アカイ シロイ セカイ
イラストは、秋原かざや様より。
小説家になろうマイページ→http://mypage.syosetu.com/218170/
みてみんマイページ→http://8916.mitemin.net/
素敵なイラストをありがとうございました!!
「よう、龍一!久しぶりだな」
「ああ」
俺は、小学校からの馴染みである彰久と駅前の居酒屋の前で落ち合った。彼は五分程遅れてやって来た。夜とは言え、まだまだ蒸し暑い季節だ。じわりとワイシャツに汗が染み込み、不快な気分になる。
俺たちは、お互い僅かだが仕事にも箔が付き出した頃だった。財布の中身を確認するなどというケチな事は考えず、「早く飲もうぜ」という風に素早く中へと入る。
こうして時々会っては仕事の愚痴を言い合ったり、独り身の寂しさを紛らわせているのだ。
生ビールを一杯ずつ頼んだ後は、ボトルの焼酎を一本空け、それを水割りにするというのが俺たちの恒例のスタイルだった。お互い飲み慣れているとは言え、三杯ほど飲み干した後は俺たちの顔はとっくに赤らんでいる。もともと気安い仲ではあるが、それ以上の本音を出し始めてしまう頃合いだった。
「……なぁ、もうあれから10年だな」
そんな折、ぽつりと彰久が口を開いた。
「あれから10年」――それ以上の言葉は聞かずとも分かってしまう。
「ああ、そうだな。思い出したくもない」
俺は、”それ”に関しての話題をこれ以上続けたくなかった。本当に思い出したくない事だからだ。出来る事ならば記憶から抹消したいとさえ思う。
だが、彼はそんな俺の気持ちなど無視して続けた。
「”白い館”、やっと取り壊されるらしいぞ。まぁ当然だろうが、全く買い手が付かなかったからな」
「え……?」
俺は、唐突な彰久の一言に大きく目を見開いてしまう。不動産会社に勤めている彼の言う事だ。その情報に間違いはないだろう。
「お、食いついて来たな」
彰久はニヤリと嫌な笑みを浮かべた。
「そうか……」
――それがいいのかもしれない。
そう思うのだが、俺は一抹の寂しさを感じてしまう。「彼」との楽しく哀しい日々が、脳裏を過ぎっていった――――
――――今から十二年程前、俺が中三になったばかりの頃だった。我が家から百メートル程しか離れていない空地へと、突然重機が運び込まれ出したのだ。
その後、「新築が建てられて新しい家族がやって来るらしい」と母から聞いた。
数か月後に完成した家は、一面真っ白で大きな窓がいくつもあり、日差しがめいっぱい入る構造だった。美しい洋風な作りで、平凡な日本家屋である自分の家とを比較して、勝手にへそを曲げたりしたものだ。
ここへ引っ越して来たのが、父親が有名企業の重役を務めている裕福な家族だった。彼の爽やかな外見とアルマーニのスーツは、自然と人目を誘う。母親は、シャネルやグッチといった高級ブランドの洋服をぴしりと着こなし、首元や腕には常に高そうなアクセサリーを身に付けて正にセレブ然とした女性だった。
この両親には一人息子がいた。それが、和哉だった。
彼は俺と同年な上、偶々同じクラスへと転校して来たので直ぐに仲良くなった。和哉は色素が薄い儚げな印象の男だった。その為、即座に一部の女子たちからの人気を獲得したのだ。
共に下校しては家へと上がらせてもらい、よく一緒に遊んだものだ。
そして、いつからかそこは、地元の人間たちの間で「白い館」と呼ばれるようになった。
それ程に気品のある家だったのだ。
そんな何不自由ない家庭の父親の趣味は、絵画収集だった。
例え、オークションで想像以上の高値が付いてしまったとしても、「狙った獲物は逃がさない」という熱の入れようで、その総額は相当なものだったようだ。
その後、俺たちが高校へ進学しても和哉との仲は相変わらずだった。
だが、地元の平凡な普通科高校に行った俺とは違い、裕福で成績優秀な彼は、当然の如く有名私立高校へと進学した。
それからだろう。和哉との間で、微妙なズレが生じ始めてしまったのは――……
「……ん?久しぶりだな、和哉!!」
