陽だまりと猫とあなたへ
信号で車が止まる。
行きかう車もないまま街路灯に照らされるオレンジ色の道を、ひらひらとチョウのように黒い影が踊り抜けた。
「蝙蝠だ」
楊は窓の外を見ながら独り言のように言った。運転席の若宮はサングラスの内側でちらりと視線を外に走らた。
「俺も蝙蝠みたいなもんだな。
蘇生させてくれた主役が次世代が待望する救世主で、もう片方は追われる身の芸能人と来ちゃ、生き返ったからってお天道様の下で堂々と歩くこともできないし」
「二人がかりで助けてもらったんだから感謝しろよ。俺から見たらあんたはバプテスマを受けたヨハネにも等しい存在だ」
若宮は口の中で小さく吹き出し、いや失礼と言って肩をすくめた。
信号が青に変わる。車はゆっくりと発進する。
「次を右」地図を見ながら楊が言う。
「俺は行ったことがあるんだって」
若宮はハンドルを切り、細い路地に入った。雑居ビルや小さなマンションの並ぶ路地は、時折横切る猫に注意しないと轢き殺しそうになる。
「帰りは俺に運転させてくれよな、若宮さん。どうしても自分でハンドル握りたいって言うから任せたけど、あざだらけの顔と腕で危なっかしくて仕方ない」
楊は横目で、袖口から包帯の覗く若宮の腕を見ながら言った。
「狭い部屋でダラダラしてるのは飽き飽きなんだ。何かしてないと生きてる気がしない」
「死にかけたあんたに生きてる気がしないと言われてもSYOUさんも困るだろうな」
「リアルだろ。実際そうなんだよ」
若宮は車を静かに路地の端に止めた。当然のような顔をしてコンビニ袋からラムの瓶を取り出し、蓋を回す。
「いくら止めても全然聞く気がないな」楊はため息をつきながら横目で若宮を睨んだ。
「俺はまだ夢の続きのような気分なんだ。こいつで人生の裂け目を継がないと、なかなか復帰できそうになくてなあ」
「裂ける前から口実作っては飲んでたとSYOUさんが言ってたぞ」
「蛍もそう、俺もそう。こっちの水は甘いぞ。下等な虫はより下等な甘い水が好きなんだよ。所詮現世はひと夜の夢物語。そうそう、あんたの国のあれだ、かの于武陵さんもいってる」若宮はするすると窓を開けると、花の香りのする夜風を受けながらラムの瓶を夜空に掲げた。
「この盃を受けておくれ、どうぞなみなみ注いでおくれ。
花に嵐のたとえもあるぞ、さよならだけが人生だ」
静まり返った夜の街にパンプスの踵を響かせながら、詩織は視線を下に向けて早足で歩いた。
用を済ませて車に戻ろうとしたものの、車のキーがない。どこかで落としたとしたら、あの自動販売機の前か、それとも……
麻のジャケットのポケットをさぐり、鞄を開き、クロップトパンツの後ろポケットに手を入れたとき、二重構造のポケットの内側に固いものが触れた。
引きだしてキーを確かめ、胸をなでおろしたその時。
視線の先の販売機の前で、屈んでいる男の姿に気づいた。
くたびれたサファリハットをかぶり、よれよれのジャケットにサイズの合っていないズボン。足元をふらつかせながら販売機の下に手を差しこんでいる。やがて男はしゃがみこむようにして下の隙間を探り、一枚の封筒を手にすると、ふらつく足どりで歩き去った。
詩織は慌てて、電柱の陰で脱ぎ捨てたパンプスを片手にまとめて持つと、そのまま路地を疾走した。
男の背中が表通りの方向に消える。
同じ方角に道を曲がると、男はちょうどエンジンをかけたまま停まっている黒い車に乗り込むところだった。
路上生活者じゃない? 今置いたばかりのあの書類のことをどうして知っているの?
