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天花粉の夜

作者: pinkmint

挿絵(By みてみん)

 

 雨宮カケルがその夜、公園の女子トイレにふらふらと侵入してしまったのは、焼酎を半ガロンほど飲んでいたからだけではない。

 野郎用のアサガオが臭くて嫌だったからでもない。

 男子トイレが停電していて怖く、そしてひたすら寒かったのだ。


 三月に入ったばかりの公園は静まり返り、コンクリ造りの便所のひさしの外はしょぼしょぼと霙まじりの細い雨に打たれていた。


 ここ半年ほどゴミ箱から拾ったものか落ちてるものしか食べていなかったこともあり、筋張った身体の肉も骨も冷え切っていた。ささくれ立った毛細血管の中を、安い酒で発酵した血がごうごうと巡っていて、真夏のアブラゼミの合唱のような轟音が内耳に反響している。

 青いビニールシートをかけた台車(生きるための一切合財を積んだお宝だ)をトイレの共有スペースに引き込んで、カケルは常夜灯で照らされた女子トイレの中を覗き込んだ。個室が三つ、堅牢なつくりで、ドアの下にほとんど隙間はなく上も頑丈な金網で覆われている。

 この公園のトイレはどこも個室が妙に広くて、しかも清潔なのだ。誰も来ないならここで一晩過ごすのも悪くない。静寂と轟音、体内の熱と皮膚表面の凍るような寒さ、ぐるぐる回る視界と鉄のように固く平坦な地面、その落差を埋められるまで。もしもこの身に朝が来ないなら、それでもいい。そう思った。


 トイレのスペース内に踏み込んで、カケルは一番左側のドアが閉じているのに気づいた。

 ロックサインは、赤。つまり使用中。

 今は午前一時だ。

 個室内はしんとして、何の音も気配もない。

 それでも誰かが使用しているという可能性もないではない。あるいはなにかの故障、何らかの方法で鍵を閉めたまま脱出したいたずらという線もある。

 いや、もしかしたら隣にいるのは夜中の客を待ち構えているスケベ野郎か。

 それならそれでおもしろい、何かおいたを仕掛けて来るなら一戦交えてやろうじゃないか。

 カケルは酒の勢いで気を大きくしたまま、とりあえず隣の個室に入って、洋式便器に勢いよく放尿した。とはいってもたいした量は出ない、不健康そのもののコーラ色の尿だ。

 さあどうだ、生きのいい餌食だぞ。顔が見たいだろう。

 それから水を流し、隣の様子を窺った。

 個室を隔てる壁は高く、上部にも隙間はほとんどない。こちらからも相手の顔は確認できない。もしかしたら、ここにいる誰かがここから出てくるのを待って襲い掛かるつもりか。


 そのとき、がさごそ、と隣から音がした。

 ごそり、がさり。ばさばさ。

 例えて言うなら、菓子袋を開けているような、コンビニ袋に手を突っ込んでいるような。

 ぱりぱり。

 これは、あれだ、アルミシートに入っているチョコを出す時の音に似ている。

 こぽこぽ。かすかに液体の揺れる音。


 ペットボトルか?

 何か飲んでいる?


 全ての音が止んだ。


 静寂が訪れた。聞こえるのは、壁の高い位置にうがたれた細い窓から入ってくる小雨の音と、そして、

 かこんかこん。ぽろんぽろろん。ちんころん。

 竹が竹を、木が木を、鉄が鉄を密かに打ちながら奏でる、森の呟きのような音だ。


 その様子だと、用を足しに入ったんじゃないな。何があったか知らないが、あんたもここで一晩籠城するのかい? お隣さん。

 この寒い夜に、この空間に、あんたと俺と、ただ、二人だ。それが、俺の音楽の、多分人生最後の観客のすべてだ。

 ああ、眠い、もう限界だ。

 このまま俺は眠るかもしれない、隣りは出てゆくかもしれない。何も言葉を交わさないまま。

 ひと言聞きたい。外の音をどう思う。この夜をどう思う。飲んでいるのは酒か。ひとりより二人で飲みたくないか。世界はあんたにとってどんな場所だった。カケルは半眼を閉じたまま心の中でひそひそと呼びかけ続けた。もう洋式便器に座ってすらいなかった。足を踏ん張って体を支えることができず、広い個室の床に座り、壁に寄りかかったまま足を投げ出していた。そのとき、


 くしゃん。


 となりから、小さなくしゃみが聞こえた。


 可愛いくしゃみだ。明らかに女の、それも若い女の子のくしゃみだ。

 その一発で、暗い渦巻き模様の中に消えかけていたカケルの意識がふうっと引き戻された。

「……さむ」

 声を出してから、自分が声を出したことに気づいた。

「寒いよね」

 答えはない。これじゃ独り言だ。第一、男だとばれてしまった。

「あのさ、大丈夫?」

 安い焼酎が凍えた舌を滑らかにしていた。やはり、返事はない。

 ごそごそ、と音がして、隣りの人物が身じろぎするのがわかった。もしかして、出ていくのか?

