停留所にて情動を喫す(卅と一夜の短篇第17回)
夏の終わりには、入道雲が最後の悪足掻きとばかりに雷雨を見舞わせることがたびたびある。
この辺りなら、それが通り過ぎた後にすっきりとした涼しさと大きな虹を残して行くのでまだいい。本州の――特に関東から向こうなどは、その後もまたじりじりと日差しが復活すると聞く。湿度が上がった分、雨の前より却って不快指数が増しそうだ。
「今日は長いわね……」
永野璃沙子は形のいい唇をほんの少し動かしてつぶやき、頬に掛かる髪を払った。その息は外の天候と同じように重みのある湿り気を帯びている。
通学路から少し外れたバス通りにある古ぼけた停留所。そこの待合所で璃沙子は雨宿りをしている。
ここはこの街でも特に利用者が少ない路線で、平日の昼間には二時間に一本程度しかバスが通らない。そして璃沙子が雨宿りに来るほんの十分ほど前に、この路線を走る貴重なバスが通り過ぎていた。
少し歩けば別の路線の停留所があるため、多くの人はこの路線を待たずにそちらを利用している。故にここには滅多に人が来ない。
外では稲光が、雷鳴が、風が、自由気ままに暴れている。雨粒は建物の屋根にも窓にも、そして停留所の目の前の、風雪に晒され継ぎ目から徐々に崩れ掛けている縁石にも、ところどころヒビが走りそこから雑草が伸びているアスファルトにも踊り跳ね返り、また時々白いカーテンを引いたようにも密度を増す。
室内にいる者はこの空間だけこの世界から隔離断絶されたような錯覚を抱くかも知れない。
だが璃沙子はこれが好きだという。どこの誰にも邪魔されない、特別な時間が。
片手で掻き上げた髪は、天井を見上げるほど背を反らしたと同時にぱさりと落ちる。すいと伸びた細く白い首には数本のほつれ毛が張り付いた。その肌を艶めかしく湿らせているのは、雨により充満した大気中の水の粒か、彼女の汗の粒か。
璃沙子の吸う息にも小さな水の粒が含まれていた。そして彼女から吐き出されたそれらは、待合所の窓を次第に白く曇らせていく。
ふいに、自然が演じる喧噪の不協和音の中にもう一つの音が加わる。璃沙子は短く息を吸い、弾かれたように立ち上がる。徐々に近づいて来るその物音は明らかに人の足音。そしてそれが近づくにつれ、傘が奏でる雨粒の散弾も加わる。
「――ああ、ほんとだ。ここにいた……永野」
息を切らせて待合所を覗き込んだのは、璃沙子と同じ高校の制服を着た男子生徒だった。背が高く、割合いに筋肉質だ。髪を少し脱色しており、普段はワックスなどで整えてあるのだろう。
もしどこか部に所属しているのだとしたら、髪型――今は傘でも防ぎきれなかった雨のせいで見るも無残に萎れているが――などから予想するに、野球部ではなく陸上部……いや、下半身が特に筋肉質なのでサッカー部辺りだろうか。
その男子生徒からはある種の自信が溢れている。運動部に所属しているだけではなく、それなりの成果を出しているのか、もしくは単純にモテるのか――なんにせよ、そういった類のものだろう。少なくとも学力に関する自信ではなさそうなのが見て取れる。
「何しに来たの、速水くん」
璃沙子は待合所の端の席に座って背筋を伸ばし、入口に佇んでいる速水を睨む。
彼女の声は降りしきる雨よりも格段に冷たい。きつい口調から声もいくらか大きく出していたことがわかるが、雨音と風音のせいで狭い待合所の端から端まで届くのが精一杯の声量というところだ。
「何って……俺のせいでヤスハ――あ、高輪に殴られたって聞いたから」と言いながら速水は待合所へ入って来る。彼の視線は璃沙子の顔の辺りをふらふらと彷徨うが、直視できずにまた逸れるということの繰り返しだった。
璃沙子はその名を聞き、不快さを一層顕わにした。
速水は申し訳なさげな顔をしてはいるが、その言葉の端々から独特の優越感がにじみ出ている。自分を取りあう女たちの確執を想像して、ひとり悦に入っているのだろう。