詩織は裸足のまま道路端に立ち、左右を見回しながら手を上げた。そして折よく通りかかったタクシーを止めると、乗るなり尖った声で言った。
「すぐ出て。目の前のあの黒い車を追って」
「はいよ」運転手はにやりと笑うと、ぐんとアクセルを踏んで乱暴に車を発進させた。
詩織は身を乗り出すようにして前方を凝視した。
持ち去られた手紙。
苦労してかき集めた、父のミッションの内容。
少女たちを監禁しているガーデンを「粛清」し、「掃除」し、早急になかったことにするという恐るべき計画の全貌。
もうあまり時間はない。現在居場所のわからない、自分の知っている番号の携帯も持たないSYOUに詳細を知らせることのできる唯一の方法だったのに。
ただの浮浪者ならいらない封筒はそのまま捨てるだろう、だが相手は意志を持って持ち去っている。 どちらサイドから出てきた人間にしろ、行く先を押さえないわけにはいかない。詩織は大きめのバッグを探ると、布を通して金属の冷やかさが伝わってくる重い塊をぐっと握りしめた。
「……付けられてるぞ」
バックミラ―を見ながら、楊は言った。
「聞いてるか若宮さん。あのタクシーが妙だ。明らかにこの車を追尾してる」
横を見ると、若宮はサングラスをずらしたままドアに寄り掛かって寝息を立てていた。
「……咍」(おい)
楊はため息をつくと携帯を片手で操作し、耳に当てた。
卓上の地図を覗き込んでいたSYOUは、机の上で震動する携帯の送信者の名を確認すると手に取った。
「ハイ」
『ハイ、兄弟。まずいことになった。車が付けられてる』
「どんな車輛だ?」
『タクシー。警察じゃなさそうだ。よく見えないが乗ってるのはひとりのようだ』
「あんたが運転してるんだな? 若宮さんによく見てもらって性別と人数を」
「酔って寝てるよ」
SYOUは天井を見上げると、ああもう、と口の中で呟いた。
「それで手紙は置けたのか」
『置けたと同時にグッドタイミングで手紙が手に入った。例の彼女からの通信だ。もうかかわりを絶とう、というあんたからの手紙の返礼にしては相当凄い内容のな』
「どんな?」
『隣の酔っ払いが膝に広げたとたん鼾かいてたんだが、その紙面がいま視界に入ってる。ガーデン粛清計画の日時や方法が書いてあるようだ』
「……粛清?」
『その二文字は確実にある』
SYOUは目の前のテレビのCNNニュースの音を下げた。前髪をかきあげ、忙しく頭を巡らす。もうここから先に絶対詩織を巻き込んではいけないと決心して手紙を書いた途端、これか。運命ってやつはどうしても、自分と彼女の縁を断ち切りたくないらしい。
「とにかくその書類込みで、いろんな意味でここにそのタクシーにのってるやつを連れて来られたらまずいな」
『わかってる。とりあえず捲くか、捲けなかったらひと気のない場所にお連れして全力で阻止するしかないな。おせっかいを』
「あまり物騒な手はつかわないでくれ、すべてはこれからなんだから。あんた一丁ブツを持ち出しただろ」
『今はもう何があるかわからないからな』
「銃刀法なんたらで事が始まる前につかまったら大損害なんだよ。二度と持ち出すな。それと、今は使わないと約束してくれ。とにかく、捲いてくれ」
『いろいろわかってるから、後は任せとけ』
楊は携帯を切ると、上目づかいに後ろのタクシーを見やり、グローブボックスに目をやった。
早々にあれを使うことになるかもしれないという緊張に、身を震わせながら。
電話を切ったSYOUの耳に、デモ隊の歓声と、CNNの女性アナウンサーの英語が流れ込んできた。
……世界中で潮流となっている陽善功の平和祈願デモは、ここサンフランシスコでも今日一万人を超える規模となり、デモが散会した後も参加者は公園や広場に集まってシュプレヒコールを繰り返しています。
口々に叫ばれる月鈴の名前の前に、もう教祖の名前は聞かれません。
たった一枚の少女の写真から起こったムーブメントは今や、宗教弾圧への抗議、信教の自由の主張、人権を迫害する国々への抗議、核廃絶、世界平和へと主張は広がり、参加者の多くも信者とは関係のない市民で……
……全部それでいい。だが、彼女の名を出さずにやれよ。
SYOUはテレビを消すと、卓上に肘をついて両手で頭を抱えた。
こっちの水は甘いぞ。蛍も人も同じだ。汚れた水が滔滔と流れて人の世を腐らせるこの現代において、澄んだ水、甘い水の匂いを嗅ぎつけたひとびとが、のどを潤そうと集まる。つまり今起きているのはそういうことだ。皆喉が渇いているんだ、夢を飲んで潤さねばならないほど。
そうぶつくさいっていた若宮の言葉が、ニュースを消した後の静寂の中で蘇った。
蛍か。それもいいだろう。
だけど、いつになったらあんたは大事なところで、己の魂を溶かす甘い水で前後不覚になる癖をやめられるんだよ。
ガーデンの場所に印をつけた地図を睨みながら、SYOUはただ、二人が無事な姿でここに戻ることだけを祈った。
ただ一つ確実な現実がある。何度も何度もそれを思い知った。
ひとりでは、なにもできない。
甘い吐息に似た小さな息が顔にかかり、それで毎朝目が覚める。
覚めて窓の外を見て、改めて自分の置かれている状況を知って、それから一日が始まる。
それでも目の前の小さな顔がにゃあ、と甘い声を出すと、小さな喜びが体の奥から湧き上がるのだった。
リンはベッドの中で身を起こし、にゃあ、と同じ声で答えると、鼻先を子猫の鼻面にくっつけて囁きかけた。
ご飯食べようか。
トイレする?
