軋む音がした。
締め切った館内、止まっていた空気が揺れる。冷たく響く足音が、やけに澄んでいて、どこか寂しくもあった。
「まだ、来ていたんだ?」
視線は本に落としたまま、声だけを入り口に掛ける。
「海斗が居るほうが不思議よ」
やれやれといった感じで応える秋美の声は、穏やかだった。
「もう、ずうっと、ここには来なかったじゃない」
差し込む西日、うっすらと舞う埃、佇む本の香り、捲るページの擦れる音。椅子を引き、正面に座った彼女からは、仄かに香水の匂いがした。
「……まぁ、海斗が来れなくなっちゃった理由は分かっているつもりだけど」
その声を聞いてから、パタンと本を閉じ、天窓を仰ぎ見た。
卒業生の建築士がデザインした図書館は、校舎から離れていて利用者はほとんど居なかった。無闇に高い本棚、不規則に配置された窓、照明と呼ぶには儚い蛍光灯。機能性に欠け、校舎からも離れているここを、多くの人は忘れ去ってしまったのだろう。
そんな、廃れた雰囲気が気に入っていた。
そして多分、そこに現れた彼女も。
「珍しいな、いつもは誰もいないのに」
西日の射す窓。木造の扉は、開け閉めの度に大そうな音を響かせる。
「やっぱり? 目立つのに足が向かないからね、ここ」
ドアを後手で閉めて、軽やかな歩調で近づいてくる。
「でも、好きだな、こんな雰囲気」
栗色の髪、軽くウェーブの掛った髪、上品に笑う口元、大人びた感じのする娘だった。
「天井が高くて、少し古びた朽ちていきそうな所とか?」
「そう、どっか懐古主義的で、しかも学校や日常から取り残されている感じが、更にね。……えっと?」
「? ああ、俺は、早瀬 海斗だ」
「新橋 秋美です。美しい秋で、あけみって読むの、珍しいでしょ?」
それが最初の出会いだった、けれど話す事はあまり無かったな。お互い、勝手に本を読んでいたから。
広い館内で、向かい合って座りながら……。
――ただ、本を読む時に見せる多彩な表情が、大人びた彼女とどこかギャップがあって、やけに印象的だった。
それなのに、今日はお喋りなのが、少し滑稽だった。黙っていても近くに感じていた頃と比べると、どこか二人違っていて。
「今、秋美が来れる理由が分からない」
俺が来られなくなったのは、彼女に恋人が居ると知ってから。
彼女の恋人が、ここに来るようになったから。
嫉妬出来るほどの絆は無かったけど、そういう相手が居てもここには来させないで欲しかった。いつもなら静寂を湛える館内から響いてくる笑い声、うんざりする。ノブへと伸ばした手は、躊躇の後で離れていき、俺は踵を返した。
その苛立ちは誰に向けたモノだったか。
裏切られた? そんなのは、お門違いも良い所。最初から二人は、ここにいる事でしか繋がっていなかった。名前以外の何も知らないし、知ろうとしない。
それで良かったのだから――、だからせめて、この場所だけは大事にしてほしかったんだ。
探せば落ち着ける場所なんて意外と在るもので、あの場所に拘る必要なんて無い。だけど、時計塔の小部屋に陣取った頃、人伝に聞いた秋美が別れたという事が、胸に引っかかった。
「海斗は、何で?」
頬杖をついた秋美、しっとりとした視線が俺を捉える。
「この場所が、元に戻ったのかと思ってな」
「それだけ?」
「何が見えてたのかを、思い出したくて」
そっけなく答える俺に、ちょっとふくれる秋美。
「私の事、少しは好きなのかなって思ってたけど」
「自惚れるなよ」
もし、あの頃の時間が続いていたなら、そうだったのかもしれない……。
でもそれは、起りはしなかった事。
「優しくないね」
曖昧な、少しの苦味を含んだ笑顔。
「それが、優しさの1つなんだ」
甘いのと、優しいのは違っている。
すごく弱い、曖昧な距離だから余計に。
簡単に誰かを好きになれたり、嫌いになれたりすれば、よっぽど楽だったのに……心なんて、理屈では動いてくれなくて。
差し込む日差しに誘われて、席を立つ。窓に触れると、鈍く軋む音がした。それに構わずに開け放つと、吹き込んできた風が世界を揺らす。
「開けたままにしようか……そうすれば、少なくとも風は通る」
今は、何も言えない。
それでも、良い気がした。
恋を受け入れる準備なんて、どちらにもありはしないのだから。
また、どこかで軋む音がした。
それは崩壊の予兆か、動き出した心の軋轢だったのか。
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