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Kの欠片

ごめん……愛してる

 女子プロ野球が始まって三十年が経過した。
 始めこそ五チームだったものの、今では八チームとなり競技人口を着実に増やしていた。高校野球でも、女子部員の増加や女子野球部の増加により、公式戦での女子部員の参加容認や、女子野球部のみの全国大会も開催されるようになり、競技人口は一気に増加していった。

 一人の少女が、グラウンドで浮かない表情で柔軟体操をしていた。
 彼女名前は月見里 摩耶。高校二年生。
 実は彼女、この高校の女子野球部の期待の選手。入部してすぐにベンチ入りを果たし、三番手投手として公式戦でも登板を果たしている。そして、秋の大会ではエースナンバーこそつけられなかったものの、実質エースとして稼働した。
 進級後、夏の大会では上級生に配慮しての背番号11だったが、先発を任せられていたのは摩耶だった。
 夏の県大会は準優勝と言う結果で幕を閉じ、女子野球部は彼女たちの世代に引き継がれた。
 来年の春の選抜大会に向けて、大事な大会となる秋の地方予選を控えた彼女だが、このところ深刻なスランプに陥っていた。

「なんだか、面白くない……」

 柔軟を終え、立ち上がりながら呟く摩耶。
 不振に陥ってから、練習でさえもうまくいかない。それどころか、自分がどんどん下手になっているような錯覚に襲われていた。
 投手として恵まれた体格をしている訳ではない。身長も女子の平均より少し上なだけだし、大きく曲がる変化球や、唸る豪速球があるわけではない。そんな彼女の武器は、柔軟性を活かしたフォームから投げ出される、綺麗な回転のかかった直球と、正確無比と称賛されるコントロールであった。
 だが、最近の彼女は、その武器にさえ陰りが見えていた。
 ボールの回転も不安定になり、コントロールも大きく乱れる。投げ込めば投げ込むほど、その乱れは大きくなっていく一方だった。

「はぁ……」

 自分のグラブを見ても、ボールを握っても気分は一向に冴えない。むしろ沈んでいく一方。解決の糸口さえ見つからないままに、野球部の練習が開始される。部員全員が一団となってランニングを始める。掛け声をあげながらも、摩耶の心はどこか遠くにいっていた。
 気の入らないままのランニングが終わり、肩回りの柔軟体操を開始する。入念な柔軟こそが、彼女の武器と、怪我を防ぐ体を作っていた。

「摩耶~最近調子はどう?」
「小百合……」

 何とも無邪気な笑顔を浮かべながら近づいてきたのは、摩耶と同じ二年生の小百合。ポジションは摩耶と同じ投手だが、登板機会はほとんどなく、最近では内野手を兼任している。それでも、レギュラーとしての定着までには至っていない。
 そんな彼女だが、ムードメーカとしてチームには欠かせない存在であった。そして、摩耶とは小学校以来の親友でもあった。

「そんなこと、今更聞かなくったってわかるでしょうが」
「そうなんだけどね~。今回は、いつもと違うみたいだし」
「いつもと違うって……何がよ?」

 ジト目を返す摩耶に、小百合は少し考えるしぐさを見せる。そして、あまり好感の持てない笑みを浮かべる。

「例えば、誰か気になる人がいるとかぁ?」
「気になるって……」

 思わずため息が漏れる。
 小百合が口を開けば、決まってこの言葉が出てくる。おそらく、年頃の女子であれば一番最初に出てくる可能性が高い言葉なのかもしれないが、野球しか知らないような摩耶にとっては、鬱陶しくさえ感じていた。

「あんた、いつもそればっかりじゃない」
「そう? でも、今回は確信あるよ?」
「なによ、確信って……」
「それはねぇ~」

 小百合の顔が、ニタァっという音が出そうな笑みに変わる。

「いつもと違って、アンタが上の空になるってこと!」
「そんなことは……」

 言いかけて言葉を飲み込む。
 思い返してみれば、ランニングの時もそうだったし、他の練習の時もそうだった。さらに言えば、授業中にも時々……。
 摩耶の様子を見た小百合は、なにか納得したように頷く。

「とうとう、アンタにも春が来たか!」
「そんなことない! いいからさっさとキャッチボールするよ!」
「わかったから、そんなにムキにならないの~」
「アンタがくだらないこと言うからでしょ!」

 そう言いながら、初球にしては強めの球を投げ込んだ。それはまるで、何かを振り払うかのようにも見えた。
 少しずつ距離を伸ばしながら、黙々とボールが摩耶と小百合の間を往復する。

(気になるってのは当たってるけどさ)

 距離としては三十メートル。いつもなら相手を動かすことなく投げ込める距離だが、ここ最近は必ずと言っていいほど、相手を一、二歩ほど動かしてしまう。

(これは、そう言うのとは違うの!)