ある時俺は、近所だというのに二か月ぶりに会う和哉を見付け、思わず彼を呼び止めた。館から出てきた彼は帰宅した訳では無く、これから外出するように見受けられた。
「あ……龍一……」
すると、和哉は嬉しそうに微笑んだ。だが、その笑顔に生気は無く、少し力を加えてしまえば今にも倒れてしまいそうな気さえする。俺は少し心配になった。
「大丈夫か?お前、すげー顔色悪いぞ。家で休んだ方がいいんじゃないか?」
「……」
けど、和哉は俯いたまま暫く黙りこくってしまった。一時の間沈黙が続き、ヒューという冷たい北風の音が辺りを包む。
あまりに様子のおかしい彼が益々気掛かりになった俺は、「どうした?」と再び声を掛けようとした。
しかし――
「大丈夫。僕、これから塾に行かないといけないんだ。この前のテストが全然だめで……。僕もっと頑張らなくちゃいけなくて……。母さんにも怒られちゃうし」
先に和哉の方から口を開かれてしまい、それ以上何も言えなくなってしまった。
「そうか……。あんまり無理すんなよ」
「うん。ありがとう……」
和哉は再び笑みを浮かべた。けれど、俺には無理矢理に笑って見せているような気がしたのだ。
それに、成績の良さでも直ぐに中学で有名になった和哉が「だめ」だと言うのだ。どれ程すごい者たちが、彼の高校には存在するのだろうか……。自分には想像も付かない世界だと恐怖さえ感じてしまった。
「和哉」
その折、唐突に別の者の声がした為に俺はびくりと肩を震わせた。
恐る恐る声の主の方を振り向くと、そこには玄関のポーチに立ち、じーっとこちらを凝視している和哉の母親がいた。その視線は射抜くように和哉へと向けられ、俺は何故だかゾッと背筋を凍らせてしまう。
「……母さん」
「なに油を売っているの!?早く行きなさい!!」
「……はい、ごめんなさい……。じゃあ龍一、またね」
「ああ」
何となしに名残惜しさを残したまま、和哉とは別れた。それから暫く彼の背を見送る。母親は、俺など端から眼中に無かったように直ぐに館へと戻ってしまった。
「どうして、あんな冷たい目をしていたのだろう」――俺は和哉の母に対し、恐れを抱いていた。
その時、何故だか嫌な予感めいたものを感じていたのだ。否、後から考えれば、それは”直感”だったのかもしれない……――
――そして、”それ”が起こったのは、和哉たち家族が引っ越して来てからおよそ二年後……彼らも、この町にすっかり慣れていた頃だった。
ある日の夕刻時、俺は飼っていた柴犬――リュウを散歩させていた。行き慣れた散歩道には、白い館がいつも目に入る。
すると、その折、ピカピカに手入れされている黒いセダンが館の庭へと入って来たのだ。ちょうど和哉の父親が帰宅して来たようだった。
「こんにちは」
無視を決め込むのも悪いと思った俺は、父親へと幾らか大きめな声で挨拶した。すると、彼もこちらに気が付いたようで「ああ龍一くん、どうも」と車から降りながら、にこやかに挨拶を返してくれた。日曜だったという事もあり、いつもはきっちりとスーツを着こなしている彼も、その日はラフなポロシャツとスラックスという装いだった。
父親は普段から、どちらかと言えば人当たりの良い人物だが、その時は一段と機嫌が良いように感じた。何故かそれが気になった俺は、「何かあったんですか?」と足を止めて彼に訪ねてみる。
直後、彼は「よくぞ聞いてくれました」とでも言いたげな様子で満面の笑みをつくり、その訳をあれこれ話し始めてくれた。
余程嬉しかったのだろう。父親の話はごたごたと脱線していったが、要約すると、オークションで「自分好みの女性の絵」を手にする事が出来たらしいのだ。しかも、彼以外に入札希望者がいなかった為、想像以上の安値で落札出来たらしい。
「ぜひ見て行ってよ!」
俺は特に興味があった訳では無かったが、彼の提案を断るのも不自然なので「はい、ぜひ」と気乗りしないまま同意した。
