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一瞬の風を描く

作者: 蒼汰



 その日も電車はいつもと同じ時間に、いつもと同じ名前の駅に着いた。扉が開くと、目的地を同じくする学生たちで駅のホームは埋め尽くされた。


 優希は特に何を考えるでもなく、人の流れに従ってバス乗り場へと歩いていた。駅から大学までは無料の通学バスで通っているが、朝のこの時間は人が多く、型の古いバスの座席に座れる人数は限られている。それを思うと、優希の足は自然と早くなる。


 バス乗り場では、既に色とりどりの髪色をした学生たちの長い行列ができていた。待機中のバスの多さも、もう見慣れてしまった光景である。


 学生をぎゅうぎゅうに詰め込んだバスは、まだ並んでいる学生たちの列を、待機している別のバスに引き継いで去っていく。長い行列の中程に並んでいた優希は、比較的早くバスに乗り込むことができた。いつもは人が多くて座れない席も、この日は一人掛けの席に座ることができた。


 学生が後から後から乗り込んで来る。それと共に、車内には熱気と喧騒が広がっていく。優希はバスが走り出す前に、バスの窓を少しだけ開けた。それからうるさい通学バスの空気にうんざりしたように、カバンの中からMDウォークマンを取り出して、イヤホンを耳栓代わりに耳に突っ込んだ。


 再生ボタンを押すと、イヤホンからは大音量でお気に入りのミュージカル曲が流れ出した。昨日まではその曲の隅々にまで聞き入っていたのに、この日の優希にとって、それは本当に耳栓以外の何ものでもなかった。大音量で流れる音楽は、優希の耳元で車内の喧騒を打ち破り、その残骸と一緒になって窓の外へと逃げて行く。


優希は何も聞こえなくなった耳で、窓際に肘をついて虚ろな目を窓の外へと投げていた。


 空っぽな頭で、優希はぼんやりと胸の疼きを感じていた。昨日までと変わった所など、何も無かった。それが気鬱の原因で、胸が疼いていた。




 優希が母からその知らせを受けたのは、もう半年以上も前のことになる。昔から特に仲の良かったいとこの浩介の、突然の発病の知らせだった。学校から救急車で病院に運び込まれ、緊急入院したのだという。


白血病だった。


世間では「世界の中心で愛を叫ぶ」が、映画化に続きドラマ化され、脚光を浴びていた時期だった。


 小説やドラマや映画の中でしか起こり得ないと信じていたことが、実際に近しい人の身の上に降りかかったことに、優希はショックで泣きじゃくった。けれどどんなに泣きじゃくった所で、実感が沸いて来ないというのが優希の本音だった。


 三十分も泣けば涙は枯れて、ぼんやりした頭で空腹を感じていた。誰にも声を聞かれたくなくて出てきた下宿寮の駐車場は、本当に誰もいなくて拍子抜けだった。どこからも悲しげなBGMは流れてこない。夜の更けた駐車場は静寂そのものだった。薄ぼんやりとした朧月を見上げていると、優希はなぜさっきまで泣いていたのか忘れそうだった。


 映画がどんなに悲劇的でも、ドラマでどんなに感動的な最終回を迎えても、実際にはこんなものなのかと思うと、悲しさよりも空しさの方が勝っていた。



* * * * * *



「お土産は?」


 優希が病院のエレベーターから降りると、そこで待っていた浩介は開口一番そう言った。


 浩介は腕に差した点滴を転がしながら、涼しげなじんべえを寝巻き代わりに着てそこに立っていた。ひょうひょうとした声やいつもと同じ笑顔を向ける浩介は、およそ重病で入院している病人には見えなくて、優希はそれに一瞬呆れ、そして同時に安堵していた。


