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「すいません。苛立っていたので廊下の窓ガラスを割ってしまいました」

 教室のドアを開けてそう言ったのは会長だった。右の拳にはじんわりと血が滲んでいる。どうして会長が……? 
 面食らったのは私だけではない。さっきまで揉み合っていた2人突然の事態に動きを止め、急に現れたその人物のほうに視線を奪われている。

「……お前……何やってんだよ……」

 江藤は川崎の胸倉を掴んでいた手を離し、会長にそう言った。言葉が出るのがやっとというぐらい驚いた表情は、同時に焦りを含んでいるようにも見えた。おそらく今の私と同じ心境にあろうその男は、ついさっきまで過剰分泌されていたアドレナリンを会長の意味不明な行動により消滅させられたのだろう。

「お、お前ら! 今すぐ職員室に来い!!」
「おや、江藤君もですか? 今は授業中のはずではないですか?」
「い、いや、それはだな……」

 川崎の表情が曇る。嫌なところを突かれたのだろうか?

「授業中に生徒とトラブルを起こしたっていうことはないですよね? 掴み合っていたなんてことがあったら大問題ですが……」

 その大問題が今さっきまでここで繰り広げられていたのだ。会長の行動の意味がこの一言でやっと理解できた。

「そ、そんなことがあるわけないだろう!! じゃあお前だけでいい!」
「そうですよね。じゃあ職員室に行きます」
「学級委員! 至急他の先生を呼んで来てくれ! この後は自習だ!」

 川崎はそう言い放つとその場に立ち尽くす江藤を残し、会長を連れて教室から消えていった。終始、私は何も言えなかった。

「くそっ! ふざけやがって!」

 教室のドアを思い切り殴る江藤。何が『ふざけるな』だと? 私はお前に『ふざけるな』と言いたい。昼休みに会長に言った言葉は嘘だったのか? もうこんな事はしないって、さっき言っていたじゃないか。
 会長は江藤を庇った。この騒ぎをどこで嗅ぎつけたのかは知らないけど、止めに来たんだ。こんな奴の為に怪我までして、連れて行かれて。
 江藤は席にある鞄を取ってすぐに教室を去って行った。何処に行ったのかは知らない。どうでもいい。もう二度と私の前に姿を現さないで欲しい。最低な人間。
 私の立候補を拒否するなら自分がやると言えばいい訳だし、そうでなくても他に方法はいくらでもあっただろう。何が『アイツを1人にするな』だ。こんな迷惑掛けて、本当に会長のことを大事に思っているのか。許せない。憎い。

 江藤に対する怒りによる脳の興奮状態が冷めぬまま5時限目の授業を終え、私はすぐに会長の連れて行かれた職員室に向かった。
 遠いはずのその距離も、急いでみればそう感じなかった。廊下は走ってはいけない、なんて昔からある決まりごとを気にしなかったことも原因だろう。
 切れる息を一分も休ませずに職員室のドアを叩く。

「あぁ。生徒会の岡本か? どうしたんだ」

 ドア付近にいた教師は名前も知らない他学年担当で、その顔ももしかしたら今見るのが初めてかもしれない。冷房の利いた職員室の空気が蒸し暑い廊下に漏れる。

「せ……、会長……、生徒……会長が……」
「会長? あぁ。それについては放課後に職員会議があるぞ」
「職……員会議……? 会長は?」
「もう自宅に帰したぞ。今日は自宅謹慎だ」
「自宅謹慎……? なんでですか!?」
「授業中にいきなり教室を飛び出して窓を叩き割ったんだぞ? それぐらいは当たり前だ」

 当たり前。確かにそうかもしれない。普通に考えれば。でももっと考えて欲しい。どうしてあの会長が突然そんなことをしたのか、それを知らないくせに! その意味不明な行動に疑問を持つことぐらいできるでしょう?
 
「違うんです! あれは……」
「ん? 本人が自分でやったと言ってたんだぞ」

 ――会長がその行動を取った意味。自分の中に今さっき思い浮かんだ言葉。ここであの騒動の真実を言うべきなのか? 会長が身を張って江藤を守ったと、私はそう捉えた。だからこそためらう。
 もしここで教室での一連の流れを言ってしまえば、会長の行動は意味を失ってしまう。
 でも、言わなければ会長が……。

「何が違うんだ?」
「……いえ、何でもありません」

 この学校の教師だということしかわからないその人物は、私の言葉に顔をしかめつつ開けたドアをぴしゃりと閉めた。その先から漏れていた冷気はあっという間に溶けていく。
 結局、また会長が貧乏くじを引いた。

 
『只今、留守にしております。もう一度おかけになるか……』

 こういうときの為の大事な携帯電話のはずなのに、繋がらないとなるとただの無機物だ。携帯電話のおかげでいつでも他人と繋がっているような気がするのは、本当にただ『気がしている』だけなのかもしれない。錯覚、空想、幻影、本当はこんなもので人との繋がりは保てないのだ。肝心なときに、繋がらない。
 もう最後のホームルームに出る気を失った私は、鞄も持たずに生徒会室に足を運んだ。
 教室に行くよりも近い距離のはずなのに、果てしなく遠く感じる。足取りが重い。
 生徒会室の前まで来て自分が鍵を持っていないことに気付いた。しかし、ドアノブに手を掛けるとその扉が開くことがわかる。会長、鍵かけてなかったんだ。
 静かにドアを閉め、いつも会長が座っている席に腰掛ける。

