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其来(それから) ~ 宵闇の妖怪の場合
作者:
※東方Projectの二次創作物です。嫌いな方はごめんなさい。
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 程なくして、ルーミアはうっすらと目を開いた。

 ざわざわとざざめく葉がすれの波音。枝葉を揺らす風の流れは強く、巻き、うねり、被さりして狂い、青葉は上に下に翻弄されて波を()す。そこここに生い茂る青草は、さわさわとざざめき、彼女の肢体に触れ、かすり、舐め、被さりして、彼女を覆い隠す潮を做す。

 常より漠然とした思考は、先の勝負により、殊更呆としている。呆とした頭で、彼女は、ここが寂しい所だと感じた。
 半眼に開いた視界にはその周りがよく映らず、くたびれて傷付いた肌にはその触れるものがよく解らない。解るのは、口ににじむ鉄錆のような潮味と、わずかに埃っぽく青臭い水の匂いと、ざわざわ、さわさわと落ち着き無く流れて消える波の音。
 以前どこかで、海という大きな水たまりがあるという話を聞いた事がある。ひょっとすると、ここは海なのかしらん。よく見えない目に映るのは、高い所でざわざわとざざめく波音。よく解らない肌に触れるのは、揺蕩(たゆた)う自身を洗う潮。もしかしたら、私は海の底に居るのかしらん。

 海の底は、寂しい所なんだ。

 彼女はそう考えると、何だかいたたまれない気持ちになって、鼻の奥がツンとした。その時に抱いた気持ちが何だか解らずに、自分の頭がどうかしてしまったように思えた。
 だから、この鼻の奥のツンとする感じや、目頭が熱くなる感じは、きっと潮の加減のせいなんだと思うことにした。海は塩辛いものだという話を聞いた事がある。甘くないのなら、きっとそうなってもおかしくないと思ったからだ。

 そうして四半刻ばかり過ぎ、目も普段の通りに利くようになり、体も痛みがあるものの、感覚が戻ってきたので、彼女はようようその場に半身を起こした。その頃には、それまで彼女が居た場所について思った事など、暗い宵闇に溶けて消えてしまっていた。
 ゆるゆると辺りを見回すと、その場所は道から少し離れた山林だった。(ぶな)水楢(みずなら)が雄々しくそびえ、彼女を見下してざわざわとあざける。(あし)だの狗尾草(えのころぐさ)だの、その他よく解らない、もさもさとした雑草は、夏の勢いに任せたみたく彼女の半身より高く背伸びして、彼女を見下ろしてさわさわとからかう。

 まあ、笑われても仕方無いかな。得意になって挑んでこの結果だし。まさか人間にしてやられるとは。そうしてかゆくもない頭を掻いて、そんな行動に気恥ずかしさを覚えて、頭に付いた泥や埃をぺしぺしと払い除けた。
 体を起こしてみると、随分とあちこちが痛む。まず胸とお腹のあたりが痛い。これは多分、あの人間が出会い頭に叩き込んできた大技が直撃したところだろう。続いて背中が痛い。どうも目を回して落っこちた時に、したたかに撲つけたみたいだ。最後に頭がくらくらする。後ろのほうの痛みは、きっと背中と一緒に撲つけたのだろうけれど、くらくらするのは、目を回して落っこちたからだと思う。

 二、三歩歩こうとして、平衡感覚も危ういのに気付き、木によりかかる。もう少し休んでから動いたほうが良いかも知れない。痛む背中をゆっくりと木にあずけて、足を開き座り込む。
 衣服はよれよれの、ぼろぼろ。体もくたびれて、雑巾みたくなったような気分になる。弾幕はおろか、もうちょっとも動きたくない。代わりに一つ、深い溜息をつく。面倒だからここで寝てしまっても良いかな。木も草も生い茂っているし、ここなら夜が明けても日射しは強くなんないだろうし。
 そう思うと少し安心できて、安心すると考える事もなくなる。考える事がなくなると、自然と最近の大きな出来事が頭を支配していくのは、どういった頭の作用なんだろう。考えたくもない事にどんどん頭が支配され、むかむかしてたまらない。

