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酔 迷 宮  作者: pinkmint
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こんなことをさせたいか

 自分の呻き声と息苦しさで目を開けると、眼前に真っ白な詩織の顔があった。


「あ……」


 何か言おうとするが声にならない。

 詩織の伏せた睫毛はマスカラも乗せていないのに濃く長く、先は綺麗に反り返っている。かたちのいい鼻の下から静かに流れ出た赤い血が、頬の下に血溜りを作っていた。

 顔の手前に置かれた詩織の細い手には金属製の手錠が食い込み、長めの鎖の先は自分の左手首とつながっている。

 身を起こそうとして、右足首にも金属製の枷が食い込んでいるのに気付く。枷についた鎖は、煙でうすい靄のかかる暗い室内に屹立する煙道パイプに固定されていた。


「いいところで目覚めてくれた。空気も悪いし時間もないし」


 頭上から降ってきたくぐもった声にSYOUは視線を巡らせた。

 自分が転げ落ちた階段に携帯ライトを置いて、丸顔の中年男が腰かけている。手元に携えているのは小型酸素ボンベか、そのラッパ型の吸入マスクを口元から外すと、男はかすかに微笑んだ。

「こんなものでなんとかなるのもあと十五分ぐらいだな。さぞ苦しいだろう、吸うか?」

 男は御所人形のような細い目をさらに細くして笑うと、身体を傾けて立ち上がり、こちらに歩み寄ってボンベを差し出した。

「か……」

 彼女へ先に、と言おうとするが胸を強打したのか声にならない。SYOUは差し出されたハンディボンベを受け取ると、マスク部分を詩織の口元に当ててスイッチを入れた。

「泣かせるね。美しい光景だ」

 男は二人の前にしゃがみ込むと、薄笑いを浮かべた。

「きみの銃とそれから、このおもちゃは預からせてもらった」SYOUの目の前に差し出された手には、いつの間にか内ポケットから奪われた手榴弾があった。

「……んた、中国人、か」SYOUは切れ切れの息の中で言った。男は感心したように答えた。

「この発音で中国人と言われるとはね。わたしにはちゃんとした名前がある。菊池高志。れっきとした日本人だ、だが血筋でいうならきみの言うとおりだ」

 濃いグレーのポロシャツから見える胸元から首にかけて、さらしのようなものが乱暴に捲かれており、その一部がうっすら赤く染まっているのが見えた。

 ……菊池。記憶の中の名前を辿るが、殴られた後頭部の痛みと息苦しさでうまく情報が引き出せない。

 この声。武器を運び出そうとマンションを訪れたとき、廊下から聞こえてきた声と同じだ。そして、この名前、たしか櫻田がいっていた……

「この美人さんはなかなかの腕だ。わたしはきみ以外に当てる意思はなかったので外したが、彼女の弾はこちらの首をかすってきた。もう少しで死ぬところだった」

 ……思いだした。

 表向きは外事課の刑事。……櫻田の、学生時代の同級生。若いころからそう育てられた共産党のスパイで、外事課に潜り込むのに成功したネズミ。そして今は多分、張家輝に飼われている……

 ヤン・チョウ。あいつなのか。どうして……

「腕に覚えのある人間が死んだふりをするのはなかなか屈辱だったよ。だがお嬢さんのほうは、銃をぶら下げて臆することもなく近寄ってきたんでね。 悪いがわたしの傍らに立ったとき、足首を持って引き倒した。思い切り後ろに倒れて頭を打ってからピクリとも動かない、ただの脳震盪レベルじゃなさそうだ」

 SYOUは詩織の口にマスクを当てたまま咳込んだ。

「きみが吸わないならもらおう、せっかく話をスムーズに進めようと思ったのに。その彼女はろくに息をしてないから無駄なことだ」菊池はSYOUの手からボンベを取り返した。SYOUは喉を詰まらせながら言った。

「目的があるな、ら、さっさと言え」

「ひとつはきみ自身だ。きみは実に多くの人間にとって邪魔で危険な存在だからな、自覚はあるだろう」

「特にあんたの主人に」SYOUは即座に言い返した。

「はて、誰かな」菊池はとぼけてから、真顔になった。

「きみは近寄ってはいけない彼岸の女性に恋をし、何度誰に忠告されてもやめなかった。その結果がこれだ。その意味ではわたしの主人もきみも大して違いはないが、この結果は力の差だ」

