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酔 迷 宮  作者: pinkmint
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レディ ステディ

挿絵(By みてみん)



 六畳×2+ダイニング、というスペースしかない楊の棲家は、板敷きの部屋ふたつを開け放っても六人も入ればいっぱいだった。


「これでもエアコン全開なんだがな」若宮は上を向きながら汗を拭いた。


 緊張した面持ちの、そして全員どこか似通った風貌の男三人と女一人は、楊と若宮が板敷きの床に船の見取り図と少女たちの顔写真を並べる間、所在なさげにダイニングの椅子に座って時折玄関のほうを眺めたりしていた。

「楊。あの、……彼は」

 一番細面の男が最初に声をかけてきた。

「SYOUさんなら、九道会との折衝が最終段階とかで、さっき連絡があったからもうじき帰るはすです。でもう一人の“彼女”のほうは、仕事との兼ね合いがいよいよ厳しくなっていま事務所ともめてるらしい」

 若宮が口を挿んだ。

「新しいドラマの仕事を受ける受けないで攻防してるようだが、断るつもりみたいだな。芸能人生命を捨てる覚悟ギリギリまで来てるってことだろう」

 言い終わるか終らないうちに、玄関の鍵が回る音がした。


 ドアを開けて入ってきたのは、一見してハイファッション誌の表紙の外人モデルのような異様な風貌の女だった。街のどの風景にも馴染みようのない華やかさと背の高さに、若宮と楊を除いた全員が呆気にとられた。

 女はトップにボリュームを持たせたブラウンのショートヘアを振ると、ああ暑い、と独り言を言いながらサングラスを外し、ブルーグレーのワンピースの上に羽織った薄手のジャケットをばさりと脱いで腕にまとめた。首の回りに巻いた紫色のスカーフがふわりと舞い上がり、ゆっくりと垂れて胸元を隠した。

「遅れてすみません。どうも、初対面なのにこんななりで」

「いや、なかなか印象深い第一印象になったと思うよ」楊は口の端をくっと上げて答えた。

 客の中で最初に口を開いたのは、唯一の女性だった。

「楊さん、どうも伊藤詩織さんには見えないし、こちらのきれいな人はどなたなの。 ……SYOUさんの友人か何か?」

「いや、その本人です。とにかく毎日暑いんで、フルフェイスのヘルメットにバイクスーツも限界ってことで詩織嬢に手伝ってもらって、ためしにこっちで行こうと」SYOUは笑いながら答えた。一同はただ絶句して、大柄な美女を見上げた。楊が愉快そうに口を開いた。