「あるけど、もしかしてそれを待ってたの?」


「うん、腹減ったし」


 別に何かを期待していた訳ではないが、そこまではっきりと土産が目当てだと言われると、優希は何だか使い走りをさせられているような気分だった。


 「お昼は? もしかしてまだ食べてないの?」


「食べたけど病院食ってまずいし、量少ないから何か食べた気がしないんだって。それで何買ってきた?」


浩介は優希を待合室に案内しながら、優希の持っているハンバーガー屋の袋を覗き込んだ。お見舞い品にハンバーガーでいいのかと思ったりもしたが、それを買ってくるように望んだのは浩介の方だった。


「注文どおり、テリヤキバーガーとポテトにチキンナゲット。満足?」


「うんうん、満足満足。入院してたら何か塩気のあるものが無性に食べたくって。優希の分もあるの?」


「うん、私もお昼まだだし、一緒にと思って」


 そう言ってふと浩介を見上げると、浩介の顔は優希の思っていたよりもずっと高い位置にあった。浩介は優希よりも一つ年下だったが、昔から身長差で優希の方が優位に立てたことはない。それでも、昔はこんなにも身長の差は無かったような気がする。


「あれ? 浩ちゃんまた背伸びた? 何か差が広がってる気がするんだけど」


 最初に病院に訪れてからしばらく経っていたが、その間に伸びたということはないだろう。そういえば、前に会った時は無菌管理室で、浩介はずっとベッドの中だった。立って並んだりはしなかったから気付かなかったのだ。それ以前に会ったのは確か中学生くらいの時だったから、育ち盛りだった浩介は優希の知らない間にぐんぐん背が伸びていたのだろう。優希が想像していたよりも、ずっと。


「うん、高校で大分伸びた。もうすぐ180いくと思う。優希は……縮んだ?」


「うるさい、これでも伸びた方なの。……妹には追い越されたけど」


 そんな風に優希をからかう浩介は、昔から少しも変わりが無い。そこが病院でさえなかったら、浩介が病気だということも忘れてしまいそうだった。


「うん、やっぱ久しぶりに食べるとすっげー美味い」


 買ってきたジャンクフードたちは、ハンバーガーもポテトもナゲットも、みんなあっという間に浩介の胃袋に納まってしまった。


「そんなに塩気に飢えてたの? なんなら私のポテトも食べる?」


「うん」


 間髪入れず、優希の手元からポテトが消えた。優希は呆れるよりも笑いの方が込み上げてきそうだった。


「ジュースは? 飲まないの?」


 浩介の分のジュースは、優希のポテトが浩介の胃に納まった後でもまだ手付かずのままだった。


「あぁ、うん。火の通ってない物は食べられないんだって。だから優希、飲んでいいよ」


「あ……そっか。じゃあ、貰うね」


 考えてみれば、浩介は白血病で入院しているのだから当然だった。病気で体の抵抗力が衰えているから、弱い菌でも感染しやすく、一度感染すればそれが命取りになることも十分ある。火の通っていない生ものは、優希には無害でも浩介には毒に成りかねない。


 優希は浩介と何気ない話をしながら、浩介の残したジュースを代わりに飲んだ。優希は水分はもう十分摂っていたが、それでもそれを残したりはしなかった。


「そういえば、病室変わったんだってね」


「うん、大分調子が落ち着いてきたからって。前は個人部屋だったけど、今度は四人部屋。一人部屋の方が好き勝手出来て良かったけど、無菌管理室よりは今の方がいいかな。そんなにしょっちょうは無理だけど、たまには屋上出たり出来るし、暇な時は廊下散歩したりも出来るし」


「そっか、前は外出るのも出来なかったもんね。中に入れる人も限られてたし」


「病室行く? 向こうの方が待合室より落ち着くかも。ベッドの周りにカーテンあるし」


「うん、どこ?」


「あっちの端っこの部屋」


 浩介のベッドは、その部屋の窓際に置かれていた。汚れでうっすらと曇った窓は半分開いていて、そこから柔らかい日差しと風が、日に焼けた白いカーテンと戯れていた。


「良かったね、窓際で。あったかいでしょ。風通りもいいし」


 「いや、あったかいっていうか、暑い」


 「寒いよりいいじゃない」


 ベッドに戻って他愛無い会話をする浩介は、優希が発病を知ってから初めて会いに来た時よりも痩せているように見えた。


 最初に浩介と無菌管理室で会った時、優希は浩介のそのあまりの変わりなさに拍子抜けし、そして救われた気がした。実感がないせいか、テレビや映画に影響されすぎていたせいか、いつの間にか悪い方にばかり想像が膨らんでいた優希の頭は、浩介の笑い顔に毒気を抜かれたように萎んでしまった。


