受け入れろ
「ほんとに顔をさらしたのか」
「あんた同様ね」
「こりゃもういろいろと戻れんな」
「今さらだろ」
「……」
若宮は頭をがりがりと掻くと、卓上にノートを置いた。SYOUは数字ばかりが並ぶページを覗き込んだ。
「すごい勢いで減ってるぞ。早々におろしといたお前の隠し金の使途一覧だ。生活費のほかにいろいろと口止め料、九道会に投げ出した銭、そして船長買収にかかった銭」
「船長にはいくらで」
「二百万で話はついた」
「あんたが顔が広くて助かるよ」
「今までゲリラ撮影やらロケやらであちこちに世話になりっぱなしだったからな、基本的に背景の薄暗い連中に人脈だけはある。それにお前と違って簡単に浮浪者に化けられるんでメン割れもないし、実は俺様は生きてるぞとばらした相手はいずれ、ああこのことで立ちまわっていたかとでかいネタが待ってるから協力しろ、と言えば面白半分で乗ってくる連中ばかりだ」
「船長にはどれだけ話した?」
「最後の航海を終えて廃船になるぼろ船だからな。港で起きることに目をつぶってくれという条件付きで三日ほど借りると言っといた。で、口止め料込みで二百万てとこだ」
「乱暴な話だな」
「まあ火災保険には入ってんだからあちらにとっても損にはならんよ。だが」
顔を上げると若宮は言った。
「問題はこれからだ。人数はどうする。やはり増やすんだろ」
「ああ」
「船がでかすぎるからな。それに、まだまだ資金もいる」
「はっきりしないが俺の貯金ならあと二千万ぐらいはある」
「もう少し貯めてると思ったが、相当遊んだなお前」
「早死にするつもりだったからね」
「わかってるんだろうがお前の貯金は使えない。逮捕状が出てるお尋ね者の金を銀行でおろしたりしたら簡単に足がつく。使えるのは今手元にある金だけだ、あと俺の貯金な。だが今はノーマークの俺も、お前とつるんでることが嗅ぎつけられたら早々にお尋ね者になるだろう。そうしたら銀行にも顔が出せなくなる」
若宮はノートをぱらぱらめくりながら言った。
「この先どうするかだ。人を集めるためと口止め料でどんどん使ってればいくらでも減っていく。きちんと計画を立てないと」
「現ナマでいくらある」
「あと三百万ぐらいか」
「使い切っていいよ。このプランが成功したら自首するから」
若宮は手を止めた。そのとき、我回來了(ただいま)、といって楊がダイニングに入ってきた。
「今夜は俺が麻婆豆腐作ってやるよ」
楊は買い物をダイニングテーブルに置くと、重苦しい顔で黙っている二人に気づいて言った。
「……なんだ。何かあった?」
先に口を開いたのはSYOUだった。
「話を詰めてただけだ。やはり人数を増やすことにした。
若宮さんが持ち帰った船の見取り図を見たんだけど、でかくて移動に手間がかかりすぎる。相手は十七人だ、誘導に間違いがあったら命に係わるし」
楊はSYOUが卓上に広げた見取り図に目をやると、若宮に視線を移した。
「人数が必要なら俺が動くよ。だけど、その顔つきの原因はそれだけじゃないだろ?」
「こいつが自首すると言ってるんだ」
「什么?(なんだって?)」
「今はその話はいいだろう。すべて済んだらの話だ」SYOUはそういって楊の次の言葉を遮った。
「時代は変わる、変えようとしている動きがある限り。俺は櫻田さんの言ったことにある程度信頼を置いてるんだ。
俺が檻の中で大人しくしてる間に、若宮さん、あんたは時代を読んでメディアを動かしてくれ。いま市民が知る情報に生のものはひとつもない、必ず発信者がいる。その発信者が力を持てば、流されたものが逆に現実を凌駕し先導し、ものがたりが現実にとって代わって時代を築くこともある」
若宮は静かにSYOUの目を見返して言った。
「……また随分高く買われたもんだな」
「ひとが現実と思ってることの半分は物語だからな。あんたは作り話がうまいし、ドラマ作りもうまい。今回のことについては誰より真実をよく見てる。後々のために全部あんたには晒した。知ったことも映像も好きに使ってくれ」
楊は二人の顔を見比べた。