カタンと車のバックドアを開けた彼は、一枚の絵画を取り出す。千ピースのパズルが完成した時と同程度の大きさのそれには、木造の椅子に腰掛け、貴族風のドレスを着た一人の女性の姿が描かれていた。西欧人だろうか。緩やかなウエーブのかかった金色の髪と真っ赤な瞳が印象的で、彼女の口角は僅かに上がっており、こちらを微笑んでいるようにも、睨んでいるようにも感じられる奇妙な感覚を覚えた。
この女性が実際に存在していたのか、それとも想像上の人物でしか無いのかは分からない。
だが、真っ赤な瞳がとてつもなく薄気味悪く、見れば見るほど吸い込まれてしまいそうな恐れを抱いた。彼女が纏っている雰囲気は、まるで”魔女”そのもののように感じる。
「とにかく綺麗で不気味な女」というのが、俺の率直な感想だった。「この絵の何が良かったのだろう?」という疑問さえ感じてしまう。
「これを和哉の部屋に飾ろうと思ってね!和哉の部屋は質素だから」
「そうですか」
満面の笑顔を浮かべながら話す父親の言葉を聞きながら、「そういえば……」と思う。俺は、これまで一度も和哉の部屋に入った事が無い。
この館には、もうしばらく立ち寄っていないが、以前は和哉とリビングでゲームをしたり漫画を読んだりしていた。
なぜ自分でも気が付かなかったのか不思議だが、和哉の部屋を覗いた事さえ無かった。
「ただいま父さん。それから久しぶりだね、龍一」
その時、不意に後方から聞き慣れた声がした。
振り向くと、そこには和哉がいた。ちょうど塾から帰宅したようだ。
「ああ、お帰り和哉」
和哉の父は、優しげな笑みを浮かべ彼を出迎えた。
「久しぶりだな!元気だったか?」
「……。うん、元気だよ」
和哉は一瞬の間を置いた後、儚げな笑みを浮かべ応えた。けれど、彼は以前よりやつれた印象を受ける。俺は、隠し切れていない疲労感に気付いてしまった。
「本当に大丈夫か?何かあるなら力になるぞ……?」
「……」
だが、和哉は以前のように目を伏せて口を噤んでしまう。カナカナカナ……という蜩の鳴き声が、けたたましく響き渡っていた。
「疲れているんだろう?和哉は頑張ってるからな!さ、家に入って休むといい」
そんな沈黙を破ったのは、和哉の父だった。
確かに、それが一番良いのかもしれない。けど、俺は何か引っ掛かるものを感じていた。
「和哉、もし悩みがあるなら話すだけでも楽になるぞ。いつでも連絡して来いよ」
「うん……。ありがとう……」
そう言って、和哉はリュウを一撫でしてから玄関へ向かって行った。朧げな彼の背は、本当に和哉が消えてしまうのではないのかという不安を抱かせた――
――その後和哉に会ったのは、僅か一週間後の事だった。前回同様、既に夏休みの日課となっている愛犬の散歩に出ていた時だ。
ただ、その時の和哉はどこか様子がおかしかった。
素振りの練習でもしているのか、一心不乱にバットを振り回していたのだ。野球経験があるだなんて聞いた事は無いし、何より彼には全く似合わない道具だった。
「和哉ーー!!」
俺は、少し離れた位置から和哉を呼んだ。すると、「あ!」という風に彼もこちらに気付いたようだ。
すると――
「龍一っ!!!」
和哉らしからぬオーバーアクションで両手をぶんぶんと振り回し、今まで聞いた事の無いくらいの大声で俺の名を呼んだ。その顔には、満面の笑顔が浮かんでいる。
「え……?」
それは、一週間前とは打って変わった様相だった。あまりにもがらりと変化した彼の態度に拍子抜けしてしまったが、「まぁ、元気になったのなら良かったか」と深くは考えないようにした。
「急に素振りなんか始めてどうしたんだよ?」
「ああ、これ?僕の部屋にずっと置きっぱなしになってて埃をかぶってたからさ」
「へぇ……。和哉って野球とかするんだな?意外だよ」
「そうかな?僕、本当は野球選手になりたかったんだ。だけど、母さんが許してくれなくて。ほら、うち再婚でしょ?ずっと昔だけど、本当の母さんに買ってもらったんだ」
「そうか……」
嬉しげに話す和哉の手には、それ相応の重みがありそうな黒々とした金属バットがあった。
――何だ、この臭い……?
