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新たな仲間

 鉄兵は半ば涙目になりながら必死に足を動かしていた。


 後ろからはまさに山のような巨体が迫ってくる。まるで悪夢のような現実に遠い世界に行ってしまいたくなる。が、一瞬でも気を抜いたらそれこそ本当に遠い世界にいけてしまうだろう。つまりは死後の世界へだ。


 アリスとは比べ物にならないほどの圧倒的な威圧感に吐き気を催しそうになる。ガルム本来の平均体長である10mだとしても家一件分の大きさとティラノサウルスと変らない脅威度だが、後ろのガルムは体長30mもあるのだ。建物で言えば10階建てのビル。生物で言うなら最大級のシロナガスクジラがそれくらいの大きさだと考えていただければ分かりやすいだろうか。


 そんなものが元の姿である狼同様の俊敏さで迫ってくるのだからすぐに追いつかれてしまいそうなものだったが、今のところ、このチェイスは拮抗を保っている。そうであってくれと祈りながら走り出したのだが、鉄兵の足は鉄兵の期待通りに強化されていて、アリスを抱っこした状態でさえなんとか追いつかれずに逃げれていた。


 周囲の景色がものすごい速さで流れていく。多分今いるような街道でF1カーに乗って全速力でかっ飛ばせばこんな景色が見えるのだろう。そんな命がけの追いかけっこの最中だが、それでも続けていれば慣れてくるもので、次第に頭が働いてくる。


 鉄兵達は自分が来た方向とは逆の方向に走っている。今は街道を走っているが、この速度ならそれほど経たずに町についてしまう気がする。


「森の中だ。二手に分かれるぞ!」


 同じ考えに至ったのか、鉄兵の横を走るシロが険しい声で叫んだ。


「アリス、身を丸めて!」


 このまま森の中を駆け抜ければ腕の中のアリスに指示を出す。その意図が通じたようで、アリスは鉄兵の胸に抱きつき、膝をまげてしっかりと鉄兵の腕に固定した。


「せーの!」


 シロの合図で左右にわかれ、一斉に森の中に飛び込んだ。


 急に獲物が二手に分かれたことでガルムは戸惑ったようだったが、よほどお姫様にご執心なのか、しばし迷ってこっちを追ってきた。


 森の木を押し倒して走るガルムの姿はエコ戦士であるいつもの鉄兵なら卒倒するような光景だが、今はそれどころではない。視力どころか動体視力すらも強化され、さらには暗視能力さえも得ていた眼力で森の木の位置を見極めながら、疾風のように夜の森を駆け抜ける。


 森に入ったのは正解だったようだ。木を回避しなければいけないから走る速度は落ちたものの、走りにくいのはガルムも同じようで、さらには木々に目くらましの効果があり、徐々に距離が広まってきた。


 とはいえこのまま振り切れそうかといえばそれは難しいだろう。どうしたものかと鉄兵が酸欠になりそうな頭で考えていると、ふと自分に抱きついているアリスがごそごそと動き出した。目線をそちらに向けるわけにはいかないから確かめようが無いが、なにやら自分の腰の辺りを探っているようだ。