 そのとき、小さな声が言った。


「……なにが、ですか」


 思っていたよりずっと落ち着いていて、そしてなんというか、可憐としか言いようのない声だった。冬の夜、木の芽を探して親鹿とはぐれたバンビみたいな。雨の音と、からんぽろんに紛れて消えてしまいそうな。

 どぎまぎしながら、冷静を装ってカケルは言った。

「なにがって、寒いし、ずっとそこだし、出られないぐらいなんか、具合悪いのかと」

「だいじょぶです」

 消え入るような声は言った。少し震えている。

 そりゃそうだ。真夜中の一時過ぎ、女子トイレの個室から男の声で話しかけられるなんて、それだけで十分な恐怖だ。

「あなたも、なんでそこにいるんですか」

 丁度いいことを聞いてくれた。カケルは渡りに船と、呂律の回らない舌で答えた。

「男子トイレ、停電してんだろ。で、寒いし、怖いし、我慢できなかったし。怖がりなの、俺」

「……」

「酒飲みすぎて身動き取れないし、今夜の宿もないんだ。で、屋根のある場所としてはとりあえずここかなって。時間も時間だしからっぽだと思ったんだ。そしたら先客がいた。悪いね。怖がらせたかな」

「……少し」

「俺も怖かったよ、痴漢だったらどうしようって」

 小さな笑い声が聞こえた。やった、とカケルは思った。

 にしても、なんてことだ。こんな若い女の子とこんな近くで口をきくなんて、何年ぶりだ。人生のほぼ最後で、俺は少しだけついてるぞ。

「あの音、聞こえる?」

 少しだけ勇気を出して、カケルは聞いた。女の子は少し黙ってから、答えた。

「からんぽろん?」

「そう、それ」

「……うん。何の音?」

「何だと思う?」

「さあ。わたし、あの音を追いかけて、ここまで来たの」


 聞いた途端、カケルは全身をぶるっと震わせた。そして次に、両手で額付近を覆っていた。

 ……まじか、神様。


「暗くて、何が鳴っているのかわからなかった。池のほうからずっと続いてて、木の上から聞こえてくる、それはわかった。でも見えなくて、風鈴にしては風がないのに鳴ってるし、公園のあちこちから聞こえるから、何だろうと思って、音を追って歩いているうちにここへ……」

「……ありがとう」

「なにが?」

「あれ、俺が作ったんだ」

 一瞬息を飲むような気配があった。

「うそ」

「嬉しいな」

「うそ」

「信じらんないぐらい、いい音だった?」

「ほんとに作ったの? 何で作ったの?」

「木とか竹とか炭とか金属とか、何本も音の鳴るパーツをぶら下げて、あるいは円形に並べて、打楽器部分と組み合わせて電池で回してる。上に傘がついてて、昔の電灯みたいな形をしてるんだ」

「全部を、あなたが? いつ作ったの?」

「あちこちの公園ぐるぐるして暮らしてる間、……まあ二年弱の間ぐらいかな。そこらで手に入れた材料でひとつひとつ手作りしてた」

「ここ、ときどき通るけど、みたことないわ」

「そりゃ、勝手にゴミぶら下げたら撤去されるから。大事にとっといた。

 あれは電池で回さないと動かない。でも路上暮らしだから電池を買う金がなかったんだ。手に入れたと思ったら酒に化けちまう。で、期限決めた。今年の三月までにやるって。

 日が暮れてから一気に全三十個をぶら下げ行脚して、電池入れ終ったのが、さっき」

「……」

「酒飲みながらやってたんだけど、かえって凍えちまった。最初の観客が、あんたかな」

「いまも飲んでるの?」

「飲んでるよ。ここひと月ぐらいはもう酒だけで暮らしてるかなあ」

「浮浪者さんなの? なんだか、声が若いけど」

「まだ三十前だからね」カケルは笑った。

「あと少し酒も残ってる。飲んでる間は、神様がなにもかも許してくれる。そんな気分にさせてくれるから俺はこいつと離れられなかった。

 そっちにもアルコールがあるなら、一緒に飲まないか。俺もきみを止めない、きみも俺を止めない。付き合ってくれるなら、なんでも答えるよ」

「リービング・ラスベガスみたいに?」

 冷えた胸を嬉しい驚きが駆け抜けた。

「見たんだ、あの映画」

「ニコラス・ケイジが好きなの。相手役が確か……」

「エリザベス・シュー」

「そうそう。飲んで飲んで、お酒で死ぬためにラスベガスに来た脚本家のベンと、言いつけを守ってお酒を止めないで、その死までを見守る娼婦セーラの話。たしかそうよね」

「あれについて話すと、みんな〝暗え″しか言わない」

「わたしも、人に勧めても観てもらえなかった。ホームシアターで、一人で泣きながら何度も観たわ」

「こんな話ができる相手に巡り合えたのが、深夜の女子便所とはね」

 二人それぞれの酒を手に、ひっそりと笑いあった。

「名前……」

 いいかけて、カケルはやめた。

「いや、やめよう。こうしよう。俺達は顔を見ない。顔を見ずに、時間をずらしてここを出て行く。だから今はほんとのことを、ほんとの言葉で話そう。今だけは」

「……生きて、出て行けるかな」

「いいね、そういうの。二人でトイレの謎の死体になるのも」

 からんぽろん。ころんころん。零れるような音が、微かに流れ続けている。いいBGMだ。

 しばらく二人は黙っていた。そして女の子のほうから、口を開いた。

「ビーって呼んで」

「ビー?」

「なにかになりたかった。それかビー玉のビー。蜂のビーでもいい」

「俺はルーでいいよ」

「本名? じゃないよね」

「の一部」

 隣でプルトップを引き抜く音がした。

「何飲んでるの」

「ビールと缶チューハイ。どっちもつめたい」ビーは笑った。

「でもふわふわの大きなストールまとってるし、カイロもあるから平気。そっちは?」

「長年の浮浪者暮らしだから防寒はばっちり」

「聞いていい? どうしてその歳で浮浪者暮らしなの」

「いいよ。どうしてというと、多分弟のせいということになる。

 でも誰かを恨むためや言い訳するために言うんじゃない。こんなことひとに話すのも初めてだ。だからここからは自由に一方的に喋るよ」

「どうぞ、自由に一方的に喋って」

 カケルはまたでかいボトルを逆さに向けて酒を飲んだ。

「弟といっても双子の弟だ。名前は……ま、いいか。

 見てくれがよくて才能が豊かで、気まぐれでプライドの高い奴だった。つまり親に愛されやすくかつ、やっかいなタイプさ。

 小学校の頃は二人そろって相当優秀だった。天才肌、とかいわれて親は難関中学受験を決めたんだ。で、俺は大して手がかからず、自分でこつこつ勉強して第一志望に合格した。要領がよかったしね。まあ、独立独歩体質かな。