その時、風に乗って奇妙な臭いが鼻につくように思ったのだが、直ぐに気にならなくなったので「気のせいだろう」と受け流した。
和哉の家が複雑な家庭だという事は、ちらっと聞いた事はあった。血の繋がっていない母親が彼にきつく当たっていなければ良いが、優しげな実の父親がいるので、その点は安心している。だが、以前見た母親の冷たい眼差しが、どうにも気に掛かっているのは事実だった。
それよりも、和哉の夢が野球選手になる事だったなんて初耳だ。きっと、医者とか弁護士とか、そんな高尚なものを目指しているものだとばかり思っていたから。否、俺が勝手に”そう”決め付けていただけなのかもしれない。
「顔色もいいみたいだし、良かったな」
俺は素直な感想を零した。数日前まで青白かった顔色は、血色の良い肌色に戻っていた。
「うん!父さんが、あの絵をくれたお陰だよ!!」
「え……?」
「あの絵」とは、きっと、あの不気味な女性の絵の事だろう。俺にとっては気味の悪い絵でも、感じ方は人それぞれだ。恐らく、和哉にとっては”相性の良い女性”だったのだろう。
「そういえば、和哉の部屋に飾るって言ってたよな」
「うん!今まで真っ白な壁だけで華がなかったから、すっごく嬉しいんだ!!それに、あの絵を見ていると勇気が湧いて来るっていうか、何でも出来るような気分になるんだよ!!」
握り拳を作り熱弁する和哉は、これまで見てきた彼のどんな姿よりも興奮していた。今の和哉なら、どれ程の相手に喧嘩を売られようとも、負けないのではないかと思わせるくらいの気迫を感じる。
「ふーん。勇気が湧いてくる絵、か……」
「そう!あの女の人の真っ赤な瞳が綺麗でね、ずーっと見ていたくなっちゃうんだ……」
「ずっと見ていたくなる」――和哉は、俺とは真逆な印象を持ったようだ。彼はポーッと頬を赤くさせていて、まるで一人の少女に”恋”でもしているかのようだった。
そういえば、今は自分と和哉二人きりだ。いつも何か言いたげだった彼の力になれればと思い、それとなく気になっている事を和哉に聞いてみようと思った。
「……なぁ、和哉?」
「ん……?」
彼は、「なんだい?」という風に目を丸くした。
「本当に大丈夫なのか?その……お袋さんとは、うまくいってるのか……?」
俺は、あの日の出来事――「和哉」と冷たい声色を漏らし、彼を射抜くように凝視していた母親の眼差しを、どうしても忘れられなかったのだ。
「急にどうしたんだい、龍一?もちろんだよ!今だって、僕の部屋で気持ち良さそうに寝てるんだから!!」
「はあ?」
楽しそうに話す和哉とは対称的に、俺は間の抜けた声を出してしまった。
――和哉の部屋で寝てるだって……?
