。地下の冷風ではなく、霊の波でもない、春の風が。そして、
「知ってるよ」
呆れたような、少し機嫌の悪い声音の言葉。
 その声こそ、彼女をこの悪夢のような幽霊屋敷に突入たらしめた青年のものだった。ガリーナは思わず振り返る。
 何よりも驚くべきことは、声が彼女のすぐ後ろで聞こえたことだったのだ。

 何度か石を叩き合わせる音がした後、か細い猫の目のような灯が点った。埃を被ったランプがその灯を納め、そしてそのランプが見知った男の手の中に納まっていることの気付くと、ガリーナは飛び上がって口元を覆った。
 一体何時の間にここに来たのだろう、カイムは橙色の灯を漆黒の瞳に反射させてガリーナを見つめている。
「カイムさん!」
 全てを吹き消す何ともいえない安堵に任せて彼の元へ走り寄ろうとした時、「待って!」とカイムが慌てたように空いていた手を挙げてガリーナを制した。ぴたりと不自然な姿勢のままで静止した少女は、目を丸くして相手を凝視する。
「そこから動かないで。それ以上俺に近づいたら――」
 少し間を置いてから「怒るよ」と続ける。
「あ……はい、すみません……。私、そんなに嫌われてたんですね……ごめんなさい」
「いや、その」
 ずび、と鼻をすすってそれでも無理矢理に笑顔を作った。
「でも助けに来てくれて嬉しいです! 本当に心細くて、私とあの狼さんだけじゃ……あら?」
 獣はいつしか消えていた。
 仄かな光に姿を現す雑然とした部屋の内部は思ったよりも小さく、怖ろしいものでもない。闇と共に、夜の色をした獣も姿を消していた。
 ガリーナは獣に対して最初に抱いていた恐怖も忘れ、不思議に思うと同時に残念だとも思う。白昼の元でその姿かたちを見てみたいと本心から思っていたのだ。
 それに、今思えばあの獣は敵ではなかったのかもしれない。あの狼の声で霊の波は姿を消した。もしかしたらあれはガリーナに対する威嚇なのではなく、霊に対する威嚇だったのではないだろうか。昔から、霊は獣に弱いと言うではないか。
「昔から狼や犬の声に幽霊はたじろぐと聞くけどね。どこかから迷い込んだはぐれじゃないか」
 思わず青年の顔をまじまじと見る。今まさに考えていた事を彼が口にしたからだ。
 その時、ふとカイムの目と髪が深い夜の色だということに気付いた。
「何?」
「いえ、なんでもないです」
 黙っていることにした。あの獣の溜息がカイムの溜息に似ているだなんて言ったら、馬鹿どころか気狂い呼ばわりされかねない。
「それより、カイムさんに謝らなくちゃいけないんです。私が寝ぼけたせいでカイムさんにあんな大怪我をさせちゃって、本当にごめんなさい。死ぬまでごめんなさい」
 綺麗に地面に膝をついて首を垂れる少女に、カイムは額の絆創膏を弄りながら困ったように同じく地面に座り込んだ。
「だからさ、もう良いってば。傷だってすぐに治るし、君はこれで百何回も謝ってるじゃないか。俺が目を覚ましてすぐに許したはずだけど」
「今ので百六十三回です」
「うん、そうか。いやだから俺が言いたいのは、君はもう謝る必要は無いと――」
「呼んでくれません」
 へ、とカイムは間の抜けた顔で離れた場所に座る少女の真っ直ぐな瞳を見た。
「名前で呼んでくれません。近づいてくれません。だからカイムさんは私を許してくれてません。私は出来れば許して貰いたいですけれど、それが無理なら仕方が無いと思います。でも、本当の事だけはどうしても知りたいんです。どうしてカイムさんは、私が近づくと怒るんですか?」
 きつと強い視線を相手に送りながら、ガリーナは腹に力を込める。
 ついに言ってしまった。怖くて怖くて聞けなかった、答えの解りきった問い。
「君が嫌いだから、」この一言を聞くのが死よりも怖ろしかった。しかしつい最近、何も聞かずに蓋をしたまま生きていく方がずっと怖ろしいことに気付いた。
 カイムは困ったように見つめ返してくる。彼は折に触れて困惑したような表情を作る。それが癖なのか、それとも本当に困っているのかは解らなかったが、今は後者であることは容易に理解出来た。
 カイムが意を決したように口を開く。
 ガリーナはそれを聞き逃すまいと体を固まらせた。どんなに残酷な言葉が出てこようとも、決して泣くまいと――そんなみすぼらしい真似だけはするまいと、聖女の名に誓って。