「光るぞ、気をつけろ!」


 アリスが叫び、何かを後ろに投げつけたようだった。


 アリスが投げたものが淡い光を放ちつつ放物線を描く。近くの木に辺り砕けたそれは、その瞬間、強烈な光を発した。


 その光の強烈さに、ガルムが怯み、足を止める。


「今だ! 引き離せ!」


 言われなくても全速力で、それこそ死ぬ気で森を駆け抜ける。


「右手に川がある。川中をしばらく走って反対側に抜けろ!」


 アリスの指示が飛ぶ、相手は狼である。いくら距離を離したとしても匂いを辿られたらそれまでだ。


 鉄兵は川に飛び込み流れを逆走を始めた。かなり速度が落ちるし水音はバチャバチャとうるさい音を立てる。これで気がつかれたらそれまでだが、今はこうするしかない。


 500m程もそうやって川を逆走した鉄兵は、川の中から思いっきり跳躍し、川辺に水の後をつけることなく反対側の森の中に入った。


 アリスを下ろして地に伏せさせ、庇う様にその上に覆いかぶさり、息を殺して辺りの様子を窺う。


 ガルムの姿が遠くに見えた。かなり遠くにいるはずだが、それでも大きく見えるその巨体は、どうやらこちらを見失ったようで、見当外れの方向をさまよっている。


 それを確認するとさすがに緊張感の糸が切れ、鉄兵はアリスにもたれかかって荒い息を吐いた。


 アリスの頬に顔をあて、抱きつくようにおぶさる。とんでもない体勢の気もするが、あの危機を脱出した後である。何も考える事などできない。


「こほんっ。なんとか逃げ切れたようだな」


「ああ」


 それより多少は冷静であったアリスは咳払いをしつつ離れるように促す。だがそれに気がつく余裕があるはずもない鉄兵はうなだれるように返事をするのが精一杯だったし、ましてやアリスの顔が真っ赤に染まっている事になどに気がつけるはずもなかった。


 やがて息が整うと、鉄兵は立ち上がって伸びをした。馬鹿げた話だが、わずかに休んだだけなのに体力はもう回復していた。とはいえ限界以上の力を使ったという記憶から来る倦怠感だけは去る事が無く、今すぐにもう一度同じ事をやれといわれたら無理だろうが。


「とりあえず助かった……のかな?」


「しかし、あれを野放しにする事はできないが、倒せる気もせん。どうしたものか……」


 まだあの化け物と戦うらしい。根性のあるお姫様だ。


 ならば俺は手伝うのか? としばし宙に視線を彷徨わせながら考えたが、結論はすぐにでた。


 無理。


 確かに昔は剣道少年で、争いに対する抵抗感は一般的な人間に比べたら薄いだろう。原因不明に強化されているこの肉体ならひょっとしたらあの化け物とも互角に戦えるのかもなーとかも一瞬考えてしまったが、肉体能力と心構えは別物なのだ。


 剣道で鍛えた心構えは、あくまで人間サイズのものに対する心構えなのだ。あんな化け物と戦う心構えではない。その覚悟ができてない以上、例えヘタレと言われようが、それが絶対に必要な状況でもない限り、蛮勇は奮うものではないのだ。でないと返って足手まといというものだ。


 とはいえ、このまま見捨てるのも後味が悪いのもまた事実だ。自分が関わらなくても何とかなる状況だと良いのだが……


「町に行けばあいつを倒せそうな戦力はあるのか?」


「いや、無理だな。通常のガルムならまだ対処もできようが、あの特殊なガルム……フェンリルとでも言おうか。ともかくアレに対抗できるような戦力は無い」


 無理らしい。困ったものだ。まあお姫様が一人で退治に来ているような状況なのだから察して然るべきであったかもしれない。


 ついでにそれを聞いて鉄兵は今の状況ではどうでも良い事に気がついた。フェンリルもガルムも北欧神話にでてくる狼の名前である。なんでそんな聞き覚えのある名称なのかと思ったら、恐らくは例の原因不明の翻訳機能のせいなのだろう。自分と同じ種族が人間と翻訳されたように、ガルムもその特徴が鉄兵の持つ知識の中で該当する名前が当てられているからなのだろう。


