美しくあれ
……逃げた。
裏切者。
初めて聞く言葉で父親を断罪したリンに、ヤオは驚愕していた。
ほんの少し前まで、お父様はきっと亡命先のアメリカから助けに来てくださる、それまでは耐える、と言葉少なに言っていたリンの突然の豹変。いや、たぶん、豹変ではない。その思いは少しずつ彼女の胸の内に育っていたのだろう。
SYOUの運命を知って、彼女の本音が一気に堰を切ったのだ。
「信者たちはどうします、寄る辺のない彼らを」
「いまさら何を言うの。もうわたしたちはすることを決めたはず、そしてそれは思い通りにならなかった。
最後のターゲットに決めた張財閥の張家輝、あの処刑名簿を作った鬼。国務院に勤めながら霊燦会とも通じ、わたしの渡航の手筈をとった。あんなにわたしをおもちゃにしていたのに、予定を曲げて突然来るのをやめてしまった。ここに来ないならもう手は出せない。
女の子たちを一人でも多く助けたかった、でも澪子は深入りを恐れて、あとはひとりで行けと宣言した。これ以上どうしようがあるの、なにができるの」
たしかに、これ以上ないほどリンにのめり込んでいた張が急に訪問をやめた裏には、なにがしかの理由があるはずだった。それも、かなり不吉な。
「その通り、あなたは不遇のかたです。父上の信仰はあなたのものではないのに、あなたは贄にされたも同然だ。それでも、逃げずに信者の無念を背負ってあなたは戦っている。だからわたしはあなたをお守りしたいのです。
けれど、あなたが澪子に望んだSYOUとの出会いは、何をもたらしましたか。
彼はあなたに魅かれ、あなたは彼に魅かれ、それでも幸薄いあなたの喜びとなって終わるならそれでよかった。わたしもそれを望みました。だが、あの男はあなたを放っておいてはくれなかった。探偵を雇い、あなたの存在とこの場について暴き立てようとした。日本中に名と顔を知られているあの男が。放置していたらここはどうなったと思いますか。あなたの命を狙い、賞金までかけている中国当局がここを知ったら。
はっきり申し上げましょう。あの男が海に散ったというのなら、わたしはその事実を歓迎します。あなたのために」
リンの髪が怒りで一瞬体から浮き上がったように思えた。全身から浮き立つ怒りのオーラがあたりの空気を圧したその時、ベッドの中で、宝琴がううんと声を上げた。
リンは半覚醒状態が続く少女に顔を寄せ、小声でそっと何事か囁いた。
眠っていてね、今はまだ起きなくていいわ。大丈夫、大丈夫よ。そんな中国語が、切れ切れに聞こえた。リンはこちらに硬直した表情を向けると、屋上庭園を指さして低い声でひとこと言った。
「外へ」
庭は五月の陽光の中にあった。
咲き香る花々の中で、真紅の薔薇がひときわ鮮やかだった。そのひと群れの前に立ち、何本か茎を乱暴に引きちぎると、棘で血のにじんだ手に花束を握りしめ、リンはヤオに歩み寄った。そして手を振り上げると、渾身の力でヤオの顔に憐れな薔薇たちを振り下ろした。二度、三度。
真紅の花びらが舞い飛び、赤いインクとペンで描いたようにみるみるヤオの頬は傷に覆われた。その細い線のひとつひとつから繊細な紋様を描いて血が流れ出す。ヤオは目を閉じたまま、動かず、一言も発さなかった。リンは薔薇を投げ捨てると、ゆっくりと両手を広げた。
「ここの、この下に、わたしたちは養分を撒いた。可哀想に、あんな汚らしい養分でも、花はあざやかに咲いてくれる。あなたのその血と同じ色で」
ヤオは微動だにしないまま、リンの背後の、枝葉をチップに変える大型粉砕機を見やった。
「わたしは彼らに体を与え、与えられたことで彼らは眠った。自分の体に薬を仕込む方法を取ったのは、それでも同じリスクを負いたいというわたしの矜持だった。あいつらと違って、わたしはにんげんだから」
「あなたはご立派です」
「止めを刺したのはあなた。眠った状態のまま首を絞めるなんて、あいつらがしたことと比べたら、ほんとうに慈悲深い方法。それでもわたしの心には負担が残る。最終のターゲットは逃したまんま。でも、それを悔しいと思う時点で、そう、もうわたしたちはまともな人間ではない。生きている資格はないのよ」
「わたしはそれでいい。だが連中とあなたとでは、罪の重さも意味合いも全然違う。一緒にしないでください」
暗い声に抑えた感情を乗せて、きっぱりとヤオは言った。
「いいえ、わたしはあいつらと同じ。もう同じになった。でもSYOUは違う、誰も殺していない。そうでしょう。彼に罪はない。罪のない彼を海に沈めたのは誰?」
「わかりません」
「澪子でしょう。あなたはわかっている」
「……」
「その澪子にすべてを望んだのはわたし。探偵を生かしておくなと進言したのがヤオ、あなた」