いくら彼が年齢より幼い印象を受ける男だろうと、十七歳の男子高校生の部屋へ母親が寝にやって来るものなのだろうか?それに、これ程大きな館なのだ。部屋など、いくらだって有り余っているだろうに……。
どうしてだか俺は、この館には異様な空気が取り巻いているように感じてしまった。
「ははっ!!おかしな龍一。あ、そろそろ父さんが帰って来る頃だ」
そう言うと和哉は、わしゃわしゃとめいっぱいリュウを撫で始めた。すると、リュウは心地良さそうにゴロリと寝転がり腹まで出してねだり出す。
そうして、和哉自身が満足するまで思う存分撫で回してくれた。
暫くして、彼はリュウを存分に味わった後、すっとこちらへと向き直った。それから、俺へと真っ直ぐに視線を合わせてにこりと笑った。
「じゃあね、龍一。ありがとう」
「え……?あ、ああ……」
思い掛けない礼を言われた後、和哉は踵を返し館へと戻っていく。何故か俺には、彼の背中がいつも以上に小さく見えた。
和哉は見た目通りの礼儀正しい男だ。今まで、何かに付けては「ありがとう」と礼を述べられた。
だから、気にする必要なんてないのかもしれない……。だが、俺には先刻の「ありがとう」が、いつもの”それ”とは違うような気がしてならなかった。
「ん?リュウ、どうした?」
その折、何故かリュウは、黒い鼻をくんくんと庭の芝生へと密着させてウロウロしていたのだ。そして、ある一帯をしきりに気にしている様子だった。
「何かあるのか?」と思った俺は、その周辺に顔を近づけ、じっと目を凝らした。
「え……?何だ、これ……」
そこには、正体不明の幾つもの赤い雫がばら撒かれていたのだ。得も言われぬ薄気味悪さを感じ、ぞくりと身を震わせる。
カナカナカナ……という夏の終わりを知らせる鳴き声が、どこからか響いていた――
――夕飯を食べ終えて風呂にも入った俺は、眠りに付こうと自分のベッドでゴロリと寝転がっていた。だが、最後に聞いた和哉の言葉と、彼の家の庭で見た”赤いモノ”が何なのか気になって眠れなかった。
ただの好奇心などでは無い。”虫の知らせ”とでも言えば良いのだろうか……。とにかく、胸がざわざわと落ち着かなかったのだ。
「やっぱり駄目だ!!気になってしょうがねーよ」
今は十時過ぎだ。気安い仲である彼の家であれば、まだ訪ねて行っても恐らく許してはくれるだろう。
俺は「よしっ!」と気合を入れ、がばりと勢いよく立ち上がった。それからスマホをズボンのポケットに入れ、下駄箱へと乱雑にしまってある懐中電灯を手にする。いくら和哉の家が目と鼻の先にあるとは言え、この辺りは街灯や車通りもほとんど無い。さすがに灯りの一つも用意しなければ心許無かった。母には「和哉の家に行って来る」とだけ伝え、部屋着のまま彼の家へと向かった――
白い館は、この暗闇の中でさえ、はっきりとその存在感を知らしめるように不気味な光を放っている。庭の芝生の上を歩く度、カサリ……と微かな音を立てた。明るい陽が出ている時は気にならないのに、何故だか今はひどく耳障りな音に聞こえる。
この闇の中、ぐっと強く握りしめている灯りだけが、俺の心の拠り所となっていた。
意気込んでやって来たのは良いが、さすがにこの時間帯にインターホンを押すべきかどうか迷った。俺は暫くそこで「どうするか……」と二の足を踏んでいたが、「和哉に電話すればいいじゃないか」という単純な結論に至った。
直ぐにスマホの電話帳を開き、履歴の下の方にある「和哉」の名前を探した。スクロールさせる指を動かしながら、彼に電話するのも久方ぶりなのだと再確認する。
「あった」
和哉の名を目にすると、逸る気持ちを抑えながら受話器のマークをタップする。聞き慣れたプルルルル……という呼び出し音が耳元で響く。だが、いくら待っても彼は電話に出ない。二十回ほど呼び出し音を鳴らし続けたところで、和哉に連絡する事を諦めた。
そこで、俺は上方を見上げながら灯りを向け、それらしき部屋を探した。彼の部屋がどこにあるかは知らないが、普通は二階にあるものだろう。
そして、ふと思う。
「何で、どこにも灯りが付いてないんだよ……」
たくさんある窓からは、一つとして灯りが漏れてはいなかった。「出掛けているのか?」とも思ったが、父親の車はしっかりと庭へとめられている。
――もう寝てるのか?