「……若宮氏に事後を頼むなら、彼が実際の行動班に加わったらまずいだろ。彼まで逮捕されたら元も子もないぞ」
「彼はご老体だし派手なことは頼まないよ、根回しとブレーンだ。まあ、自首するにしても俺は誰の名前も口に出す気はないけどね。そこは日本の警察が、楊善功弾圧に精を出した中国当局やヤン・チョウのやり口よりは人間的であることにかけるしかない」
「お前の場合は楽に死なせてくれる薬なんかないからな」若宮が横から口を出した。肩をすくめてみせるSYOUに楊がいった。
「まあ、まずは無事すませるための算段が先だろう。悪いが俺はあんたが事後にどうなろうとあまり興味はない」
「それでいいよ。あんたが冷静で助かる」
袋を開けて甜麺醤やらひき肉やらを取り出すと、楊はSYOUに呼びかけた。
「まずは腹ごしらえだ、手伝ってくれ。あんたネギを刻むのうまかったな」
渡された長ネギを、SYOUは苦笑しながら受け取った。若宮はダイニングの椅子に座りなおすと、首を振りながら見取り図を睨み始めた。
楊の隣で包丁を握りながら、SYOUは言った。
「頭数のこと、頼めるか」
「いいよ。何人」
「できれば四人ほど。口の堅いのを」
「じゃあ声をかけてみる」
「なるべくドンパチにならないように計画を立てるが、そうならないとも限らない」
「その点はきちんと伝えておくよ。内容を伝えれば大勢が命を惜しむより先に名乗りを上げるだろう」
「正直、その点を利用するようなのが心苦しいんだ」
「すぐそういうことを言う。あんたは何も考えず、若宮氏と計画をきちんと立てるのに専念してくれりゃいいんだ」
その言葉を聞きながら、SYOUは心の中でひっそりと思った。
この男は、わかりやすいようでいて実はいちばん腹が読めない。
押し出してくるキャラと、もうひとつ押し隠しているキャラがあるような気がする。それがこちらの不利益につながるものでないならなんだろうとかまわないが、自分が読めていない意志があるとしたら問題だ。
杞憂であることを祈るしかないけれど……
部屋のドアをノックすると、返事の代わりに猫の鳴き声がした。
チョウは苦笑すると、そっとドアを押し開けた。
足元に駆け寄る恬恬の頭を無意識に撫で、自分の指先を見て少し混乱し、水音の聞こえるバスルームを見やる。テーブルに中華菓子の入った箱を置き、部屋の隅のソファに腰掛けてしばらく待ったが、同じ水音が響くばかりだ。チョウはふと顔を上げ、バスルームに歩み寄ると声をかけた。
「リン」
返事はない。
「リン、聞こえるか。横浜で中華菓子を買ってきた。きみの好きな、すいかの種入りの月餅もある」
やはり水音だけが続いている。
「そこにいるのか。入っていいか」
「……だめ……」
弱々しい声を聞いてすぐ、チョウはすりガラスのドアを開けてバスルームに踏みこんだ。
まず視界に入ったのは、膨らんだシャワーカーテンの裾から出ているリンの白い脛から先だった。さっとカーテンを引き開けると、裸体のリンが浴槽に手を入れてうつぶせに寄り掛かっていた。長い髪は半分以上湯につかっている。一瞬、真っ赤に染まる湯が視界をかすめたが、湯気の向こうは無色透明だった。ほっとしたのもつかの間、リンの横にしゃがんで語り掛ける。
「どうした」
長い髪の貼りつく頬は蝋のように蒼白だった。
「眩暈が……」
首筋に手を当てると、疾走するような薄く速い脈が触れた。棚の上のガウンを掴んでリンを包むと、チョウはそのまま横ざまに抱き上げ、ベッドに運んでそっと横たえた。リンは片手で口を押さえ、横を向いて軽く咳をした。
「気分が悪いか。もどしたか」
「洗面所で、……少し」
「口をゆすぐか」
「それはもうしたわ」
「水分が必要だな。脱水しているかも」
サイドテーブルの横にある小型の冷蔵庫からペリエを出すと、チョウはガラスのコップに注いでリンに差し出した。リンは身を起こして受け取り、二口三口飲むと、ふうっとため息をついてまた横になった。
「……ありがとう」
「医者を呼ぶか」
「いいの、仕方がないの。今は」