 大体、あのおめでたい格好の人間は何なんだ。普通、人間は妖怪が驚かせば慌てて逃げ帰るもんだ。妖怪は、それを見てけたけた笑って楽しむんだ。そうじゃなきゃ嘘だ。なのにあの紅白は、私の姿をちらと確認するなり、躊躇せず襲って来て。あれじゃまるで妖怪だ。
 大体、勝負の仕方が酷い。開始と同時に、容赦なく目と鼻の先で死ぬ程針を浴びせかけ、挙句の果てにスペルカードで叩き落とすなんて。弾幕美なんて方便も良いとこだ。そっちがその気なら、こっちだって手段なんか選んでやらない。勝った時にはあんな人間、けちょんけちょんのぱーにして、頭からお尻までぼりぼり食べてやるんだから。

 ひとしきり怒ると、今度はお腹の虫が鳴いた。でも今日は流石に動きたくない。また一つ、深い溜息をついて、それからもうどうでも良くなってしまった。今日はもう寝て、明日こそはご飯に有り付こう。
 もたれた木から横に倒れ、仰向けに寝転がる。背中が痛い。木の根が邪魔をして、お尻も痛い。だのに、暫くはそうして、気怠い心地に体を任せて上を向いていた。見上げた空はまだ暗く、しかし紅く霧が掛かっていた。さては、あの人間はこの霧をどうにかする為に、あんなに急いでいたのかも知れない。まあ、だからといって私には関係ないけれど。やはり彼女には心底どうでも良いように感じた。

 いい加減背中もお尻も痛いので、横になって腰を屈めて丸くなり、木の根本で腕枕をして寝る事にした。
 体にこびり付く疲れが、すぐさま彼女に眠気をもたらした。ゆるやかに沈み行く意識になお残るのは、ざわざわとざざめく木々の(こずえ)、わななく青葉。それは聴けば聴く程、彼女のよく知る境内裏の森の木々に違い無かった。頬を撫で、四肢を舐める、もさもさとした青草。それは触れれば触れる程、彼女のよく知る境内裏の森の雑草に違い無かった。

 風は凪ぎ、森は落ち着きを取り戻す。そうして、彼女の周りでは蟋蟀(こおろぎ)だの鈴虫が、秋の音を静かに奏で始めた。
 季節は夏。それでも、秋はゆっくりと近付いている。そうしていつしか秋になり、冬が来て、春を呼び、夏が続く。巡り廻る幻想郷の時間は、例え彼女が博麗の巫女に叩きのめされようと、例え彼女が再戦を誓おうと、変わらず在り続け、変わらず過ぎていく。それは彼女の居場所になってくれるようで嬉しくもあり、彼女を置き去りにしていくようで哀しくもあり。

 ふいに、ここが海の底のように感じられた。


◇◇◇◇◇◇


 日が暮れるには、まだ少しばかり早い刻限だけれど、体にまとわる闇を木陰に吸わせ、ルーミアは上体を起こした。
 風は無い。昨日はあんなに煩かった葉がすれの音も、昨日のうちに彼女をひとしきり笑い尽くしたとみえて、今は澄まし顔をして空を仰いでいる。代わりに今度は蝉の鳴き声が煩い。しきりに、つくづく惜ーしい、つくづく惜ーしい、と嘆いている。今更そんな慰めをされても仕方無い。それにこっちは手も足も出ないうちに落とされたんだ、何が惜しいもんか。
 自棄気味に立ち上がり、煩く喚くあたりの木を、一つどしんと蹴り付けた。なおも蝉は、つくづく惜ーしい、と嘆き続ける。もしかしたら、私の事ではないのかも。そうして蝉の煩いあたりを見ていると、今度は、浮きー世、浮きー世、慕いー…などと繋げた。成程、道理でしきりに嘆き続けるわけだ。蝉は長生きできないものね。彼女はその蝉を、少しだけ哀れに思った。

 それにしても、今日はいささか早起きをしてしまった。宵闇に生きる彼女は、いつもなら彼誰時(かはたれどき)逢魔(おうま)が刻までは夢のなかに居る。こうも早起きしてしまったのは、昨日早くに寝たせいだろう。いつもなら明けの明星が天照に食われる前までは起きている。だけれど、ああも体が言う事をきかないのでは仕方無かった。今は一朝眠ったお陰で、体の調子は幾分か良くなった。
 後はこの、蝉の嘆きにも負けず劣らず煩い、お腹の虫の鳴き声のせいだ。昨日から何も食べていなかったから、その鳴き声は嘆願をとうに過ぎ去り、慟哭している。
 彼女は、お腹の中に誰か彼女とは別の妖怪が棲んでいて、そいつが彼女のお腹と背中をくっ付けようと、躍起になりもがいているように思えた。彼女には、お腹の虫が、何故そんな風に意地悪をするのか解らない。理不尽な不可解は、疑問よりも哀しい気持ちを強くさせる。だから彼女は、お腹がへると、決まって哀しいような気持ちになった。