「彼とは話がついているはずだ」

「知っているかな。あの月の姫は妊娠している」

 SYOUは思わず頭を上げて眼前の、特徴のないうすぼんやりした顔を見た。

「やはり知らなかったか。きみの子だ、多分な」

 SYOUは茫然と、蝋のような顔色で横たわる詩織の顔を見た。そして見えない距離の向こうに同じように横たわって目を閉じる、リンの遥かな面影を辿った。その両手が覆う下腹の中の、まるで網の中のほおずきのような命の灯りを思った。

「いくら女を邸内に囲っても、花やドレスで飾り大嫌いな猫まで贈っても、その体内で恋敵の命が育ち、女はその父親のことばかり考える。それでも人の命など花瓶の花ほどにも思っていないあのかたが、どれだけ懸命に自分を抑えてきたか。わたしから見れば奇跡のようだ。だがものごとには限度があったということだよ」

 自分には見えない館の中で、心の中にまで手を伸ばそうと懸命になるチョウと、猫を抱いて自分を守りつづけるリン。甘い疼きと切なさと痛みが全身を覆い、次にSYOUの胸に落ちたのは意外な感慨だった。


 ……ヤン・チョウ。あんた、そこまで必死だったんだな。


「殺すなら殺して、首でも持って帰ればいいだろ。だが彼女、は、解放しろ」息苦しさに床に爪を立てながら、SYOUは言った。

「そう簡単に死んでいいのかな」

 菊池は銃を取り出すとふらふらと銃口を揺らした。

「さぞあの美少女の元にたどり着きたいだろう、何しろきみの子がお腹にいる。

 ひとつ取引をしないか。きみが抱えているお宝についてだ」

「お宝?」

「とぼけちゃいけない。日本の現政権につながる権力者たちがこぞって溺れた禁断の庭の、その顧客データ。日本全体にとっての地雷、その行方だよ」

「あんたを雇っているのがヤン・チョウなら、それはすんだ話だと分かってるはずだ」

「ああ、それはすでに取引により彼の手に渡ったということだね。だが裏情報もある、それは本物ではなくフェイクで、実はまだ渦中のブツはきみの手中にあると」

「……」

 その数秒の沈黙を見て取って、菊池はわが意を得たりというように微笑んだ。

「どうやら事実のようだ。さて時間もないことだ、わたしの手に渡すか、今渡せないなら場所だけでも言ってもらおうか。ぐずぐずしているときみだけでなくその彼女も命を落とすことになる」

 咄嗟に判断しなければいけないことと今考えてはいけないことが塊になって押し寄せる中で、SYOUはただ眼前の、詩織の真っ白な顔を見つめた。そして、鎖に繋がれていない右手を襟元に入れると、ゆっくりと細いチェーンを引き出した。チェーンの先端には小さな銀の鍵がぶら下がっている。菊池の視線も小さな動きにつれてかすかに揺れた。

「これが、箱の、鍵だ」SYOUは切れ切れに言った。

「箱はどこにある」

「K区のH公園の、……右の靴の二重底に、地図が」

 鍵を受け取った後、菊池はSYOUの右足のスニーカーを脱がせて、手元のナイフで乱暴に底を外した。

 中から出てきた一枚の紙を見ると、ふっと笑いを浮かべ、

太完美啦(タイワンメイラー)(完璧だ)」と呟いた。

「望みの品はそこに全部、ある。わかったら、彼女を」

「よし、いいだろう」

 菊池はあっさりそういうと、ポケットからキーを出して手錠を外した。まったく意識のない詩織は、手首の枷を外され菊池に頬を叩かれても、びくともしなかった。

「どうも難しい状況のようだが、窒息する前に意識が戻れば逃げおおせるだろう、あとは運だ。だが、きみには」菊池は顔を上げると言った。

「どっちみち生きていてもらっては困るという雇い主のご意志でもあるのでね。そうだな、これでも使って鎖ごと吹っ飛ばしてみてはどうだ。せめてもの情けにおいていくよ」

 菊池は静かに手榴弾をSYOUの目の前に置いた。

「俺を消そうとしているのとは別の雇い主に、箱の中身を渡すわけか」

「生き延びるためにはたくさんの足とたくさんの手が必要だ」菊池はボンベの酸素を吸いながら淡々と言った。

「……言うとおりにしたんだ、彼女だけは連れて行ってくれ。頼む」SYOUは引き絞るように声を出した。菊池は首を振りながら立ち上がった。

「わたしは背も低いし非力なので、背の高いそのお嬢さんを担ぐのは無理だ。残念だな。さっさと二人で手榴弾のお世話になった方が苦痛が少なくて済むぞ。決心がつくまでこれでも吸っていろ」