 でもあいつは努力が苦手なタイプだった。型にはめられたことを押し付けられるのが何より嫌いで、でも兄ちゃんにできることはぼくにもできるって頑張るわけ。

 結局俺の入ったとこは無理だった。そうとう落ち込んで、あいつとしては不本意な私立に進んだ。どんな慰めの言葉も全部逆効果になった。俺達の会話は全部がぎこちなくなった。そして小学校まで一緒に遊んでた俺たちに、冷たい距離が開いたんだ。

 中二からいじめにあいはじめて、あいつは絵にかいたようなひきこもりになっていった。進学した先を馬鹿にしてたし、あんなバカどもに苛められるのは我慢ならないって。で、中学三年のころから家の中で暴れ始めた。

 壁殴ってボコボコ穴開けたり、夜中に母親起こしてうどんつくらせたり、親父の金くすねて叱られるとあたりのもの投げつけたり。電波が家族を毒してるとか言って夜中に屋根に上ってアンテナ折っちまったり」

「あなたには、なにもしなかったの?」ビーが口を挿んだ。

「俺には向かってこないんだ。暴れてるのを止めに入ると、壁とか殴りつけて拳を血だらけにして部屋に逃げ込んじまう。

 ……小さい頃はすごく仲がよかったし、何でも一緒にした。

 あいつはそこらのガラクタで楽器を作るのが上手くて、こっちは鳴らして歌うほう。あいつは絵が、俺は文章が上手かった。それで二人で絵本つくったりしてた。親の誕生日に紙芝居作って演じたら、すごく受けてたな。おやじもおふくろも喜んで拍手してくれた。ペンギン海へ帰る、っていうの。

 あれが一番平和で幸せだったころだと思う。


 あいつは引きこもりのまま十八になって、俺は第一志望の国立大学に入った。

 明暗はいよいよはっきりしてきた。あいつの部屋に金づちとか刃物が増えていった。

 両親は自分たちが悪いとしきりにいってた、双子だからって同じことを求めすぎたって。

 でも同じところに行く、頑張るって言ってたのも、あいつなんだ。そして必ず一緒に学校通おうなって言ったのは俺だ。

 親父が定年を迎えたとき、おふくろは言った。あんた家出なさい、このままじゃ危ない。家を離れて安全に暮らしなさいって。

 俺は逆に言ったの。いや、二人とも家出ろよって。家ごとあいつにくれてやって、退職金持って遠い土地で地味に暮らせばいい。一緒に生まれてきたんだから、あとは引き受けるって」

 風が吹いて、氷のような冷気が高窓から入ってきた。

「両親は涙を流しながら出ていった。

 あとにはあいつと俺が残った。残してくれた金は俺の学費と、最低限の食費程度。俺がそれでいいって言った。

 奨学金貰ってどうにか大学出て、教授の紹介でとある出版社に地味に就職したころ、あいつは人格が崩壊しかけてた。毎日変ながらくた作ってたたいて音出したり歌うたったり。それこそ金づちや麺棒やアンテナでね。そして、家を出た両親への怒りをたぎらせていった。

 そのうち、俺の金で食いながら、犯罪犯して親に顔出させてやるって言い出したんだ。それこそ街に出て女を襲ってやるだの、銀行強盗するだの、通り魔するだの。

 で、俺いったんだ。

 わかった、犯罪者になるならなれ、じゃあ俺は仕事辞めて浮浪者になるよって」

「……」

「浮浪者からは奪えるものなんか何もないだろ。

 家も、今ある少しの金もお前にやる。俺はお前から何かの運を奪ってたのかもしれない。悪かった。家を出て俺も独りぼっちになるから許してくれ。双子じゃなく、ひとりとひとりになろう。そう言ったんだ」

「それが、いつ?」

「いまから二年前。で、ぽかんとしてるあいつを置いて家を出た。

 あいつ精神的にもおかしくなってたし、あいつが一人で生きていけないことはわかってた。でも、犯罪を犯すぐらいの根性があれば生き延びられる。俺はむしろそっちに賭けたんだ」

「……すごいね」

「すごいじゃなくて、ひどいだろ」

「ほんとうに浮浪者になったのが」

 カケルはため息まじりに笑うと、続けた。

「俺は親じゃないからあいつが犯罪犯しても世間に土下座はしない。でもあいつが何かしたら自分の中のなにかも同じ分、罪を帯びるとは思った。そして、それは引き受けようとは思ってた。それからは贖罪の人生になるだろうと。

 家を出て半年後、廃品回収で生きる方法も分かってテリトリーも決まったころ、俺そっと家に戻って様子見たんだよ」

「……うん」ひっそりとビーは言った。

「そしたら、どうだった?」


「家は炭の廃墟になってたよ。近所の人の話でわかったのは、二週間前、火災を起こしたってことだ。くわしいことはわからない」


 言ってから、最後の酒をあおった。


「両親の居所は依然として知れなかった。出てきたという遺体は炭化して、身元を確かめようもなかったそうだ。だから俺は思った。きっと空き家になったあの家に図々しく入り込んだ浮浪者の遺体か何かだと。あいつはどこかで生きてる、好きなものを作りつづけながら、どこかのどかな田舎で……