「外ではばれなかった?」

「ああ、厚化粧なんで多少目立ってたけど」

「九道会のおっさん、びっくりしてたろ」

「毒気を抜くにはよかったみたいだ。全部うまく行ったら後でそのなりで酒を飲もうと誘われた」

 SYOUは呆気にとられている周囲に気づいて言った。

「どうもすいません。顔洗って着替えてきます」

「いいんじゃないか、そのまんまで。新鮮だし、時間もないことだし」若宮が笑いながら言った。

「そうするかな。ちょっと待って」SYOUはそのまま冷蔵庫に向かい、麦茶をコップに移して喉を鳴らして飲んだ。客一同はただ言葉を失ったままその後ろ姿を眺めた。

 そのとき、階段を上がって来るヒールの音が薄いドアの外から響いた。

「ああ、暑い」

 SYOUと同じ言葉を漏らしながら入ってきた若い女優は、部屋の中に揃った面々と、麦茶を飲むSYOUを見ると、続けて言った。

「わたしで最後? お待たせしました、ちょっとそれわたしにも飲ませて。お客様への自己紹介はあとでいい?」

 SYOUのそばに歩み寄り麦茶のグラスを受け取ると、詩織は視線を上げてSYOUの顔を見た。

「そのままで話し合いに入るつもり?」

「監督がそうしろっていうから」

「嫌だな、こっちの立つ瀬がないわ」

 詩織は背の高い美女の頬に軽くキスをして、渡された麦茶を飲んだ。

「そっちの仕事のほうはどうなった」

「全部断ったわ。もう事務所からは勘当状態。仕方ないの、わたしにはもう明日の約束はなに一つないから」

「そうか……」

 横から監督が口を挿んだ。

「大丈夫だ、この若宮がいる限りきみにはいつでも女優への道は残ってる。何しろきみのすべてを生かせるのが女優という仕事だ」

 詩織は面映ゆそうに微笑んだ。

 一同はそのまま、図面の広げてある空間に移動した。


 男たちから順に自己紹介は進んだ。一番目は、最初に質問してきた細面の男だった。

「周です、二十一歳です。こちらの大学に留学中です」

「郭といいます。システムエンジニアをしてました。不景気でリストラにあって現在失業中です」

「宋です。仕事は株式取引、つまりデイトレーダーをやってます」

 最後が女性だった。

「清です、漢方の薬局で働いてます。日本国内での楊善功の広報誌を担当してます」

「漢方か」

 ワンピース姿で胡坐をかいたまま、SYOUは清の顔に目をとめた。

「中国医学で、たとえば鬱や無気力、不安に効く薬はある?」

「ありますけど、漢方はそれぞれの体質に合わせて処方するものなので。表裏熱寒、実虚陰陽とか」

「昔漢方を処方してもらった時は、陽性とか実証とか言われたな」

「だったら柴胡加竜骨牡蛎湯さいこかりゅうこつぼれいとうをお勧めするわ。陽善行弾圧事件の報道を聞いてからずっと自分自身がそんな状態でしたから」

「効きました?」

「強くあるための気休めにしか。いちばんの安定剤は、リン様の苦悩と勇気を思い、ともにあると強く信じることです」

「ありがとう、薬の名前は覚えておくよ、何かの時に役立てよう」

 SYOUは隣の男に目を移した。

「次は宋さんに聞きたいんだけど、日本に来てどれぐらい?」

「もう五年になりますね」

「じゃあ日本の株の現状については詳しいかな。もうじき解散総選挙と言われてるけど、動いてる政治銘柄はある?」

「そうですね、たとえばどこら辺を知りたいんですか」

「ではピンポイントで、N紡績、Gタイヤあたり」

「ああそこですか、けっこう活発に売買が行われてますよ、成長株ですね。両方とも、新党を旗揚げすると宣言したあの伊吹満氏が大株主になってますね」

「動き出したかな」SYOUは小さくつぶやいた。

「あと、暴落のきざしを見せてるところでは?」

「政治銘柄としては、K建設、I化学。これらは明和党の有力者と深いつながりがあったところです。K建設は入札にあたっての明和党の大臣への収賄事件で捜査が入ってから落ち続けてますね」

「わかった、ありがとう」

 SYOUは顔を上げると今度は周の顔を見た。

「聞いていいかな。楊くんとはいつからの知り合い?」

「こちらの大学に来てからです。ゼミで知り合って半年ぐらいかな」

「きみの故郷の家族も信者?」

「いえ、恋人が。当局に拘束されてから所在不明です」

「……そうか。ちょっと聞きたいんだけど、きみから見て楊くんはどんな男かな」

 楊が横目でこちらを見た。

「あまり腹の中をさらけ出さないやつなんでイマイチつかみきれないんだけど、何かは確実に持ってるやつだと。そしてやると決めたことはやる奴だと。僕の無念が煮えたぎってる部分を、きちんとかたちにして叩き潰してくれる奴だと、そういう思いはありましたね」

「なるほど」

 SYOUは次に郭を見た。

「システムエンジニアなんですね。失業中とはもったいない」

「別にそれほどでも」

「常々思ってたんだけど、ハッカーとクラッカーの違いって何なんですか」

 唐突な質問に、郭は神経質そうな細眉を寄せた。

「……えーと、まずどちらも優秀な技術者ですよ。クラッカーは、ダークサイドに落ちたハッカーってところかな。

 ハッカーは黎明期にコンピュータ言語を自由に操ることが出来た人種とも言えます。でもその知識と技術を悪用して、あちこちのサイトに入り込んでは改ざんするような犯罪を犯すような連中が、一時スーパーハッカーとか呼ばれてました。でもプライドのあるハッカーが、つまり技術者たちが、まともなハッカーと区別するために、悪意の連中をクラッカーと呼んだんです」

