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  神崎すみれ誘拐事件 作者:ともゆき
前編
 太正十二年十月のこと。
 大帝国劇場・帝劇のサロンに真宮寺さくら、マリア・タチバナ、アイリス、李紅蘭の4人が集まってなにやら話をしていた。と、
「…おい。あのサボテン女、まだ帰ってきてねえのか?」
 サロンに入ってきた桐島カンナが言う。
「そうらしいわね。もう七時すぎだっていうのに…。お店だってとっくに閉まっているはずよ」
 マリアが言う。
 カンナの言う「サボテン女」――神崎すみれが「久しぶりのお休みですし、ちょっと買物に行って参りますわ」と大帝國劇場・帝劇を出てから早や半日近くになろうとしていた。
「…本当にどうしたんでしょうね。明日もまた公演があるっていうのに…」
「あの女、ひょっとして北海道の方にでも買物に行っちまったんじゃねえのか?」
「いーや、ウチは九州の方やと思うけど」
「すみれのことだからきっとフランスにでも行ったんだよー」
「まさか、そんなことは…」

 それから程なく、大神一郎と藤枝あやめの二人がサロンにやってきた。
「あ、どうでした?」
 さくらが大神に聞いた。
「うん…。神崎家の方には来てなかったって言うよ」
「…花やしき支部の方はどうなんや?」
 紅蘭があやめに聞いた。
「こっちも同じ。花やしき支部でもすみれらしき人は見かけてない、って言うわ」
「でも神崎家や花やしき支部の方でもすみれ君の事を探してくれるそうだ。何かあったら帝劇の方に連絡を入れるように頼んでおいたよ」
「有難うございます」
 マリアが言う。
「…それにしてもすみれさん、どうしたんでしょうか…」
    *
 話はこれより六時間ばかり前の午後一時過ぎのことだった。
銀座にあるデパートのある売り場。
「…それじゃ、お届け先は大帝国劇場でよろしいですね?」
 店員がすみれに聞いた。
「結構ですわ。それじゃ、後はよろしくお願いしますわ」
 すみれがちょうど買い物を済ませたところだった。
「ありがとうございました〜」
 帝劇のトップスタアであり、神崎財閥の令嬢、そして店にとっても大事なお得意様、と言うこともあってかその場にいた従業員が全員集まってすみれに対し深々とお辞儀をして見送った。

 そしてすみれがデパートを出たときだった。
 一人の男が物陰からじっとすみれの方を見ていた。
 男は懐に入れてあった雑誌の切抜きを広げる。
(か、神崎すみれ…、あの女だ)
 男の持っていた切抜きにはすみれの写真があった。
 そして切り抜きを握り潰す。
 この日のために男は何日も前から準備を進めてきた。彼女の行動パターンもすべて頭に叩き込んだ。そして事を進めるために何が重要かも…
(…落ち着け。抜かりはないはずだ)
 そして男はそっとすみれの後を付けて行く。

 その通り道は銀座だというのにややさびしい通りで、そのときも人通りがなかった。
 しかし、ここの道は大帝国劇場への近道でもあるのだ。
 すみれも迷うことなくその道を通っていった。
(…よし、今だ!)
 男は脱兎のごとく飛び出すと、すみれの背後から鼻と口に布を押しつけた。
「…!」
 すみれは必死にもがいた。
 しかし、男も必死になってすみれの口をふさぐ。
 やがてすみれが気を失い、男にもたれ掛かった。
 男は辺りを見回すと、あっという間にすみれを連れてその場を去っていった。
     *
 ぼんやりとだが、すみれの意識が戻ってきた。
すみれは辺りを見回す。
 そして体を動かそうとするが、動かなかった。
「う…うぐ…んん…」
 しかも口も何かで塞がれている。
 そう、すみれは猿轡をかまされ、後ろ手に縛られていたのだ。
(…なんでわたくしが…? いったい、どういうことですの?)
 しかし、すみれは自分の意識がはっきりしてくるにつれ、自分の置かれている立場がわかって来た。
 すみれはあたりを見渡す。
(ここは…)
 裸電球一個だけの部屋に閉じこめられているようだ。
(…まさか…、まさかわたくし…)