チョウは黙ってリンの、ガウンからこぼれる豊かな胸を見、全身から立ち上る切ない甘い香りを嗅いだ。そして、まるで異世界にいるような浮遊感に襲われていた。自分が自分から遠ざかる、あの浮遊感。この女をこの屋敷に引き入れてから、ときどきこうなる。現実が現実でなくなり、自分の位置が定かでなくなる。
この女の身と心を操っているのはあくまで自分ではないのだ。いまも、多分これから先も、ずうっと。
「恬恬」
少し回復したらしいリンはベッドの下に向かって優しい声で呼びかけると、手を伸ばして抱き上げようとした。チョウはその両手を掴み、いきなりリンを仰向けにベッドの上に倒した。
袖を通しただけのガウンからリンの身体がこぼれ出た。この屋敷に閉じ込めてからこっち、ずっと目をそむけていた眩しい体が、白いシーツの上に倒れて花のように香った。
「……」
リンは特に抵抗しないまま、生まれたての鹿のような目を開けてこちらを見ている。
「あの日々を覚えているか」
チョウは顔を使づけると、自分に言い聞かせるように、静かに語り掛けた。
「きみが美しい庭を造り続けたあの空間、血を吸って咲いていた紅薔薇。
きみはまるで残酷な妖精のように、その空間に平然と君臨していた。わたしはきみに狂い、毎日この体を考えることしかできなくなっていた。この絹糸のような髪をひとまとめにひっ掴んで、虐げられた獣のように体をよじらせて、まるで殺人のような勢いで抱いた。ひと月にいちど、一週間、白い肌と鮮やかな血の色を見続けた。帰ればすぐにきみを思い出す。砂漠をさまよう人間のように、飲んでも飲んでも喉が渇く。覚えているか、リン」
「……」
リンはチョウの身体の下で、まだ血色の戻りきらない顔でただ眼前の顔を見た。
「猫を拾ってきて、菓子を買ってきて、当たり障りのない話をしては置き土産を残し、指一本触れずに部屋を出て行く。倦怠期の夫婦か? わたしときみの関係はもともと、食うか食われるかだったはずだ。
やろうと思えばあのとききみを殺すこともできた、きみもわたしを殺すことができた。一緒に死ぬこともできた。そうしておけばよかったな」
足元でなお鳴いてリンを呼ぶ恬恬に、チョウはいきなり枕元のクッションを投げつけた。
「やめて!」
子猫は転げるように部屋の端に走り、ソファの裏に入りこんだ。
チョウは身を起こしたリンを突き倒すと、片手で顎を掴み、片手をその白い腹に伸ばした。リンの顔に初めてはっきりとした恐怖が浮かんだ。
「ここに安穏とおさまっている命を奪って、代わりにわたしの命を宿す。やってできないことじゃない。どうしてそれぐらいのことができないのか、本来のわたしなら造作もないことだろうに」
大きな手が、腹を撫でるとゆっくり下に降りてゆく。リンは顔をゆがめて体をよじった。
「恐ろしいか、こんなことが。あのときはいつでもわたしを受け入れたのに」
「……この子を殺すなら、わたしごと殺してちょうだい」
押し殺した声で、リンは言った。
「だが本音では守りたいだろう。そうやって死刑囚のように怯えて暮らし、わたしの情にすがるがいい。所詮、わたしにあるのは力だけだ」
リンの顎を押さえていた手を離すと、チョウはそのままリンの頬を包んで顔を使づけた。リンは揺れる瞳でチョウの瞳を覗き込み、細い腕をゆっくりとその背中へ回した。チョウは小さな驚きと戸惑いの入り混じった表情を浮かべた。
「幸せになりたいの?」
「……」
「幸せになりたいのね」
リンは自らチョウの頬にキスをした。花弁が触れるような柔らかな感触が、また一瞬男の意識を霞ませた。
「幸せになるためにどうしてもわたしの身体が必要なら、そうして。わたしはそのためにこの世に生まれたのだと、幼いころから父に言われていた。でもきっと、それではあなたは幸せになれない。喉は乾きつづける。あなたはみずから砂漠を作り出してしまったから、そこから出られないのよ。わたしはオアシスを見つけた。あなたはわたしの身体に入ってくることはできても、そこには入ってこられない」
チョウはリンの裸身にのしかかったまま、微かに眉根を寄せると答えた。
「女神のように慈悲深くかつ残酷なことだ。そんな言葉を聞けば、わたしが自分の醜さを恥じて紳士に戻るとでも?