その可能性も否定できない為、「今日は引き返した方がいいだろうか」とも考えたが、やはりどうしても胸の中のざわざわが収まらないのだ。
そこで俺は、「まさかな」と疑いの気持ちを持ちながらも玄関のドアノブを引いたみた。
すると――
「え……?」
そこは、簡単に開いてしまったのだ。
ここは地元でも有名な裕福な家庭でもあるし、あの母親の性格からしても施錠をしない家庭とは考えにくい。
――偶々鍵を掛け忘れたのか?
そう考えるのが自然だった。
そっと中を覗いてみると、やはり灯りは一つもついておらず暗闇だけが広がっている。しん……というありもしない音が聞こえてきそうな程の静けさだった。
「おじゃましまーす……」
幾らか抑え気味な声で慣例的な挨拶をする。だが、予想通りその声に返答する家族はいなかった。あまりの静寂に、ドクドクと心拍数が上がっていくのを感じていた。
それから懐中電灯の灯りをあちこちに向けてみたが、この暗闇の中、当然ではあろうが人の影などどこにも存在しなかった。壁には、大小様々な無数の絵画が掛けられていた。その内の一つの人物と目が合ってしまい、余計にドキリと心臓が跳ねてしまう。
――やっぱり寝てるのかもしれないな。
そう思った時だった。
「ん?何だ、これ?」
不意に床におかしな染みを見付ける。それは赤黒く、階段の方へと点々と続いていた。ただならぬ空気を感じた俺は、二階まで行くのを躊躇ってしまう。見慣れている筈の館に対し、俺は明らかに恐怖を抱いていた。
だが――
『じゃあね、龍一。ありがとう』
何故かは分からないが、あの時の和哉の言葉と笑顔が心に焼き付いて頭から離れてくれないのだ。
「もうヤケクソだ」
そう呟いて、俺は二階へ向かう階段を上がった。一歩一歩登って行く折、パタン……パタン……と自分の足音がやけに大きく鳴り響く。その間も、不可解な染みは延々と二階へ連なっていた。それを目にする度、ドクドクと煩い鼓動はますます増幅されていった。
パタン……。
二階に到着しても、静けさは相変わらずだった。それに、謎の染みも未だどこかへ続いているのだ。
――やっぱり戻るべきだろうか……?
この期に及んでも自分のしている事に逃げ腰になってしまい、なかなか次へと足を進められずにいた。もしも突然、父親や母親と鉢合わせにでもなってしまったら、最悪、住居不法侵入で犯罪者になるかもしれないのだ。
――どうしようか……。
思い悩み、暫く立ち止まってしまった。けれど、この染みの行きつく先に何があるのか、どうしても気になってしまう。
――それだけでも確認してみるか。
「よし」と気合を入れ直し、そっと再び歩みを進める。
ゆっくりと道筋を辿って行くと、寸刻の後、この暗闇の中で薄ぼんやりと形作られている物があった。
――何だ?
俺は、すっと灯りをそちらへ向ける。すると、そこにあったのは天井へと伸びている梯子だった。しかも、そこで染みは途切れているのだ。
――天井裏に繋がってるのか?
この状態を見れば、そう考えるのが妥当だった。”目的地”へと到着した俺は、その梯子へと近付いてみる。
すると――
「うっ……」
吐き気を催す程の臭気を感じ、思わず口元に手を当てて胃の中のモノが逆流するのをやり過ごした。それは、鉄が錆びたような、生ゴミが腐ったような、とにかくひどい臭いだった。
――何だ、この臭い。でも、どこかで嗅いだ事があるような……。どこだったか……?
