カレー大好き桜子さん――渋谷 東急百貨店前のカレー
その日はあいにくの雨だった。
ワイパーがゆっくりと左右に動き、フロントガラスを拭っている。渋谷のスクランブル交差点には、この悪天候でも相変わらず人が多い。傘を広げて渡る人々を、扇桜子は宮益坂の高架下から眺めていた。
ステアリングの身体を預け、物憂げな瞳で空を見上げる。
「(雨かぁ……)」
ガラス越しに、水滴が垂れていく。どんよりとした空模様は、そのまま桜子の心にも投影された。
扇桜子は、メイドである。運転手も兼ねている。今日は、赤坂見附に主人を送った、その帰りであった。
このまま、三軒茶屋まで帰っても良い。本来ならば、少し渋谷をぶらつく予定であったのだが、この雨ではその気持ちも半減だ。
「(良いや、歩いちゃお)」
信号がぱっと、青になる。桜子はサイドブレーキを戻し、クラッチを踏んだ。
白塗りのセダンを、井の頭通りに入れる。慣れた手つきで、カーナビもなしに立体駐車場へと入っていった。桜子は基本、カーナビを使わない。
傘を取り、車を降り、鍵をかけて地上に降りる。メイド服の裾が、水たまりで濡れないように注意しながら、桜子は先ほどまで自分が眺めていた、たくさんの傘の中のひとつとなった。
特に目的があったわけではない。井の頭通りから文化村通りへ。そのまま、松涛美術館でも見に行こうかと、ぶらぶら雨の渋谷を歩く。
そんな時だ。
ふっ、と桜子の鼻に、香ばしいスパイスの匂いが届いた。
「あっ」
と、思わず声に出る。ビニール傘の柄を掴む手に、力が入った。
これは、カレーだ。カレー屋が近くにあるのだ。
くう、と、お腹がみっともない音をたてる。扇桜子、カレーには目がない。すきっ腹ともなればなおさらだ。
「(インドカレーじゃない……。欧州カレー……)」
形の良い顎に手をやって、真剣な顔で思案する。
ちょうど腹が減っていて、カレーの匂いが届く。これはもはや、天の啓示に他ならないだろう。この大雨の中、わざわざ歩きにくいメイド服でも、なんとなく車を停めたくなってしまったのも、おそらくターメリックの導きに違いないのだ。
桜子はきょろきょろと周囲に視線をやった。
右手には東急百貨店。少し前に進むと、松濤郵便局前と書かれた交差点がある。
「あ、えーっと……。欧風と、ホットをひとつずつ、持ち帰りで」
その声にふっ、と、視線を向ける。すると、そこにはショーケースの中、バスケットに積まれた大量のカレーパンと、その前で傘をさすサラリーマンの姿があった。
ここだ。ここが芳香の発信源だ。店の中には椅子と机がならび、厨房からは先ほど桜子が感じ取ったものと、まったく同じ匂いが漂ってきている。
ここにしよう。
桜子は頷き、店に入る決心をした。ビニール傘を畳む際、強い雨粒が少しだけ栗色の毛を濡らした。
「いらっしゃいませー」
こじんまりとしているが清潔な店内で、女性店員が元気な声で言う。
桜子は、奥のカウンター席に案内され、メニューを眺めた。思っていたよりも、カレーの種類は豊かである。
だが、彼女の見たところ、ベースとなる味は2種類。すなわち、〝カリー〟と〝欧風カリー〟だ。ここに〝キーマカリ―〟をくわえた3種類が、おそらくこの店でもっともプレーンなカレーとなる。
「(雨の日はカツカリーが800円……!)」
メニューの写真は、すきっ腹の桜子を垂涎させる。
カレーをカリーと銘打つのは、インドカレーよりも欧風カレーに多い印象がある。この店も、その例には漏れていない。インドのカレーは、そもそもカレーと言わないからだろうか。
ああ、しかしなんと悩ましい。腹が減っている時こそ、メニューの豊富さを恨めしく感じるのは、ままある話なのだ。だが、食べるならば、〝カリー〟〝欧風カリー〟〝キーマカリー〟のどれかだろう。しかし、カツカリーも捨てがたい。今の自分には、どっしりと腹にたまるものは必要だ。
「(オムカリー……。ほうれんそうとモッツァレラチーズのカリー……。くうっ……!)」
桜子はじっとメニューを眺め、しかしかぶりを振る。
悩んでいてはダメだ。もっともプレーンな3種類のカレーのどれかを食べると、決めたではないか。
「(はっ……!)」
しかしそこで桜子は、禁断の選択肢にたどり着いてしまう。
「(ダブルカリー……! こんなのもあるんだ!)」
カレー皿の中央にライスがあり、その左右を2種類のカレーで固めたお得なカレーである。しかも、このカレー、〝カリー〟〝欧風〟〝キーマ〟の中から、2つを自由に選択できるという!