どうせこの身もいずれきみに滅ぼされる運命なんだろう、そんなことはわかっている。きみは美しき死の司だからな。
だがそんなことはどうでもいい。こうして男という男を引き寄せるのはきみ自身なのだ。愛も欲望も死も悲劇も、すべてきみが呼び寄せている。
受け入れろ」
そのあとの噛みつくようなキスは、まるで肉食獣が草原のインパラをむさぼるようで、けれど最初の勢いが静まるとまるで祈りのように静かだった。
やがて波のない湖のようなしずかな気配が満ちてゆく。
短調の何かの旋律が、霧の中を転がってきた。砂漠の幻影と湖が重なり、やがて凪いだ湖面にしっとりと緑の影が落ちた。
チョウが身を離すと、リンは揺れる瞳でその顔を見据え、ひと言囁いた。
「……心肝儿(愛しい人)」
チョウは目を見張った。
「そこにいるの?」
数秒の沈黙の時間は、女の視線の透過する先を追うには十分だった。追った先にはただ痛みだけが凝っていた。
「心肝か。……」
男はその頬に手を添え、冷え切った目で答えた。
「想着、我不是SYOU。没有一点儿心肝 (覚えておけ、わたしはSYOUじゃない。わたしには良心など欠片もない)」
ジェイは背を丸めるようにしてあたりを見ると、裏庭の隅で携帯に口を近づけた。
「……嘘だろう。本気か、どうしてそんなことを」
口元を手で覆って、できるだけ小さな声を出す。
『とにかくこういう計画だ。きみにも協力してもらう』
「楊、無茶だ」
『すべてはあのかたのためだ。きみも役に立ちたがっていただろう』
「僕には自由がない」
『自由がないと思われているきみだからこそ、できることもある』
「これだけ彼のそば近くで監視されてる身だ、どうにもならない」
『心を決めろ、どちらに立つか。いつまでそんな暮らしをしているつもりだ』
「……」
ばんと音がして、夜中の庭に誰かが出てくる気配があった。振り向いたジェイは、台所から庭に通じる勝手口に立つ人影を認め、短く言った。
「切るぞ」
人影はなにか身も世もないと言った風情で芝生をずんずん横切ると、芝生の端のスリングベッドにどんと横になった。
夜中の庭園パトロールをしている身としては、見て見ぬふりをするわけにもいかず、ジェイは何気ない風を装ってゆっくりと、ガウン姿の主に近づいた。
「眠れませんか。お飲物でもお持ちしましょうか」
ふと手元を見たジェイは、チョウが右手にぶら下げているリボルバーに気付き、絶句した。
チョウは空を見上げたまま話しかけてきた。
「ジェイ・チャン」
「……はい」
「わたしは誰に見える」
「は……?」
二、三秒躊躇したのち、主の血走った目を見つめ、ジェイは素直に言った。
「あなた様は張家輝様です。ここのあるじです」
チョウはそのまま銃口をこちらに向けた。
「……」
主の気まぐれには慣れているつもりだった。腹が立てば殴り、罰だと言っては死体の処理を任せてくる。だがその夜、酒の匂いもしないその体からみなぎるかなしみと絶望感は、これまで感じたことのないものだった。
「そうとも」
こちらに銃口を向けたまま、チョウは続けた。
「わたしはほかの誰でもない。もっとこちらに寄れ」チョウは身を起こすとスリングベッドから足を降ろした。
「お前にとってはどういう人間だ」
「……」
一応脳味噌をかき回して妥当な答えを探してみたが、どういったからと言ってあたりも外れもアウトもセーフもないと思われた。すべては当人の気紛れ次第なのだ。
「わたし個人にとってというなら、あなた様は今の生活を保障してくださっている方です」
チョウはリボルバーの弾倉をからからとまわすと、ジェイの膝に銃口を向けた。
まさか?