 ……悔しいッ!!
 どうしてあの場で江藤を止められなかったんだ! どうして一声が出なかったんだ! どうして……あの場で手を挙げたんだ……。
 状況を理解しようとしない教師、自分勝手な江藤。そんなことはもうどうでもいい。全てを見ていた私は何もできなかった。
 もしあの場にいたのが会長だったなら、何をしていた? 迷わずに恐れずにその足を前に踏み出していただろう。冷静で屈強な精神で、適切な判断を下せていただろう。いつも会長と一緒にいる私なら、それを模倣して行動に移せたはず。
 勇気がない! 結局は面倒なことに巻き込まれたくない! 自己犠牲心がない……。
 いつも冷静でいるフリをして、感情を隠して、それが理性だと思い込んでいた。でもそこに理はなかった。突然の出来事に真っ先に自分を守ることが頭に浮かんだから、それに必死になって冷静でいられず、何も言えなかったんだ。感情を表に出して、喚いてでも止めるべきだった。
 私は弱い人間。会長のように、強い人間なんかじゃない。それになることもきっとできない。どうしようもない悔しさがやり場のない怒りに変わり、次第に虚しさに変わっていく。

 ――これから、どうしよう。
 

 会長愛用の机に突っ伏したままいつの間にか睡眠状態に入っていた私を目覚めさせたのは携帯電話の鳴る音だった。いけない、マナーモードにし忘れていたようだ。この着信は電話か。誰だろう。……会長だ! ウトウトとしていた気分が一気に覚醒する。

「もしもし!」
『お疲れ様。さっきは電話に出られなくてすまなかったね』
「今どこにいるんです!?」
『今は家にいるよ。まぁしばらく学校に行けそうもないがね』

 会長はいつもと全く変わらない様子だ。危機感が感じられないのか、余裕を感じるのか。

『すまないね。少し無茶をしてしまったようだ』
「本当ですよ! ……さすがに退学とかはないですよね?」
『その可能性はゼロとは言えないが、僕は分の悪い賭けはしない主義だ』
「……反省してます?」
『もちろんしてるさ。学校の備品を故意に壊すなんて言語道断』
「でも、理由はなんとなく理解できているつもりです」
『優秀だね。僕の不在時も安心して生徒会を任せられる』
「あ、会長。生徒会室の鍵持ってません?」
『……どうやら持って帰ってきてしまったようだ』
「会長らしいというか、らしくないというか……」

 しっかりした会長の意外な一面は、不安や虚しさで詰まった私の心を和ませた。もう一度気を持ち直さなくては。

『だがしかし、僕は今自宅謹慎の身でね。教師に知られないからといって外出することはできない』
「でも鍵を閉めないと……あ、じゃあ私が会長の家まで行きます」
『それは女性に対して失礼というものだ』
「……じゃあどうするんですか?」
『君に脅されて一丁目公園に行かざるを得なかった僕がいたことにしようか』
「それは失礼のうちに入らないんですか。わかりました。じゃあ今すぐに一丁目公園に来てください。来なければ会長の椅子を両面テープでベタベタにします」
『それは恐ろしい。じゃあまた公園で』

 よし、大丈夫。今しっかりと自分を取り戻した。
 私の家から学校までの距離を学校とは反対の方向に行くと一丁目公園がある。近所の保育園の園児たちがよく来る、賑やかだけれど小さな公園。
 生徒会室の鍵を開けっ放しにしたままローファに履き換え、駆け足で一旦家に帰ってから自転車に乗り、一丁目公園までペダルを漕いだ。何だか今日は急いでばかりだ。


 思っていたよりも到着は早く、そこではいつものように園児たちが保母さんたちとお遊戯をしていた。私が幼稚園児のときから、この公園は何も変わっていない。
 あの頃は自分の知らない子供たちばかりが遊んでいるこの公園に来ることは滅多になかった。小学校に上がったあたりで仲の良い友達との遊び場になり、卒業する頃には待ち合わせ場所になっていた。中学生になってからは学校帰りの寄り道になっていたこの公園も、高校に入って通学路でなくなってからは来なくなった。
 もう半年近く顔を出していなかったこの公園が、懐かしさを匂わせながら私に『おかえり』と言ってくれたような気がした。

「今日も賑やかだね」

 私とほぼ変わらないタイミングで会長がやってきた。包帯がグルグルに巻かれた右手がなんだか滑稽(こっけい)に見えるのはおかしいことではないだろう。

「あれ? 歩いて来たんですか?」
「あぁ。僕の家はそこだからね」

 会長が指をさしたのは公園のすぐ向こう側にある比較的新しい10階建てのマンションだった。これには正直驚きを隠せない。なんせ中学校に通っていた頃は毎日通っていた道沿いだ。こんなに近くに住んでいたのに、中学生のときは会長を見たことがなかったのは何故だろう。ただ単に気にしていなかったから記憶にないだけか?

「それにしても大きいマンションですね」
「僕の父が株で運用した資金で買ったんだ。小遣い稼ぎにやっていた株が人生最大の買い物に役立つとは思っていなかったと言っていたよ」
「会長のお父さんって何の仕事をしているんですか?」
「ただの証券会社の平社員だった」
「だった、って今は何をしているんですか?」

 会長の意味深な言い回しも聞き逃さずにしっかりと突っ込むのはもう癖になっているようだ。正直なところ、それ自体は全く嫌ではない。

「今は何をしているんだろう。幸せでいてくれるといいんだがね」
「え、一緒に暮らしていないんですか?」
「というより、もうこの世にはいないんだ。母親もね」

 もしかすると、聞いてはいけないことだった……?
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