めったに心拍を上げないヤオの鼓動が、暗い予感に走り出していた。
「これから、……何をするおつもりですか」
「罪のないひとりの青年の死を歓迎するというのなら、あなたも彼らと同じ次元に落ちたということ。 自分の都合でひとの死を望むのだから。
ヤオ、澪子に会いに行って。彼女がSYOUに何をしたのか、きちんと確かめてきて。それが本当なら、わたしにも覚悟はある。それと、宝琴を移せる場所をすぐに確保して。支援グル―プの元でもどこへでも」
「今すぐにですか?」
「移しなさい。なんだかいやな予感がするの」
「昨日から、支援グル―プと連絡が取れなくなっているんです」
「だったらなおさらよ。誰でもいい、どこでもいい、できるだけ早く、預けられる場を探すのよ。その前に、澪子と会うの。あなたができないなら、今すぐわたしがタクシーを拾って行くわ」
「やめてください」
悲鳴を上げるような気分で、ヤオは言った。もう、どうにもできない。彼女の命令に従うしかないのはわかっていた。だが、さらに悪い予感が、波打つ胸を内側から押し潰していた。
「今日も客が来ます。幾度か来ている東京の外食産業の社長だからどうということはないが、わたしはあなたを残してここを離れたくはありません」
「依林がいるわ。わたしだって扱うものは扱える。知ってるでしょ」
「イーリンですか。一応使い手ですが、やはり彼女一人では……」
「ぐずぐずしている暇はないの。いい? 行くのよ」
「お嬢様」
いまや汚れた動物でも見るような目しか自分に向けなくなったリンに向けて、ヤオは声を絞り出した。
「わたしを恨んでください。酷いことを言いました。けれど、この身はいつでもあなたのために捧げる覚悟でいます。どうかそれだけは信じてください」
リンのひとみの中の氷が、一瞬揺らいで、薄く溶けた。そんな気がした。
幽かに震えながら立ち尽くすヤオに歩み寄ると、リンは細い指で頬の傷に触れた。
「……そのことを、疑ったことはありません」
電気の走るような痛みと、白夜の国の空のような寒色の歓喜が、同時にヤオの胸を突き上げた。
リンが手を離したとき、頬の傷は半分ほどになっていた。
ハンドルにしがみつくようにしながら、ヤオは自らの胸に問いかけ続けた。
あの海辺の公園の夜から今まで、短い間にどれだけ彼女の悲鳴と泣き声と怒号を聞いたことだろう。
自分の罪と自分への憎しみを、これほどまともに叩きつけられたのは初めてだった。
囮。裏切者。
わたしはあいつらと同じになった。
彼女の嘆きを聞きたくなくて、彼女を苦しめたくなくて、少しでも彼女の今を幸せにしたくて、そして歩いてきた道ではなかったのか。
いや、すべては教祖のためか? 死んでいった仲間たちのためか? 信仰のみのためと言ってみるか? いっそそれが一番美しいか?
黄大千大師の言葉をいま諳んじれば、自分の行く先が見えるだろうか。
……この世界は美しい水であるべきだ。結晶を作り出せる穢れのない水。その流れを作るのは美しい波動。波動を作り出せるのは真の調和。調和は宇宙の真理と一つになっている。人の世に横たわる我欲物欲に足をとられていては、短い一生の間に真理も波動も見えない。
極大であれ、かつ極小であれ。
醜きものを受け入れながら、美しくあれ。
形にとらわれず真に美しいものを見抜け。美しいものには必ず神の法則、真理が宿る。
リンを大事にしろ。彼女は美しい水の流れから生まれた。彼女を乗せて流れる水は永遠の真理から出でて永遠の真理に帰るだろう……
わたしたちの真理、わたしたちの正義はどこにある。
そもそもわたしたち、とは誰なのだ。
この手に集まった資料を世にばらまいても、それは日本の腐敗を日本国民に知らせることになるだけだ、それ以外の部分に日本人は関心を持つまい。どれだけの政治家と有名人が異国の少女たちの股倉に溺れたかを面白おかしく暴きたて、気に食わない政権をひっくり返して終わるだろう。そのお祭り騒ぎは中国人である自分には何の意味も価値もないことだ。
美しい水などどこにもない。大師、あなたは見つけたと言われるのか。遠い海の向こうに身を隠し、そこに何を見ていらっしゃる?
そばにいる男たちを皆虜にし、しかも求められれば拒絶しない美少女を、村人は禍々しいもののように忌み嫌った。その彼女を庇い、清いもの、守るべきものと言いつづけたあなたの本音は、ここに落ちるのか。結局彼女はあなたが逃げおおせるための、取引の道具ではなかったのか。
ヤオは血を吐くような思いで胸に叫び続けた。
ここに来てしかと見てください。あなたの娘が、いや、あなたの遺伝子を持たない、どこから来たとも知れない娘が、あなたの代わりに全身を血に染めてひとり立っている姿を。
あなたの教え通り、彼女はこの地で美しくあります。