 今は(さる)の刻あたりだろうか。日はまだ高いようだけれど、(とり)の方から差し込んでいる。とはいえ、空にはまだ紅い霧が掛かっているので、本当のところはよく解らない。いずれにしろ、お腹がへっては戦はできない。あの紅白に再戦を挑むんだから、まずは何か食べ物が欲しいな。彼女はいつものごとく、その体に宵闇をまとわせて、ふよふよと空の上へ浮かんだ。

 人里までふよふよと流れて来た頃には、辺りは丁度良い具合に日も暮れ、夕闇に沈んでいた。まだ夏だというのに、こんなにも早いうちから彼誰時になるのは、この紅い霧のせいなのかしらん。
 それは彼女にとって、全く好い。宵闇を体にまとう彼女は、昼間でこそ空中を漂う真っ黒で寄せ豆腐のような形の変なもの、と囃されもするけれど、人が視界を狭める夕暮れ時あたりからは、暮れなずむ幻想郷の影に隠れて、ほとんど気付かれることはない。
 彼誰時というのは、黄昏に染まる郷里で出会う人間に、旧知の間柄でさえ「()そ彼」「()は誰」と呼ばせしめる、おぼつかない刻限の事だ。どだい人間は馬鹿だから、尚更彼女に気付くはずもない。物陰からひょいと出て、店先のものを奪って逃げても、きっと気付きやしない。

 その昔に色々とあって、人里の人間は食べてはいけない事になっている。だから、まあ今日は鶏の一羽くらいで許してあげよう。そうして彼女は、長屋の物陰から、かねてより目を付けていた肉屋の前に姿を現す。肉屋は閉まっていた。鶏の一羽どころか、羽の一枚だって落ちていやしない。
 残念、今日は肉屋はお休みか。それじゃあ仕方無い、川魚の二匹くらいで手を打とうじゃない。そうして彼女は、軒に置かれた大樽の物陰から魚屋の前に姿を現す。魚屋は閉まっていた。川魚の二匹どころか、尻尾の切れ端だって落ちていやしない。
 解った、肉も魚も諦めてあげる。こうしよう、蕃茄(とまと)なら一つで良いわ。そうして彼女は、高々と積み上げられた木箱の物陰から八百屋の前に姿を現す。八百屋は閉まっていた。蕃茄の一つどころか、へたの一切れだって落ちていやしない。
 どこも、かしこも。人里にあるはずの店という店は、ことごとく閉まっていた。開いているのは番屋の軒先一軒だけで、いかつい頭の親父が、怖い顔をして辺りをぎろぎろと睨み付けていた。彼女は仕方無く、慟哭するお腹を抑えて、いつしか宵の暗さに沈んだ夏空に、自らも宵闇をまとって紛れた。

 どうして今日はお店が閉まっているんだろう。みんな死に絶えちまったのかしらん。それにしては、番屋には見るからに怖そうな親父が居た。あんなに怖そうな顔をしているんだから、きっと肉も(こわ)いに違いない。そんなのを食べてもお腹を壊すだけに決まっている。ああ、里の人間は食べちゃ駄目なんだっけ。
 それにしてもお腹が空いたなあ。もう、何でも良いや。鶏の切れっ端でも、川魚の骨っこでも、蕃茄の芯でも何でも良い。頂戴って頼んだら、くれるかなあ。

 どうにも煩いお腹の虫をさすりさすり、彼女は外れに建つ民家の軒先にへたり込んだ。障子戸が屋内の火の気に炙られて、ちろちろと明るい。人間の話し声と、茶碗の鳴る音がする。ご飯を食べているのだろうか。そう思うとまた、彼女のお腹の虫が騒がしくなり、彼女は哀しいような気持ちになる。
 里の人間は食べちゃ駄目だけど、どうしてもお腹が空いて駄目だから、って正直に言えば何かくれるかも知れない。どうしよう。お願いしてみようか。彼女が戸に手を掛けようかどうしようか迷っていると、中から人間の声がした。彼女は少し慌てて、戸から二、三歩離れた。といっても、中の人間が彼女に気付いたわけではない。当たり前の世間話の声だ。中には人間が二人居るらしい。