「速水くんのせい? そうね、まったくもってあなたのせいだわ。とっても迷惑だったのよ。何故わたしが速水くんを盗ったように言われなきゃいけないのか、全然理解できなかったし、大勢の前であんなことされて名誉棄損も甚だしかったわ。その時のわたしの気持ち、あなたにわかる?」
近付いて来る速水に対して璃沙子は一瞬だけ身を固くするが、厳しい表情で彼を見る態度は変えない。
「盗るなんて……ただ俺はヤスハに、別れてくれるよう言っただけで」言い訳をする速水の眉尻は情けなく下がった。
「――でもそれだけなら理由まで言う必要なかったよね」と璃沙子の口調はあくまでも冷たい。
「それは……」
もう、手を伸ばせばお互い触れられるほどの距離に彼らはいた。速水がそれをしないのは彼女の視線と態度が氷点下並みの冷たさだったのと、待合所の反対端で脚を組みカバンを抱え、背中を丸めて座っている僕が目に入ったからだろう。
「――なぁ、二人きりで話せる場所に行かないか?」
それで小声のつもりなのか、それとも僕に聞かせているのか、速水は璃沙子に向かってそう言った。
だがこの辺りで『二人きりになれる場所』なんて他にあるわけがない。もし本気でこの天候の中に女性を連れ出すつもりでの発言なら正気の沙汰じゃないし、邪魔者を追い出そうとしているのだとしたらあまりにも愚かだ。
「人前では話せないってこと?」
「いや、そういうわけじゃないけど……だって、あっちにいるやつ、まだ中学生じゃないか。それにあのバッヂの色、一年だろ? ガキに聞かせるにはちょっと話の内容が……」
「中学生に聞かせられない話って何よ。わたしにはそんな覚えはないんだけど」
璃沙子は僕など一瞥もせず、速水を睨みつけている。
「まさか根も葉もない妄想を高輪さんに吹き込んだんじゃないでしょうね? 例えば、わたしの方から速水くんに言い寄ったとか、もう付き合ってるとか――万が一でも冗談じゃないわ」
速水が息を飲む。その反応から察するに、大方彼女の指摘の通りなのだろう。
ならば璃沙子の左頬が朱く腫れていることも、セーラー服の襟から覗く細い首にくすんだシミのような痣があることも理解できる。
彼女の腕にも青痣がある。握られたような形のものが、両腕に何ヶ所もだ。高輪という女子生徒かその仲間が璃沙子を押さえつけた時にでもついたのだろう。
「ごめん、悪かった……すまない。永野、こんな痛々しい――」と速水は息を荒くしてようやく謝罪の言葉を口に出し、同時に璃沙子へと手を伸ばす。
だがその手はぴしりと弾かれた。
「触らないで。わたしのこんな姿を見て興奮してるんでしょう。速水くん最低」
璃沙子は速水に対する軽蔑を隠さなかった。吐き捨てるようなきつい言葉と彼女の眉間に寄った皺が、速水を打ちのめす。
「わたし、痣が付きやすい体質なの。知っているんでしょう? なのに何故こんなことになるように仕向けたのよ」
「仕向けたなんてそんな――」愕然としたのか、速水は言葉が続かない。
彼に特殊な性癖があるのかどうかは知らないが、どうやら安易な自己満足のせいで、結果的に高輪という女子の嫉妬心を煽り、焚きつけた……ということらしい。
「わたしに謝るよりも先に高輪さんたちの誤解を解いてよ。電話とかで誤魔化さずに直接会いに行って話して、きちんと信じてもらってよね。それから、ここにはもう来ないで。あなたみたいな人に来てもらいたくないの」
「わかっ――え、でもここに来るなって。それは酷くないか? だってあいつは?」と、速水は目を丸くして指を伸ばす。
「人に指を向けるのは失礼よ? それに、わたしたちはここで雨宿りをしているの。速水くんみたいに土足で踏み込んで来て人の時間を邪魔するような、無粋な真似をしに来たんじゃないわ。わかった? わかったら帰って」
速水の腕はその肩ごと力なく垂れ下がる。それでも彼は何か言い掛けたが、ぐっと飲み込んだ。これ以上情けなくごね続けた結果、万が一でも彼女の機嫌を損ねたら自分に不利だと考え直したらしい。
