開く扉、閉じる扉
手を伸ばしてダウンライトを消し、遮光カーテンの裏側に身を隠す。背中に窓硝子が当たり、風が伝える震動が直接体を揺する。
中央のカーテンの合わせ目から室内を窺うと、廊下の灯りが点灯されているのが見えた。
玄関の靴はいつも用心のために引きあげてある、在宅を知らせるサインはない筈だ。
やがて居間の入口に現われたシルエットに、SYOUは危うく声を上げそうになった。
長い髪の、ほっそりした身体。すんなりと身に添うワンピースを着た、少女のすがた。
詩織、……じゃない。
宝琴でもない。
なぜ?
これは幻か?
少女は居間のスイッチに手を伸ばすようにして、しばらくためらった後、その手をそのまま降ろした。廊下からの灯りを背に逆光となって浮かぶ黒いシルエットの表情は、全く見えない。
心臓の音が、その鼓動が、カーテンを揺らし、室内の空気をざわめかせているのではとさえ思う。銃を持たないほうの手で思わず知らず、SYOUは口元を押さえていた。
澪子の言葉が脳裏に反響する。
『もし会えるなら会えるうちに会いなさいね、リンと。あなたたちはそのために、きっと生まれてきたのだから』
これは運命の罠か。
自分は何度も思い、悩み、考えつくしたはずだ。会いたい、でも会ってもどうにもならない。自分の愛は力を持たない。
だがすべての理屈を押し流す激情が一気に体の内側に向かって押し寄せ、リボルバーを握る右手をぶるぶると震わせていた。
こんなものを持ちたくなんかない。
武器がほしかったんじゃない。
欲しかったのは彼女の身体、あの香り、その存在全てだ。目の前にいるきみだけ、ほかには何一つほしくなんてなかった。最初からそうだった。
この手にある陰気な武器、一発の銃弾。
回数を決めて引き金を引き、それで生き延びるようならその先に踏み出そうと、そんな風に自分の運命を預けようとしていた金属の塊。
……そう、ぼくらはこれですべてを終わりにできる。
今出て行ってきみを抱きしめ、会いたかったと言って……
ぼくはリンを、リンはぼくを、隅々までもう一度確かめて、相手の名を呼びながらあの高みへと昇る。その瞬間があれば何もいらないと思ったほどのあの幸福感とともに、銃でふたつ重ねに胸を撃ちぬく。リンのすべらかな背中に銃口を当て、抱きしめたまま引き金を絞ればいい。
そのあとには何の悲劇ももうない、醜い現実も辛い人生も。
それでいいのか、いけないのか。
リン、きみがこちらに足を踏み出し、そして手を伸ばしたなら、ぼくはあらがう自信がない。ぼくはここだと言って、何もかも捨ててきみの前に立つだろう。
それでいいなら、来てくれ。二人ですべてを終わりにしよう。
胸が早鐘のように鳴りつづける。
少女はまるで亡霊のように、ただそこに立ってこちらを見ていた。
そしてふと横を向くと、寝室のドアの陰に姿を消した。
SYOUは自分の動悸を聞きながら目を閉じた。閉じた瞼の裏に、不思議に壁の向こうの彼女の姿が素通しに浮かんだ。
きみはベッドに腰掛けている。そして、シーツの上に指を這わせ、そのままうつぶせに倒れていく。ベッドの上に髪を広げて、シーツを握りしめ、枕を抱えて、……
白い足と、手と、紅潮した頬と、ため息のような息遣い。
でもぼくは部屋に入らない。会えば一緒に死ぬしかない。
頬をながれる涙と、猫の子のような細い声が続き、……
まるで夢のように、彼女の嘆きと求めは、そのままSYOUの琴線を遠慮なく揺るがした。
臓腑の奥の、いつもしまいこんでいた本能の嵐が、切ない声を上げて彼女の幻想に絡みつく。暁の一線のような、夜明けの瞬間のような頂点に向かって高まってゆく自分が、実体を持たないままやがて虚空にはじけ飛びばらばらに散ってゆくのを、まるで途方もない花火を見るような気分でSYOUは茫然と眺めていた。
すべてが静まった時、SYOUは目を開けた。
寝室のドアが閉まる音がして、一瞬廊下に、細い体のシルエットがひらめいた。
しばらくのち、玄関ドアあたりにかすかにもの音がして、そののち静寂がすべてを支配した。
SYOUは銃をそっと床に置くと、まだふわふわと心もとない足を踏み出した。
寝室に入って、灯りをつける。
ふわりと柔らかな夏掛けのかかったベッドには何の乱れもなく、自分が投げだしたジャケットが昨日のままほうり出してあった。
狐につままれたような気分で、あたりを見回す。
ただ、香りが。
あの優しい、花の香りとも水の香りとも体臭ともつかないリンのなまなましい肌の香りが、微かに、確かに、静かな室内に漂っている。
……今起きたことは、一体、何なのだろう?