「じゃあ、おばさんの骨髄と一致したんだ? 良かった」


「一致っていっても、一部だけだけど。それでも何とか移植は出来そうだって」


「いつ手術するの?」


「ここの病院じゃ無理らしいから、今度大きい大学病院に転院だって」


「そっか。手術、頑張ってね。また差し入れ持ってお見舞い来て上げるから」


「頑張るのは医者だけどね」


 浩介の骨髄と浩介の母親の骨髄が一致したのは、それはほとんど奇跡的なものだった。


 これから一体何があるか、どうなるかは分からなかったが、それでも優希は、浩介はすぐに良くなるだろうと思った。全く確証のないことだったけれど、優希は浩介が、テレビや映画のように悲劇的な最後を迎えるようには思えなかった。浩介は優希の前で笑っていたし、今にも死んでしまいそうなほど衰弱しているようには見えない。


 きっと、このまま何事もなく、手術は無事に済んで、来年か再来年には浩介は学校に行けるようになって、優希も浩介と普通に会ったり遊んだり出来るようになるのだろう。


「千羽鶴、いっぱい増えたね」


 ふと目をやると、浩介のベッドの端には、小さな千羽鶴が山のように連なって下がっていた。


「うん、この辺が同じクラスの友達からで、こっちの辺のが部活関係かな」


「陸上部の?」


「うん、入院する時まで普通に練習してたからみんなびっくりしたと思うけど。冬の駅伝に向けて練習始めたところだったし」


 それまで明るかった浩介の声も、その時だけは少し暗かった。


 浩介は中学までは剣道をやっていたが、中学に入ってからはずっと陸上一本で頑張っていた。中距離ランナーとして、あと一歩で全国大会にも出場出来たほどの実力だったという。


「浩ちゃん、速かったって言ってたもんね」


「全国には行けなかったけどな」


「でももうちょっとだったんでしょ?」


「あと0.5秒足りなかった」


 その話は、浩介の父親からも母親からも、浩介自身からも聞いていたことだ。浩介の家は三人家族だから、きっと家族総出で悔しがったのだろう。


「でも、どうせ病気になるんだったら、行けなかった方が良かったのかもしれない。もし全国に行けてたら……多分、諦め切れなかっただろうし」


 そう言って千羽鶴に目をやる浩介に、優希は一体何と言えばいいのか分からなかった。


 もし全国に行けていたとしたら、多分今頃は大会に向けて猛特訓をしていたことだろう。その練習中に、全国への切符を握ったまま病院に閉じ込められていたとしたら、きっと浩介の今の笑顔はなかっただろう。かといって、「行けなくて良かったね」とも言えるはずがなくて、優希はただ、黙って浩介を見ていた。


「……走りたい?」


 ふと何気なくそう聞いてしまって、優希は慌てて口をつぐんだ。言ってはいけない禁句のような気がした。だが浩介は、何事もなかったように淡々と答えた。


「うん、走りたいよ。ずっと寝てばっかりだから、もう大分筋肉が落ちてきてる。その内、もう走れなくなるかもしれない。でも、治ったらまた走れるし、今はそんなに気にしてない。それよりも人生設計が狂っちゃった方が嫌かな」


「人生設計?」


「俺今高三だから、今年受験だったろ? でも病気になっちゃったから、一年留年しなきゃ駄目なんだ。本当なら今頃受験勉強してたはずなのに」


 いつもは優希よりよほど大人っぽい浩介が、子供のようにふてくされているのが何だかおかしかった。


「私、受験勉強って全然してなかった気がする。浩ちゃんはどこの大学に行きたかったの?」


「医学療法士になりたかったから、そっち系の大学。俺入院したての時、まだ受験する気まんまんだったから、勉強道具とか全部持ってきてたんだ。なのに、思ってたより入院長引きそうだからってことで、親と相談して今年受験するの諦めたんだ」