既視感を感じた俺は、記憶を辿る。そして、「あ!」と気が付いた。
――そうだ。今日、和哉に会った時に感じた臭いだ。あの時は一瞬だったから気にしなかったが……。
どうしてか嫌な予感は、どんどんと確信に変わって行く。
――何かある。
ただの直感でしかない。けれど、俺は梯子へと足を掛けた。そして、カン、カンという音をさせながら、一歩一歩着実に上を目指す。その間もドクン……ドクン……と心臓の音は、耳の奥の方で忌まわしい響きを生み出していた。
カタン……と、天井裏に足を着けた。そこは階下同様に暗闇に包まれていて、目を凝らしてみても何も見えない。すっと光を当ててみる。
すると――
「え……?」
ドクンっ!!と、一際大きく心臓が跳ねた。
灯りを向けた先には、こちらを背に父親が倒れていたのだ。
「なっ……!!大丈夫ですか!?」
直ぐに駆け寄り、揺り起こそうとする。
しかし――
「あ……」
俺は、気が付いてしまった。
「……あぁっ……」
理解したくは無かった。けれど、分かってしまったのだ。
自分の手にべちゃりと付いた真っ赤なモノと、動かない父親。
彼は死んでいた。
「う……うわああああぁぁぁぁぁぁ!!!」
目の前にある”死体”を前に、完全にパニックに陥る。腰が抜けた俺は、その場にバタンと尻餅をついてしまった。
そして、再び気付く。その瞬間、びちゃっという悍ましい音がした事を……。
ドクンドクンと鼓動は早さを増していく。だが、恐怖が全身を支配しているのに確認せずにはいられなかった。
俺は、自分を奮い立たせて懐中電灯をぐっと握る。そして、辺りを照らした。
「……あ……」
見たくなかった。
「……ああっ……」
知りたくなかった。
「うわああああああぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」
そこに在ったのは、バットと母親の死体。
そして、一面のアカ、アカ、アカ、アカ、アカ……。
質素な白い壁と床一面には、真っ赤な血がそこら中に飛び散っていた。
ここは赤く白い世界で彩られていて、まるで”絵画”の中にでもいるように現実感が無い。
それから、俺が一番目に入れたくなかったモノ。
部屋の中央には、天井の梁から吊るされたロープに首を掛け、操り人形のようにだらりと力を失くし、既に事切れている人影があった。
それは、カッと見開かれた眼球を真っ赤に充血させた、和哉だった。
「あぁ……かず、や……」
これ以上、正常な精神を保つ事が出来なくなった俺は、意識が遠くなっていくのを感じる。
最後に目にしたのは、和哉の目の前に掛けられている”あの女”の絵だった。
彼女の真っ赤な瞳はより一層深みを増し、ギラリと不気味に光ったような気がした――
――その後、俺は病院で目を覚ました。母が、朝になっても帰って来ない俺を探しに和哉の家に行き、あの惨状を目にして警察へと連絡したらしい。
「あっ!目を覚ましたのね、龍一!!」
「ああ……」
母は、黒い髪を後ろで一つに縛っただけの簡単な形で、気遣わしそうな表情をしている。何だか、一晩でひどく老け込んでしまったような印象を受けた。
「なぁ、和哉は?」
「……」
母は、無言のまま俯いてしまった。でも、俺は答えを知っている……この目で見てしまっている……。
だが、聞かずにはいられなかった。
「……ああ、そうだわ」
話題を逸らすように「これ」と差し出された母の手には、スマホと四つ折りにされた一枚の紙が乗せられていた。
「あなたの部屋着のポケットに入っていた物よ。着替える時に出しておいたわ」
「え?」
スマホは、確かに見慣れた俺のスマホだ。けど、この便箋のような紙に見覚えは無い。当然、ポケットに入れた記憶も無い。
「入ってたって……。そもそも、それ俺のじゃないぞ」