「しかし妙だな」


「なにが?」


「あのフェンリルには殺気がなかった。そう、だから気がつかずに先程のように不覚をとってしまったのだ。決して腰が抜けたわけではないぞ!」


 さりげなく言い訳を混ぜたアリスの頬が少し赤みがかる。


 本当に可愛い子だなぁと場違いな事を考えつつ、それを聞いて鉄兵はあのフェンリルの正体が子狼だった事を思い出した。


 ひょっとして……


「あいつ、ひょっとして遊んでるつもりなんじゃないか?」


「どういうことだ?」


「あのフェンリルの本体は子供の狼だったんだ。だから狩りゴッコでもしてるつもりなんじゃないかと」


「……なるほどな」


 アリスはその美しい顔に似合わない苦々しい顔をした。まあ子供の遊びであんな目にあったのだ。たまったものではない。


「まあここにいても始まらん。」


「それじゃとりあえず荷物のところに戻るか」


「そうだな」


 アリスは頷くと鉄兵に向けて両手を振り上げた。そのままじっとしている。


「?」


 なにやら柔道でも始めそうな姿勢だが、そのポーズの意味が分からず首を傾げる。


「抱っこして連れて行ってくれ。私はあんな速度で走れんぞ」


 納得である。


 それにしてもシロはアリスより重いであろうハルコさんを肩に担いで同じような速度を出していたはずなのだが。


 ……なんとなくそんな気はしていたのだが、やはりシロは人間族ではないのだろう。


 ともあれ、アリスをお姫様だっこする。冷静にやると結構恥ずかしい。


 しっかりアリスを抱きしめると、未だ巨大化したままのフェンリルの動向を気にしつつ、鉄兵は街道の脇を戻っていった。


「お疲れさん」


 それから程なく野営地に着くと、すでにシロは帰って来ていた。相も変わらず煙管をふかし、飄々としている。ハルコさんも無事なようだ。


「さて、そんじゃ始めるかね」


 ポン、と煙管の灰を捨て、シロが立ち上がる。


「なにをだ?」


「そりゃ犬の躾さ。ちょいと時間が合ったから考えてみたが、あんな迷惑な野犬をほったらかしとくわけにもいかんだろ」


 呆れた事を事も無げに言ってくれる。何か策はあるのだろうか?


「どうにかなるのか?」


 同じ事を思ったのだろう。アリスが不安を隠さずにシロに聞く。


「そりゃなるさ。俺は竜人族だからね。ちぃとばかしきついが、お嬢ちゃんにしてもガルムなら倒せる実力だあるんだろう? ちょいと手伝っておくれよ」


 なるほど、竜人族だったらしい。


「しかし竜人族とはいえ、私と協力したとしても厳しいのではないか?」


「厳しくたってやらなきゃいけない事もあるさ」


 珍しくシロが真面目な顔をしている。どうにかなりそうではあるものの、状況はかなりシビアのようだ。


「……待て」


 鉄兵はの口から押し殺した声が出る。


「止めるなよ」


 厳しい視線でシロが睨む。


「……止めないさ」


 どうやら蛮勇を奮わなければいけない事態のようである。


「前にも言ったが俺は頭が良い。なんの策も立てずに特攻するなんて俺の主義に反するんだよ」


 そう言って、精一杯の強がりで鉄兵はシロにニヤリと笑った。


「無理しなさんなって」


 鉄兵の強がりをもちろん見抜いているが、それを指摘するほど野暮ではない。シロはニッ笑ってそれ以上は何も言わなかった。


「しかし策といってもあの巨体に対して何の策を弄すというのだ?」


「それを考えるためにここに戻ってきたんだろ? シロ、なんか役に立ちそうなものは持ってないか?」


「役に立ちそうなものねぇ。あいつに通用しそうなものってぇと…………そうだな。あれくらいか?」


 シロががさがさとリュックの中を漁り始める。やがて取り出したのは結構な長さのロープだった。


「こりゃ魔力でコーティングしてるロープだからな。あのでかぶつでも引きちぎるにゃてこずるだろうぜ」


 ご都合主義の神様万歳である。長さも十分だし、これは使えそうだ。


「シロ。シロの竜人の能力はどんな感じ?」


「えーとだな。身長は18mちょいだな。白竜だから氷の吐息を吐ける。二三分動きを止めてくれるなら、あのでかぶつだって凍らせて見せるぜ」


 そいつは頼もしい言葉だ。実際にやってもらおう。


「アリス。あの光るやつまだ持ってる?」


「光玉の事か? まだ何個か予備があるぞ」


 ちなみに光玉は名前のまんま光の属性の魔力が篭った天然物の小さな水晶玉のようで、かなり値の張るものらしい。そのくせかなり壊れやすい物なのだが、壊れるとその時に魔力が開放されて閃光を発するらしい。


 状況は整った。かなりひどい作戦だが、それでもなんとか作戦らしきものが鉄兵の頭脳に浮かぶ。


 作戦内容を伝えると、結局のところ力任せの作戦にシロとアリスの二人は呆れたが、他に良い案も出なかったのでその作戦に決定した。


「いっちょ神話をなぞりますか」


「私は右腕を噛まれる役か……」


「俺は神様役だな。なかなか気分がいいねぇ」


 ついでに語ったフェンリルに関する神話の内容を聞いて、それぞれに一喜一憂する。


 というわけで鉄兵達は行動に移った。作戦を遂行するために各自準備に入る。


 そして一時間程がたち、フェンリルが鉄兵達を探すのに飽き、毛繕いを始めた頃、ドゴンッと派手な音が静かな森に響き渡った。


「OK。我ながらどうかと思うが成功した」


 鉄兵の足元にはフェンリルが折った木を再利用した巨大な杭が角度を付けて打ち込まれていた。その端にはしっかりと溝を掘ってそこに何重にも巻いてロープが縛ってある。ロープが切られないというならば例えフェンリルが引っ張ったところでロープはすっぽ抜けたりしないだろう。ロープの先を辿って行くと、同じようにしてロープが縛られた、まだ打ち込まれていない丸太の杭が付いている。