 俺は夜中に火事現場に戻って、庭の一隅を掘った。昔俺とあいつが宝物を埋めてた大事な場所。ガラクタばかりだけど、ちゃんと残ってた。楽器の小さい奴もね。新しく埋められたらしいものもあった。ほんのちょっとだけど、みんな持ち帰った」

 カケルは空になったボトルを床に転がし、足で蹴った。

「……わかってたんだ。あいつには犯罪なんかできないって。

 出来るのなんて自滅ぐらいだ。

 昔はあいつのことがほんとによくわかってた、そのころのことを思い出せば確かなことなのに。

 あいつきっと、俺ともっと話がしたかったんだと思う。昔みたいな遊びしたり、音の出るもの一緒に作るんでもいいし、いろいろ……」

 からころからころ。風がまた吹いて、軽やかな音が入ってきた。

「……俺にもできることはあったんだ。言いたいことがあるなら、聞いてやればよかった。

 俺は、冷たかった。多分、あいつを見ていたくなかったんだ。

 それからずっと、彼の作ったものを進化させて、自然の材料を手に入れて、その先を作ってた、俺の中のあいつと一緒に。

 あいつはさすがだったよ。それじゃなくてこの枝を使う、とか、ちゃんと俺の手を取って選ばせてくれるんだ。音はどんどん柔らかくなっていった。小学生のころ作ったやつみたいに」


 弱りきった胃の腑から、酸っぱい熱塊が逆に上がってくる。それを無理に飲み下すと、吐き気が上がってきた。それをこらえてカケルは言った。


「俺の話はこれで終わり」


 鼻をすする音がした。

 寒いの、と聞こうとして、カケルはあえてやめた。


「……きれいだった。綺麗な音だった。夢の国を歩いてるみたいに」ぽつりとビーは言った。

「……まじで?」

「わたし、音を追って歩いてる間、目を閉じてた。それでも、歩けた。音が、こっちだよこっちだよって言ってくれたから。歩きながら、泣いてた。

 色々悲しいことがあった後で、音は、とても優しくて、

 ……とてもとても、とっても、優しかった」


 ……ああ。

 綺麗な声だ。優しい言葉だ。理想的な答えだ。俺はもう半分あっちの世界にいるのかもしれない、それならそれでいいとカケルは思った。いい塩梅だ。だがまだ、聞いていないことがある。


「……悲しいことがあった、っていってたね」

「うん」

「だからここにいるの?」


「……わたし、六月に結婚するの」


 足元に虫がいる、というような調子でぽろりとビーは言った。


「それはおめでとう。で、じゃあ、なんでここにいるのかな」


 足元の虫を潰すような気分で、カケルは聞いた。


「以前ちょっと付き合った人のこと、思い出してた。思い出してたら、終電がなくなった」

「なるほど」

「付き合ったといっても、ふた月ぐらいなんだけどね。二年前の六月に出逢ったの。わたしは大学四年で、卒業も間近な時だった。

 小さなアイリッシュパブの従業員で、わたしは少しの間一緒に働いてた。親に内緒で。そして、……」

 ビーが缶から何かを飲む気配がする。

「オーラで言うと柳の木みたいなひとで、優しくて不安定で、目が寂しくて綺麗で。

 ああこの人を好きになるって、グラスを磨く綺麗な手を見ながら思った。同時に、それは絶対許されないとも思ったの」

「なんで? なにが?」

「両親が厳しかったから、病的に。父が某政党のボスやってて母は医療法人や社会福祉法人とか経営するライフアドバイザーで、何かというと外に名前の出る人たち。付き合うなら将来につながる相手、釣合のとれる相手っていつもそればっかり。大学も勝手にきめられたし、バイトは家庭教師以外駄目たって」

「いまどきあるんだ、そんな家」

「でも友達が急にやめたバイトのあとがいないっていうんで捕まって、やってみたら接客業のお仕事、とても楽しかったの」

「向いてたんだね」

「家には、帰りが遅くなるのはゼミが忙しいとかコンパとか適当に言ってた。十時過ぎると彼が送ってくれた、この公園を通って。で……」

 ビーは少しの間、思い出すように沈黙した。

「最初デートした時もね。ふっと手繋いだとき、ごめんって言って離されて、それから、これからも付き合ってもらっていいですかって言われたの」

「……ものすごい紳士だね」

「ていうか、すべてに自信がなさそうで。家庭に恵まれなくて、愛情を受け取りそこなって、人間不信になってるって言ったの。 でも、きみは別に気にしないでくれって。

 独り暮らしでろくなもの食べてないっていうから、十月の晴れた日曜日、がんばってお弁当つくってもっていった。楡の木の下にピクニックシート敷いて、わたしの入れた熱いお茶、お揃いのカップに注いで。

 ひとつひとつ丁寧に食べながら、彼は涙ぐんで言ったの。うまいなあ。おれ今、こんなに幸せでいいのかなあって」

「……」

「その夕方キスしたの。

 唇よりも、背中に回してくれた手があったかくて大きかったのを、よく覚えてる。

 あの人のさびしい心がそのまま伝わってきて、何とかしてあげたいって思ったら、体中があったかくなった。だからわたしこれからもこのからだで、あの人の心まであっためようと思ったの。

 でね。ある日、家の近くまで送ってくれた時、母と鉢合わせたの」

 そこから先は、聞かないでもだいたいわかるような気がした。

「その夜から両親の詰問が始まった。大学の仲間だなんて嘘がわたしにはつけなかった。

 バイト先で彼と知りあったと言ったら、もう一線を越えたと思われてた」

「一線て……。古い言い回しだね」

「そういう風に言われたの。どうせそうでしょって。場末の食堂でウエイターやってるような育ちの悪いのにひっかかるなんて。こんな安い娘に育つなんて。あんたは見てくれと親の名前や身分に興味を持たれてるだけ。