「――わかった。じゃあ俺これからすぐヤスハ……じゃない高輪に会って来る。どれだけ時間が掛かっても必ず説得して永野の誤解を解いてもらうから。約束する」
どうやら即行動して男らしさをアピールするつもりらしい。というか、いかにも運動部らしいその単純明快さは逆にすがすがしく羨ましくもある。
速水は「じゃあな、永野!」と傘を開きながら璃沙子にもう一度真剣な表情を向け、最後に僕に向かって憎々しげな一瞥を投げた。それからまた雷雨の中に飛び込み、ばしゃばしゃ音を立てて水を蹴り上げ、来た道を戻って行く。
速水を追うようにいくつもの光が立て続けに走り、数瞬置いて腹に響くような雷鳴が次々轟く。
璃沙子はため息をつきながら立ち上がり、入口から顔だけ出して速水を見送る――いや、本当に速水が帰って行ったのか確認しているのだろう。待合所の屋根の軒先からボタボタ落ちて来る滴が、風で煽られて彼女の髪の毛にいくつも落ちた。
「……で、あいつどうするの?」
充分時間が経ってから、僕はようやく声を発する。
「どうしようかなぁ……」
「へぇ、そこ悩むんだ」
「久保くんはどうしたらいいと思う?」
「付き合ってやれば? なんか面白そうだし」
「他人事だと思って、そういうこと……」
「当然だろ。僕は男には興味がないからね」
澄ました顔で僕が答えると彼女は何故かくすくす笑う。一体、今の言葉のどこがおかしいというのだ。僕には彼女の笑いのツボが理解できない。
中学生男子が男に興味あるなどと言い出したら、ある種の専門家やら男尊女卑な中年オヤジやらが騒ぎ始めるに決まっている。この世界はそういう仕組みで動いているのだから。
趣味嗜好や脳の性別などは千差万別、個人個人で違うのが当たり前だから、その人の思うようにさせればいいじゃないか、と僕は常々考えているのだが。
しかし、やれ性別だの年齢だの、この趣味は偏ってるだの過激だの背徳的だの――と、世間とかいう正体不明の存在や得体の知れない同調圧力がいちいち余計な口を出して来て、ちっとも好きにはさせてくれない。
だからこの僕も、日々の暮らしの中でしたくもない余計な苦労を背負い込んでいるわけだ。
「あいつの場合、まず元カノを説得できるかどうか」
「わたしもそう思うわ。説得できない確率の方が高そう」
「強く言われると言い負けるタイプのようだから、逆に元サヤに収まるかも知れないね」
「それでもいいわよ――だって速水くんがわたしを満足させてくれるかどうかわからないし」
「満足ねぇ……なかなか難しそうだ」
「やっぱり? それに速水くんってデリカシーなさそうね。あの様子じゃ、もし付き合ったとしても、わたしの一挙手一投足を知らない人にまで言い触らされそう」
「そんな気はするね――でもそれを自分好みに手懐けてみるのも面白そうじゃない?」
璃沙子の足の下で情けない表情で平伏している速水の姿を想像してしまい、僕は苦笑する。さぞかし愉快な見物になるだろう。
「わたし、あなたみたいな趣味はないのよね……今この瞬間、自分がよければそれでいい。それだけなの。だからそれを邪魔されたら腹が立つのよ」
彼女は外に視線を向ける。
雨はまだ強いが、雷鳴は徐々に遠ざかって行くようだ。それに西の空が少しずつ明るくなって来た――この特別な時間も残りわずかだろう。
「そんなことより……ね」璃沙子は遠い稲光を眺めてつぶやいた。
「久保くん、続き――雨が上がっちゃうわ」
彼女は微笑み、僕の膝からカバンをよける。
その白い手で僕の組んでいた脚をほどき、湿って重たくなった彼女のスカートをたくし上げながら、僕の膝に乗る。
スカートの中は外の天候よりも水分を含み、肌はひんやりしているのにその内には火傷しそうなほどの熱を帯びている。
「あぁ――とんだ邪魔が入ったね。驚いたよ」
僕も微笑み、彼女の痣だらけの太腿に新しい印をつけるべく指を這わせ、白い部分を探す。
すべては彼女の情動により。
そして僕たちはまたこの世界から隔離される。