「上手く気を引けたようだな」


 アリスはその鉄兵の横でフェンリルの様子を伺っていた。フェンリルの方を見ると、思惑通り先ほどの音に気が付いたらしく、木々を掻き分け猛烈な速度でこちらに迫ってきていた。


「それじゃよろしく」


「しっかり頼むぞ」


 握った右手の甲を互いに打ち合い、それぞれの配置に付く。


 やがてフェンリルがアリスの姿を視認し、そこに殺到した。


 圧倒的な迫力で迫り来るフェンリルに、アリスは神話の中のテュールのように、僅かたりとも怯む様子無くその右腕を差し出す。


 フェンリルが右腕を引きちぎろうとするかのようにアリスに飛び掛ったその瞬間、アリスは右手を強く握り締めた。


 アリスの右手の中の光玉が砕け散り、開かれたアリスの手のひらから光が溢れ、閃光が夜の闇を切り裂いた。


 森の中での追いかけっこの時に引き続き、またしても視界を奪われたフェンリルは急制動をかけ、立ち尽くす。


 そのフェンリルの背後に突如として白い竜が現れて宙に舞い、上空からフェンリルを踏み潰さんばかりに蹴り落とした。


 18mの体長を誇るシロのもう一つの姿である白龍は、まさに竜と呼ぶに相応しい荘厳さと体格を持っているが、フェンリルはそれを遥かに上回る巨体の持ち主である。体格的には大人と子供ほどの差があったのだが、それでも予期せぬ攻撃は十分な威力を発揮し、フェンリルの巨体が地に伏せその頭が地面に落ちる。


 すかさず鉄兵は巨大な杭を持ったままフェンリルの喉元をすり抜けて頭の上を一周し、結び目を付ける様に輪になったロープの中を飛び潜ると地面に打った杭と対角方向に一気に加速を行った。


 そしてそのままロープがピンと張ったところで巨大な丸太の杭を地面に打ち込む。


 地に叩きつけられたフェンリルはようやくそこで我に返ったが、時はすでに遅かった。


 立ち上がろうとするフェンリルが、ロープに束縛され再び巨体を地に落とす。


 そこに、シロが深く息を吸い込み、気合とともに口を開けた。白竜の放つ氷の吐息。氷点下の吹雪が吹き荒れ、フェンリルを白く凍らせていく。


 動きの取れぬフェンリルは、みるみるその身を凍らされていく。それでもフェンリルは身を縛るロープを引きちぎりはしたが、それまでだった。


 すでに4本の足を完全に凍らされていたフェンリルはもはや動く事はできず、凍らされていく。やがてフェンリルは地を揺らすような長い遠吠えを上げると、その姿のまま凍りついた。


 完全にフェンリルが凍りついた事を確認すると、白竜は氷の吐息を吐き止め、静かに口を閉じた。と、その瞬間、見る間にその姿が縮み、憔悴したシロの姿が現れる。


「いやーお疲れさん。驚くほど上手くいったねしかし」


「失敗したら失敗したで、それでも不意は打てたんだからどうにでもなったさ」


 互いに歩んで合流し、ハイタッチをして成功を祝う。


「私は右腕を噛み千切られなくてほっとしている。ん? ……なにか、おかしくないか?」


 喜び合い、軽口を叩き合っていたその時、アリスが異変を感じて警戒を戻した。


 それに習い、鉄兵とシロも警戒する。


 確かに何かおかしかった。新たな危機の予感に身が熱くなる……いや、実際に熱い!?


 ふと、鉄兵は北欧神話のフェンリルについて思い出した。フェンリルは火を吐くのだ。こちらの世界のフェンリルは直接関連性はないが、これは……!!