「……?何言ってるの?だって、龍一の部屋着のポケットにあった物よ。あなたの物でしょう?」
「?」
意味が分からず戸惑ったが、母の言い分では「俺の持ち物」という事らしい。腑に落ちなかったが、とりあえず受け取って中身を確認してみた。
その真っ白な便箋の始めには、「龍一へ」という見慣れた文字が書かれていた。
そこには、実母の息子であるために義母に嫌われていた事。その為に、天井裏に追いやられていた事。高校に入って勉強に付いていけず、ますます義母に辛く当たられていた事。婿入りして義母の父親の経営する企業に重役として勤め、その上、大金を絵画に費やしていた父に見て見ぬふりをされていた事。
そんな事が、ずらりと綴られていた。
いつ、これが俺の部屋着に入れられたのかは分からない。
「……っ……」
けれど、そんな事どうでも良かった。
「かず……や……」
お前は、あんなに真っ白で孤独な部屋で一人何を考えていたんだ……?俺には、「助けてやれなかった」という後悔だけが残った。
ぽつりと、便箋に一粒の染みが広がる。
最後の一文には、「ありがとう」と記されていた――――
それから俺は、警察から何度も事情聴取を受けた。知っている事は全て話したが、一つだけどうしても信じてもらえない話があった。
天井裏にあった筈の女の絵が無くなっていたのだ。否、そもそも母でさえ、そんな絵を見た覚えは無いと言っている。
けれど、俺は確かに見た。アレは存在していたのだ。
『あの絵を見ていると勇気が湧いて来るっていうか、何でも出来るような気分になるんだよ!!』
そう力強く言っていた和哉。
あの女の”お蔭”で勇気が出たのか……。それとも、あの女の”せい”で勇気が出てしまったのか……。
今となっては、もう知り得る事は出来ない。だが、俺はこう思っているんだ。
和哉は、純粋で真っ白な世界で、今でもあの女と共に楽しそうに笑っているのではないだろうか、と……――――
――――「ありがとうございましたー!!」
店主から外まで聞こえる程の大声で礼を言われ、俺たちは居酒屋を出た。
「どうする?二件目行っちゃう?」
彰久は、すかさずガバリと俺の肩に手を回した。
「いや……今日はやめとく」
「ふーん、つれないねぇー」
「……」
「そっか」
彰久は、俯いて無言になってしまった俺の心情を察してくれたのかもしれない。「じゃまたな!」と軽く手を振り、彼は家路へと向かって行った。
昔の嫌な記憶を呼び起こしてしまった俺は、近くのベンチに座り「ふぅ……」と一息ついた。
そして瞳を閉じ、十七歳で成長が止まってしまった和哉の姿を眼裏に映す。すると、こんな雑踏の中どこからか、カナカナカナ……という蜩の鳴き声が聞こえてきたのだ。
「え……?」
思わずハッと顔を上げる。だが、目の前には忙しなく行きかう人々が溢れているだけだった。
――気のせいか……。
思い出したくない、出来る事ならば、記憶から抹消したいとさえ思う出来事。
けれど、これだけは忘れたくない。
『じゃあね、龍一。ありがとう』
そう言って、俺に別れを告げた和哉の笑顔を――――…………
初めて、「○○企画」というものに参加させて頂きました。
他のユーザー様に描いて頂いたイラストを基に文章を書くという事が、こんなにも大変な事だとは思いませんでした。完成まで丸4日を費やしました。
改めて、秋原様には御礼申し上げます。
この企画に際し、以前から書いてみたかったホラーというジャンルへ挑戦してみました。秋原かざや様のイラストを見て「ホラー」へのインスピレーションを感じまして、そこからどのようにホラー=恐怖を演出しようかと、ああでもない、こうでもないと右往左往しながら出来たのが、この作品でございます。
いかがでしたでしょうか?少しでも恐怖を感じて頂けたのならば幸いです。