 わたし親の話なんてしていない。でも母は何にも聞いてくれなかった」

 こん、と手元の缶を床に置く音がした。

「父はそう怒らなかったわ。ただ、将来のない付き合いはやめときなさい、お前の格を下げるだけだって。それから母に陰で言ってた。つまらん屑の子どもでも宿したらみんなお前の責任だ、わかってるのか。

 翌日から家の中の空気が変わっちゃった。母は周知の事実だった父の浮気を言葉に出して責めはじめた。わたしが知らないとでも思ってるんですか。あなたにあの子を責める資格があるとでも? 世間が何て言ってるかご存知? 全部公表したらどうなるかしら。

 で、わたしは思ったの。まだ恋までいってない、あの人のことはまだたいして好きじゃない。まだキスしただけ。きっとただの同情だった。今なら別れられる、こんな汚い争いはもうたくさんって」

「……」

「バイトやめますってマスターに言って、彼にも謝ったわ。ひどい、ひどい家なの。わたしなんかと付き合ってもあなたは傷つくだけ。逆の意味で、本当にいい意味で、あなたはあなたに相応しい、まともな家の自由な女の子を見つけてって。

 で、それきり携帯も変えて、連絡を絶った」

 カケルは黙った。わがことのように、ただ相手の男の痛みばかりが胸になだれ込んできた。

「それから……

 どこにいっても、彼の姿を見るようになった。

 帰りの電車のホーム。大学の裏門。友だちと見た映画の帰り。行く先行く先に彼がいるの。

 そして遠くから、ただじっとわたしを見つめてる。

 それまでご免なさいと思っていた気持が、恐怖にかわったの。もしかしたら、いつかどこかでわたしあの人に殺されるんじゃないかって。

 大学の文化祭でも英語サークルの仲間が心配してくれて、バザーの手作り品の売り子してたわたしをガードしてくれてたの。

 そしてそこにも、彼は現れた」

 短い沈黙の後を言葉を、カケルはじりじりと待った。

「わたしは勇気を出して、あえて自分から近づいたの。いらっしゃいませ、お好みのものはありますかって。ガードがいたから、多少気が強くなってたかもしれない。

 そのとき、サークルのみんなで手作りしたスノードーム売ってたの。で、あなたのはありますかっていうから、これですっていって、ビー玉と金魚を入れた作品見せたら、下さいって言って買ってくれた」

「ビー玉と、金魚?」

「ガラス瓶とスポンジと洗濯糊で、結構簡単に作れるのよ。わたしはセラミックで赤と黒の金魚一匹ずつ焼いて、お気に入りのビー玉入れて、サンゴのかけらでつくった砂を入れたの。金魚もビー玉も大好き。いちばん好きなのは、金魚の出すあぶく。出会ったころそう言ったら、何だかきみらしいって笑ってくれた」

「……」

「聞いてる? ルー」

「聞いてるよ」

「で、ちょっと話がしたいって言われて、すぐに、話ならここでしろって男友達が取り囲んでくれたの」

「……彼は、どうだった、そのとき」カケルは低い声で聞いた。

「悲しそうな。……とても悲しそうな顔をしてた。

 それでも、取り囲まれたままで、彼はちゃんと言った。

 もう何も求めない。恋人になれなくてもいい。ただほんの少し口をきくだけでもいい。ひと月に一度会うだけでもいい。短い会話をするだけでもいい。親がどうでも、自分の人生からきみを失いたくない。どうしても駄目ですかって」

 脳裏の視線はまっすぐに、カケルの胸を刺した。さされたところから、あぶくまじりの鮮血が噴き出した。

「ごめんなさい」

 そこでいったん、ビーは言葉を切った。

「ごめんなさい。なにももう、してあげられることはありません。どうか、忘れてください。ごめんなさい。そう、わたしは言ったの。

 そして男友達の一人が言ったの。これが振られるってことなんだよ、男なら潔く学べ、みっともない真似してこれ以上嫌われるなよって。

 そしたら、彼、黙ってまわりの男友達を見回して……

 殴りかかるのかと思ったら、そのままスノードーム入れた袋を抱いて、背を向けて、去って行った。

 それが彼を見た最後」


 風も途絶えた。カケルはそのまま口を開かなかった。


「それでもしばらく怖かった。そして一週間後、聞いたの。彼が大学近くの警察署に暴れこんだって」

「え?」

「大きなバットを持って、ずかずか入って行ってまわりのものをぶち壊して椅子を放り投げて……

 俺を逮捕しろって大暴れして、そして望み通り逮捕された」

「……」

「翌年の春、わたしは大学を卒業して民間会社に就職したの。その秋にお見合いして、話しがとんとん拍子に決まって……」

「見合いって、随分若いのに」

「あんな風に変なのがくっつきやすいからちゃんとした人を早く捕まえなくちゃって、母が躍起になって決めたの。わたしはなんだか、自分がいろいろ許せなかったから、従うのが贖罪みたいな変な気分だった。

 そのときはそれでいいと思ってたの。おとなしそうで誠実そうな人で、ずいぶん年上だけど落ち着いた商社マン。OLの仕事も続ければいいし、ぼくも協力しますよってとても物わかりがいい人。でも、わたしは知ってる」

 少し黙って、ビーは続けた。

「片目をつぶって、見えるものを見ないようにしているのを自分で知ってる。

 おれ、こんなに幸せでいいのかなあってあの人が涙ぐんだとき、幸せにしてあげたいと心から思った。ずっと忘れてない、あの言葉も、抱きしめられたときの暖かさも、あの人の震えるようなキスも。