お水飲む? それとも遊ぶ? 遊んじゃう?
子猫はリンの長い髪を玩具にして遊んだ。
噛んでじゃれついてひっかいて、痛い痛い、とリンが笑いながら抱き止めて、それから抱っこして窓際のソファに座って外を見せる。
外には出られないのよ。外の世界はここから見るだけ。
あれがサルスベリ、あれがザクロ、あれが猩々花。
世界は見ているだけなら、十分美しいの。
それから俯いて、お腹の命に話しかける。
おはよう、きょうもそこにいる?
マーマもここにいる。今日も一日、一緒に生きようね。
あなたが宿ってから、この体は暖かい。
今この体には二つの心臓がある。
わたしの心臓と、SYOUがくれた心臓。二つ揃って動いている。それはなんて力強く、そしてかなしいことだろう。
また会える、きっと会えると信じなければ、この喜びと悲しみを日々乗り越えていくのは無理だった。
わかっている、自分は卑怯者。
考えなければならないことを考えずに、今この陽だまりの中にいる。
わたしは二度死に、そして二度生かされた。
SYOUに出逢って、背中を撫でてもらって、いい子だねと言ってもらって
ああこれでもう本望だと思った。
これで死ねる。あの悪魔のような男たちに復讐を果たし、自分と父の名のもとに地獄に落ちた何千という人たちのために死ねる。
ヤオと一緒に死ねる。
なのにガーデンは爆破され、ヤオは自分をかばって死んだ。その最後を覚悟していたから何でもできたのに、ひととしてしてはいけないことも人を捨ててしてきたのに。
この世に放り出されたのは、ただ死者の血を纏った呪われたからだ。
二度目の命はSYOUがくれた。
愛し愛されるという喜びの中の束の間の幸せ。
あの一時期、自分は過去の記憶を捨てていた。たぶん、自分から。
なにもかもから許されたかった。
溶けるように幸せだった。
でも現実が立ち戻り、わたしはSYOUを傷つけて彼の手元から逃げた。
どこまで行っても重ならない、重なってはいけない自分とSYOU。
たとえ一人でも、できることはある。最終目標だった男に復讐を果たし、その場で自分も死ぬ。
なのに、世界がこの名を呼ぶ。
わたしがいなくては生きられないという。
そして胎内に、愛する人の命が宿った。
もう武器も憎しみも持てない。
自分にできるのは、愛することだけ。
この家に来たときは、もしヤン・チョウがこの身を穢すことがあれば、刺し違えて死ねばいいと思った。だから身を捨てて自ら捕えられたのに、もうできることはない。この子を産ませるつもりでいるのかいないのかわからないチョウが、気を変えて無理やり処置させないとも、いきなり暴力で身を奪わないとも限らない。むしろそうしていない今のほうがよほど異様なのだ。
今まで見てきたどんな彼とも、この家に来てから見る彼は少し違う。
でも、こんな不自然な状態はいつまでも続かないだろう。
そうしたら自分はどうする?
どうしたらいい?
お父様。SYOU。
どうかわたしのために祈ってください。
わたしが今のままのからだで、いつかかならずSYOUに会えますように。
今のままのからだでなくても、生き続ける誇りと勇気を失っていませんように。
もし運命が味方せず、出会いのとき命を失っていても、愛する人の目に自分が美しくありますように。
わたしはあなたのためだけに、きれいになりたかった。
リンは子猫の頬に頬を摺り寄せると、ごはんにしようか、と言ってソファから立った。
「どうぞ」
指を揃えて陶器の餌入れを子猫の前に押し出すと、猫はにゃごにゃごと小さな声を上げながら魚の缶詰を食べた。
リンは床に座り込んで、細い声でSYOUの歌を口ずさんだ。
きみがしんだら、かき氷のようにきみを削って
しゃりしゃりと削って
羽根のように軽く何枚も、なんまいも折り重ねて
あまいあおいシロップをかけて
とけてしまう前にぼくのものにしよう
誰かに聞かれても、きみなんていなかったのだと
何もなくなったガラスの皿を前に平然と言おう
ガラスの皿にはバラの花が彫ってあって
ぼくはそのバラのことしか知らないという
ずっとこのバラしかみていなかったのだと
だれにもわからない、きみがぼくのものになったなんて
きみのことを忘れないなら、ぼくもいつかバラになれる
ガラスの器にうがたれたバラのかたちの空洞になる
ぼくらはもうどこにもいない
どこにもいない
いつまでも バラの氷の中に棲んでいる