 ──厭な天気が続くね。これあお前、何でも妖怪の仕業だって言うぜ。どうしてこんな事をするのか知らんが、おちおち畑にも行かれないから困る。
 ──妖怪の仕業なのかね。厭だねえ、妖怪って奴は。勝手な事をするから、厭だよ。全く人間を馬鹿にしてるんだからねえ。
 ──全くだ。それでも、そろそろ博麗の巫女様が何とかして下さるだろう。こんな悪さをする妖怪だ、どんなに懲らしめられるかしらん。いい気味だ。
 ──本当にねえ。妖怪なんて、気持ちの悪い事しか考えないんだから。はやく退治されて、くたばってしまえば良いのにねえ。

 そう思われるのは彼女のような妖怪にとって、人間の天敵の妖怪にとって、解りきった事だった。だけれど、それは彼女の頭の中に、鉛のような何かを放り込んだ気がした。体を動かそうとすると、その鉛は彼女の頭の中を、所狭しと転がり撲つかり、その度に彼女は眩暈のような、考え事が蹴散らされるような衝撃を覚えた。
 彼女はその重く鈍い衝撃を厭うように、頭を項垂れたまま、ふよふよと空に浮いて、境内裏の森へ戻った。なおもお腹の虫は喚いていたように思うけれど、頭の中に放り込まれた鉛の転がるほうが、よっぽど煩かった。

 いつも寝床にしている、朽木のうろまで来ても、鉛のような何かが彼女から離れることはなかった。そしてまた、何か、胸の内に張り裂けんばかりの強い思いが湧き上がるのだけれど、それを吐き出そうと顔を上げると、やはり頭の中の鉛がそれを蹴散らしてしまい、出鼻をくじかれた彼女の喉は、震えた吐息をこぼすだけだった。
 そうして、胸の内の思いを廻らせては蹴散らされ、馳せては蹴散らされしているうちに、彼女は真っ当な事を考えるだけの余裕が無くなってしまった。考える事ができなくなると、自然と最近の大きな出来事が頭を支配していく。今宵のそれは、先の人間達の話だった。厭な、厭な。勝手な、勝手な。気持ちの悪い、気持ちの悪い。

 ──どんなに懲らしめられるかしらん。いい気味だ。
 ──はやく退治されて、くたばってしまえば良いのにねえ。

 彼女の頭はとうに限界を超え、頭のいたる所から、彼女を悩ませる言葉の欠片が、どたり、ぼたりとこぼれ落ちるように感じられた。それを彼女は見苦しいと感じた。だから、目からあふれるその言葉の破片を、鼻から垂れるその言葉の破片を、悩ましさに歪むその表情を、隠すようにして朽木のうろに潜り込んだ。むやみに瞼をこすって、やたらに鼻をすすって、でたらめに顔をおおって、そうして丸くなり、じっとしているより仕方が無かった。
 昨晩もこんな気持ちになったような気がする。だけれど彼女には、やはり今抱いている気持ちが何だか解らずに、自分の頭がどうかしてしまったように思えた。

 いつもは彼女にとって心地良いはずの宵闇の世界は、彼女が海の底で丸くなり、じっとしているように錯覚させた。


◇◇◇◇◇◇


 幾日かが過ぎた。紅い霧はとうに晴れ、青々とした空は底が抜けて薄まり、辺りの景色も次第に秋色に彩られていくような気配がした。
 ルーミアは、あの晩にかけられた呪いのような気持ちから、まだ解放されていなかった。その身にまとう宵闇のように、彼女はうち沈んだままで居た。
 食事は、摂ったり摂らなかったりした。もちろん、どんな気持ちで居ようと、お腹が空くのは変わらない。だけれど、お腹の虫も彼女と一緒にうち沈んでしまったものか、それほど煩いようにも感じなかった。

 そんな憂鬱な気持ちのなか、彼女はふと、紅白の人間に再戦しようという気になった。それは少しばかり自棄も手伝っているのだけれど、彼女はそうした気持ちに思いいたるほど、自分を理解してはいない。ただ閃いたとばかりに感じて、それが現状の憂鬱な気持ちで居る事よりも、だんぜん良いような気がして、特に何かの作戦や準備をするでもなく、宵闇をまとい、ふよふよと境内の方へ流れて行った。