「言っちゃなんだがきみの国は暗黒部分の技術に長けた技術者が多いよね。実はそっちのほうの仕事なら結構あるんじゃない?」

「技術者としての腕は自分の誇りです。いちばん穢したくない部分で黒い商売なんかしませんよ」

「では月鈴のためになることなら?」

「それならばしていけないことは自分にとってなにひとつありません。なんでもします」郭は即答した。

「なんでも?」

「数えきれないぐらいの死を乗り越えて、リン様は生きている。あのかたは汚れきったこの世界に打ちたてられた美しい道標なんです」

「わかった。ありがとう」

 SYOUはひと息つくと、全員を見廻しながら話し始めた。

「いきなり一方的な質問から始まってすみませんでした。

 改まって言う必要もないかもしれないけれど、僕はSYOUという名前で芸能活動をしていたものです。

 僕は信者としてではなく個人的に黄月鈴という女性と出会い、……そう、一人の少女として出会いました…… その詳細は言えないけれど、今はその意志に添い、望むところを実現するために命を投げ出してもいいと思っている人間です。

 皆さんと違って始まりは恋愛感情だった。それは楊さんから聞いていることと思います。あなたたちと僕とでは寄って立つ場所も信念も行動の動機も何もかも違う。だがおそらく一致しているのは、楊善功の信者である十七人の少女たちを、生きて助け出そうという決意。そしてこれからも生かし続けるべく、新天地へ脱出させるという決意。黄月鈴を愛し尊び、その魂の願うところをかなえようという思いです。

 この点において一致していると思ってくださるなら、その目標が叶うまで、僕とともに行動し、僕に命を預けてほしい。どうですか」

「すでに話した通りだ。異論のあるものは挙手してくれ」楊が続けた。

 手を上げたのは宋だった。

「異論があると?」尋ねる楊に

「質問です」短く答えて、宋は詩織のほうを向いた。

「あなたについては間接的にしか聞いていない。どういう目的でここにいるのか、わかるように自己紹介をしてくれませんか」

 詩織は宋の顔を見据えて、答えた。

「わたしはSYOUと同じく芸能人として仕事をしているもので、SYOUを通じて月鈴さんを知りました。

 立場としてはSYOUと全く同じです。彼女を愛し、その意志を愛し、一人の人間としてまた彼女の志を汲むものとして、十七人の救出に命を懸けるつもりです」

「悪いんだけど、自らの女優としての生命やそれこそ命の危険まで冒して、信者でもない女性がリン様のために行動したいというのは正直、解せない。あなたには、自分や仲間の命を犠牲にしてでも少女たちを助けたいという鉄の意志が本当にあるのか?」

「ええ」

「何を犠牲にしても?」

「もちろん」

「理由が聞きたいな」

「あなたの思うとおり、わたしはSYOUを愛しています。それと同じぐらい、黄月鈴という存在を、個人的に愛しています。それだけです」

「どうして面識もなく信者でもないあなたがそこまで彼女を愛せるんですか」

「面識はあります、口をきいたこともキスされたこともあるわ。これでいい?」

 呆気にとられる周囲の視線の中で、SYOUは言った。

「彼女のことは最後に紹介するつもりだった。今聞いた通りです。僕を認めるなら同時に彼女のことも認めてほしい。

 僕たちが今に至った日々の細部は話せないことのほうが多い。僕らはリンという女性がこういう状況に至った経緯を知り、ともに苦悩し、そして国と国、権力と権力のしがらみから彼女と彼女に類する者たちを解き放ちたいと思っている。十七人の少女はその象徴でもあります。あなたたちを信じるから、僕らのことも信じてください。それが根底に無いと、これからの仕事はこなせない」

「その顔で言われてもね」郭が苦笑交じりに言う。

「話が終わったら化粧は落とします。正直、今も顔が汗ばんで仕方ないんだ」

「変装は落とすなよ。今夜これから船を実際に見に行くんだから」

 若宮に言われ、SYOUは天井を見上げてジーザス、と呟いた。

「SYOUさんへひとつ質問です。いいかしら」清が言った。

「どうぞ」

「楊さんから聞いたことについてだけど、九道会や権田組の実行グループは、あくまで自分たちで任務を遂行すると思っているわけですよね。横やりなしに」

「その通り」

「本当の目的を話して、彼ら自身に協力してもらうわけにはいかないんですか。つまり、少女たちを助けるのが目標とはっきり言うんです。年端もいかない子供を殺すなど正気の沙汰ではないと、九道会も権田組も思っているんでしょう」