 菊池はほとんど酸素のなくなったボンベを投げてよこした。軽いボンベはSYOUの足元に転がってからからと回転した。

「元恋人同士の美しい最期はきちんと胸におさめて、チョウ氏にご報告してやろう。さぞお喜びになるだろう」

 そう言い捨てて菊池高志が階段を中ほどまで上ったとき、「おい」と背後から声がした。

 菊池はゆっくりと振り向いた。

 視線の先で、SYOUは立ち上がっていた。

 右足首の枷を煙筒に繋がれたまま、手榴弾を右手に持ち、煙の中で喘ぐような呼吸をしている。

「やっぱり使わないから返すよ」

「ああ?」

「受け取れ」

 若い体全体に瞬時に力が漲り、全身の筋肉が震えると同時にスローモーションのように右手が後方にスイングした。菊池が手で顔を覆って身をのけぞらせるのと同時にSYOUの右手は渾身の力で振り下ろされ、その手から離れた手榴弾はただ鉄の(つぶて)となって菊池の額の中心に炸裂した。

 がっという衝撃音と、ぐ、というようなくぐもった声と同時に血しぶきが飛び散り、一度のけぞって階段にぶつかった男の身体は前のめりになってがんがんと音をたてながら階段を落ちてきた。そしてSYOUの足元で静止すると、あとはただどくどくと額から血を流すひとつの物体となった。飛び出した眼球が、階段の下に転がり落ちて止まった。


 静止した面に球を当てるとき、衝突前後で球の速度が変わらない弾性衝突の場合は反発係数e=1。壁にくっついて跳ね返らない完全非弾性衝突ではe=0。

 e=0。……


 あの日、十四の夏、母親を連れ回していた自分の血縁上の父の車に立ちはだかり、石を手にしたときの呪文が、音楽のように耳に蘇る。


 SYOUは無表情のまま、爪先で男の身体を蹴って仰向けにした。

 男の双眸はがらんとした空洞となって空を見つめている。この結果に対して後悔の痛みや自分を恐れる心があるかといえば、正直どこにもその欠片はなく、ただ体温も精神も氷点下に冷え込んでいた。

 自分の視線の先、男の洞穴のような眼窩の向こうには、ただ揺るぎのない現実だけがあった。

 自分は確固とした意志を持って、渾身の力で人を殺した。

 半分事故のようだった十四の時の件とは違う。

 今この瞬間から、戻れない橋を渡り、あちら側の住人になったのだ。

 ……ヤン・チョウ、澪子、権田眞一郎、ヤオ・シャン、そして……

 その背後に黄月鈴のイメージが、窓のない白い塔のようにすっと立っていた。


 慌ただしく菊池の服のポケットというポケットを探るが、出てきたのは彼の携帯と、さっき渡した隠し箱の鍵だけだった。肝心の足枷の鍵も、銃も出て来ない。さっきの衝撃で転げ落ちたのかもしれない、と思って視線を巡らせると、手の届かない距離に、菊池が自分からいつの間にか奪った携帯が転がっていた。