 三人はいっせいにフェンリルの方に振り返った。遠吠えの姿勢のまま凍らされていたために開いていた口の間から赤いものが見える。


 フェンリルの身体を拘束していた氷がみるみると溶け出す。そして次の瞬間にはフェンリルの頭周りの氷が砕け、激しい炎が空を焦がした。


 首までの拘束を打ち破ったフェンリルは、続いて地面に向けて炎を噴出した。真紅の炎が鉄兵達に迫る。シロは自力で、アリスは鉄兵に庇われて、間一髪で炎を避ける。


「……!! この!!!」


 激情に狩られた鉄兵は、半ば無意識に飛び上がり、フェンリルの口を上から叩き下ろした。炎を吐いていた口が強制的に閉じられて、牙の間から火が零れ漏れる。炎の噴射は止まったが、炎で溶け始めもろくなっていたフェンリルを拘束していた氷はそれがきっかけとなって砕けちり、フェンリルは再び自由を取り戻した。


「うわああぁぁぁぁーーーー!!!!」


 自由を取り戻したフェンリルは、鉄兵達に襲い掛かると思いきや、後ろを向いて逃亡を始めた。口の上にいた鉄兵は振り落とされそうになり慌ててフェンリルの毛皮に捕まる。



 ドクンッ



「!!?」


 フェンリルの身体に触れた鉄兵は、奇妙な感覚に包まれた。


 身体は必死にフェンリルの体毛に掴まりつつも。心はその奇妙な感覚の虜になる。


 鉄兵はその奇妙な感覚の正体を突き止めようとした。


 奇妙な感覚? いや、これは一体感だ。


 自分のものであるはずのものが自分の外にある感覚。だから奇妙に感じるのだ。


 なぜ、それが自分の外にあるのだろう?


 心の底からの奇妙な感覚に、鉄兵はその違和感をなくすべく、心身ともに感覚に身を委ねた。


 外にあるものが自分の中に戻っていく。


「アアアオオォォォォォォーーーーー!!!!!」


 その途端、フェンリルは雷にでも打たれたかのように身を震わせ、月に向かって地鳴りのように吼えた。


 その衝撃で鉄兵は振り落とされて地面に落ちる。


 その鉄兵の身体に、吸い込まれていくものがあった。


 フェンリルの身体が黒い霧に代わっていき、鉄兵の身体に吸い込まれていったのだ。


 フェンリルは苦しそうに身を悶えさせ、やがてヒクヒクとその身を痙攣させつつ動きを止めた。


 感覚に身を委ねていた鉄兵は、自分の身に起きている事にも気が付かず、陶酔した表情で黒い霧を吸い続けた。


 やがてフェンリルの身体が縮むところまで縮み、黒い霧の放出が止まった。


 黒い霧を吸い尽くし、鉄兵がはっと我に返った時。フェンリルがいた場所にいたものは、元の姿である子狼であった。


「キャン!」


 逃げようとした子狼の首元を、先ほどまでの敵対心に身を任せて鉄兵は無意識に押さえつけた。


 子狼がキャンキャンと泣き叫ぶ。


『こわい! こわい!』


 キャンキャンと鳴くそのフェンリルの鳴き声が翻訳されて鉄兵の耳に届く。


 その声を聞いて、鉄兵はなんとも穏やかな気持ちになってしまった。果てしなく迷惑な存在ではあるが、まだ子供である事には変わりないのだ。


「俺も怖かったんだよ」


『!?』


 子狼の声を聞いて落ち着いてしまった鉄兵は、つい気を緩ませてしまい、手も緩んでしまった。


「あ!」


 その隙をついて子狼が全力で身体を揺らし、鉄兵の手の中からすり抜けた。森の藪に子狼の姿が消える。頭では追いかけるべきだと思ったが、しかし疲れ果てた鉄兵の精神がそれに続かなかった。