「それができない事情がある。あるからこちらも気を使っているんです」SYOUはぴしゃりと言った。

「政治と宗教と中国との深い癒着、そしてガーデンの少女たちに溺れた権力者のスキャンダル。ガーデンの番頭であり番人であり、そして裏のすべてを知る権田組は、政局の流れがかわれば現政権にとってこの上ない地雷になる。着火すれば地雷どころか核レベルです。そして今政局は転換期を迎えている。

 そんな時だから、連中は保険をかけたんです。

 自分達の後始末をすべて権田とその系列の組に押し付けて、到底許されない罪を犯させることで、その罪を帳消しにする自分達との癒着を深め、さらにどんな秘密も外に向かって漏洩できないようにがんじがらめにしたんです。

 万単位の構成員を食わせていかねばならない権田組の代表にはどうすることもできない。今まで、彼らの温情で暴力団規制法からのお目こぼしを許されることで栄えてきたのだから。

 すでに組の幹部会で、権田組長は中国人の愛人の正体をはじめ不透明な部分についての突き上げを食らい、権力者と幹部たちの間で板挟みになっています。彼は何か組の不利益になるところがあれば女は自分が始末すると言い切ったと聞きます。いまいろんな意味で、彼は組にとっての不利益は飲むわけにいかない。

 そして権力筋は徹底的に、実行組である権田組に『犯行』の証拠写真やデータを求めている。裏切りは許さないというわけです。そこにうまく切り込むには、僕たちが何の目的でどちら側から話を持って行っているのか、不透明なままにするしかないんです」

 場は静まり返った。目の前の冷茶をひと口含むと、SYOUは続けた。

「権田組はそして九道会は、結果にすがっている。任務は遂行し、上からの覚えめでたく、しかしできれば子どもの死体が出ないという結果。それをかなえるのが僕らだ。何一つ後ろめたいことのない、そして極めて困難な仕事です。だがここは、連中の得手勝手を一身に受けてやり遂げるしかない」

 SYOUはマスカラのたっぷり乗った重い睫毛をゆっくり上げると、言った。

「もう一度聞きます。このプランに疑問や異論のある人は挙手を」


 誰一人、手を上げる者はいなかった。

 SYOUは静かにあたりを見廻した。


「ありがとう。じゃあ、ここにいるのは本当の仲間だ。まだるっこしいので喋り方変えていいかな。

 丁寧語はもう使わない。

 そしてこれ以降、身の上話も聞かない。ただ目的のために結束する。誰から先につかまろうと、誰のこともけっして喋らない。それぞれが全員を信じる。

 OK?」

 宋が静かに言った。

「リン様のためならば。唯一無二の、あのかたのためならば」

 後に信者全員が続いた。

「あのかたのためならば」

 SYOUは彼らの瞳を見ながら言った。

「そうだった。すべては彼女のために」

 この空気の中で口にするその言葉にまじる、ある種のかすかな違和感を、SYOUはあえて無言のうちに呑みこんだ。

「手を重ねて気合を入れないか」楊が言った。

 SYOUの手を一番下に、詩織の手がその上に乗り、若宮、そして新しいメンバー。最後に楊の手が乗った。

 楊が再び口を開いた。

「SYOU、あんたがリーダーだ。宗教色はなくてもいいから、今の自分の心の祈りを言葉に出して締めくくってほしい」

 SYOUは困惑気味に若宮の顔を見た。若宮はうっすら笑いながら言った。

「思うことをそのまま言えばいいだろ。脚本は書いてやらないぞ、お前の舞台だ」

「……じゃあ」

 SYOUはすっと息を吸うと口を開いた。


「わたしの兄弟たちよ。

 あなたがたは豪胆であるか?目撃者のあるところの勇気ではなく、もはや見ている神もない孤高の勇気、鷲の勇気をもっているか?