 まだ恋じゃないと思ったのは嘘だった。わたし、あれ以上好きになるのが、怖かった」


 胸の中を酸っぱい塊が何度も上がってきた。冷や汗が額をながれるのを感じながら、カケルは飲み下した。


「夜中のトイレに入ってきたあなたがね。もしかして彼かもしれないって。実は、思ってたの」


 ああ、やはり、と心のどこかでカケルは思った。


「だって、あなたの声と喋り方、彼とよく似てるんだもの。

今でもまるで、彼と喋ってるみたい。


 ……あれからどこに行ったのか知らない。ちゃんとした住所は聞いてなかった。携帯も不通。もう何も手がかりはない。

 だから思ったの。今もわたしを恨んでいて、結婚話を聞いて、恨みを晴らしに来たのかもしれないって。

 夜中のトイレの隣室に潜まれても仕方がないことを、わたしはしたんだもの」

「……」

「でもね。

 そうだとしてもいいかなあって、思ってた。

 世の中では、ストーカー殺人や傷害事件がしょっちゅう起こってるでしょ。

 何年も何年も本人に付きまとって、家族や友人を殺したり、家に火をつけたり。

 でも彼は、男友達に取り囲まれて気が大きくなったわたしに別れを告げられて、

 わたしの作ったスノードームを買って持ち帰って、

 それから“自分を逮捕してもらうために”警察に飛び込んだのよ。

 わたしは改めて思ったの。

 彼はなんて優しかったんだろう。なんてわたしはひどかったんだろう。


 これから結婚する相手を全然愛していない。結婚なんてしたくない。

 全部取り返しがつかない。でも、泣いても仕方がない。

 泣いても仕方がないのに、いろいろ思ってたら泣けて泣けて、そしたら、あなたの風鈴に呼ばれたのよ」

「呼んだんだ」

「そう、こっちへおいでって」

「そしてついてった先に、もし本当に、本物の彼がいたら? 俺がもし、本当は彼本人だったら?」

「いまなら好きにしていいって言うわ」

「……本当に?」

「本当よ。殺したいなら、殺されてあげてもいい」

「じゃあ、俺を本物の彼と思って、話してみて。彼になったつもりで、受け止めてあげるよ」


 ビーは十秒ほど躊躇した後で、語り始めた。


「今のわたしには何もない。あなたとの思い出だけが日々、濃くなってゆくの。

 ごめんなさい。あの夏祭りのとき、わたしを殴りたかったでしょ? 殴り込みたかったのは警察じゃなくてわたしの家でしょ? ヒカルくん」

「……」

 ビーは宙に向かうようにして、喋り続けた。

「ヒカルくん。

 わたしを殴りたい? それともまだ話がしたい?

 わたしはしたい。たくさんお話がしたい。お弁当にいれたおかずを覚えてるわ。

 ささみのシソチーズ巻き、出し巻き卵、レンコンの煮つけ。どれが一番おいしかった?

 ごめんなさいね。でも、ひとつ誓う。

 あのとき全力で作ったメニューを、もう一生誰にもつくらない。

 あれはあなただけの味よ。覚えておいて」

「……わかった」

「おいしかった?」

「おいしかったよ。一生忘れない」

「ヒカルくん。わたし、一生幸せになんてならないからね。あなたを不幸にしたこと、ずっとずっと忘れないからね」


 隣からくぐもった泣き声が聞こえてきた。

 そしてカケルは、自分の頬にもひと筋、涙が零れ落ちていることに気づいた。

 涙腺の蛇口が壊れたかのように、涙はあとからあとから溢れて止まらなかった。


 ハンカチで顔を覆っているのだろうか。

 壁の向こうから聞こえてくる泣き声は、甘えた猫の鳴き声のようでもあり、傷ついた小鹿の断末魔の声のようでもあった。

 そのとき、腹から上がり下がりを繰り返していた何かの塊がすうっと食道を上がってきた。塊はそのままぬるい温度で喉元を通過し、思わずしがみついた便器の中に朱色の液体となってなだれ落ちた。鮮血が便器一杯に広がるのを、幻の風景のようにカケルは見降ろしていた。

 なぜこんな鮮やかな色のものが、体内を飾る必要があるんだろう。


「ビー、起きてるか。きみにまだ見てほしいものがある」便器の底を睨みながら、カケルは震える声で言った。


「……なに?」

「俺が先にここを出る。きみは便器に上って高窓から外を見ててくれ」

「外? 公園?」

「ああ。最終仕上げだ。これが終わらないと、俺の仕事は完結しない」


 トイレットペーパーをからから回して大量の紙で口の周りとそこらを乱暴に拭くと、ざあっと水を流して、カケルはくらくらする頭を振りながらゆっくり立ちあがった。と、床が勝手に斜めになる。どん、と体が壁にぶつかる。

「大丈夫?」

「酔ってるだけだ。きみと同じぐらい」

 立ち上がったとたん、頭からすごい勢いで血の気が下がっていく。歯を食いしばりながら、カケルは個室を出て、外から隣室に語りかけた。

「いいか、あと三十分は出て来ないでくれ。で、足元に気を付けて便器の上にのぼって、よくよく窓からの風景を見て」

「なにをするの」

「ちょっとだけ木登り」

「よした方がいいわ。すごくたくさん飲んでるし、外はめちゃくちゃ寒いし、それに……

 今何か、様子が変よ。声が……」

「いいんだ。相手がどうなっても止めないって約束したろ。きみはセーラで、俺はベンなんだろ。さあ」

 がたごとと音がして、靴のままビーが便器の蓋の上に上る気配がした。カケルは汚れきった紫のジャケットの胸に血しぶきが飛んでいるのを素手でごしごし拭きながら、よろよろと便所を出た。