「ダブルカリー、これで決まりだ……」
桜子はハードボイルドに決め、さらにちらりとメニューを見た。カツレツもトッピングしよう。300円だ。
「(ダブルカツカリー! なんて贅沢なの!)」
カツレツを頼む以上、おのずから選択肢は限られる。カツレツの厚みは、キーマには合わないだろう。カツカレーのカツは、しっとりとしたカレールーに絡めて食べてこそ至高である。
ならば、ダブルカリーのルーは〝カリー〟と〝欧風カリー〟以外にありえない!
「すいません! 注文お願いします!」
桜子は手を挙げ、店員を呼んだ。
ライスは大盛り無料なので大盛りにしてもらい、十穀米と白米を選べるが、ここは無難に白米にしてもらう。自信を持ったマイベストチョイスを店員に告げ、穏やか気持ちで注文したカレーが届くのを待つ。
ほどなくして、桜子の空っぽの胃袋を苛む殺人的な芳香と共に、一枚のカレー皿が彼女のもとへと運ばれてきた。
「(これが……! この店のカレー……いや、〝カリー〟!!)」
桜子は目を輝かせて、皿の中を覗き込んだ。
〝カリー〟は、実にシンプルな太陽色のルーだ。具は比較的小ぶりで、ごろっとした鳥胸肉がひとつ、入っている。おそらくこちらは、ほとんど純粋なスパイスの味だけで勝負をしにきているカレーだろう。
一方、〝欧風カリー〟の方は、色が少し黒っぽい。メニューによればデミグラスソースがかかっているのだという。更に、投じられたバターが溶けて、黄色と黒の不思議なコントラストを演出している。まるで真夜中に浮かび上がった朧月だ。
そして! その二つのカレーを隔てる白米の大地の上に、大振りにざっくりと切られたカツレツが、ゴロゴロと転がっていたのである! こいつは冒涜的だ。これで美味しくないはずがないじゃない!
これだ! これがカレー、それもカツカレーだ!
カレートッピングの王道を行くカツカレー。決して外さない無敵のチョイスでありながら、しかも自分は、一度のふたつのルーを楽しむことができる! カレー好きとして、これ以上の至福があるだろうか!?
桜子は福神漬けを盛るのも忘れて、スプーンを手に取った。揉み上げのあたりからヒョロッと伸びた髪が、ルーに付着しないよう気を遣いながら、まずはご飯を、そしてルーをよそい、カツを乗っけて、口に運ぶ。
さくっ。
「ん~~~~っ!」
思わず声が出てしまうこの感動!
〝カリー〟の方は、意外とまろやかで甘い口当たりである。カレーらしさをしっかりと残しながら味の主張が控えめで、カツレツの持つ力強い味わいを阻害しない。
〝欧風カレー〟はコクが強く、辛味もしっかりと効いていた。この二種は、間違いなくこの店のメインウェポンだ。どちらが看板かといっても、実に甲乙がつけがたい。
やはりこの店はアタリだった。気の向くまま、雨の渋谷に繰り出したのは、間違いではなかったのだ。
また来よう。桜子は半分も食べぬうちに、次回の算段をたてつつあった。
気になるカレーはまだある。さしあたっては、やはりオムカリーだろうか? カツの主張が力強い今回の実食に比べ、さぞかし柔らかく、優しい時間を過ごせるに違いない。
うっとりとした心地でメニューを見ていた桜子だが、その時ふと、恐ろしいことに気付いてしまった。
メニューに描かれたオムカリーの説明文。そこには、〝欧風カリーがベースになっている〟と、書かれているではないか!