「おーい!」


 もはや疲れ果てその場にへたり込んでいた鉄兵の耳に、聞き心地の良い二つの声が聞こえてきた。


「テツ! 大丈夫か!」


「鉄兵! 怪我は無いか?」


 鉄兵の元に駆け寄ったシロとアリスの二人は、疲れて呆然とする鉄兵の肩を揺すり、ものすごく手際良く外傷を検査していった。


「いや、大丈夫だから。多分外傷は無いと思う」


 大袈裟とも言えないが、その慌てように苦笑しつつ、軽く制止をかける。


「しかし、結局フェンリルの野郎には逃げられちまったな……カーッ!! めんどくさいねぇ」


「そうだな。本国に応援を頼まねばならぬ」


「いや、それも大丈夫だと思う」


 鉄兵の言葉に二人は?マークを頭に浮かべ、同時に首を傾げた。


「フェンリルの魔力は吸い取った」


「なんだと!?」


「どうも俺にはそういう能力があるらしい。多分」


 そう、きっと多分さっきのアレはそういうことなんだろう。


「人間族が魔力を吸収するなど聞いた事がない。鉄兵は……つくづく規格外のようだな。本当に人間族なのか?」


「テツとは短い付き合いだが、そいつには俺も賛同だな」


 自分でもそう思います。なんでこんな力が付いているのやら。今回は助かったが、別にこんな力が欲しかったとも思わない。科学者らしくさせて欲しいところだ。


「ほんとに人間です。人間でいさせてください。お願いします」


 疲れ果てた末に出た本音だと一発で分かる鉄兵の呟きに、二人は苦笑する。


「良くは無いが、まあ良い……鉄兵の言う事が本当ならば、魔力を失ったフェンリルはしばらくの間は脅威ではないな。山狩り部隊を編成しよう。申し訳ないがまたフェンリルが復活した時に手伝っていただきたい。鉄兵に本当に魔力吸収などと言う伝説級の力があるのならば、フェンリルに関してはこれ以上に無い力なのだ」


「りょう……かい」


 面倒事はいやだが、確かにそのとおりなのだろうなぁと思って了承する。というか、正直今は何も考えられなかったので機械のごとく頷いた。


 そんな会話が終わると、本当に危機が去ったのだと実感した鉄兵以外の二人も急に疲労が現れたのだろう。鉄兵を見習ってその場にへたり込む。


 虫の声が鳴り響く夜の森に、静かな時間が流れていく。シロの演奏を聞きつつすごしたこれとは違うがまた同じ静かな時間はもうどれくらい前の事だったのだろう。


 やや余裕が出てきた頃、ふとアリスの方を見た鉄兵は、その顔を見てぎょっとした。


 アリスの口がへの字の曲がっている。ものすごく不機嫌そうなのだ。特に自分が悪かったとも思わないがこういう時は謝っておくに限る。女性に関してはそういうものなのだ。少なくとも鉄兵の経験では姉が二人ともそうだった。