「そうだったの?」


白血病と聞いて、優希はすぐに悲劇を想像してしまったのに、当の浩介の方は、そんなこと微塵も考えていない様子で人生設計について真剣に考えていたということに、優希は驚いていた。


 けれど、だからなんだ、と思った。


 病気になってもずっと前向きに歩いているから、浩介は病室のベッドの上ででも笑っていられるのだ。浩介自身が、病気になってもずっと前向きに歩いていてくれるから、優希も笑うことができるのだ。


「そっか」


ありがとう、と優希は心の中で呟いた。




  窓から入り込む日差しの色が少しずつ色を変え始めたころ、それと一緒になって入り込む風も、少しずつ冷たさを増していた。


「ちょっと風が出てきたね。窓、閉めようか?」


 優希が立ち上がって浩介に言うと、浩介は首を横に振って言った。


「いいよ、まだ暑いから開けといて」


「大丈夫?」


「後で看護婦さんに閉めてもらうから」


「じゃあ開けとくね」


 優希がまた椅子に座ると、それと同時に窓から入ってきた少し強めの風が、ベッドの周りのカーテンを揺らし、木々の枝の擦れる音を二人の耳元まで運んできた。


「いい風が入ってくるね。ちょっと気持ちいいかも」


「……時々さ、風が吹いてる時に目をつぶってると、本当に走ってるみたいに感じることがあるんだ。風を切って走ってるみたいに。そういう時の風は、本当に気持ちいいって思うよ」


 そう行って目を閉じる浩介は、これから大事な試合に挑む世界陸上の選手のようだった。中学生の頃からずっと前だけを見て走り続けてきた浩介には、走っている時の風と一緒に、そこからグラウンドに響く歓声の声までも聞こえてくるのかもしれない。


「走ってる時にさ、風を切って走るのも好きだけど、一番好きなのは後ろから吹いてくる風なんだ。体がぐんて前に押し出されて、いつもよりずっと速く走れる」


 そんな風を受けて走る浩介は、きっと誰よりも速かっただろう。どこまでも、前だけを見て走って行けただろう。


 今の浩介も、風のようにただ前だけを見て走っている。


「すぐにまた、走れるようになるよ」


 浩介の病気が治ったら、一度浩介の走っている姿が見てみたかった。風に背を押され、前だけを見て走っている浩介を、優希はとても綺麗だと思うだろう。


「うん」


 柔らかい風が、優希や浩介や日に焼けたカーテンのそばで遊んでいた。その入り込む風が気持ちよくて、しばらく二人で、何も喋らずにただ肌でその風を感じていた。


「走ってる時の風が、一番好きだ」


 そう呟いた浩介の声が、風の音に混じって優希の耳元に届いた。



* * * * * *



 バスの動くエンジンに合わせて小刻みに揺れる振動が、窓の縁についた肘越しに伝わってくる。バスの発車を知らせる高い笛の音が、音楽で蓋をした優希の耳にも微かに届き、それと同時にバスはゆっくりと走り出した。


 バスが少しずつ速さを増せば、それに合わせて、少しだけ開けた窓の隙間から、排気の混じった生ぬるい風が入り込んでくる。優希は窓の外に向けていた目を閉じて、頬や耳元で戯れる少しガス臭いその風を感じていた。


 最後に浩介に会った日も、風は今日と同じように吹いていた。だけどあの時の風は、こんなにガス臭くなかったような気がする。


 あれから浩介には会っていない。


 あの後、浩介は移植手術のできる大きな付属病院に移り、移植手術は無事に行われたのだということを、母から聞いた。けれど、今朝母から知らされたのは、浩介の病気が完治して退院したということでもなく、術後の経過は順調だという知らせでもなかった。