 SYOUは自分の携帯をあきらめ、男の携帯を握ると、出てくれと祈りながら楊の番号を押した。

 しばらくして、聞きなれた声が応答した。

『ゼンマ―ラ?』

 そう、SYOUの耳には聞こえた。

「楊か。俺だ、SYOUだ。そっちはどうなった」

 わずかな沈黙があった。

『SYOUか。これは、……誰の携帯からかけてるんだ』

「ネズミの携帯だ、彼は仕留めた。そっちはどうだ」

『仕留めた? 殺ったのか?』

「ああ」

『……たいしたもんだな。こっちはなんとか順調に運び出しててあと六人ぐらいだ。詩織はどうした』

「……詩織は酷い怪我をして意識がない、俺は拘束されていて動けない。

 楊、頼む。俺のことはいいから詩織だけでも助けてくれ。彼女は誰か一人が来れば運び出せる状態だ、頼むから誰か」そう言うとまた咳込んだ。

『忘れたのか、隠し部屋からの出口はあんたが封をしただろ。あの上には鉄製の偽装パイプがのたくってて開けられるわけもない』

 あ、と状況を思い起こすと同時に、SYOUは自分のお目出度さに歯ぎしりをした。

『バルジを伝って行ってどこかからよじ登ればいいんだろうが今そんな余裕はない。正臣のクルーザーとの間には桟橋もないし、不安定で受け渡しに時間がかかってる』

「もういい、わかった」

 SYOUは唇を引き結んで言葉を切った。

 いまこそが、誰かが犠牲になったとしても打ち捨てて目的を達成しろと誓い合ったそのときなのだ。自分は何を言っているのか。 

『SYOU、あんたたちの無事については祈るしかないよ。何とか詩織だけでも目覚めさせて海に飛び込ませてくれ、それしかない』

「……わかった、こっちはこっちでなんとかする。そっちもがんばって、全員助けてやってくれ」SYOUはそれだけ言うとなすすべもなく通話を切った。


 室内はもやもやとした煙が立ち込め、直接目に煙が沁みるまでになっていた。

 そのとき、遠くで何度か破裂音がした。ほどなくして、ピーと音を立てて携帯の電源が切れた。

「詩織。起きろ、詩織!」

 大声で叫び頬を叩くが、真っ白な顔を左右に動かすだけで何の反応もない。

 SYOUは足を拘束する鉄の枷を何とか外そうと鎖を引いたり枷の裏表を見たりしたが、頑強な鉄の輪には何の手がかりもなかった。煙道パイプにくくられた鎖を留める南京錠も、びくともしない。そのとき、菊池の身体の向こう、階段近くに落ちているリボルバーに気付く。あれは俺の銃だ。あれで鎖か鍵の部分を撃てば何とかなるんじゃないか? ぎりぎり手を伸ばしたそのとき、ゆっくりと船が傾き、銃は床の上を滑って煙道パイプの根の部分にあいた穴から階下に落ちた。


「あああああああ、畜生っ!」


 SYOUの絶叫にこたえるように、んんん、という微かな呻き声が詩織の喉から出た。

 SYOUは横たわる詩織につかみかかるようにして、その表情を上から凝視した。瞼が震えたと思うとするりと開き、茶色がかった瞳がこちらを見た。

「……しおり?」

 おそるおそる呼びかけると、詩織は数秒の戸惑いのあと、不思議そうに呟いた。

「ここ、……どこ?」

 SYOUは詩織の頭を膝の上に抱え込むようにして、そっと囁いた。

「どこでもない、きみの夢の中だよ」

「夢……」

「いいか、詩織。今から夢の説明をするからね。俺の瞳だけよく見て」

「うん」

「俺の背後に階段がある。夢から覚めるための階段だ、そして上がりきったら小さなドアから出れば海が見える」SYOUは抱きかかえた詩織の子どものような瞳に向かい、祈るような気持ちで優しく語りかけた。

「そこから海に飛び込め。泳ぎの上手いきみには目の前の岸につくのなんて造作もないことだ、そうだろ」

「うん……」

「海から上がる前に夢は覚めてる。そしてきみはほんもののSYOUに会える」

「夢なら、キスして」

「詩織、ちゃんと聞いて」

「夢だからいいでしょ、SYOU。ずっと我慢してきたの。キスして」

 詩織は子どものように抱きついてくると、そのまま当然のようにSYOUの唇に唇を重ねてきた。

 この状況で、まるで仔犬が水を飲むように詩織は無邪気にSYOUの唇をむさぼった。

 詩織の背を抱きながら、そのとき、SYOUはいきなり胸にこみ上げるわけのわからない痛みに打たれていた。

 ……きみの思いに気づかないわけではなかった、自分に何を求めているかも、ずっとわかっていた。

 それでも、近づくものすべてを黄泉の国に誘うリンの宿命を知っていたから、こんな事態にならないように、ずっときみを遠ざけていたんだ。この最期が見えていたから、どうあってもそれを避けたかったんだ。