「えーと、アリスさんごめんなさい」


「ん? なぜ謝る?」


「いや、フェンリルを取り逃しちゃったし」


「それはあくまで結果だ。鉄兵は全力を尽くし、最悪の事態を回避してくれた。むしろ感謝している」


「けど、なんか不機嫌じゃないか?」


 その言葉を聞いてアリスがへの字具合をさらに深める。


「気がついているか? 私は今回ほとんど活躍していないのだ」


 なるほど。それは気が付きませんで申し訳御座いません。


 けど、十分見せ場はあった気がする。生贄役はやっぱり美女がやらないと様にならないと思うのだ。などと思ったが、言ったら怒り出しそうだから心のうちにとどめておいた。


 鉄兵は特にアリスに言葉をかけず、その凛々しいのではない可愛らしい不機嫌顔を横目で眺めていた。






 話はここで終わりではない。


 本当の顛末は精根尽き果てて野営地でぐったりと休み、朝になってなんとか起き上がれるような気力も出てきた頃に訪れた。


 朝食の準備を始めた二人に比べて体調は万全なものの生活無能力な鉄兵は焚き火をぼーっと見ながら食事が出来るのをぼけーっと待っていた。


『あるじ!』


 と、その時に耳に飛び込んできたその聞き覚えのある声と言葉の意味にぎょっとして声のした方を見た。その正体をみて、さらに驚きを増す。


『あるじ、あるじ!』


 見覚えのある子供の狼がそこにいた。声の主は、昨日の大騒動の原因であるフェンリルだったのだ。


『あるじ、あるじ。つよいあるじ。こえわかるあるじ。いっしょにいたい』


 フェンリルはなかまになりたそうにこちらをみている


 ドストライクだった。


 それはもう、鉄兵は大の猫派だったのに、この瞬間に犬派に趣旨換えしてしまったくらいに。


『あるじ、あるじ。いっしょにいたい』


 千切れんばかりに尻尾を振り、キャンキャンと鉄兵にアピールする。


「テツよ……そいつぁひょっとして昨日のやつなんじゃねぇか?」


 フェンリルの姿に気が付いたシロが、腕を組み、やや緊張しながら鉄兵に聞く。


「そうだけど、ちょっと待った!!」


 鉄兵の言葉を聞いた瞬間に剣を抜き放ったアリスの前に立ち、慌ててそれを静止する。


「なぜ止める。ここで捕らえねば後が大変なのだぞ?」


「大丈夫だから。おいで」


 鉄兵はアリスに背を向け片膝を付き、両手を開いてフェンリルを招きよせた。


『あるじ、あるじ。こえわかる。いっしょにいたい』


 招かれたフェンリルは喜び勇んで鉄兵の腕の中に飛び込み、ペロペロと鉄兵の顔を舐め、擦り寄った。


「えーっと……シロさん、アリスさん。お願いがあるのですが」


 鉄兵はなるべく殊勝な態度を取ってみた。


「嫌な予感しかせんな」


「まったく同意見だな……まあ言ってみな」


「飼っちゃ……ダメ?」


 なるべく可愛らしく言ってみる。ほとんどの男が見れば間違いなくキモイと思うだろうが、一部の男性と女性には需要がありそうだった。


 シロは無言で空を見上げ、アリスは手を頭に置き溜息とともに首を振った。


「お嬢ちゃん。そいつの被害にあったやつはいるのか?」


 空を見上げながらシロが聞く。


「いや、発見したのは郵便配達の竜騎手でその後封鎖前に互いの町から出発している商隊や旅人は全員無事が確認されている。恐らくは人的被害はゼロだろう」


「まあ、なら好きにすりゃあいいんじゃねぇか?」


「……ガルムが人に懐くなど聞いたことも無いが、鉄兵ならなんでもありそうな気がしてきたところだ。好きにいたせ」


 二人とも溜息を隠さずにそう言うと朝食の準備に戻っていった。許したと言うよりかはもう面倒になって関わりたくないと思っただけのような気もするが、とりあえずそれで十分だ。


「二人ともありがとう! 恩に着る!!」


 二人の背に鉄兵は心からの感謝を送ると、そっとフェンリルを抱きしめ、背中を撫で始めた。


「一緒に行こうな。おまえの名前は?」


『ない。なまえほしい。つけて、あるじ』


「そうだな……おまえはオス? それともメス?」


『メス。わたしメス』


「なら名前はリルだな」


『リル。わたしリル』


 リルは嬉しそうに自分の名を叫び、尻尾をパタパタと振りながら鉄兵の周りを回り始めた。


 ちなみにオスだった場合はフェンと名付けられた事は言うまでも無いだろう。親から引き継いだ鉄兵のネーミングセンスは、鉄兵の名前を見て分かるとおり最悪のものだった。

8/21:文章修正

「フェンリルは苦しそうに身を悶えさせ、」→「フェンリルは苦しそうに身を悶えさせ、やがてヒクヒクとその身を痙攣させつつ動きを止めた。」


「大袈裟とも言えないが、その慌てように苦笑しつつ、」→「大袈裟とも言えないが、その慌てように苦笑しつつ、軽く制止をかける。」


「いや、フェンリルを取り逃しちゃったし」「けど、なんか不機嫌じゃないか?」の間に「それはあくまで結果だ。鉄兵は全力を尽くし、最悪の事態を回避してくれた。むしろ感謝している」を追加


「物で言えば20階建てのビル」→「物で言えば10階建てのビル」


12/18:指摘いただいた誤字修正

「まったく同意見だな……まあ行ってみな」

→言ってみな


2011/11/07:指摘いただいた誤字修正

と[さまと]思うのだ

→と様にならないと思うのだ


2012/01/31:指摘いただいた誤字修正

何[十]にも巻いてロープが縛ってある

→何[重]にも巻いてロープが縛ってある


炎で[解]け始めもろくなっていた

→炎で[溶]け始めもろくなっていた


子狼が[ぜんりょく]で

→子狼が[全力]で

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