 踏み込んで投げ込んだ球は、目標から思いのほか逸れてしまった。
 慌てた様子で小百合が動き出し、飛びつくようにしてなんとか捕球する。砂煙の中で起き上った小百合には、あからさまに怒りの表情を浮かべていた。

「どこ投げてんのよ! このへっぽこ!!」
「ごめーん」

 準備運動で、思いがけずダイビングキャッチをさせられた小百合から非難の声が上がる。それに手を合わせて謝る摩耶。

「全員集合!!」

 グラウンドに響いた女性の声に、二人は一度だけ顔を見合わせると、慌てて部室前へと走っていく。
 グラウンドに散っていた部員が、一人の女性を中心に半円を描くように集合する。視線を集める女性が、厳しい視線を巡らせる。

「全員そろったみたいだ」

 一つ頷いてから、静かに腕組みをする。
 彼女の名前は、高山 静香。女子野球部の顧問代理兼副監督の現代社会教諭。下手な男性教諭よりも男らしいと評判で、素行不良な生徒でさえ彼女には逆らえないと言うほどだった。

「本日も、日下部監督は不在となる。代って私が面倒を見る」

 威圧するのかような声に、部員たちが緊張の面持ちで返事を返す。

「よし、まずは全員でベースランニングからだ、始め!」
「はい!」

 一斉に散って行く部員たち。
 この女子野球部、本来であれば日下部良介と言う男性教諭が顧問と監督を務めているのだが、三年生の進路指導主任と言う立場上、なかなか練習に参加することができないでいた。その為、ソフトボール出身の高山が代わりに面倒を見ていた。

(今日も高山先生か……)

 冴えない表情のまま、摩耶はベース間を走る。表情の割に、練習に手抜きが見られないので、何かを咎められることは無かった。

 なんとなくスッキリしない状態で、日々は過ぎていく。練習こそ休まなかったが、その成果は驚くほどなく、秋の公式戦もスタメン落ちの可能性すら出てきた。
 エースの不調は、チーム全体の士気と統率力を低下させる。なんとなくギクシャクし始めたチームに、その一報は届けられた。

「日下部監督が来てるって」

 その一言に、摩耶の表情が変わる。
 あからさまな変化ではなかったが、影のようなものがなくなり、どこかすっきりしたようなものに。
 その日の摩耶の投球練習は、それこそ別人のように素晴らしかった。キャッチャーの構えた場所に、寸分の狂いもなく投げ込む。それも、しっかりと腕を振り抜いて勢いのあるボールを。

「今日は好調のようです」

 練習を見ていた高山が、隣の日下部に告げる。その言葉に満足そうに頷くと、二人はその場を後にする。
 その後も摩耶の実戦さながらの、素晴らしい投球は続く。隣で投げていた小百合が摩耶と日下部に交互に視線を飛ばす。

(まさかとは思うけど……まさかねぇ……)

 苦笑いを浮かべながら、隣の摩耶に視線を向ける。その度に首をひねり、再びきょろきょろと落ち着きなく視線を巡らす。

「小百合ー!! さっさと投げろぉ!!」

 ブルペンは、とても騒がしくなっていた。
 この日を境に、摩耶は調子を取り戻していく。周りから見れば、長いスランプからようやく抜けたと言う感じであったが、小百合だけは相変わらず首をひねり、時々視線を周囲に飛ばしていた。
 調子が上がると同時期に、日下部が練習に顔を出す事が多くなっていた。とは言っても、十分か二十分ほどで職員室に戻ってしまうが、それでも摩耶の調子は落ちず、むしろ上がっていく一方だった。

(いやいや摩耶さん、それってどうよ?)

