これは俺か?
全身の痛みが点のように散らばって、その分布を辿ると自分のかたちがわかる。
ああこれは、モデルの全身にポイントを付けて動かし、その動きをCGでなぞってスムーズなアニメを作る技法と似ている、などという考えが二秒ほどの間に浮かび、それよりも痛い、というストレスですべてを放棄し、再び闇の中に戻ろうとするが今度は意識が消えてくれない。
そんなことを何度繰り返しただろう。一年ぐらいやっているような気もするし、ついさっき始まったばかりのような気もする。
もう頑張ったんだから許してくれ、と何かに頼みながらいやいや目を開けると、見知らぬ男が薄暗い天井を背に複雑な表情で見降ろしていて、その素っ気ない面構えに、もう少し面白い世界で目覚めたいものだとまた目を閉じる。
何処かの世界で一瞬、天女のような女に抱き締められたような夢の記憶が残っているんだが、あそこにもう一度いけないものか。
「おい、こっちへ来い。今度は目覚めそうだぞ、兄弟」
誰の兄弟だ?
すると今度は、あまりに見慣れた顔が男の背後からこちらを覗き込む。
あれ、何やってるんだお前。せっかく人が頑張ったのに、こっちの世界に来やがったのか。どうしてこんな薄暗い場所で、なんで俺とおなじ世界に。それともよく似た誰かか? 語り掛けようと唇を開くが、他人のもののように口の動きすら思うに任せない。
「しょ……」
「……しゃべった」
見知らぬ男は身を引いて、背後のよく知った顔に場を譲った。
やっぱりお前だ。なんだよ、どうして、なにがあって……
「……死んだんだ?」
「なに?」
「なんで、お前まで、し……」
睫毛の長い、澄んだ瞳の男の細い指が伸びてきて、額に触れる。それから頬に、顎に。
「俺がわかる?」
懐かしい声が静かに尋ねてきた。
「しょうた」
「そうだよ」
今度は、胸の上に置いた手がぎゅっと握られた。
「……若宮さん。生きることに決めたんだな」
「お前、……生きて……のか?」
じっとこちらを見ていた瞳が、俯くと同時に前髪で隠れ、左手がその目を覆い隠し、そのまま声を立てずに彼が嗚咽するのを、若宮は他人事のように見ていた。それから、ああ、一度死んだような気がするが今は死んでないらしいと、さして感動を伴わないそんな認識がのろのろと頭の後ろからやってきた。
時間の感覚があいまいで、いつから自分がどこにいてどういう経過で今があるのか、記憶は行きつ戻りつして定まらない。切れ切れの記憶はろくでもないものばかりで、目の前の晶太は十二才だったり、いきなり若い自分に重なったり、あさま山荘の玄関が鉄球でぶち壊されていたり、裁判所のような場所で人民服姿の江青女史が叫び散らしていたり、中国語で罵倒されながら自分の血しぶきを見ていた記憶がそれにとって代わったりするのだ。
何度か無意識の闇に沈みながらようやくきちんとした意識が保てるようになったころ、窓の外には陽が差していた。
「あんた、中国人か?」
ひと肌よりちょっと温かい程度のジャスミンティーを掌の中に抱えながら聞くと、無愛想な細い目の男は「楊といいます」といって口元にうっすらと笑みを浮かべた。
「お前中国人の知り合いがいたっけ」
パイプベッドのそばでじっと片膝を抱いてこちらを見ているSYOUに尋ねると、
「ごく最近の知り合い」と簡単に答えてから
「昼寝から起きたような顔してる」と呟くように言った。
「どんな顔すればいいんだよ」
SYOUの目が真っ赤なのに改めて若宮は気づいた。
「泣いてくれてたのか」笑いながら言うと
「何から覚えてる」と、混ぜっ返しもせずにSYOUは言った。
「だいたい思い出した、最後は数人に囲まれて無茶苦茶殴られた記憶で終わりだ。で、俺は何で生きてここにいるんだ」
「あんたに渡したのは仮死状態になる薬だ」
「仮死?」
「ヤオから渡された二種類の薬の一つ、即死できる方は渡さなかった。けどどちらにしろ毒には違いないから、効果は紙一重だと彼は言った。弱った体で服用したらひとたまりもないと。
あんたを拉致して拷問した連中の親玉からあんたが毒をあおって自害したと聞かされて、その写真を見たとき、心底凍りついたよ。弱った体どころじゃない。
もしもあんたを連中が海に捨てるか地に埋めるかしていればもう終わりだ。そうでなくても、人里離れた場所に放置したならさっさと拾いに行かなければその先がない。首を絞め上げてでも何とかしてあんたの居場所を聞き出そうともう必死だった」
若宮は呆れた顔で言った。
「親玉というと……」
「ヤン・チョウ。リン欲しさにガーデンを爆破した狂気のストーカー。その張本人だ」
数秒、若宮は黙っていた。
「で、……その親玉が俺の場所をあっさり教えたと? お前に?」
「あっさりじゃないけどね」
「信じられないな。どうやって聞き出した」