 冷たい心、驢馬、盲者、酔いどれを、わたしは豪胆と呼ぶことはできぬ。

 豪胆なのは、恐怖を知りながら、恐怖を圧服する者だ」 (*)

 メンバーの中心で、いきなり詩織が声を上げた。

「レディ・ステディ!」

「ゴー!」

 SYOUと楊が叫び、WEI!と全員が続き、さっと手を沈めると勢いをつけて真上に振り上げた。




 高いもみの木の真上からさっと飛び降りて、両脚を揃えて急降下する。

 悠然と背中で羽ばたく大きな翼に、猛禽類としての自分の誇りを感じる。

 視線の先を必死に逃げる小さな鳥は、羽の裏を青緑に煌かせると、あと少しのところでちーっと叫び声を上げた。


 はっと目を開けると、まだ耳の底にちーっという声が残っている。

 じっとりとした首筋の汗がシーツと一緒に体に絡みつく。視線の上にはほの白い夜の天井。

 そこから身を離すように顔ごと横に向けると、長い髪と白い背中が目に入った。

 チョウはぎょっとして身を起こし、自分もまた服を着ていないのを確認する。これは。ここは自分の部屋か、それとも。……なぜ思いだせないのだろう?

 背中がゆらめいて、ゆっくりと白い頬がこちらを向いた。


「これでいい?」

 これ?

「これで許してくれる?」

 なにを?

「あの子に、ひどいことをしないでくれる?」


 なにか鉄臭い匂いが鼻を突き、さっと毛布をめくると、女の足元のシーツがべったりと赤い血に染まっている。

 あ、と声を詰まらせた次の瞬間、チョウは大声で叫んでいた。

「リン!」



「ジェイ、やはりリン様は呼べないかしらね」

 シェンリュは広いキッチンで紅茶を入れながらいった。

「旦那様が、夢を見てはリン様の名前ばかりお呼びになるのよ」

「入院させて差し上げれば」

 ジェイは冷静に言い返した。

「ご当人が常々拒否なさっているでしょう。陳先生は、今までで一番酷い喘息の発作ではあったけれど命にかかわるような状態ではないとおっしゃったわ。でも、ああまで名前を呼ばれているのを聞くと……」

「猫が原因なら、リン様の近くに寄らないのが一番だろう。何しろ毎日猫まみれなんだから」

「ええ、それは。でもねえ……」

 天罰だ、としかジェイには思えなかった。

 見てはいけない光景だったにしろ、自分は現実を見たのだ。

 あの美しい背中、ベッドに広げていたすべらかな腕。そしてその現実は、この結果につながっている。触れてはならない方に触れた報いを存分に受けるがいい。

「これをリン様のところに持って行って」シェンリュはトレイに紅茶とクッキーを乗せ、ジェイに渡した。

「様子を見てきてね。そして旦那様の容体を伝えてきて。でね、できれば……」

「わかった」ジェイは短く答えてトレイを受け取った。


 洗面所で、リンは子猫を洗っていた。

 深夜の庭で喘息の発作を起こした男の話を聞き流しながら、低めの温度で猫にドライヤーをかけるリンは、話の内容にほとんど興味を示していない風だった。

 これはだめだな、と思いながら伝え終わると、リンはかちりとドライヤーのスイッチを切って言った。

「猫も洗ったし、行っていいのなら行きます」

「行く?」ジェイは思わず聞き返していた。

「そのために来たんじゃないの? 違うの?」

「いや、でも猫が……」

「その発作はこの子のせいじゃないわ」

「……」

「あの人が死に近づくなら、それはわたしのせい」

「リン様……」

 リンはまっすぐにジェイの顔を見た。


「わたしを責める?」


 二人の間に、あの夜の記憶が橋のように横たわっていた。ジェイは視線を外してかすかに下を見た。

「どんな人間も、どんな悪党も、たったひとつの心臓と、たったひとつのこころでできているの」

 リンは猫を撫でながら言った。

「あの人はそれを今、誰よりも意識していると思う。たくさんの心臓を止めてきた人だから、余計に。

 わたしを呼んでいるなら行くわ。そばにいることがあの人の命を縮めることになったとしても、当人が望むなら」



 その日、ヤン・チョウの部屋にはただ静寂だけがあった。


 リンはチョウの傍らに座って花を活け、チョウの好きなクラシックをかけ、座って詩を朗読し、チョウはただリンの顔を見続けた。


 そうして、その日は暮れた。

(*) ニーチェの「ツァラトストゥラはかく語りき」からの引用で、第四話でSYOUはこの台詞を言っています

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