 小百合は、この時ほど自分の予感が外れてほしいと願ったことはなかった。
 その不安をよそに、調子を取り戻したエースにチームは引っ張られるように士気と統率力を回復する。一丸となった秋季大会では県大会を優勝し、春の選抜大会出場をほぼ確実なものとした。
 この大会、ベンチには監督の日下部の姿がり、その事が摩耶を勢いづけ、小百合の不安を確実なものにさせた。

 季節が進み、三年生が進路で忙しさと熾烈さを極める一月、その事件は起こった。

 日下部良介、二月いっぱいで退職――

 摩耶にとっては青天の霹靂だった。追いかけていた背中が急に遠のき、遥か彼方の霞に呑まれ、存在すら失うかのような。

(どうして……どうして……)

 理由はわからない。
 日下部も残された僅かな日々を、進路指導と引き継ぎ作業で忙殺されていた。直接聞く勇気もタイミングもなかった摩耶は、過ぎ去る時間と共に心をすり減らし、常に重く暗い影を背負っていた。
 何もやる気が起きず、何も手がつかない。空白に染まっていく頭の中でさえ、遠ざかる背中。
 ただ過ぎていく時間の中で焦燥感だけが募り、何もできない自分に苛立ちが募る。不安定な水面に浮かぶ心は、荒れる波に弄ばれる船のように大きく揺らぎ続ける。揺らめきは少しずつ、確実に彼女の心を削る。

 そして、遂にその時を迎える。

 放課後、最後まで教室に残っていた摩耶。部活の時間が迫っていたが、それでも席を動こうとせず、ただぼんやりと窓の外を見つめていた。沈みゆく夕日、徐々に失われていく明るさに、自らを重ねるように。

「何だ摩耶、ここにいたのぉ? 探しちゃったじゃない!」
「小百合……」

 突然現れた親友の顔を見た瞬間、彼女の目から溢れるように流れ出す涙。

「ちょ、ちょっと!? なになに、どうしたのよ!」

 慌てて駆け寄る小百合。近づくにつれ摩耶の表情は崩れ、ついには子供のように大声で泣き出した。

「うわわわわわ、ちょっと、落ち着いて!」

 小百合の声も届かぬほど、摩耶は声をあげて泣いた。流れ続ける涙は、瞳からではなく心からあふれ出ているかのように。
 泣き続ける親友をどうにかなだめようと、小百合は無言で頭をなでる。それに反応するかのように摩耶が飛びつくように抱きつく。そのまま、しばらく子供のように泣き声を上げ続けた。
 しばらくして、摩耶がゆっくり小百合から体を離す。

「落ち着いた?」
「うん、ごめん……」

 声を震わせながら、ゆっくりと息を整えていく。
 その姿に小百合が小さく息を吐き、対面の席に腰を下ろす。

「で、どうしたのさ? ここまで来てだんまりは通用しないよ?」
「わかってるよ……」

 僅かな戸惑いを見せながら、摩耶は言葉を紡いでいく。

「初めは、そんなんでもなかったんだ……」

 部活の顧問、学校の先生の一人。摩耶の意識にはそれくらいのものでしかなかった。それが変化しめたのは去年の秋、新チームとなって初の公式戦で、先発として指名された時だった。
 上級生を押しのけて、先発マウンドに上がる。それがどれだけ波風を立てる事になるか……その時に日下部が全員に向かって、言いたいことがあるものは顧問である自分に直接言えと、かなりきつめの口調で言ったことだった。

「その時は、お父さんみたいだなぁって……」
「そっか、あんたお父さんいないんだもんね」
「うん……」

 摩耶の父は、彼女が小学生になると同時に他界。病気によるものだった。
 それもあり、日下部にはそれに近いものを感じていた。そして、それがいつしか変化していったことにも、父への憧れと言うものに包んで気づかないようにしていた。
 目を背けていた感情が、自分の意志とは関係ないところで大きく育ち、いつしか無意識と言う包みを抜け出し、彼女の心に根を下ろしていった。
 二年生でエースとしての重圧を背負い、上級生からのプレッシャーを受け、孤独なマウンドに登る彼女に、日下部はいつも声をかけた。それ以外の時も、些細な事も見逃さずに、彼女の心を言葉で支えた。

「部活しか接点がないから……」
「確かにそうだよね」
「それなのに……」

 突然の退職の話。二度と会えなくなる、その思いが彼女を追い詰めていった。
 一通りの話しを聞いた小百合は、わざとらしく息を吐く。

「それってさ、先生のことが好きなんでしょ?」
「好きは好きだよ」
「いやいや、ライクじゃなくてラヴって意味だよ?」
「そんなことは……」
「ここまで聞いたら、誰だってわかるっての」