「そこはいろいろと面倒なので省略」
若宮は訝しげにSYOUの顔を見た。SYOUはその視線を無視して話を続けた。
「場所はY県の百穴の森とだけ教えられた。あの広い、穴だらけの森からあんたを探し出すのは容易じゃなかった。ひと目につかない時間帯を選んで、入り口を隠したという穴を探し続けた。三夜通ったよ。結構恐ろしい場所で、最近その穴の一つに落ちて死んでいる近所の牧場の少年が見つかったと聞いた」
窓の外では午前の陽光が満ち始めているものの、何処かの廃ビルの一室のようなその部屋の中は、分厚いカーテンの内側でじっとりとした湿気と薄闇に包まれていた。
「やっと見つけて引きずって帰る途中、盗んだ車に至る道で、見るからに怪しい男に出逢った。夜中にあの森に用のあるやつなんてろくなもんじゃない。俺から話しかけると、彼はジェイと名を名乗り、ヤン・チョウに雇われている身だと俺に打ち明けた」
「……本当か?偶然にしちゃ随分できた話だな」
「チョウに命令されて遺体を隠した張本人が、発見されていないか確かめに来たと。そこで墓泥棒と遭遇したわけだ」
「凄い話だな。……で、今度はそこをどう切り抜けた」
「あの男は、……あいつのほうから俺に、頼みごとをしてきたんだ」
しばらく、SYOUは黙った。そして改めて若宮を見ると、口を開いた。
「若宮さん。
俺はあんたに何重にも謝らなくちゃいけない。
あんたも俺も、リンを守るために戦ってきた。あんたはそのために命までかけた。
そのリンは今、ヤン・チョウの手元にいる。あんたを殺そうとしたやつで、しかもリンを慕う陽善功の信者を大量虐殺した張本人の元に。
……俺が託したんだ」
若宮は、にわかには信じられないという風情でただ黙っていた。
「……なぜ」
「国と国が双方で葬り去ろうとしている一人の女を守る力が、俺個人にないのを再認識したからだ。心中するか、それとも、稀代の殺人鬼が命がけで守ると言っている言葉を信じるか。俺は後方に賭けた。あいつの思いだけは真実だと思った。そこだけは」
背後で楊がナイフを研ぐ音が響く。手術用の、細い小さなナイフだ。
「これ以上説明しても、許してはもらえないと思う。……この世界にはどうしようもないことがあるんだ。あいつに託すぐらいなら俺が連れて行けばよかったのかもしれない、この世の外に。でもそれだけは選べなかった。
ただ、あんたは笑うかもしれないけど俺も、俺なりに、まじないをかけたんだ」
「まじない?」
SYOUはいったん唇をかんで黙ると、膝を抱え直して続けた。
「母が、……本を読むのが好きだった母が昔、話していた。自分の念を相手に込める方法。生霊を手渡す方法。魂に割り込む方法。南の島のプリミティブな神話伝承に基づくやりかたでも、しないよりはましだと思えた。相手の血と精を吸いこみ、そのかわりに念を送る。少しでも、俺の一部が彼の魂に食い込むように。分身として彼女を守れるように」
「……」
そのまま宙を見つめるSYOUの、彼独特の射るようなオーラが分散してしまったような心もとない風情に、もしかしてこいつは本当に自分の一部をどこかに置いてきたのかもと若宮は思った。
「この世界にも奇跡はある。だからあんたも今生きてる」
背後でぼそりと楊が言った。
「あんたに脈と体温が戻ったのは三日前からで、彼が拾って二日、あんたは死体だった」
「したい? 仮死状態だろ?」
「死んでいたんだよ、完全に。監督さん」
「……」
意外な言葉に、若宮は言葉を失った。SYOUがあとを続けた。
「最初は仮死状態と信じたくていろいろ、楊さんにも手伝ってもらって蘇生を試みたけど、蘇生も何も、死んでるんだ。脈もなければ息もない。あんたは確かに死体だった。俺は他人の部屋に死体を運び込んだわけだ」
「悪い、聞いていいか。お前と楊さんはどういう関係なんだ」
若宮の言葉に、SYOUは楊を見ながら言った。
「あの百穴の森の出口で、ジェイという男は言った。
チョウのそばで自分はリンを見ていると。彼女は憐れだと、自分が仕えている主人よりきみのものになるべきだと。
そして、そういう未来が訪れるように、できることがあれば力を貸すと言ってくれた。月の美しい夜で、まるで何かの奇跡が俺と彼をめぐり合わせたような気がした。初めて、リンを見失って初めて、俺は彼女の消息を聞いたんだ。その場で泣き崩れそうだった。いつも何からも逃げなかった彼女はひとり、孤独の中で懸命に闘っている、そしておそらく、俺を待っている。俺とあの場を繋ぐひとつの道ができた。
ジェイはひとり、友人を紹介すると言ってくれた。医者を志す、高校時代の友人が日本の大学に短期留学している、彼の実家は全員が宗教弾圧で逮捕され行方不明で、帰る家を失っている。日本にも陽善功の地下組織はあり、その援助を得てどうにか暮らしている。自分が連絡しておくから彼を頼れと。それが楊さんだ」