 それは、医療ミスと呼ぶにはあまりにも些細なことだった。けれど、その結果浩介の身に起こった被害は甚大だった。


 四月採用の新米看護婦が、浩介に与えられるはずだった点滴を、うっかり他の廃棄物と混同してしまい、結局その点滴が浩介に投与されたのは、本来与えられるはずだった時間より、大分遅くなってからのことだったという。


 たった、それだけ。


 点滴の投与が遅れたことで、その隙を狙った細菌に、浩介の脳は汚染されてしまった。侵されたのは、脳の中でも記憶を司る部位で、浩介は今、ついさっき飲んだりんごジュースの味さえも、思い出せないのだという。


 母から転送されてきた、その事実を知らせる悲しいメールは、浩介の父が優希の母宛に送ったものだった。


「浩介がかわいそうでなりません。出来ることなら、代わってやりたいです。」


 そう締めくくられた分面の向こうで、あの優しい叔父が泣いている姿が、優希の目の裏に浮かんだ。


 自分は何をしているんだろう、と優希は思った。


 優希は今、いつも通りに起きて、ご飯を食べて、そしてバスに乗って大学に行って、授業を受けて、そしてまた今日と同じ明日を過ごすのだ。今の優希に出来ることなど、何もなかった。それが優希にはひどく歯痒くて、切なかった。


 何も答えが見つからないまま、優希を乗せたバスは大学のバス停に着いた。優希はわざとゆっくりと、聞いていたMDの電源を切ってから、一番最後にバスを降りた。


 バスを降りた途端、風が優希のそばを通り抜け、優希の短い髪を乱して消えた。




 走ってる時の風が、一番好きだ。




 そう呟いた浩介の声が、今も聞こえたような気がした。




 走ってる時にさ、風を切って走るのも好きだけど、一番好きなのは後ろから吹いてくる風なんだ。体がぐんて前に押し出されて、いつもよりずっと速く走れる。




 浩介は、まだ覚えているだろうか。走っている時の、ただ前だけを見つめて走るその風のことを。前だけを向いていた、自分のことを。




 ありがとう。




 そう心の中で呟いたのは、優希だった。




 優希の後ろで、バスが苛立ったような不快な音を立ててその口を閉め、ガスの臭いだけを残して坂の向こうに消えていった。バスを降りた学生たちは、散り散りにそれぞれの教室へと急いでいる。そんな学生たちの波の後ろで、優希はじっと立ったまま、せかせかと歩く学生たちを見ていた。


 学生が一人もいなくなり、その場には優希だけが立っていた。風が向きを変え、優希の後ろから、優希を前へ押し出すように吹いていた。


 浩介は、病気になってからでも、ずっと前向きに歩いていた。そして笑っていた。そして優希も、笑うことが出来た。ならば今度は、優希が歩き出す番なのかもしれない。


 もしかしたら、浩介は優希のこともすっかり忘れてしまっているのかもしれない。もしそうだったなら、笑って「初めまして」と言えるようでいたい。そして浩介にも、ずっと笑っていてもらいたい。


 優希は、誰もいなくなったバス停で、カバンから携帯を取り出して浩介宛にメールを打った。それを、前に浩介から教えてもらったパソコン用のメールアドレスに送信すると、それを待っていたように授業開始のベルが鳴り始めた。


 優希は携帯を手に持ったまま、走り出した。後ろからは、風が優希を押し出すように吹いている。




『浩ちゃん。今日は、風がすごく気持ちいいよ。いつもよりずっと、早く走れるような気がするよ』




 浩介の風になりたい。浩介が前だけを見て走れるように。いつか浩介が、本当に風を描いて走れるように。


 浩介はきっと、今はまた無菌管理室にいるだろうから、窓を開けることなどないだろう。それでも、きっといつか、浩介のところにも風は届く。そう思ったから、その日までずっと、優希は前だけを向いて、走っていきたかった。




『また、会いに行くね』




 今日の風が空に溶けてしまう前に、私の風が浩介のところまで届きますように。そう願いながら、優希は、今度は何を差し入れに持っていこうか、走りながら考えていた。




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