序章 ハニー・ガーデン
夕暮れ時、そのベッドに座ると、いつもきまって窓から聞こえてくる掛け声があった。
――マッチョコーウ。マッチョコーウ。
甲高い複数の女性の声。楽しげで、音楽のようで、いつも同じ調子で。
ぽこーんぱこーんというテニスボールの音が、あたりの建物に反響する。窓際のサンキャッチャーが、レースのカーテン越しに斜めに入る西日を受けて、虹のかけらのようなプリズムをまっしろな室内にばらまく。部屋のふた隅の花台におかれた白い陶器の花瓶には薔薇の花がこぼれんばかりに活けてあり、その花色が斜めの日差しを受けて白い壁にうすむらさきに映る。
部屋の隅に置かれたテレビの平坦な画面の中では、近く行われるライブの宣伝をする、人気歌手のインタビューが映し出されている。
SYOUさん、これが最後のライブということでファンの方々も残念に思っているのではないですか?突然の発表ですが、これからは俳優業に専念という……。
いえ、その先のことは今は考え中です。新たなスタートととらえていただければ。
百平米ほどの専有面積を全面改装したそのマンションは、応接スペースとかんたんなキッチンのほかはベッドルーム大小二つに小さな洋室、広いバスルームで構成されており、ベッドルームの一部始終はその洋室からモニターでチェックできるようになっていた。
部屋のドアが開く音がする。ベッドに腰掛けて一心にテレビに見入ったまま、少女は振り向かない。入ってきたのは細身を黒のニットで包んだ、頬に傷のある、顎の尖った男だ。
少女の背後から、男の細い手が伸びて、いつもの目隠しで無造作に目を覆う。柔らかな布の肌触りとともに、視界が闇に閉ざされる。いましがたまで見ていた画面の向こうの青年の美しい面影が、目の内側に残る。
「いいですね。若いお嬢さんたちは、楽しそうで」男がぽつりとつぶやく。
マンションの向かいは良家の子女が集う有名な女子大で、テニスコートの横はチャペルになっていた。
「なんていってるんだろう、あれ」
「もいっちょいこーう」
少女は小声で歌うように答えた。
「なるほど。いつも聞いてるからわかるんですね。羨ましいですか?」
少女は下を向いて首を左右に振った。
呼び鈴が鳴る。
「さて、おいでだ」
男がテレビのスイッチを消す。
いつも無感動な男の声は、群青のびろうどのような感触を耳に残す。その耳にゴム製の耳栓がきつく刺し込まれる。これで視覚と聴覚を奪われることになる。残るのは、触覚と、嗅覚。
よりどころのなくなった体が少ない情報にしがみつく。ふたつの感覚が急に鋭敏になってゆくのが自分でもわかる。
……あ。
柑橘系の、それでいてどこかスパイシーな、シプレの香りがする。
お香をも思わせる、和的で落ち着いた香り。のびやかで、たおやかで、それでいて芯のある、大人の女の香り。
ふわりとふわりと周りの空気が動く。服を脱いでいるのだろうか。
少女は薄い絹の、薄桃色の夜着を一枚、素肌にまとっているだけだった。
指の感触が首に触れ、なにかベルベットの首輪のようなものが首に巻かれた。
ふいに、耳栓が外される。
「こんなものがあったらお話しできないわ」
やはり、女のひとだ。遠くのほうから、いいんですかと男の声がする。
「いいのよ、そこらへんはこちらの自由でしょ。わたしここの常連さんと違ってそんなに有名人でもないしね。もういいからあっちに行っててちょうだい」
声のほうに首をめぐらすと、首輪についた鈴がちりんと鳴った。
「かわいいわ」
指が、ベッドに座ったままの少女の夜着の前開きのボタンをすいすいと外してゆく。するすると絹が体を下りて行き、素肌に空気が当たる。テニスボールの音は止み、聖歌が聞こえてきた。
「いい環境ね」
足首にも同じものが巻かれる感触がある。
「立って」
立ち上がると、ごく自然に服はすとんと足元に落ちた。手を添えて、絹のかたまりから女が少女の足を抜く。足首からもしゃらんと軽い音がする。
下着をつけていないので、身にまとっているのは鈴つきの首輪と足輪だけだ。
ああ、自由になった。
少女はいつも思う。身にまとっているものには、それがどんなものであれいつも抵抗があるのだ。なにもかも脱ぎ捨てて、ああ、これで自分はささやかに自分だけになったと思う。
「なんてきれいなの。しなやかで、猫みたいな体ね」うっとりと、シプレの香りの主が言った。
「いつも男たちにいようにされているんでしょう。今日はあなたのしたいようにしてあげるわ。してほしいことを言ってちょうだい」
「してほしいこと……」