「ジェイ・チャンは香港出身で、父親がチョウの事業の会計を担当していたんだが、その父親がこともあろうにチョウの金を横領して高跳びしようとしたんだ。報復で家族全員殺された。そのとき十八だった奴だけはどういうわけか目をかけられて彼のもとに取り込まれた。まあ放蕩もので腕っぷしだけは強かったからね」
楊は淡々と言った。
「つまり飼い殺し状態と」若宮が続けた。
「まあ、そうですね」
「楊さんの協力があってここに運び込めたものの、仮死状態と説明したあんたが死体とわかってさすがの彼も躊躇したんだ。死体遺棄だと犯罪になる。死体を預かると言った覚えはないと。だがそこに、あの画像だ」
「なんの?」
楊はテーブルの上のノートパソコンを立ち上げ、ひとつの画像を見せた。
長くもつれた髪の一人の美少女……リンが、ピンクの服を着た髭面の男を抱きしめ、涙にぬれた目でこちらを見ている画像。男の目はぼかされているが、昆虫柄の悪趣味なピンクのシャツの柄は鮮明だった。
「何だ、こりゃあ」若宮は頓狂な声を上げた。
「これは。……これは、俺か?」
SYOUは静かに続けた。
「そしてあんたは蘇生した。
誰が何をしたからでもない。俺たちが途方に暮れてただ顔を見続けて二日目、息をし始めたんだ」
若宮は穴が開くほど画面を見た。
天女のような女に抱きしめられた夢。
……夢じゃなかったのか。いや、俺はこの画像を見ている。自分の視点からじゃない、もっと上、いやこちらに引いたカメラから見るように。俺の魂は体を離れていたってことか?
「この画像はネット上に流出し、息をひそめていた楊善功の信者が、火がついたように世界のあちこちでムーブメントを起こしている。リン様を思え、リン様に倣え。彼女は生きている、そして信者のために苦しみ戦っている。
あんたは光栄この上ない殉教者として彼女に抱きしめられていることになってるんだ」
「……」
「リンには他人を、特に好きな相手を癒す力があった。それは知っていたけど、死者の蘇生までやったらもう人間じゃない。そもそもあんたのいた場所へどうやってたどりついたかも謎だ。
蘇生についてはおそらく、死にも深度があると仮定して、あんたの死は浅い死だったんだろう。仮死の薬で心臓を止められたものの、そう遠くへは行っていないレベルの。
リンはひたすら願っただろう、あんたが生き返ることを。心から祈って抱きしめて泣いたんだ。そしてあんたの魂は戻った。それが事実だ」
若宮は、こちらを見つめるリンの美しい瞳を見ながら、目の縁に熱いものがこみ上げるのを覚えた。
「この画像が世界中の信者の勇気を呼び覚ましたように、あんたの生存は、さらに彼女の奇跡の証拠となる。ファン・ユェリン様は、死者さえ蘇らせたと」
若宮はごしっと目をこすると、SYOUに向かって野太い声で言った。
「もういい。
SYOU、お前はどう思う。それは彼女が望むことか?」
「いいや」
SYOUはきっぱりと言った。
「彼女は信仰の対象になることなんてこれっぽっちも望んでいない」
「そうとも」
「国と国との思惑で生きながら死んだことにされ、利用され、そして命を狙われ、今度は生き神扱い。 ひとの妄想のために彼女は生きているんじゃない」
「その通りだ」
「彼女の望みは、誰の思いも恨みも背負わずに済む、一人の個人に戻ることなんだ」
SYOUはそこで息を吸い込んだ。
「それを最後には叶えてやりたい。俺がしようとしていることのゴールはそれだ。だが楊さん」
SYOUは青年を振り向いた。
「あんたは信者としてどうなんだ。俺に助力してくれるあんたの望むことと、俺のやろうとしていることが一致しないなら、これ以上世話をかけるわけにいかない。彼女が世界の信者の希望になり、やがて表に出て人々を導くのが望みなら、俺とあんたの道は別れることになる」
「とりあえずしようとしていることがあるだろう」抑揚なく、楊は言った。
「ガーデンに幽閉されている陽善功の少女たちを解放すること。最初にするのはそれだとあんたは言った。彼女が唯一望んだことだからと」
「その通りだ」
「それがあるなら協力する。少なくともそこまでは。
俺は食いつめているがあんたは貯金がある。目立つので自分じゃ引き出せないというが俺なら引き出せる。つまり当面の利害は一致している。そのあとは、俺が見て感じた心の方向に添って協力しよう」
「わかった。これで利害は一致したな」
「おい」
横から若宮が割って入った。
「酒はないのか」
「いきなりなんだよ、まず飯を食えよ。粥が焚いてある」
「食ったら酒があるのか」
SYOUは苦笑した。
「ないと食わないのか」
若宮は頭をぐしゃぐしゃと掻き回した。
「酔うしかないだろう、酔うしか。いまそんな心地なんだ。ああ、変な気分だ」