「コロン」

 ――しかし、その言葉は余りに意外だった。
「……………はい?」
 目と口を大きく開け、間抜けな甲高い声で返したら、カイムはばつの悪そうな顔で俯いた。そして開き直ったか腹を括ったか、明瞭とした声音で断言する。
「君の持っていたコロン、あれがその――嫌いだったんだ」
 コロン、と鸚鵡返しに呟いて聖女は暫く動きを止めた。
 二呼吸、三呼吸、ゆうに五回は息を吸って吐いた頃、漸く彼の指し示す奇天烈な言葉が何のことか解った気がした。
 先程までの張り詰めた覚悟はどこへやら、太陽を浴びて眠る弛緩しきった猫の尻尾を弄るのに似た感覚で尋ねる。
「コロンって……ミミさんがくれたあれでしょうか? あれ、プーさんちで失くしちゃったみたいなんですけど…………え、それだけ、ですか?」
 なんだ失くしてたのか、と呟くと、カイムは心から安堵したように頷いた。
「うん、まあそんな感じ」
「コロンだけ?」
「そう」
「匂いが?」
「駄目なんだ」
「ガリの聖女は?」
「どちらかと言うと好き」
 しじまの中、ガリーナは座ったまま一歩分だけ前に膝を進めた。
 制止するかと思われた青年は、指先ひとつ動かさずにただ聖女を見ている。
「ぅぇ」
「上?」
 ガリーナの翡翠色の大きな瞳はみるみる潤み、そして両手で隠された。
「うええええええええん」
「な、なんで泣くんだ!?」
 だって、としゃくり上げながら、
「嫌われてると……思って……良かっ……おじいちゃ……」
「だ、だから違うって言ってたじゃないか! 君は知らないだろうけど、あのコロンには世にも怖ろしい効能があって……ああ、言っちゃいけないんだった。とにかくあれの所為で近づけなかった、君に」
延々と泣き続けるガリーナにどう対応すれば良いか解らず、右往左往しながら、結局頭を撫でることしか出来なかった。
「嫌っても怒ってもいないよ、君を傷付けるつもりも無かったんだ。コロンについて言えなかったのはミミに口止めされて――はしたない子だと嫌われるからだとかで。だから泣かないで、ガリ……ーナ」
 すると目に溜まった水滴をごしごしと手の甲で拭い、少女は矢庭に笑顔を見せた。相手は思わず顎を引いてその豹変ぶりに驚愕する。
「へへ」
「……何?」
「そう、ガリーナです。私の名前。そうそう」
 湿った瞳で嬉しそうに何度も頷くガリーナを呆れたように眺め、変な子だな、と元料理長は呟くように言う。彼女が村で一番の馬鹿だと言われている理由が少し解った気がした。
「良かった、嫌われてなくて。今まで生きてきた中で一番嬉しいかもしれません」
 ただし、馬鹿は馬鹿でも、馬鹿正直の方の馬鹿で――。
「そうだ、ところでカイムさん。ここ暫くお屋敷から出て来なかったみたいですけど、大丈夫だったんですか?」
「うん、掃除にてんてこ舞いでね。特に修理が必要な所を確認して回ったり、残された荷物を整理したり。この穴も抜けそうだったから注意していた場所だったんだけど、まあ空いちゃったから仕方ない。でもそれより一番大変なのが例の――」
 その時、遥か彼方からカンカンと金属的な音が規則正しく鳴り響き、合間に震える呪詛のような言葉が挟まれるのが地下まで届いた。
「なんだ?」
 カイムが不審げな顔でぽっかりと穴の開いた天井を見上げる。上階の闇は相変わらずだったが、音と呪詛はどんどん大きくなり、こちらへと近づいてくる。まるで恨みを残して死んだ霊達が生者を冥府の穴蔵に引きずり込もうと蠢いているような呪いの声に、少女は緊張したように青年の隣に寄った。
 そして呪詛と金属音が最高潮に高まった次の瞬間、
「べぎゃっ」
天井の穴から何かが落っこちてきてごろごろ転がって壁にぶつかり跳ね返ると上手い具合に正座して止まった。
 呪詛と音は止んだ。落っこちてきたものの呻き声がそれらに取って代わる。
「あ、しょぼん玉の方! どうしてここに?」
「あっ……」
 降ってきた桜色の少女は小さな吐息を漏らすと、目を真ん丸にして二人を凝視した。そして、
「お、お、お取り込み中申し訳ありません! ほんとに気の利かない小娘で、もう、えいこの、馬鹿っ死ねっ」
と持っていた銅製のフライパンで自分の頭をがんがん叩き出す。
 頭蓋を金属が殴りつける鈍い音は、二人が必死で止めるまで延々と地下倉庫に響き渡った。


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