 神社裏の縁側が見えるあたりまで来たところで、彼女は木陰に隠れて、宵闇を融かした。まだ日は高い。このところ彼女は、いたって早寝早起きなのだ。妖怪としては不健康な生活をしている。
 縁側には目当ての紅白の巫女が居た。相変わらずきっちりと紅白で、たいへんおめでたい。その隣には白黒の魔法使いが居た。これも話には聞いた事がある人間だ。黒白の陰気なところが好感を持てて、とてもおいしそうに見える。
 そして反対側の隣には、幼い吸血鬼が居た。そのまた隣には、銀色のメイドが居た。この二人について、彼女は何の感想も抱かなかった。

 正しくは、何の感想を抱く事もできなかったんだろう。それが何故かは解らない。彼女は、その四人(よつたり)が並んで、楽しげに談笑し、お茶をすすり、お煎餅を食べている穏やかな風景を、ただ見つめていた。黒白の魔法使いが悪戯な顔をして喋り、紅白の巫女が笑う姿。幼い吸血鬼が得意気な顔をして語り、黒白の魔法使いに何言か返され、真っ赤になってぷりぷり怒る姿。銀色のメイドと紅白の巫女が語らい、銀色のメイドが大いにうなづく姿。彼女は瞬きも忘れ、食い入るように、ただ見つめていた。
 彼女には、この風景に欠けた、とても大事なものがあるような気がしてならなかった。それが何なのか解らなくて、ただひたすら四人を見つめた。彼女のその表情は、一言で表すには難しい。何か求めているような、今にも叫びそうな、どうしても解らないような、あれが許せないような、これが寂しいような。
 焦燥といえばそうかも知れない。恐慌といえばそうかも知れない。哀願といえばそうかも知れない。彼女こそ大事な何かが欠けてしまったような、そんな顔をしていた。

 そうこうしているうちに、紅白の巫女が奥へと入り、また戻ってきた。なにげなく携えてきた湯呑みとお茶を見て、彼女ははっとして、その欠けたものの何かに気付いてしまった。
 これも、彼女にとっては初めての気持ちだった。だから彼女は、突然背後から襲われたようなその感情に、全く困惑した。彼女は感情に従順に、体全体で、恥ずかしい気持ちを表した。顔も体も紅くなって、喉の奥が熱く腫れて、鼻の奥がツンとして、目頭がきゅうとして。叫びたくても叫べないような気持ちのまま、全力で来た道を引き返した。
 だから、五客目の湯呑みの乗った盆を手にした博麗の巫女が、彼女が居たはずの虚空を仰ぎ見たことには、ついに気付かなかった。

 あっちの樗へ、こっちの水楢へ。まるで狙ったように木から木へと、体のあちこちを撲つけながら、ついに彼女は木陰に落ちて、宵闇から抜け出た。彼女の宵闇は、外からも中からも眼の利かない、まるで欠陥だらけのお粗末な能力である。だけれど、今はそれで大変都合が良かった。彼女は、こんなに困惑した自分を、誰にも見せたくなかった。それは自分をして、自分自身にも見せられなかった。木陰に落ちて、宵闇から抜け出た頃には、いくぶんか落ち着きを取り戻していた。

 それでもなお、顔は紅い。これは、あっちやこっちの木に撲つかって、あざになったからだ。きっとそうだ。
 それでもなお、喉の奥は熱く腫れている。これは、あれよ、ここまで一生懸命飛んできて、息が切れたからだ。そうに違いない。
 それでもなお、鼻の奥がツンとしている。これは、ええと、草いきれがむせ返るほど鼻にくるからだ。そうだと思う。
 それでもなお、目頭がきゅうとしている。これは、ううん、やっぱり夏の匂いが目にしみるから。そう。
 それでもなお、叫びたくても叫べない。それは、それは。