 再びため息を漏らす。
 親友として長い付き合いになるが、ここまで鈍いとは思っていなかったからだ。それも、相手の気持ちに鈍いのではなく、自分の気持ちに鈍いという最も性質の悪い方に。
 ちらっとだけ視線を摩耶に向けた小百合は、ゆっくりと席を立つ。

「もう答えが出てるんなら、あたしは部活行くから」
「ちょっと、答えなんて……」
「あとは!」

 呼び止めるような摩耶の言葉を、わざと大きな声で遮る。立ち上がった小百合は、そのまま背を向けていた。

「後悔のない選択を自分で決めなさい」
「小百合……」
「高山先生には、体調悪いから休むって伝えておくから。じゃあね」

 そのまま、小百合は背中越しに手を振りながら教室を後にした。
 残された摩耶は、沈みゆく太陽の光を受けながらただその場に立ち尽くし、無言で自問自答を繰り返した。導かれる答えは決まっているし、その答えを後押しするために、自らに言い聞かせるように。

「ありがとう、小百合」

 小さく頷き、ゆっくりと教室を後にする。
 決意を込めて向かう先は決まっていた。迷いなく進み、立ちふさがる扉を勢いよく開く。あまりの勢いに、職員室にいた教師たちが驚いたように視線を向けたが、摩耶は気にも留めずに視線を巡らし、その姿を探す。

(見つけた)

 雨のように向かってくる視線をものともせず、目標の人物へと足を進める。
 周りの様子に気づき視線を向けた日下部。部活に参加しているはずの摩耶の姿を見て不審に思ったが、そのあまりにも堂々とした姿に言葉を失う。
 絶句する日下部の前に立った摩耶は、小さく深呼吸をすると、やたらと強い視線を向ける。何とも言えない迫力が、日下部でだけでなく周囲すら圧倒していた。

「先生、進路について相談したいことがあります。進路指導室で待ってます」

 それだけを告げるとすぐさま向き直り、そのまま職員室を後にした。

 衝動に任せた行動の後、自らが決めた場所で、摩耶は早鐘のように響く鼓動と戦っていた。覚悟を決めていたはずなのに、いざその時となると、後悔という魔物が心を削り取っていこうとする。いっそこのまま、進路相談で終わらせてしまおうかとさえ思ってしまう。

(だめだめ、今逃げてどうするの!)

 頭を振って、心の中の悪魔を振り切る。
 それを何度か繰り返しているうちに、資料を小脇に抱えた日下部が姿を現した。それを見た瞬間、嵐のように暴れていた鼓動が一気に静まり、嘘のような静寂に包まれる。
 思考停止した様な状態の摩耶は、促されるまま日下部と向かい合うように椅子に腰を下ろした。

 そこからは、もうなにも聞こえなかった。

 日下部が拡げた資料にも、親身になって説明してくれるその言葉も、どこか遠くで流れる音と映像。その一つ一つは認識できても、意味としては認識できない。右から左に、ただただ流れていく様であった。
 ただ流されていく時間の中で、摩耶が少しずつ自分を取り戻していく。
 自分の我儘に対して、僅かしかないかもしれない時間を割いてまで来てくれたその人に、自分は何をしているのかと。そして、自分は何をしなくてはいけないのかと。
 嘘をついた、迷惑をかけた、それなのに動けない自分に苛立ちを感じる。気づいてないとはいえ、そんな自分に親身になってくれる日下部に対し、申し訳なさが溢れだしてくる。今言わなければ、全てを踏みにじるのだと。
 心の葛藤は、涙となって姿を現した。
 突然の出来事に、日下部は同様の色を見せる。心配したような言葉に、摩耶はゆっくりと日下部を見つめる。

「先生……」

 とめどなく流れる涙。
 視界は既に歪んで、輪郭が解けて色が滲んでいる。
 それでも、その姿も表情もはっきり見えている。

「ごめん……」

 何に対しての謝罪なのか。
 それとも、これからに対しての謝罪なのか。
 それでも、その気持ちに偽りはない。

「愛してる」

 その一言が、二人の空間に流れた……。

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