 それも結局、意味はなかった。宿命は宿命なのか。

 本当はきっと、本当はずっと、ぼくは多分、恋人として付き合っていたあの期間よりも、

 詩織、きみを愛しく、大切に思うようになっていたんだ……


 詩織の甘い髪の香り、絡み合う舌と舌、お互いの背に回す手、二人はどこでもない次元に落ち込んだ迷子のように、ただお互いの身体と自分の存在をひしと確かめあった。


「さあ、行って」

 顔を離してSYOUが言うと、詩織はゆっくりと立ち上がった。

 ぎーっと音がして、船がさらに傾く。

「一緒に来て」詩織は手を伸ばした。

「俺は、……行けない」

 詩織は視線をSYOUの足元にやった。そして、金属の枷と鎖を見た。次に、振り向いて階段と、階段の下に倒れている男を見た。血まみれの頭部と、倒れたまま床で光るライトと、……

 詩織は顔をこわばらせて、次にまたSYOUを見た。

「何も考えるな、詩織。そのまま行くんだ、そのまま階段の上へ。これは夢だから」SYOUは懸命に呼びかけた。

「……嘘よ!」何かを引き裂くような声で、詩織は叫んだ。

「嘘じゃない、頼むから」

 床に倒れたライトは、点滅すると光を急速に弱らせていった。わずかな光の輪の外はもう煙と闇しかない。

「嘘よ、これはどうしたの。こいつを知ってる、この男はわたしが、わたしが?」叫ぶと同時に煙を吸い、詩織は咳込んだ。

「違う、きみじゃない。俺がやった」SYOUは絶叫した。

 詩織は茫然とSYOUの顔を見た。そしてもう一度振り向き、またSYOUの顔を見た。

「あなたが……?」

「そうだ」

 詩織は膝をつくと、SYOUの首に手を回してかすれ声で言った。

「……さすがあなただわ」

 そして広い背に手を回し、愛しい男の身体にしがみついた。

「後悔しないでね。あなただけじゃない。わたしも一緒に殺したのよ」

 またぎーっと音を立てて、ゆっくりと船が傾く。

「早く外に出ろ。詩織、この船はもうだめだ」

 詩織はあたりを見回すと、SYOUの足元にしゃがんで鎖を引っ張り始めた。

「鍵はどこ。誰がこんなことを、……鍵はどこなの!」そう絶叫すると、詩織は激しく咳込んだ。

「頼む、階段をあがれ。詩織!」

「いやよ! 楊さんは、他のみんなは?」

「彼らはここには来られない、あの部屋の出口は俺が塞いだ。ここを出ろ!」そう言うとSYOUも咳込んだ。もうまともに呼吸はできない。

 詩織はその足元で、半狂乱になって爪に血をにじませながら、枷と南京錠と鎖とに空しい戦いを挑み続けた。

「銃は? 何か道具、なにか武器は」

「銃はさっきひとつパイプの穴から下に落ちた。ほかにあるとしても、この揺れと暗さでもう見つけるのは無理だ」

 詩織は這いつくばって床を探し始めた。SYOUは叫んだ。

「出ろったら。わかった、これは夢じゃない。詩織、このままだときみは本当に死ぬ」

「あったわ!」

 階段の裏側から出てきたのは、詩織のブローニングだった。詩織は両手で構え、動かないで、とSYOUに言って、足元の鎖を狙った。

 一発、二発、三発。

 太い鎖の連結部分を撃つが、鋼鉄の鎖は撃ちぬけない。頑強なスチールパッドロックの南京錠も壊れない。絶望とともに濃くなる煙に呼吸を詰まらせて、詩織はその場に倒れ伏した。SYOUはその手から銃を奪うと、詩織に向けた。

 詩織は目を上げて、驚愕に言葉を失った。

「こんなことをさせたいか。こんなところで、自分の思っていた男に撃たれたいか」

「……SYOU」

「行け。俺は最後まであきらめない、あきらめないけれど、きみの目の前で死にたくもない。きみの死も見たくない。一緒に美しく死ぬなんてヒロイズムもまっぴらだ。ただ一つの希望はきみが生き延びることだ。

 詩織、頼む。階段を上がってくれ!」


 口元を覆う詩織の瞳から、滝のように涙が溢れだした。

 

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