 四つん這いの姿勢のまま、伸び放題の雑草を必死に握りしめ、それは、それはと、勢い首を振る。もうやめた、考えるのやめ、やめ。下らない事なんて考えたって仕方無い。とにかく、こんな気持ちは私は知らない、こんな思いをするために神社に行ったんじゃない。そうだ、あすこには四人も変なやつらが居たんだ。きっとこれも、出会い頭に攻撃したのに決まっている。汚い。やり方が凄く汚い。
 もう、絶対に、あの紅白の人間をこてんぱんにしてやるんだから。今は四人でとても駄目だから、もう少し後に、あの人間だけになったら、また行って、必ずこてんこてんにしてやるから。
 荒い息を無理矢理に落ち着かせて、彼女は立ち上がった。彼女は、怒っていた。ただそれは、博麗の巫女に対してのものなのだけれど、そうなのかと問われれば、少しそうでないような気もする、まるで熱に浮かされたような怒りだった。

 日はかげり、宵闇が幻想郷を支配する刻限が近付くと、彼女は改めて作り直したスペルカードを握りしめて、ねぐらを後にした。
 向かうは山の上、博麗神社の境内。宵闇をまとって境内に向かう彼女は、うきうきした気持ちで空を飛んだ。それは勿論、あの紅白の人間をやっつけてやるからだ。彼女はその気持ちを、そう考えた。

 神社裏の縁側に降り立つと、はたして神社には博麗の巫女一人だけが居るようだった。宵闇に沈んだ神社はなお暗く重く、辺りはよりいっそう静謐(せいひつ)としていた。話し声すらはばかられるような空気で、実際に声はない。聴こえる音は、縁側の障子を隔てて内側に居るだろう博麗の巫女の立ち居振舞いによる衣擦れの音と、そこここの茂みに忍んで秋を呼ぶ虫の音、遥か麓に見える人里の、儚げな人間の生活音だけだ。
 彼女は、その静寂に心地良い期待と、一抹の不安とを感じた。それはここに向かう時に感じた、うきうきした気持ちによく似ていたから、彼女はやっぱり、これからここに居る紅白の人間に思い知らせてやるからだと考えた。それなのにここに来て今、そこの障子を開けて、博麗の巫女と対峙することに躊躇していた。どころか、自分がなぜ今ここに居るのかすら、あやふやな気がして、呆と立ったままで居た。

 青天の霹靂とは、こうした時にも言うものだろうか。彼女の全く予想外に、彼女の逡巡などまるでお構いなく、目の前の障子が、すらりと開いた。居間には卓袱台がしつらえてあり、二人分の食事が用意されていた。障子近くには博麗の巫女が座して、穏やかに彼女を見ている。

「いらっしゃい。丁度夕餉が準備できた所よ。食べて行かないかしら」

 彼女の頭の中は、すらりと開いた障子と共に、何もかもが放り出されて無くなってしまった。ただ目の前に居る博麗の巫女と、居間の温かそうな食事が、静寂に包まれた博麗神社全体の風景から切り離されて、それだけが空っぽの彼女の頭の中に飛び込んだ。
 そうして後に、博麗の巫女の言葉が頭の中に響いて、博麗の巫女と居間の夕餉だけの風景には、彼女の姿が欠けた一点を補うように添えられた。彼女はその絵に、彼女が博麗の巫女と談笑しながら食事をするさまを幻視した。その絵は全くまぶしいように思えて、彼女は目を少し細めた。けれども、全く厭な気のしない、穏やかで温かなまぶしさだった。その絵には、欠けたものは何も無かった。

「どうしたの。冷めちゃうと美味しくないわ。(さく)の日にはまだ遠いから、お腹空かせているんでしょう。人肉は流石に無いけれど、まあお腹は満たせるんじゃないかしら」

 彼女は細めた目から、穏やかで温かな気持ちが流れるのを感じた。それは後から後から、止め処なく流れて、目の前の博麗の巫女に初めて出会ってからの、あれやこれやの気持ちが全部、清算されていくように感じた。そうしてまた、流れれば流れる程、彼女は穏やかで温かな表情になれた。
 その様子を見た博麗の巫女は、随分驚き、慌てていた。初めて出会った時の、まるで抗いようの無いしたたかな姿はなく、それは幻想郷に住む、ありふれた一人の少女だった。その食い違いが全くおかしくて、彼女はついに笑いながら、欠けた一点を補うべく、夕餉の席に着いた。

 最初の予定とは違ってしまったけれど、今はもうお腹もいっぱいで、気持ちもいっぱいになっていた。その気持ちはやっぱり、彼女にはどうしてなのか解らない。だけれど一つだけ、はっきりとしたことが胸の内に浮かんだ。

 そうなのか。ここは、海の底じゃなかったんだ。
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