戦場に浮かぶ月
戦場に登る月は血のように紅い。
幾多の戦場を駆け抜けてきたはずの彼の上官が、昔ぽつりとそう言っていたのをふと思い出した。
しかしその日彼が見上げていた月は、青く鈍い色をしていた。
そのことに、彼は軽く安堵する。
小高い丘の上から見る景色は、遠い故郷のそれと違い閑散としている。
痛々しい戦場を慰めるような優しい風が、彼の足下の草を揺らした。
その優しい風に責められているような気がして、思わず自嘲気味な笑みが浮かんだ。
野営の為に臨時に張られた簡素なテントでは、長旅と喧騒に疲れ果てた同胞たちが悲痛な感情を持て余し、重苦しい雰囲気で満ちていた。
そこにいるのはただ苦痛にしかならなくて、彼一人そっと抜け出して、今はただ流れるままの風に身を任せている。
その感覚が冷えた躯の奥底にまで染み渡り、心地良かった。
ここに来るまでに、一体どれほどの街を超え、どれほどの骸を跨いできたのだろう。
どこに行ってもただ目を塞ぎたくなるような情景に、初めは疲れて泥のように眠っていた彼も、次第に夜目を閉じることが出来なくなっていった。
それがひどい徒労感となって、昼間の彼を容赦なく襲う。
皆同じなのだと、彼は思う。
今戦いの最前線に送り込まれようとしているのは、まだ戦経験の無い若い戦士たちで、国を出立する時には、ここで名を上げてやると息巻いていた者たちばかりだった。
その同胞たちも、幾重にも見せ付けられる現実に、いつしか打ちひしがれていた。
誰もが国を思い、夢を抱き、家族の誇りを胸に、ここまで来たというのに。
おい、といきなり声を掛けられて、彼は一瞬敵の姿を思い浮かべる。
けれど眼をやった先にいたのは敵ではなく、彼と同じように埃くさい軍服を着た一人の男だった。
何をしている、眠れないのか、と、男は彼に続けざまに問う。
その男の顔には、見覚えがあった。
月を、見ているんです。
彼がそう言うと、男はどこか淀んだその眼を天上の月に投げた。
男の暗い影を背負ったような瞳の奥に、丸い月が映っていた。
国に、妻と子どもを残してきた。
本当に唐突に、男は言った。
だから、帰らねばならないんだ。
ただ自分に言い聞かせているようなその口調に、彼は返す言葉が見つからない。
今夜の月は、紅いな……。
男の声が、彼を取り巻いた風の中に消えて行く。
その声は聞き覚えのある声で、それは先日、怪我が元で殉職した彼の上官のものだった。
死の直前に、散らばっていた同士の腕に頬ずりし、しきりに妻の名前を呼んでいた。
朧げな青い月を見上げ、そして男のいた方に視線を戻しても、もう男の姿はどこにも見当たらない。
風が運んできた一瞬の幻か、月の光が作り出した妖しか。
それとも、月夜に浮かぶ、己の狂気の現われか――。
己を照らす月が、一瞬血の色に輝いたような気がして、彼は全身の毛を逆立てた。