顔から血の気が引く音が聞こえるような気がしたその瞬間、チョウは躊躇なく引き金をひいていた。
響いたのはかちりという音だけで、あとには静寂だけが残った。
「運のいい飼い犬だ」
チョウは真っ青なジェイの顔を見ると銃口を上げ、口の端を上げてかすかに笑った。
「お前がどこかのネズミどもとつるんでるのはわかってる、そしてあの女をどういう目で見ているかも。
だがお前はどこまで行ってもこの家の飼い犬だ、せいぜい命に気を付けて踊ってろ。それでもリンにとって必要な命だからここに置いてやってたんだが、そのうち自分のしでかしたことを全身全霊で後悔することになるかもしれんな」
「わたしはあなた様を裏切る意志を持ちません」
「そんなことはどうでもいい、見えるものは見えてる。ここはいいからリンの部屋に行って子守歌でも歌ってやれ」
チョウはベッドの上に寝転がった。もみの木のてっぺんで鳥がぎーっと叫び声を上げた。その声を聞いた途端、黒雲のような不安が嵐のようにジェイの胸に湧き上がった。
ジェイはさっと頭を下げると、邸内に駆け込んだ。
暗い廊下を歩き、リンの部屋の前まで来るとドアを見上げ、そのまま数秒躊躇した。
いつも外から施錠されているドアの鍵穴にそっとキーを差し込み、意を決して押し開ける。室内にはベッドサイドのランプひとつが灯っている。
ぼんやりとした卵色の灯りに導かれて、足音を忍ばせ、クィーンサイズのベッドにゆっくりと歩み寄る。何か通常と違う熱気と、肌の香りが立ち上っているような生々しい気配があった。
眠っているのか、ベッドからは呼吸音すら聞こえない。近づくにつれ、枕に広がる長い髪が見えた。 うつ伏せになった白い背中と、両手でベッドを抱えるように投げ出された白い腕も。ふとベッドの下から子猫が顔を出し、にゃあと声を上げた。
一歩踏み出したジェイの靴が、サイドテーブルの足に当たり、こつんと音を立てた。投げ出されていた手がぎゅっとシーツを掴むとうつぶせの顔が横を向き、それからゆっくりと背中が波打って、くしゃくしゃのシーツから体を引き上げるようにリンはゆっくりと上体を起こした。
薄い綿毛布が滑り落ちて全裸の背中がベッドの上に起きあがり、白いバイオリンのようなカーブを見せた。そのまま足を横に降ろすと、上を向いてばさりと長い髪を背中に落とし、こちらを見ないまま手を伸ばして猫を抱き上げる。
ジェイは息を飲んでその場に立ち尽くしていた。
「お願い」
リンは裸の胸に猫を抱き込んで、後ろ向きのまま呟いた。
「……もう、この子にひどいことはしないで」
ジェイは声を立てずに、眼前の白い裸体を見ていた。
そのとき、はっとしたようにリンの白い顔がこちらを振り向いた。
そしてジェイの顔を見ると、片手で毛布をひっつかんで猫ごとその下に隠れた。鋭い叫び声がそれに続いた。
「出て行って!」
リンの叫び声を聞いてから、自分がどう行動したか定かではない。
気づいたとき、ジェイは胸を押さえながら廊下の隅の柱に寄り掛かっていた。そしてそのまま壁を向くと片手で顔を覆い、握りこぶしでひとつ、漆喰の柱を叩いた。