少女は首をかしげて考えた。そんなことを言われたのは初めてだ。女の手が髪に触れ、高い位置で留めていた髪留めを外した。アップになっていた髪がほどけて背中にふさりと落ちた。
「背中を撫でてください」
「……背中を?」
表皮の冷たい、ふくよかな腕が少女の体に回された。薄いサテンのような柔らかい布の、胸元のフリルが少女の乳首をくすぐった。ふるりと、体の芯が震えた。
女の手が少女の背中を滑る。なめらかな背骨のラインに沿って掌がゆっくりと上下する。五本の指が広がって、何かの楽器を奏でるようにやさしくそれぞれの線を辿る。その感触の優しさに、少女の奥にある何かの琴線が切ない音で鳴った。
「いい子ねって言ってください」
女は含み笑いをすると、少女の耳元に口を寄せた。
「いい子ね」
「……たくさん」
「いい子。ほんとうに、お前はいい子」
しっとりと、瞑想を誘うような深い香りが少女を包む。
少女はそっと女の背に手を回して胸に顔をうずめた。
「いい子よ」
女は少女の頬に唇でふれた。少女は顔を動かし、その唇に自分の唇を寄せた。かるくふたつの吐息が絡まり、そしてすっと離れた。
「もう、どうしようかしら、この子」
女は感に堪えないという風につぶやくと、そのまま少女の体を柔らかなベッドの上にゆっくりと倒した。
絹糸のような髪をもみくしゃにしながら、今度は小さな花の蜜を吸い尽くそうとするように、薄紅色の唇に自分の唇を重く重ね、舌で口内を弄る。少女の口内は春の青草のように香り、きれいにそろった歯が開いて優しく女の舌を受け止めた。
「そんなにかわいらしい注文をするような子が、こんなお仕事をしてるなんて、胸が痛いじゃないの。あなたを幸せにしてあげたくて、この身がはちきれそうだわ」
そっと唇を離して呟く女の息からは薄荷煙草の匂いがした。ちりんちりん、しゃらんしゃらんとかすかな鈴の音が室内に響く。
音は視覚の記憶を刺激する。突き上げる錫杖の先の遊環、猛々しく首を振りながら舞う獅子の首の鈴の音、火花を散らす爆竹と銅鑼の音、闇を切り裂いて青くうねる夜光龍の残像、窓辺に下がる赤い唐辛子の飾り物。
少女はどんな目に遭わされるのも、別に嫌いでもいやでもなかった。
外に出ている部分でも体内の部分でも、女としての器官を、何の感情も載せずに刺激され、蹂躙され、あるいは貫かれることが、いやではなかった。
どこにおいてあるのかわからない心と体が瞬時につながる、奇跡のような瞬間。どこにも届いていないのに、何かに届いた気がする、自分の生に手を伸ばしてつかめた気がする、あの目もくらむような快感。まずしい精神をおきざりにして自分は肉となる、そしてすべてから許されて自由になる。たとえ錯覚であっても、その瞬間が嫌いではない。
でも。
背中を滑る手が触れるのは、もっと奥。記憶とか感傷とか、寂しさとかせつなさとか、そういうもの。ひとすべりするたびに、何かの痛みのスイッチが入る。ひとの指にはいつも、魔法が宿る。肉の奥の鼓動とシンクロした瞬間、それは秘密の箱を開ける鍵となる。
いい子、いい子、お前はいい子。そうくりかえしいわれたのはいつのことだったろう。あれは誰だったんだろう。
無限に許されて自由だった、誰かのことがただ大好きだった。その記憶が、毎日思わない日はないテレビの向こうの愛しい人への焼けるような思いとないまぜになり、内側から身を焦がす。会いたい、あのひとに会いたい。
少女の背を滑っていた手が、前に回り下に降り、ささやかなへその窪みを通過して、その下の茂みに埋められた。
少女はちいさな声を上げて、弾けるように背をのけぞらせた。
「やさしいひとはこれでおしまい」
左右に振るその首の鈴のがちりんちりんと鳴った。
讃美歌は、まだ続いている。
「今日は爪を切ってきたのよ、あなたのために。
あなたを知ると後戻りができなくなるといううわさを聞いてきたの。素敵じゃない。楽しみだわ」
……ありがとう。わたしは許される。
もっと来て。わたしは肉になる。
そしてわたしの鍵を開けたら、今度はあなたを帰さない。
ようこそマダム、ハニー・ガーデンへ。
……まぼろしの影を追いて うき世にさまよい
うつろう花にさそわれゆく 汝が身のはかなさ
春は軒の雨 秋は庭の露
母はなみだ乾くまなく 祈ると知らずや
おさなくて罪を知らず むねにまくらして
むずかりては手にゆられし むかしわすれしか
春は軒の雨 秋は庭の露
母はなみだ乾くまなく 祈ると知らずや
(小説中に引用している讃美歌は一応著作権フリーを確認してあります)