「…気が付いたのか?」
 男が近付いてきた。
 すみれは猿轡をされたまま、男をにらみつける。
「…う…うぐ…、うぐ!」
 猿轡をされたままの口で何やら言っている。
「な…なんだよ!」
「うぐうぐうぐ!」
「…取れ、って言うのか?」
「うぐ!」 
 すみれは頷くと男をキッ、と睨み付ける。
 その目にはとてもではないが逆らうことを許さないような怖さがあった。
「…わ…、わかったよ」
 そう言うと男はすみれの猿轡を取った。
 すみれは大きく息を吐くと、
「あなた、いったいどういうつもりですの?」
「どういうつもり、って…。お、おまえ、自分がどんな立場にいるのか知ってるのか?」
「少なくとも上流階級の皆様が集まるパアティに招待されたとは思えませんわね。それよりあなた」
「な、なんだよ」
「この縄を解いてくださいませんこと?」
「そ、そんなことできるかよ」
「わたくしを誰だと思ってらっしゃるの? 花組のトップスタアで神崎財閥令嬢、神崎すみれですのよ! わたくし、逃げも隠れもいたしませんわ!」
 すみれは男を睨み付けた。
「う…、わ、わかったよ」
 男はすみれを縛っていた縄を解いた。
 すみれは手首をさすりながら、
「まったく、このわたくしの白魚のような柔肌に縄の痕なんかを着けるなんて…。あなたはどうお考えになってるのかわかりませんけど、わたくしをこんな誘拐なんて面倒臭いことに巻き込まないでくださる?」
「…お、おまえ…」
 すみれはそこにあった椅子に腰掛けると、
「…正直わたくしもこう言う立場ですから、幼い頃から誰かに誘拐されることはあるかもしれないと思っていましたけど…。まさかこの歳になってこんな形で誘拐されるなんて思いもしませんでしたわ」
「……」
「まあ、よろしいですわ。わたくしはあなたにとって大事な人質ですもの。わたくしが生きるも死ぬもあなた次第、って訳ですわね」
「そ…、そういうことだけどな…」
「何を心配なさってるの? さっきも行ったとおり、わたくし、逃げも隠れもいたしませんわ。わたくしが何か変な事をしようと思ったら遠慮なく私を殺しても構いませんわよ。…もっとも、あなたにそれだけの勇気があれば、ですけど」
 そう言うとすみれは不敵な微笑を浮かべた。
    *
 そして再び話は帝劇に戻る。
 夜8時近くなったと言うのにいまだにすみれが戻ってこないことから花組はもとより、既に帰宅していた藤井かすみ・榊原由里・高村椿の3人にも非常呼集がかかり、全員が帝劇に集まっていた。
 とりあえず支配人である米田一基名義で警察に捜索願を出すとともに、帝劇の他の組――月組、風組、夢組、雪組の4つの組――にも協力を要請し、すみれの捜索に当たることになった。

 それと同じ頃。
「…あなた。何ですの、これは?」
 すみれが自分の前に置かれた食事の乗った盆を指差して言う。
「め…、メシだよ」
「これが食事ですって? …こんな、ウチの犬でもまたいで通るような餌をわたくしに
食べろというんですの?」
「え、餌?」
 すみれは紙と鉛筆を取り出すと、何かをさらさらと書き、突き出した。
 何やら電話番号と、男が聞いたこともないような名前の料理が書いてあった。
「な、何だよ、これは?」
「ここに電話して、出前を取ってもらいなさい」
「お、おい、おまえ…」
「神崎家のツケと言えば、持って来てもらえますわ。近くの自働電話にでも行って注文していらっしゃい!」
「しかし…」
「大丈夫、わたくしはあなたの大事な人質ですのよ」
「…でもそんなことしたら、オレがお前を誘拐したことがわかっちまうじゃねえか!」
「わたくしの知り合いだとでも言ってごまかしておきなさい!」
 すみれの言い方には何事にも逆らえないような感じがした。
 男はひとつ舌打ちをすると、
「…逃げようなんて思うなよ」
「わかっておりますわ」
 そして男は出て行った。
 外で何やら鍵を掛ける音がした。
「…本当にわたくしを信用しておりませんのね」
 すみれが呟いた。
     *
「…とりあえずすみれの行動があるところまでわかった」
 米田が花組を前にして言った。
「…どうなんですか?」
「うん。午後1時ごろに銀座の中のあるデパートを出るところを目撃したヤツがいたそうだ。ほら、すみれのことだから相手もそうと気づいたんだろうな。それから帝劇の方角に向かって歩いているところまでは目撃されてるんだがそれからの足取りがわかっていないそうだ」
「…でも、銀座言うてもそんな、迷子になるような道はないやろ?」
 紅蘭が言う。
「まあ、そうなんだが…」
「…となると…」
 大神がつぶやいた。
「…大神はん、どうしたんや?」
「いや、なんでもない」
 …しかし大神の脳裏にはあるひとつの言葉が思い浮かんでいた。
 もしかしたらそれは花組の全員も同じだったかもしれない。
    *
「…ねえ、ちょっとよろしいかしら?」
 すみれが辺りを見回すが、そこに男はいなかった。
「…お手洗いにでもいかれたのかしら?」
 すみれは辺りを見回す。…と、机の上に古新聞と何やら紙が置いてあった。
「何かしら?」
 すみれは机の上にある紙を見る。
 そこには隣においてある古新聞の活字を切って並べられており、

「神崎忠義へ
 お前の孫の神崎すみれを預かつてゐる。
 返して欲しくば十萬圓を用意して、上野公園の西郷隆盛像の前へ來い。
 警察には報せるな。報せた場合、彼女の命は保證できない」

…という内容の脅迫状が置いてあったのだ。
「あらやだ、脅迫状ですわね」
「…お、お前何見てるだよ!」
 丁度そこに男が戻ってきた。
「…あなた、一寸いらっしゃい!」
 すみれが男を呼んだ。
「な、なんだよ」
「何ですの、これは?」
 すみれが男に紙を見せる。
「きょ、脅迫状だよ」
「そんなこと最初からわかってますわ。それよりもなんですの、この内容は?」
「内容、って…」
「わたくしの身代金がたったの十万円ですって?」
「た…、たったの十万円?」
「この花組トップスタアのわたくしも随分と安く見られたものですわね。十万円なんて端金、わたくしのお祖父様にとっては痛くも痒くもありませんわ!」
「は…、端金?」
「ええ。わたくしの身代金は五十万円になさい!」
「ご、五十万?」
「わたくしにはそのくらいの価値が充分、いえ、むしろ五十万でも安いくらいですわ! それから」
「それから?」
「これと同じ内容の脅迫状を大帝國劇場の米田一基支配人宛にも送りなさい」

(後編に続く)
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