 ぽんぽんぽんころころころという、森の囁きのような音が、風とともに流れてくる。

 多分、気温は0度に近づいている。異様な寒さだ。

 体力がないので台車も放置だ。手元にあるのは、ライター一個。

 便所を出て振り返ると、個室の高窓のすりガラスの向こうに、頭のかたちのシルエットが見えた。

 やあ、ビー。それがきみか。初めて外側からかたちみえた。

 あとちょっとだけ窓を開けて御覧、でないとこれからのショウは見えないかもしれない。

 歩みは夢遊病者のようだった。地面はふわふわと波打ち、木々が斜めに傾いでゆく手をふさぐ。音を頼りにそのうちの一本に近づいて、枝につかまりよじ登り、頭上でからころいっている傘つきのオブジェに手を伸ばすと、ライターでオブジェの下の台にある小さな蝋燭に火をともした。

 ぽうっと上がる小さな炎は、ふと揺れてから急に明るさを増し、下から竹風鈴を照らし出した。

 ころころからころ。音の出るUFOみたいだな。

 さあ、次の木だ。なに、たかが三十本。

 そのとき、視界に粉が舞い始めた。

 白い細かい、重力に縛られない、ふわふわと揺蕩うこれは。

 あれだ、天花粉(てんかふん)

 田舎のばあちゃんの、床がタイルでできてる洗面所にあった。 あいつはよく首筋にあせもが出るからと、ばあちゃんが丁寧にはたいてた。あれはいつごろだろう、幼稚園の頃か。

 てんのはなのこな、と説明されてから、俺たちはあの粉が好きになったんだ。

 ばあちゃん、天国で粉入れひっくり返したか、しかたないな。でも、うん、なかなかきれいだ。天にはあとどれだけ、花が咲いてる?

 ゆらゆらと体を左右に揺らしながら、カケルは先へ進んだ。次の木。次の灯り。手を精一杯伸ばし、ライターで火をつける。天に届け、焔よ。どの位置からでも見えるように。

 森の中に小さな灯りが増えてゆく。

 視界が霞むが、音が呼んでくれる。からころこんこん、からころこんこん、こっち、こっち、こっちだよ。

 幾つめのオブジェに火をともしたあとか、風が吹いて蝋燭が地面に落ちた。そのまま枯草にちりちりと火がついたが、カケルは気に留めず、ふらふらと先へ進んだ。

 ふと、はるか後ろから誰かが走ってくる気配がした。遠い叫び声が聞こえる。


「ヒカル!」


 悲鳴のような、悲しい声だ。

 部屋を出ちゃダメだっていったのに。

 背中からだとそう見えるか。俺はきみの愛しい弁当男じゃない。


 カケルはゆっくりと振り向いた。


 舞い落ちる天花粉の向こう、髪の長い、ほっそりとしたビーのシルエットが走ってくる。

 そのとき、一瞬眩暈とともに体が浮き上がるような感じがし、身体がふたつに割れるような異様な感覚を覚えた。そしてカケルは他人事のように、白い影が自分からすうっと離れるのを見ていた。


 ……行くのか、ヒカル。


 途中で少し、白い影はこちらを振りむくようにした。気にしなくていい、そのまま行っちまえ。お互い、いい時間を過ごしたな。

 ほら、森中がお前の作った音だらけだ。

 灯りのちらちら揺れる森の中で、ビーが両腕を広げるのが見え、

 そして白い体が駆け寄って、彼女を抱きしめるのが見えた。


 天花粉がはるかな夜空の果てから舞い落ちる。抱き合う二人を包みこむ。なにもかも、ゆっくりと融かしてゆく。夜の中へ、夢の中へ。


 いい夜だ。

 綺麗な夜だ。


 夜が明けるまで降り注げ。

 うつくしい、てんのはなのこな。


  

                                      




 がらがらという雷のような音で目を開けると、すぐ横に看護師とワゴンが来ていた。

「ゆっくり眠らせてあげられないで御免なさいね。袋、取り替えますから」

 点滴台にぶら下がっている薄黄色い袋を手際よく取り変える。 何だかんだでいろんな色のやつが都合四個もぶら下がってる。三十代後半あたりの、ゆったりと肉付きのいいおばちゃんだ。

「いま、何時ですか」カケルはかすれた声で聞いた。

「午後四時」看護師はサイドテーブルの上の時計を見て淡々と答えると、「お熱測りますね」といって脇に体温計を差し込んできた。

「ちゃんと覚えてます? 今までのこと」

 そう言われて何となく思い出すのは、サイレンの響き、ストレッチャーから毛布ごとベッドに移される時の「いち、にの、さん!」という掛け声、「輸血必要ですかねこれは」「まず清拭したいなあ」「建造物外放火で……」という切れ切れな会話、ぐらいだった。