「(……しまった!)」
迂闊である。次回、オムカリーを頼むということは、ベーシックな味わいを持つ三種のカレーのうち、ひとつに手を伸ばさぬまま亜種を食すということになってしまう。如何にオムカリーが殺人的な美味さを持っていようと、桜子は今、欧風カリーを食べてしまっている。その新鮮味を100%味わうことは、桜子にはできなくなってしまったのだ!
もちろん、オムカリーは美味い。美味いに決まっている。既にベースとなる欧風カリーがこれだけ美味しかったのだ。ふんわりとしたオムレットが、どれだけのハーモニーを生み出すか、実に想像がかきたてられる。ああ、長らうべきか、死すべきか!
しかし、想像がかきたてられてしまうのだ! どうあがいても期待値が発生してしまう! 期待値が発生した以上、そこから先の感動は引き算でしかない!
もし、今回のダブルカリーで、キーマを頼んでいれば。
あるいは、〝カリー〟をベースにしたカツカリーを、雨の日サービスのついでで頼んでいれば。
これだけ悔しい思いをすることはなかったはずなのに!
桜子は、自らの間抜けさを呪った。カレーは美味しい。だが、美味しいがゆえに、目先のカツに踊らされた自分の心が許せない。カツが食べたいのなら、カツカリーを頼むべきだった! ダブルを頼むなら、より別の食感を楽しめるキーマを頼むべきで、そこにカツをトッピングするべきではなかったのだ!
トッピングを駆使した豪華な食べ方とは、その店のカレーの味を真に味わってこそ。桜子は怒りに燃えながらも、味蕾はしっかり機能して、計算しつくされたスパイスのブレンドが、彼女の脳内麻薬をドバドバと引き出していた。
「(味の新鮮味を保ったまま、オムカリーを食べる手段はないかしら……)」
桜子はもりもりとカレーを完食し、その後、軒先のショーケースに入ったカリーパンを10個買って帰った。
「ねぇ、桜子さん」
その夜、主人は食卓に並べられたカレー皿を眺めて、ぽつりと呟いた。
カレー皿の上には、ふんわりとした黄色い小山ができている。その上にはパセリが散らされて、その小山自体は、カレーの海に沈められていた。桜子謹製のオムカレーだ。渾身の出来である。
だが、それを眺める主人の顔は、あまり芳しいものではない。彼は、ちらりと卵の布団が沈められた、カレーの山をつっついた。ごろっとした挽肉の塊が、ばらばらと転がる。
「キーマカレーにオムレツは、あまり合わないんじゃないかと思うんだけど」
「はい。私もそんな気がしていました……」
あの店で、欧風カリーをベースにしたオムカリーを、100%新鮮な気持ちで食べることは、もうできない。
だから桜子は、まだ一回も食べたことのないキーマカリーにオムレットを載せるという奇策を思いついたのだ。
だが、そんなメニューは存在しない。キーマカリーにオムレットを載せたカレーは、存在しないのだ。
なければ作れば良いじゃない、というのが信条の桜子であるが、ここに問題点が2つほどあった。
1つは、桜子はあの店のキーマカリーを食べていないので、その味を再現できないこと。
そしてもうひとつは、そもそもキーマカレ―が、あんまりオムカレー向きではなかったということだ。
「はぁ……。後悔先に立たずって、本当ですねぇ……」
「先に悔やむ人はいないからね。とにかく、キーマカレーもオムレツも美味しそうなので、僕はちゃんと食べるよ。いただきます」
「めしあがれー」
主人は丁寧に手を合わせ、桜子の作ったオムキーマカリーにスプーンを伸ばした。
桜子の主人は、感情表現が少ない。いつも超然じみた態度で、飄々としている。だが桜子は、カレーをすくったスプーンを口に運んだ主人が、ぴたりと動きを止めたのを見て、このキーマの味付け自体は成功だったらしいと確信した。
今度、彼を例のカレー屋にでも連れて行こうか。そして、オムカリーを彼に食べてもらうのだ。彼の感じ取った新鮮な感動を観察することで、あれを食べた時のフレッシュな気持ちを、自分の心にコピーするのだ。
「一朗さま、明日、渋谷に行きませんか?」
「良いけど、どうして?」
「実は、一朗さまに食べていただきたいカレーがあってですね……」
「それ、カレーを食べながらする話かな」
主人はカレーをすくうスプーンをとめて、桜子にしかわからないような感情の起伏に、わずかな呆れを滲ませた。