ついに自分に向かって近づいてこなかった彼女の、言葉にできない祈りのような気配が、あたりに満ちていた。
「……リン」
SYOUは初めて、口に出してその名を呼んだ。
寝室を出て廊下を進み、玄関ドアを開ける。降り始めた雨の音と湿り気が、生暖かく吹き込んでくる。
『お外に行こう』
『待ってるからねって言ってる』
『SYOU、大好き』
『……返してあげたいな。
あの子たちを。
みんなの山や川や、好きな人のほとりに』
残響のように、リンの幼い声が胸の中に次々と落ちてきた。
……たぶん、
たぶんきみが来なければ、ぼくはあのまま引き金を引いて、わけのわからないこの人生を捨て去っていたのだ。
きみは来たんだな、ここに。どんなかたちだとしても。
さっきまでここにいた。ぼくだけが知っている。
助けてくれてありがとう。
いま、全身に生気がみなぎっているのを感じる。そう、きみがくれたものだ。
ぼくは生きる。ここでできることをする。
……きみも生きろ。
運命がぼくらを許してくれるまで。
SYOUはドアを閉じると、そのまま背中をつけてずるずると床に座り込んだ。
カーブを曲がる車の震動が、薄い眠りを破った。
リンは目を開けて、窓の外を見た。
紅潮した頬を、涙がひとすじ流れていた。
幸福感と悲しみが同じぐらいの比重で胸の中で渦巻くと同時に、全身に、夢の余韻の疼くような高ぶりの波がまだ寄せては引いていた。
走る動悸を押さえて、運転席を見る。
あの男差し回しの運転手と、左にはボディガード。
異様な息遣いを気取られていないかと隣を盗み見たが、望まぬ城に馬車で連れ去られる少女のお守り役を自認しているらしい大男は、その異変にさして関心を払っていなかった。
バンの窓にかかるカーテンの隙間から外を見る。まだ鼻腔に、あのベッドのSYOUの香りが残っている。
……自分はいま、どこにいたのだろう?
夢か幻想か追憶かさだかでないまま、ただあまりに生々しい感覚だけが全身を支配していた。
せつない。苦しい。
わたしはいま、向かい合っていた。どこかで、一番愛しい人と。
夜の東京には、蕭蕭と雨が落ちていた。ビルの隙間から、オレンジ色に光る東京タワーが見える。
……この国についてすぐ押し込まれた車で高速を走っていたときも、あの塔が見えた。そして、ああ確かに東京なんだと思いながら、思っていたのは愚かにも、苦しむ人民たちの苦悶の表情ではなく、より身近になったはずのSYOUという名のスターの姿だった。
あの美しい人に愛されたい。
それが多分、自分の始まりで、そして、終わり。
どうして何年も前からそう思い続けることができたのか。逃避なのか、憧れか。それとも、いつもすべての男たちをきちんと平等に愛さなければならないという強迫観念に覆い隠され、あるいは粉飾された、まがいものの恋愛感情なのか。
会って、抱きしめてもらって、いい子だねと言って、背中を撫でてほしい。
自分のすべてを許してほしい。
それがかなった時に、自分は死ねばよかったのだ。
どうしてこちら側まで来てしまったのか。連れてきてしまったのか。
自分の内にある世界のイメージは、いつも、鮮やかな花々と明るい色合いの地獄だ。甘い香りを放ちながら、自分の中に渦を巻く。愛しても愛しても、お前の内の地獄は底なしだよ。
自分が男たちに与え、彼らが自分に求める愛情は、いままでみたところ、優しさとも幸福とも位相の違うところにあった。周りの人が望むことをし、満たしてあげなければ。という無言の本能が、結局多くの人間を無間地獄に落とすことにしかならないということに気づいたのは、父が広めた教えが多くの人を煉獄に落とす結果になっただけという現実を思い知ったのと同じころだった。
それでも、感覚の奴隷になるようにできている自分の身体は、訪れるものを受け入れることしかできない。
ヤオと一緒に、惨い死を迎えた信者たちの写真を見た。何枚も、何枚も、何枚も、目をそらさずに。 あの写真を撮ってネットにアップした信者も死を迎えた。
地獄の中枢に位置する男は、あまりに自分の身近にいた。ならばこの身を使ってひとびとの無念を晴らすのが、罪深い自分のつとめなのではないのか。
ともに戦うはずだったヤオは、けれど結局この身に触れることなく死んだ。
自分の何倍も美しい命を生きた挙句に。
そして、SYOU。
あなたが自分を追いまわして地獄に落ちる男たちの一人にならないように、細心の注意を払ったはずなのに。
自分が彼を思うのと同じぐらい、この自分の魂に執着してくれるなんて、思いもしなかった。体でなく、魂、その記憶、わたしを丸ごと受け入れてくれるなんて。こんなに醜い自分のすべてを。
これ以上何を望めるだろう。
……さっき、わたしたちは出逢ったのよね。
SYOU、これでいいのよね。
左隣の男が、手を伸ばして目の前のカーテンを閉じた。
リンは首を巡らして、その顔を見た。
一瞬戸惑ったような表情を浮かべて、巨体のボディガードは中国語で言った。
「もうすぐ着きます」
坂道を上っていくような感覚があった。
車が止まる。濡れたフロントガラスを通して、蔓草文様の鉄の門がゆっくり開くのが見える。
リンは目を閉じて、これから見ることになる顔を反芻し、反芻しては振り払い、また思い出しては唇を噛んだ。
……あの門の向こうが、たぶん、自分の最終地点。