「ここ、病院ですよね」

「ええ」

「警察病院じゃなくて」

「ああ、じゃけっこう覚えてるんだ。ここは普通の総合病院」看護師は意味ありげに笑った。

「そんなに広がったのかな」口の中で呟くと、なに?と聞き返された。

「ろうそくに火つけただけなんだけど」

「そういう微妙なお話は、刑事さんとしてくださいね。わたしは看護師ですので」

「じゃあ、俺はいま犯罪者じゃなくて、患者ですね」

「わたしの前ではね」

 何となく安心して、カケルは天井を見た。そこで、スライドドアが開く音がした。

「話せますかね」男の声だ。

「ええ、今だいぶ意識がはっきりしたようです」

 目を横に向けると、まさに患者から犯罪者に身分を戻してくれる陰気な面構えの使者が二人立っていた。

 ダークカラーの皺っぽい背広を着た、表情のない中年男が二人。隙のない風情と体温を感じない目つきに、これほどひと目で職業がわかる人種も珍しいと思う。


 近寄ってきてまじまじと顔を覗きこまれ、カケルは視線のやり場に困って瞳をうろうろさせた。

「ほう、顔拭いてもらったらだいぶましになったな」下駄のような四角い顔をした、寅さんをヤクザにしたような雰囲気の刑事が言う。そしてひょいと警察手帳を見せると、

「真田です。ちょっと昨夜のことについて話聞かせてもらうからね」看護師が勧めた椅子に二人が座ると、狭い準個室はさらに窮屈になった。隣で顎のとがった狐顔の刑事がメモ役をしている。

「雨宮カケル。名前はこれでいいね」

「はい」

「年齢は」

「二十七…… です、たしか」

「まずね、きみは公園で血を吐いて倒れてた。それは自覚してるか?」

「ええ、なんとなく」

「じゃあ、公園の木に火をつけたことは」

「……はい……いや、木じゃなくて、楽器……サウンドオブジェっつうか……の、照明……」

「あれ売って生活してたの」

「あれは趣味で。住所不定無職、廃品回収業にしといてください」ぶっきらぼうにカケルは言った。

「二十七で路上生活。身元引受人はいないの」

「両親は行方不明、弟は死んだと聞きました。親戚とは付き合いがありません」

「実家の住所は」

「それが酒の飲み過ぎでよく思い出せなくて……」

 ため息をつくと、名前で調べて、と真田刑事は背後の部下に耳打ちした。

「俺、放火犯ですか」

「自分の作品を木にぶらさげ、部品の一部である蝋燭に火をつけた。酔っぱらってあちこちにライター翳したんで、一部が延焼した。とりあえず被害を受けたのは一部の樹木と、あと掃除道具置場の小屋ぐらいだ。人的被害はない」

 刑事は四角い顔の中の奥目ぎみの目でカケルを見据えて続けた。

「心神喪失で放火あるいは失火、器物破損、建造物以外放火、そのうちのどれに該当するかこれからの調査次第になる。まあ、きみが想像する一般的な放火罪よりはだいぶ軽くなるとは思うが。まずは体をもとに戻さんとな。

 きみが木に引っかけた玩具のうち半数は無事だ。一応保管してある」

「いつまで保管できます」

「取り調べが済んだらいずれ返してやるよ。だがきみの場合、これからのこと……仕事や住まいや引きうけ先が問題だな」

 カケルはぼんやりと窓の外を見た。

 外が、妙に明るい。入ってくる光が、真っ白だ。

「ブラインド、上げてもらっていいですか」

 カケルは静かに尋ねた。

「多分見たらびっくりするぞ」

 刑事は窓に寄り、ブラインドを上げた。

 真っ白な光が飛び込んできた。

 目を刺すような、白い光。白い屋根、白い木、白い空……


「昨夜、きみが運び込まれたあたりから雪が降り出して、ひと晩中降り続いたんだ。綺麗な粉雪でね、この時期としては何十年ぶりの積雪量だよ。都市部でも三十センチ。今も気温が低いから、まだ溶けない」

「……」

「きみは命拾いしたけど、あの公園では一人死んでるんだぞ。

 まだ二十代初めの女の子が一人、明け方に雪に埋もれた状態で発見された。凍死だ。泥酔して倒れてそれっきり、らしい。もっともきみの場合、早い時点で、公園に放火している奴がいるってんで近くのマンション住人からの通報で発見されたわけだが、彼女は人目につかない藪の中で倒れてたっていうから、そのまま雪に埋もれたんだな。気の毒な話だ」


 カケルは視線を下に落とすと口を真一文字に結び、そのまま沈黙した。

 刑事は突然黙り込んだ彼に向かって言った。


「トイレの入り口の台車にあったのは、きみの持ち物か。

 小さめのリュックに入ってたものは、ここに持ってきてやった。入院中必要なものは病院でレンタルできる。寝間着とかタオルとか」

 何も耳に入っていなさそうな彼を一瞥すると、二人の刑事は立ち上がった。


「明日も来るよ。一応監視つきだからそのつもりでな」


 スライドドアが閉まる。

 カケルはテーブルの上のリュックを見た。

 そして、ゆっくりと中のものを取り出した。


 ペンケースに、メモ帳。壊れた携帯。小銭入れ。タオルが二枚。ひも、セロテープに安全はさみ、一応洗ってある下着。ティッシュ、目薬、絆創膏、そして……

 布袋に入っているのは、弟の家から掘り出した宝物の一部。

 小さな瓶で作られた、手作りのスノードーム。


 中には、ビー玉とあぶくと、赤と黒の金魚。


 カケルは、サンゴの砂の上を泳ぐ金魚を二匹、つくづくと眺めた。

 そしてスノードームを掌に乗せ、窓辺の光に晒してみた。

 頬と頬を寄せるようにして、二匹の金魚は双方から泳ぎ寄っている。

 閉じられた永遠の水槽を通して、ふわふわ、ふわふわと音もなく、

 窓の外の粉雪が、ゆっくりと渦を巻きながら舞い降り続けていた。






挿絵(By みてみん)

                    Bee by Asuka T & Pinkmint


 


最後までお読みいただきありがとうございました。

ご感想、印象等、お伝えいただければ幸いです。

なお、小説に沿える挿絵は今までは自作のものだけ使っていましたが

今回の後書きに添えたイラストは、土屋あすか様がご好意により提供してくださったものを、Pinkmintがアレンジしたものです。



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